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ラケディア、麗しの  作者: 本条謙太郞
第2章 リュクルスのケイデーへの旅
21/24

宴の夜

 森に潜むゲルダとマルガリティアを呼び戻さんと僚友を遣いに出したリュクルスは、しばし広場に独り取り残されることとなった。

 意思疎通ままならぬ異人の群の中にあっても恐れはなかった。

 先刻刃を合わせた女は側を離れず、戦いの終わりを察して近づいてきた一組の男女も不審な動きを見せることはない。青年に向けてぎこちない微笑みを投げ寄越しさえした。小柄な、恐らくは自身よりも10以上は年長であろう男に妻とおぼしき女。皆黒髪と黒目を持つ。

 2人は小屋から持ち出してきた木組みの椅子を青年と傍らの女の前に置き、ゆったりとした動作で右の腕を差し出し勧める。猛きラケディアの戦士を刺激しないよう細心の注意を払っていることは明らかだった。


 ——存外まともな者達だ。


 そこには気遣いと秩序がある。禽獣の群にはありえない、人の動きがある。化外の地に在って相応の待遇を受けたことは青年の心に小さな驚きをもたらした。

 敬意を受け止めたがゆえに、リュクルスもまた穏やかに腰掛けた。戦地において腰を下ろすのは明確に不注意な行為であることを十分理解した上で、彼は敢えて木椅子を選んだ。


 隣に立つ女が一言告げると、男女は現れたときと同様静かに遠ざかっていく。恐らく下位者であろう2人が下がるのを見送った後、女は自身の木椅子を彼の右脇に引き寄せ、優雅にそこに座した。

 対面ではなく横に陣取った意図を図りかねたリュクルスだが、疑問への解はすぐに与えられた。誠に雄弁に、明白に。

 女の左手が男の上腕を撫でたのだ。四肢と似つかわしく細い指は男の盛り上がった筋肉をなぞる。


「なんだ?」


 通じないことを分かりながら青年は問う。右腕を女に委ねたまま。

 素性のわからぬ者に利き手を預けるほど危険なことはない。にもかかわらず彼はあえて受け入れた。女の仕草は興奮した犬を宥める愛撫に近い。怖がらせぬよう、優しく、緩慢に往復する。


「シャルメ」


 女は自身の胸元を指し囁く。誤解しようもないほどの名乗りである。


「リュクルス」


 引き写しの仕草。左腕を胸にやり、彼は一言答えた。女は小さく笑った。幾分かの羞じらいさえもたたえて。





 ◆





「へぇ。……ふぅん。ラケディアの戦士様は”森の民(ヒューレン)”の王様になるんですか?」


 ゲルギウスに呼び戻され広場に現れたマルガリティアとゲルダは不満を隠さない。日が落ちて暗闇に支配された森の中に息を潜めた数刻の苦労を尻目に、一人だけ()()()()をしている青年の姿に皮肉の一つも言いたくなるところ。


「愚かなことを」

「誇り高いラケディアの戦士様が勢い込んで攻め入った割には、それは拍子抜けするような平穏さですね。”森の民”の女性を侍らせて」


 リュクルスは困惑含みにゲルダを見やる。


「ゲルダ達は森の中で待った。ゲルダは弓を持って。建物の隙間を探しながら」

「ああ、おれの見当違いだ。この村は想像以上に大きい」


「空地」の外から男達を援護する役割を担ったゲルダだが、広場への距離が矢の射程を優に超えることに気づくと、マルガリティアを連れて速やかに後方に退いた。低木が密集する茂みを見つけ”狼のごとく在る民”の女を押し込むと、自身は短刀を抜き周囲を警戒した。兄の雄叫びに続き、ラケディアの男の高らかな名乗りを聞き流しながら。

 ”鳥のごとく在る民”の女と”狼のごとく在る民”の女は視線を合わせて潜んだ。手の届く距離にあってすら互いに目視叶わぬ濃厚な闇の中で、瞳だけが微かに光っていた。


「たくさん虫に食われた。たくさん気を張った。全てリュクルスの計画が悪い」


 黒髪の少女が自身の腕についた虫刺されの痕を掲げる。青年はそれを見て静かに言った。直截な、明瞭な言葉で。


「すまなかった」


 青年の何気ない一言に目を剥くのはマルガリティアだ。ラケディアの戦士が()()()()に謝罪をしたのだから。少女は鼻が利く。ことリュクルスについては。


「ふぅん。……ラケディアの戦士様が謝罪なさるなんて驚きです。てっきり剣を抜いて成敗されるのかと。”ラケディアの威光を恐れぬ女だ!”って」

「そのようなことはするはずがない。おれが見通しを誤った」

「でも、哀れな隷民の女には謝ってくれませんものね。健気にアルカンの面倒を見ていた女には」


 抱きしめた子羊を突き出して彼女は言った。それはただの軽口に過ぎなかった。そのはずであった。


「いや、おまえにも謝罪しよう。おれが判断を誤ったがゆえに不安と苦労を強いた」

「……」


 口をとがらせ年相応の怒りを湛えていたマルガリティアの顔面から表情が消えた。

 男の身に明白な異変を感じ取るが故に。

 ラケディア市民を父に持つゲルギウスとゲルダの兄妹はリュクルスからすれば半同胞と言ってもよい存在である。一方で、彼女は隷民に過ぎない。

 ラケディアの市民が隷民に謝るなど、天が落ち地が裂けようとも起こりえないこと。しかし今、リュクルスはそれを為した。


「リュクルス? ……本当に何かありましたか?」

「何もない。ゲルギウスが状況を伝えていないのか」

「それは聞きました。その、そちらの方と戦い、勝利したと」


 そちらの方。

 金髪の少女はチラと黒髪の女に視線を向け、すぐに標的を男に戻した。


「より正確に言うならば、あれは戦いなどではなかった。だが、この……シャルメの名誉のために、あれが戦いであったと言ってもよい」


 リュクルスの隣を占めた女は自身の名が呼ばれたことに気づき、その横顔を見やる。


「では、そのシャルメさんに勝って、娶ることにしたんですか?」

「おまえは意味の分からぬことを言う。常のごとく。戦いを終えてからまだ一時も経たない。名さえ先ほど知ったばかりだ」

「その割にはとても仲良くされているようですね」


 棘のある少女の言葉に彼はもはや答えなかった。妹と共に眼前に佇む”僚友”に視線を移し問いかける。


「きみはこの村にどのような購いを望む? きみたち兄妹が決めていい。もとよりこれはおれの戦いではない」

「リュクルス(けい)、その女を負かしたのは兄です」

「きみでも結果に変わりはなかったはずだ。それよりも彼女に聞いてほしい。しかるべき男の戦士はいなかったのか、と」


 この”集い”において女——シャルメがしかるべき地位を占めているであろうことは想像がついたが、戦いに向いた者が血縁者の中に誰もいないとは考えがたい。戦いの前に抱いた疑問を通訳するよう彼は頼んだ。

 ゲルギウスがリュクルスの言葉を伝えると、シャルメが応じて二三言返す。その様は女の秘めた気位を感じさせるに十分な威厳を備えていた。


「父と兄がいるそうですが、朝狩りに出たまま帰らない、と。……リュクルス兄」


 さり気なく周囲に視線を配りながらゲルギウスが伺いを立てる。見ればゲルダも何食わぬ顔で短刀を差した腰に利き手を置いた。


「何を心配することがある。我々が倒した。ただそれを伝えればいい」

「しかし……」

「ゲルギウス。我々は卑怯な戦いをしたか? してはいない。敵の襲撃を受け、堂々と撃退した。何を恥じることがある。隠蔽は敵の名誉を汚す行いだ」


 対等な敵と正面から戦い打ち倒す。そこに遺恨はない。敗者が倒すに値する者であったがゆえに勝者は誇りうる。リュクルスにとって、シャルメの家族を討ち取ったことを高らかに謳う行為はまさに敬意の表れであった。


「では伝えます」


 片句すら理解及ばぬながらもゲルギウスの弱気だけは手に取るように分かった。リュクルスは事の推移を無言で見守る。女が激発するならばそれも構わない。媚びるならばそれでもいい。いずれにせよ敵にはなり得ぬ存在なのだから。

 しかしシャルメの態度はそのどちらでもなかった。一瞬息を飲み、しばし瞑目した後、彼女は立ち上がり青年の前に進み出る。そして見下ろした。瞳を逸らすことなく、堂々と。涼やかな黒い瞳の奥に怒りはない。同時に、恐れもない。


「ラケディアの戦士がおまえの父と兄を倒した。堂々と。一片の恥じるところもない。再び剣を取るならばそれもいい。おれは逃げも隠れもしない」


 青年もまた立ち上がり、女の眼差しを受け止めた。「正しい言葉」を解さぬことを知りながら、自身の言葉が届くことを彼は確信していた。込み入った内容は一つもないのだ。彼は女の家族を殺した。それ以上でも以下でもない。


 シャルメは黙して去った。





 ◆





 戦闘再開を予想したリュクルスの隊列にとって、その後の展開は少々意外なものであった。広場に宴席が設えられ、彼らは招かれるままに座った。

 成人の男が1人大の字に横たわれる程の木板を編んだ枯れ草で包んだ座席が人数分用意される。リュクルスらの対面にはシャルメともう一人、女がいる。白髪交じりの明るい茶髪は黒髪ばかりの”森の民”の中で一際目立った。


「シャルメの母親だそうです。名はアステラと」


 隣に座るゲルギウスが通訳の役割を果たし”上の集い”の母娘と言葉を交わす。


 弱冠20歳のリュクルスには外交の経験などない。しかし今、彼は”隊列”の代表者として振る舞わねばならなかった。好む好まざるに関わらず、相手にそう認識されている以上、相応の態度を示す必要がある。


「ラケディア、麗しの都の市民、執政官テセウスの子リュクルスが”上の集い”の方々に告げる。我らは今朝あなた方の戦士と交戦し、これを破った。一方で、あなた方の戦士は我が”僚友”ゲルギウスとゲルダの集いを襲いこれを滅ぼした。以上の状況に相違はあるだろうか」


 ゲルギウスの通訳を経て青年の言葉は”森の民”に届く。返答はすぐに帰ってきた。

 ”正しい言葉”で。


「リュクルス殿と。ラケディアの戦士、聞きしに勝る精強。——我らに異見なし」


 台詞の主はアステラ。シャルメの母である。幾ばくかの疲れを含んだ掠れ声ながら、なお毅然とした、確たる口ぶりだった。


「あなたは”正しい言葉”を話されるのか。どちらで学ばれた? アステラ殿」

「父より」

「なるほど。ではあなたはこの兄妹と同じくラケディア市民の血を引くと。お父上が?」

「否。父の父」


 自身と”隊列”が今朝方撃退した戦士達の1人の妻であり1人の母であった女は、年の頃40を優に超える。その父の父——祖父が生きた頃となればリュクルスの想像を超えて昔のことである。


「では、その方よりお父上へ、そしてあなたへと”正しい言葉”が受け継がれたと」

「然り」


 古風な言い回しに得心がいったのか青年は頷き会話を進めた。


「祖父君の御名は?」

「フィリポス」

「フィリポス殿もやはり燔祭の遣いとしてこの森へ?」

「燔祭の遣い、とは何か」

「ケイデーの頂に赴きマヌ神に生贄を捧げる。共同体の光輝ある戦士が任される栄誉ある仕事だ」


 アステラは首を振り否定の意を示した。


「フィリポス来たりしは盟約の故」

「盟約とはラケディアと森の民のものだろうか。それは俄に信じがたいことだ。我らとあなた方は交流を持たない」


 若く精力に満ちた戦士の断言を耳にして、アステラは微かな笑みを零す。


「”鳥のごとく在る民”、森寵を与え、”狼のごとく在る民”、血によりて対価となす」

「聞いたことがないが、ここで真偽は問うまい」


 ラケディアと森の民、二つの世界に何らかの交流があろうことは予測していたが、それが双方向のものであると考えたことはなかった。

 森の恵みと血。興味を惹く言葉を受けてなお彼は深入りを避けた。


 リュクルスの反応を察した女は軽く手を挙げ、周囲で宴席を取り囲む村人達に合図を送る。

 ”隊列”と”上の集い”の者達の間にしばしの沈黙が訪れた。

 リュクルスとマルガリティアは森の民の言葉を解さず、アステラ以外の者達は「正しい言葉」を知らない。ゆえに両者は共に居心地の悪い時間を過ごすこととなった。





 ◆





 待つこと暫し、宴の中心となる食事がもたらされた。

 各自の敷板の上に足のついた円形黒焼の器が3つ運ばれてくる。うち一つには大ぶりの肉が、一つは名も知れぬ穀物とおぼしき塊、そして最後の一際小さな土器に盛られた白い粉。全てが瑞々しい緑の大葉の上に盛り付けられていた。


「きみたちは予め個々に食事を分けるのか」

「はい。大皿に盛るラケディアの”正しい作法”とは異なりますが」


 左隣に胡座をかいて座るゲルギウスに尋ねると、彼は躊躇いがちにそう告げた。先方に「正しい言葉」を解する者がいる以上迂闊なことを言えば無礼を咎められる。


「何も他意はない。ただ目を惹いただけのこと。それにしてもいい匂いだ。この森に踏み入って初めて、小動物以外の肉を見る」


 満遍なく焼き目のついた肉塊はかぐわしい香気を青年の鼻にもたらす。


 ——()か。経緯はどうあれ先達に感謝せねばならない。燔祭のなれの果てに。


 両手のひらを広げたほどに巨大な肉を眺めながら青年はそんなことを考える。同時に、()()()の存在を思い出した。

 右隣を占めるマルガリティアに目を向けると彼女も同様のことを想起したのだろう、視線を傍らに放ちリュクルスに示した。自身の敷物の上で丸くなりくつろぐアルカンの存在を。


 ——執政官(アルカン)には酷なこと。同族が食われる様を見せつけられている。何も知らずに。


 事実彼は憐れみさえした。無知な獣に。また羨みもした。煩悶と無縁の生に。


「かくも豪華な宴、痛み入る」


 青年は姿勢を正し、対面に座るシャルメと横に座した母アステラに告げる。

 先刻対した女は莞爾とした笑みを浮かべ、またも彼には理解できぬ言葉を発した。


「彼女はなんと?」

「ラケディアの戦士に気に入ってもらえるとよいが、と言っています」


 ”僚友”の言に小さく頷きを返すと、彼は改めてシャルメを眺めた。

 しばし無言で見つめ合う2人を尻目に、大きな壷を抱えた女が各人に配られた杯に白く濁った液体を注いでいく。彼の鼻は目ざとく酒精を嗅ぎ分けた。


 敵地で酒を飲むなど、かつての彼からすれば考えられない行為であった。事実従民都市タンタリオンでは、純然たる同胞と囲んだ”共同食事(サンポジーム)”においてさえ飲酒を避けた。それが今、よりにもよって緑壁の奥深く”魔物”の群のただ中で、”魔物”と囲む宴席において酔おうとしている。心境の変化を彼は自覚していた。

 タンタリオンで彼に兄と呼びかけたダイオス。緑壁で彼を兄と呼ぶゲルギウス。皮肉な対称性を秘めている。彼は真の同胞たるダイオスと戦い、半分の同胞に過ぎないゲルギウスを助けた。


 ——それで構わない。おれももはや半ば森の民のようなものだ。少なくとも、彼らと同じくらいラケディアとほど遠い存在だ。


 羊肉と酒精の香気は見事に男を打ち負かした。飢えも戦傷も大義のために耐え忍ぶラケディア、麗しの都の市民が、今ここに屈服しつつあった。


 ——そう捨てたものではない。兄妹の父ダイオン、アステラの祖父フィリポス。このように同類もいる。おそらく他にも幾多のラケディア市民が。


 先達の存在は誠に頼もしく思われた。捨て子は独りではないと分かったのだから。


 ——この村がおれを欲するならば。あるいはここでおれを酔わせ殺そうとするならば。どちらも大差はない。


 つまるところ、リュクルスの心を満たしたものは明白な事実である。彼はこの時点において、既に打ち負かされていた。


 ——そう捨てたものではない。ここで森の民として生きるのも。


 不意に鼻腔の奥深く熱を感じる。口内に残る濁り酒の酸味がもたらしたものか、あるいはより酢いもの、もはや誤魔化すべくもない現状の認識が喚起したものか、熱は微かな涙となった。


「ああ、とても美味い。染み渡り、おれを生まれ変わらせる。あなた方に何を返せばいい? この酒と、肉の対価に」


 母娘の表情は驚くほどに似通っている。親子のものとして。2人の女が見せた艶やかな笑みは青年の瞳をとらえた。


「汝の得手を以て」


 得手。彼が得意とするところのものは一つしかない。戦いという。


「それも悪くない。あなた方が望むのであれば」





 ◆





 宴は静かに進んだ。

 ゲルギウス、ゲルダの兄妹ははしゃぐ質ではない。兄は未だ払拭しえぬ報復への恐れを押し殺すように神妙に、妹は半ば傲然と飲み食いを進める。マルガリティアは何やら物言いたげな表情を時折見せつつも沈黙を守った。そしてリュクルスもまた、静かに食い、酔った。

 事情は”森の民”の母娘も変わらない。母は時折娘に語りかけ娘は返答する。森の民の言葉で為された親子の会話内容を青年は理解できない。言葉を介する兄妹が特段の反応を示さないところを見る限り、大した内容ではあるまいとあたりを付けた。


 動きがあるとすればシャルメのものだけ。彼女はリュクルスの杯が空になったのを目ざとく見定めては杯を満たす。席を立ち、手ずからに。

 青年は軽い目礼の後、酒を注がれた杯を控えめに掲げる。女は小さく微笑んで自身の席に戻った。その姿を横目に彼は小刀で肉を切り分ける。

 ふと傍らに目をやればマルガリティアの食が進まない様子。肉は手つかず、穀類も少し摘まんだきり、傍らの子羊を所在なげに撫でている。


「マルガリティア、どうした?」

「何も。ただお腹が空いていないだけです」


 少女は(かぶり)を振って答える。

 宴席の四隅に立つ松明の光がその見事な金髪を赤く染め上げていた。同じ光景を彼は見知っている。今となっては遙かに昔のことに思われる旅の始めに、少女の故郷——名もなき隷民の村で見たものだ。


「ならばいいが……」


 言ってしばらく、リュクルスははたと気づく。少女は自前の小刀を持たない。

 長い野宿の最中、食事時には自身のものを都度少女に貸していたことを思い出した。ときには彼が切り分けてやることさえあった。


「気づかなかった。——これを使え」


 青年に差し出された小刀の柄を、しかし彼女は拒む。あらぬ方を向いて。


「いりません。本当に」


 頑なな反応に青年は胸中苦笑を禁じ得ない。


 ——拗ねている。この女はまだ17。幼い素振りも抜けきらない。


「無理にとは言わない。ただ、小刀は渡しておく」

「いいえ……」


 打って変わって弱々しい、しかし明瞭な拒絶。マルガリティアはアルカンを抱き上げ青年に背を向けた。微かな震えすら見て取れる。

 リュクルスは小刀を戻すと困惑混じりの視線を兄妹に向ける。兄は不思議そうに2人を見つめる。妹は咎めるような、あるいは気遣わしげな視線を返した。


 震える女の姿は青年に再び旅の始めを想起せしめた。燃えさかる村を背景に、楽にしてやろうと剣を振り上げた自分に首を差し出す少女の姿を。


 ——あるいは、おれが森の民の女に奪われることを恐れているのか。


 青年は無言で正面に向き直り酒を呷る。

 甘さの中に微かな酸味が喉をついた。





 ◆





 ”隊列”は宿として割り当てられた小屋を目指して歩く。リュクルスとマルガリティアが先頭に、後方には兄妹が続く。


 月は天頂に至り明瞭に「空地」を照らした。目を焼く篝火が消えた後、その光は驚くほどに激しく地上に降り注いだ。


 不意にマルガリティアが歩みを止める。

 そして口を開いた。宴の半ばから固く噤んだその唇を。薄いそれを。耳まで届くと錯覚させるほどに長いそれを。


「リュクルス、なぜ食べたんですか」

「突如黙り込んだかと思えば、意味の分からぬことを」


 女の蒼眸は冷ややかに青年を凝視した。


「あの肉はおそらく、()()()()()()()()()()()

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小動物ではなく羊でもない…まさかにん(ry きっと鹿か猪ですねうん(棒)
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