語ること 1
青年の、胡座をかいた膝の中に金の毛並みの女が1人。金の毛並みの女の横に、白の毛並みの羊が1匹。
夏とはいえ夜半から明け方にかけて大気は冷える。しかし一対の男女と1匹の獣は見事に乗り切った。広場の中央で寄り集まった3つの身体はそれ自体が一個の生物である。頭と手足、そして心を持つ。
リュクルスは槍と剣を手元に置きながら極浅い睡眠をとった。男の胴を抱きしめるように眠るマルガリティアが時折身をよじる。彼はその度に覚醒し、確認し、再び茫洋たる休息の世界に立ち戻る。
何度繰り返したことだろうか。彼は器用にも律儀にも女の動きに反応した。青年の分厚い四肢の中に収まった小さな生き物に。
旭日の気配は半ば音となって現れる。陽光は実体である。それは「集い」を取り囲む木々の枝葉を揺らした。
思考が花開く。
目覚めた以上、昨夜目を逸らした事実に彼は向き合わなければならなかった。
——これほどに苦い朝があるだろうか。
気狂いをもたらしかねないほどの禁忌に触れ、敵前逃亡——つまり死への逃避という極度の醜態をさらし、取るに足らぬと思われた少女に鼓舞されてなお、彼の意識から迷いが抜け落ちることは決してなかった。何かを諦めることは想像以上に難しい。
自己憐憫と大仰な悲嘆に塗りつぶされながらも、青年の意識は背後に何者かの存在を感知する。的確に。
自身の胸に顔を埋めたマルガリティア。その後頭部に置いた節くれ立った左の手を地に伸ばし、剣の鞘を握りしめる。
「リュクルス。マルガリティ」
舌足らずな女声から対象の正体を理解してなお、彼は剣を手放さなかった。
◆
「きみは早起きだな。常のように」
「リュクルスの方がいつも早い。いつも起きている」
ラケディア市民の父と森の民の母を持つ少女は、手負いの獣じみた空気を纏う青年を刺激せぬよう大回りに距離を取り、溶け合った3体の生き物の眼前に回り込んだ。
男の心内に発した強烈な波乱と同様のものを、彼女もまた感じながら昨夜眠りについた。
それは不安であり恐れである。
数週間の協働を経て、兄妹はこのラケディア市民とそれなりに距離を縮めていた。
少女にとってリュクルスは複雑な感情を想起せしめる存在であった。口数少なく感情の起伏に乏しい、何を考えているか分からない青年。圧倒的な戦力と明確な意思を持ちながら、どこか地に足のつかない不安定が見える。自分たち森の民に対して明らかな侮りを見せるが、それが真心からのものとも思われない。身の丈に合わぬ親の服を着せられた子どものように、どこかしらお仕着せめいた風情があった。
彼女の最も身近にある若い男——兄ゲルギウスは善くも悪くも裏表のない性格をしている。年少のゲルダから見てさえその単純さは明らかだった。一方リュクルスは表面上兄よりも明瞭明白な態度を示しつつ、その内部は杳としてうかがい知れない。
しかし、何はともあれ彼らは共に過ごした。寝食を共にした。肩を並べて戦った。自らの”集い”を失った彼女にとって、いかに気に入らないところがあれど彼らは一つの新たな”集い”であった。だからこそ”隊列”の主、”集い”の頭たるリュクルスが昨夜示した態度は少女の心を強く締め付けた。青年の栗色の瞳は雄弁に物語った。
それは得体の知れぬ獣を眺める目だった。
「きみの兄はもう起きているか?」
「まだ。ゲルギウスはいつも起きるのが遅い」
「必要がなければ早起きなどしなくてもいい。よい眠りは並外れた幸福をもたらす」
朝の一時、彼の声は少々掠れが残るものの、いつもと変わらぬ平坦な調子を保っていた。だからゲルダを驚かせたのは口調ではない。声質でもない。その内容である。普段のリュクルスであれば「ラケディアの戦士として常に戦の準備を」とでも言い捨てたことだろう。だがこの時、少女の苛立ちを惹起する「ラケディア」の語は発せられなかった。
「マルガリティもよく眠っている」
「ああ。この女は肝が太い。いつ何時も動じない。得がたい女だ」
「リュクルスが側にいるから」
金髪の女が青年に対してある種の執着心を抱いていることは明らかだった。少女2人の会話の中で、マルガリティアは殊更に男の理解者を気取った。仕草の些細な変化や声色の浮沈を捉えては意味するところを得意げに解説してみせる。ゲルダはその解釈の正誤を知るよしも無い。ただ、この異郷の友人がリュクルスに注ぎ込む熱量だけははっきりと分かった。
「おれが?」
「そう。リュクルスはマルガリティの力。ゲルダが森で生きる力を持つように、マルガリティはリュクルスを持つ」
癖のついた黒髪をかき上げて彼女は答える。ゲルダにとってマルガリティアという女は単体では価値を持たない存在であった。”狼のごとく在る民”の女は食糧を手に入れる知恵を持たず、戦う力を持たない。森に1人放り出されれば3日としないうちに骸と化すだろう。
しかし彼女はリュクルスを連れていた。兄妹はおろか、さらに数名相手取ってさえ勝利を得るであろう生粋の戦士を。
森の民の女にとって力とはまさにそのような形態のものだった。
「おれはマルガリティアの剣というわけか。面白い発想だ」
リュクルスは少女の言葉を反芻して興味深げに呟いた。
その仕草にはゲルダが青年の中に認める数少ない美点の一つがはっきりと示されていた。その持てる力を私のために振るわないという。
刃傷に弱ったゲルギウスに止めを刺し妹を略取するなどわけのないことであるにもかかわらず、出会って数日の彼はそのような素振りを一切見せなかった。無為に過ごすことを恥じて自ら兄の看病を申出さえした。
戦いの場面を除き他者に高圧的な命令を下すこともない。彼は些細な不機嫌すら表さない。ラケディアを侮蔑されたと感じた場合を除いて。
この時も、自身を「道具」と言われてなお怒りを見せなかった。それは堂々たる戦士の姿である。
「悪い意味ではない。強い男を逃さないのが強い女の資格」
「そのようなものか。おれが考える強さとは異なるが、それがきみたちの常識ならば尊重しよう。——だが、受け入れられないこともある」
ゲルダの瞳は男のそれに絡め取られていた。視線を外せば身が危うい。決してあり得ぬことと分かりながらも恐れてしまうほどに、青年の眼光は重かった。
「何のことかは分かる。ゲルダにも。……大体」
「おれはきみたちと話がしたい。きみと、ゲルギウスと」
かくして再び少女は驚きを味わった。リュクルスは言わなかった。「汚らわしい”魔物”の習わしをすぐに止めろ」などとは。代わりにこう言った。「話がしたい」と。
「……もちろん。ゲルギウスを連れてくる」
「いや、空が完全に白んだ頃におれたちが小屋に出向く」
ゲルダの首肯を見届けて青年は剣を手放した。そして、自身の胸を枕に眠るマルガリティアの後頭部に再び手のひらを添えた。少女は一時微かに身じろぎし、やがて動かなくなった。
◆
「きみたちは、なぜ人を喰うのか」
割り当てられた小屋の中、地に敷かれた枯れ草張りの板の上で4人は車座になっていた。男達があぐらをかく一方で、女達は尻の両脇に折り込んだ足を流すように座る。木作りの簾がかけられた戸口近くにはマルガリティアが陣取っている。相変わらず膝の上にアルカンを抱いて。
リュクルスは言葉を飾らなかった。飾る術を持たず、また飾ることを嫌ったがゆえに。
「兄、戦いに勝利したのですから報酬を得なければなりません。それは当たり前のことです。狩りに出かけて仕留めた獲物を地に横たえたままにするというのですか?」
ゲルギウスの言葉には含意が無い。握った石を中空で手放せば地に落ちる。日は昇り沈む。それら自然の摂理を説明するのはただの作業に過ぎなかった。
「つまり、きみは敵を倒し戦えぬ者を攫い貪ることと、狩りを同一のものと見なすのか?」
対するリュクルスの言葉にも怒気はなかった。
マルガリティアは言葉に耳を傾けながら男の横顔をじっと眺めた。”名も無き御方”の祭司にとって男の瞳は興味を惹く対象である。
「どこに違いがありましょう。何も敵を辱める意図などありません。兄に教わったとおり、ラケディアの戦士として私は敵に敬意を持ちます。だからこそです。誇り高い戦いの末に勝ち得たものだからこそ、それを捨て置くなどできません」
「しかし、狩りと一言で言っても喰うばかりではないだろう。毛皮を目的とする場合もある。おれが聞きたいのはそれだ。人には他の使い道がある」
生理的嫌悪を抑えるのは至難の業である。それを今、青年は成し遂げようとしている。マルガリティアは男の穏やかな口ぶりに驚嘆した。彼女とて平地の民。リュクルスと感覚を共有する存在である。実際にそれを口にしなかったからこそまだ冷静を保つが、もし食べていたならばとても平常にはあり得なかっただろう。怯え、恐れ、混乱して青年の背に隠れたことだろう。人喰いどもの目に自分の身体が触れぬように。昨日まで親しく四方山話を楽しんだゲルダさえ、強烈な嫌悪を以て眺めたことだろう。
——このリュクルスが、あのように取り乱したんですから。
不安定な心を強大な意思の力で統御してきたラケディアの戦士でさえ投げやりに死を願った。その様を間近で見たがゆえに、マルガリティアは青年が選んだ行動——対話が意味するところを真に理解することができた。彼はなんとか立て直したのだ。
「どんな?」
ゲルダの言葉は常に簡潔な装いを持つ。
「使役すればいい。あるいは、女であれば子を産ませることもできる。幸いきみたちの言う”敵”は同じ森の民だ。子を為すことに問題はないだろう」
「それこそが侮辱。”敵”の誇りを踏みにじる」
小さく頷いてリュクルスは黙考した。彼は兄妹を打ち負かそうとは思わなかった。ただ知りたかったのだ。なにが善いことであるかを。ゆえにゲルダの言葉を受け入れ咀嚼しようとした。
「それにリュクルス。”集い”にはそんな余裕はない。奴隷を養う余裕は」
「きみは前にも同様のことを言っていたな。ならば捕らえた者達も動物の狩りに使えばいい。より成果が上がるだろう」
青年の見当違いな回答を一笑に付すことを黒髪の少女はしなかった。昨日までの青年であればいざ知らず、今この瞬間の彼を笑うのはあまり気が進まない。理由は判然としないものの、ゲルダは確かにそう感じたのだ。
「捕らえた者たちに武器を与えればどうなるかは分かるはず」
「再び逆らうならば殺せばいい。それだけのことだ」
マルガリティアは即座に理解した。ラケディアは隷民たちの武装を禁じない。金属製の農具を所持することも許す。それができるのはラケディアがラケディアであるが故。粗末な鎌や剣で武装した10の隷民を、今彼女の隣に座る男は鼻歌交じりに皆殺しにするだろう。一時もかからない。恐らく瞬き30に満たぬうちに。
「ラケディアの戦士様ならばそれができるでしょうけど、普通は恐ろしいものですね」
「そう。——採集の仕事をさせようにも、男を1人養ってそれだけでは割に合わない」
リュクルスは腕を組み再び思考を巡らせる。
「では労役はどうだ。この家のような建物を拵えるのに使えばいい」
青年は真っ当な案を提示した。つまり自身が生まれ育った都市においてなされていたことを。
「男を、ですか? 戦士が狩りに出払った”集い”に男を残しておくのは危険です」
ゲルギウスが丁寧に事情を説明する。
「戦える男衆はそう多くはありません。この”上の集い”ですら、我らを襲った4人の他にあと数名でしょう」
「なるほど。確かにおれもそのあたりの人数を想定した。——男はこの際一旦置こう。今のきみたちの話では、女ならば捕らえて使役してもいいだろう。女は男ほどの食事量を必要としない。採取や屋内仕事をさせれば割に合う。さらに、孕ませれば子を増やすこともできる」
都市の外を眺めるラケディア市民の目は常にかくのごとくあった。隷民の女は脆く肉体労働に向かないが、一方で従順な気性ゆえ反乱の恐れもなく、細々した仕事をさせるにはあつらえ向きの存在であると。
「その通りです。得た女をそのように扱うこともあります。ですが……」
言いにくそうに口ごもるゲルギウスを彼はあえて待った。短い沈黙の末、続きが告げられた。
「ですが、女は美味いのです……」
声にもならない、息を飲む音がする。マルガリティアの。
一方リュクルスは瞑目した。それはあまりにも予想外の言葉である。彼は奥歯を噛みしめ、自身の内なる心情と戦い続けた。嫌悪という。
「ゲルギウス、それは……きみはそれでいい。だがゲルダ、きみの方はどうだ? きみは女だ。もし喰われる側になったとしたら。嫌悪を抱くのではないか?」
「抱かない。女は美味しい。本当のこと。それにゲルギウスの言葉もリュクルスの言葉も変わらない。もしゲルダが捕まったらどちらも同じこと」
「そんなことはない。少なくともおれの考えならば、きみは死なない」
不意に熱を感じる。果たして彼の背にはマルガリティアとアルカンが身を縮ませて隠れていた。
「ゲルダにとって、リュクルスの考えることの方が10を10重ねたほどに辛い。ゲルダは奴隷にはなりたくない」
「森の民にとって自由こそが尊いものであることは理解する。だが、”下られた方”——きみたちが信じる神は嘉したもうのか。その行為を」
リュクルスにとって最大の疑問である。猛きマヌも、おそらくマルガリティアが信ずる”名も無き御方”もそれを嫌う。しかし神々の中にはあるいは許容される方がいるかもしれない。神々の思惑は人には図りがたい。言葉に出すことはおろか心の中においてさえ不敬を用心深く避けながらも、彼は疑念を抑えきれなかった。
「”下られた方”は何も言わない。でも許されるはず」
「なぜそう言い切れる? 神々の御心は人には推し量れない」
「もし駄目なのならば、”下られた方”はゲルダたちをここに置かなかった。——リュクルス、もう一度言う。”恵み”はごちそう。多くの人がそれによって生き延びることができる」
平地に育った者たちが薄々感じていたことをゲルダはここで明言した。つまり、”緑壁”は大量の人を養うほどの食糧をもたらさない。
「狩りでは足りないか」
「足りない。大きい獲物は少なく、仕留めるのは大変。でも人はすぐに増える」
「ゲルダ、きみの言を理解する。だが、自分が言っていることの意味を本当に理解しているか? その言葉は要するに、人を家畜と見なすに等しい」
重々しく告げられた言葉を、しかし森の民の小柄な少女は正面から受け止めた。
「理解している。——ラケディアと同じ」
瞬間膨れ上がった怒気を収めるのに青年はしばらくの時を要とした。深呼吸は大げさな素振りではない。切実に求められていた。
——汚らわしい魔物ども!
脳内に木霊する叫びは「声」ではない。青年の正気が生み出したものだ。彼の意識は、彼の身体は、ゲルダの断言をどうあっても受け付けない。
しかし、まさに昨夜彼はそれを為したのだ。かつて光輝あるラケディアの市民であった男は、疑いようもなく、たしかにそれを口にした。咀嚼し飲み下した。ゆえに彼はもはやラケディア市民ではなかった。
にもかかわらず、生きて行かねばならなかった。
「ゲルギウス、ゲルダ。きみたちに正直に言おう。おれはどうしても、それを受け入れられない」
「理由は?」
ゲルダの声色は酷く冷ややかなもの。巨躯に似合わぬ困り顔の兄に比して妹は厳然とした佇まいを崩さない。
「確かに明白なものはない。認めよう。——それでもあえて言う。一度”隊列”を組んだ”僚友”に、おれはそれをしてほしくない」
”してほしくない”。
その言葉を聞いたとき、広く逞しい男の背に縋りながらマルガリティアははっきりと悟った。彼は変わったのだ、と。
「おれはどうすればいい? ゲルダ、ゲルギウス」
まず答えたのは兄。
「リュクルス兄、あなたの言うことがラケディアの流儀ならば私たちは従います。なにせ我ら兄妹はラケディアの……」
しかし語り終えることはなかった。
妹の言葉が鋭く兄の言を断ち切ったのだ。その小柄な身体からは、その幼さを多分に残す表情からは想像も付かぬほどに、少女の一言は威厳すら含んでリュクルスの耳に届いた。
「剣で語るといい」