午後
「見てください! リュクルス。うまくできました」
昼下がり、夕に「仕事」を控えたつかの間の休息。マルガリティアが誇らしげに示した花冠は薄紅と紫の小ぶりな花弁を茎で編んだもの。頭上に乗った脆い手慰みの成果は、しかし女の金髪に鮮やかな色合いを足した。梳らぬ金の房に。
「器用に作ったな」
「はい。ゲルダさんと一緒にがんばりました」
女は完爾として笑いながら小さな頭を振ってみせる。
「おれはそのようなものを見たことがない」
「わたしは小さい頃によく作りましたけど、ラケディアの女の人は作らないんですか?」
「我らラケディア市民は10の歳から”少年団”に属し、最も大切なこと——都市への忠誠を学ぶ。花冠の作り方などではなく」
言いながらリュクルスは自身の記憶を掘り返す。かつて共に暮らした少女達を。エイレーネを。
彼女達は皆強くあろうとした。健康な肉体のみが美である。夾雑物は必要ない。飾り立てる行いは美を損なう堕落である。男達は健康な子を産みそうな女に欲情し、女達は勇敢な戦士に欲情する。そして子が生まれる。子も両親と同様にラケディアを支える礎となる。永遠に続く偉大なる”共同体”の姿。
——それはつまり、おれが失ったものだ。
彼は久しぶりに友の存在を思い出した。パレイオス。エイレーネ。彼らはもう”初の契り”を済ませただろうか。エイレーネは子を孕んだだろうか。
未練は消えない。清らかな調和を保つ白亜の都市。敬意を感じられる友。輝かしい未来。”隊列”の仲間ととる”共同食事”。契り。子。
——全ておれが得るはずだったものだ。
薄暗い森の中で貧相な隷民の女と下らない話に興じている。花で編んだ冠をかぶり満足げな女と。
「リュクルス。何か違うことを考えていますね」
「いや。おまえの手先が器用であることは十分に理解した」
女は男の隣に腰を下ろす。そこが自身の定位置であることを微塵も疑わず、堂々と。
「他に何か言いたいことがあるのか」
「いいえ」
「ではゲルダの元に行けばいい。夕までまだ時間がある」
マルガリティアは態度で答えた。つまり男の隣に在り続けるという。
「一つお聞きしたいことがあります」
「なんだ?」
「……ラケディアに、だれか好きな方がいましたか?」
想定外の問いを受けた男は内心驚きをかみ殺す。いつものような皮肉かと思いきや、それは旅路において一度も為されたことのない類いのものだった。
「下らない話だ。おれの好悪などなんの意味も持たない。必要もない」
「でも、いましたね。その口ぶり」
上目遣いで覗き込むマルガリティアを彼はあえて見なかった。傍らの剣を抜き刃こぼれを確かめる。確かめようとした。
「ねぇリュクルス。どんな方ですか?」
「それを聞くことに意味があるのか」
「意味はありません。意味なんて何も。でも知りたいんです。その方とわたし、どちらが好ましいですか」
しつこい追求を男は微かな安堵と共に受け止める。それこそが少女のいつもの姿だ。逃げても食い下がり言葉を引きずり出そうとする。イリスの村で出会って以来何度となく交わされた会話の類型であった。
「……エイレーネだ。おまえではない」
「エイレーネ。エイレーネというお名前なんですね。綺麗な方でしたか?」
「健康な身体をしていた。よい子を胎む女だ」
マルガリティアはしばし口を閉じ、花冠の位置を入念に直す。襤褸を纏う薄汚れた隷民の女。それにしては仕草が妙に堂に入っている。話に聞く東方の国の女王のように。
「ふぅん。……でも確かに意味はありませんね!」
「おまえが聞いたことだろう」
「ええ。でもやっぱり意味はありませんでした。だって今リュクルスの隣にいるのはわたしです。これからの戦士様の物語に描かれるのはエイレーネさんではありません」
それは誠に以て正鵠を射た言葉、真理と言ってもよい。
男の隣にエイレーネが腰を下ろすことは未来永劫あり得ない。彼は既に別たれていた。自覚しながらも振り切ることができないものを今少女が切り落とそうとしている。男の身体に纏わり付いた贅肉を。
「その通りだ。エイレーネはいない。パレイオスも。だが、おまえが隣にいるのも一時のことに過ぎない」
「では、そうならないようにします」
「面白いことを言う。”定められた物語”とやらはどうした。おまえが何を思おうと、為そうと、全ては定まっているのだろう」
女は呆れたように首を振り小さな溜息すら漏らした。何も分かっていないと。飲み込みの悪い生徒に呆れる教師の素振りである。
「違います。リュクルス。それでも為そうとしなければいけません」
「なぜだ。全ては無意味だろう」
「いいえ。わたしは絶対にそうするべきなんです。神はきっと、そう為したわたしを物語に描かれたはずですから」
「”名もなき御方”の祭司としておれを手放せないか」
「はい。……それと」
躊躇いがちに目を伏せて少女は押し黙った。発話は一つの選択である。語ってもよいし語らなくてもよい。この時マルガリティアは語ることを選んだ。そうすべきだと考えたからだ。
「わたしが、共にいたいと思うからです」
◆
リュクルスは惰性の中にある。
その20年の生涯の中でラケディアに仕込まれた行動規範は、彼が意思と希望を失してなお体内に燃え続けた。ケイデーの山頂に到り燔祭を執り行う。無意味な行為であることを十分に知りながらそれを為そうとした。なぜならば、それがラケディアが彼に与えた最後のものであったからだ。
ラケディアはリュクルスに望んだ。山に登り死ねと。
そんな彼の心の中にマルガリティアの言葉は不可思議な感覚を残した。
——この女はおれと在りたいという。ただ死にゆくのみのおれと。
居心地の悪い、不気味な状況である。これまで一度たりとも感じたことがなかったもの。
——城門の隅で物乞いをしていたあの男。あの男、犬、オイステスでさえラケディアに住むことを許された。今のおれは麗しの都に入ることすら叶わない。市民ですらない。死を望まれた不良品だ。おれには価値がない。何一つ。
”上の集い”を襲おうと考えたのも深い考えゆえではない。同行者となった兄妹の集落が襲われたことに対する報復。道中襲撃を受けたことに対する仕返し。だが、いずれも命を賭して行うべきかと問われれば難しいところである。彼が後生大事に抱えた市民の誇りとは何の関係もない、いわば他人事である。にもかかわらずそれを為そうと企図したのは、窮極のところただの成り行きに過ぎない。望む未来を持たぬ限り目的はない。目的なくとも行動せねばならない。だからこそ手頃な目標に流された。
つまり捨て鉢の流浪。惨めな。
ラケディアという唯一無二の光輝ある価値を失った自分に対し、マルガリティアはそれでも「共に在りたい」と言った。全く以て意味の分からぬ事であった。
「祭司としてではなく、おまえ自身がおれと居たいと望むのか。なぜだ」
少女が川辺で”神託”を述べ引き留めたとき、彼はその意味を理解することができた。”声を聴く者”である自分に祭司が付き従おうとするのは当然のこと。それは神慮に叶う行為である。十分に納得しうる行動だった。
しかし、祭司の役割を剥ぎ取られたマルガリティアという一人の女が、ラケディアという誇りを剥ぎ取られたリュクルスという一人の男に執着する理由は分からない。
「分かりません。そう感じるんです」
「おまえはおれの子種を欲しているのか。しかしおれはもはや麗しの都の市民ではない。偉大な戦士でもない。つまり、おまえが子を宿したとして何の得も名誉も……」
「リュクルス。リュクルス。子どものお話はしていません。わたしはあなたにお話しています」
「おれには何もない」
女の笑みは極上のものだった。目元は歳相応の幼さを、口元は成熟した女の色香を表す。
「いけないことですか? たとえば、この花冠にも意味なんてありません。でもわたしはこれが好きです」
「おれはおまえの村の者達を殺した男だ。おまえの父や母を。誇り高い女なら復讐を図るべきだろう。縋るのではなく」
「リュクルス。——あなたは殺していません。イリスの村の、誰も」
「ラケディアの戦士がそれを為した」
全ての根源がそこにある。
両親の遺体を前に途方に暮れた少女は、全てを失い途方に暮れようとしている青年と出会った。共に旅をする中で青年はラケディアと別たれた。ゆえに復讐は完遂された。
残されたのは根無し草となった一組の男女である。ただの男と女であった。
「もうラケディアの戦士ではありませんね。そうでしょう? 先ほど自分でそう言いました」
「そうだ。マルガリティア。おれはラケディアの戦士ではない。だから、実を言えばもう為すべき事もない」
「わたしも同じです。あなたの喉に噛みついて食いちぎってやろうと思ったこともありましたけど、今はもうそんな気になりません」
小さく口を開け、噛みつく素振りをする少女の姿にリュクルスは再び戸惑いを覚えた。彼の双眸の中で、女は美しく見えた。
「いっそこの森の中で暮らしましょうか。あなたとわたしとアルカンで。ゲルギウスさんとゲルダさんも一緒に。わたしたちの”集い”を作って」
同意が得られぬことを分かりながらマルガリティアは囁いた。驚くほどに蠱惑的な青い瞳を輝かせて述べた。
「それは祭司の言葉か? それともおまえの言葉か?」
「もちろんわたしの」
「では、祭司のおまえはどう言う」
不意に男の左腕を女のそれが絡めとった。蛇のように。あるいは蜘蛛の糸のように。ぬめるように。
「”声に従え”と」
少女の体温を剥き出しの肌に感じながら男はしばし瞑目する。そして言った。
「では従おう。この忌々しい”声”に」
——山頂へ! リュクルス! 石を金となす者! 声に従え!
「声」は木霊して止まない。
◆
”上の集い”は兄妹の集いの倍するほどの人口を擁するという。
ゲルギウスもゲルダも実際に赴いた経験はないため全ては伝聞に過ぎない。だが森の民の生活を見る限りその程度が妥当なところであろうとリュクルスも納得した。
二人の父ダイオンが健在であった頃は互角の勢力を保持したという前提に従う限り、多く見積もっても人口は倍程度。これが100人規模の相手となればいかにラケディアの戦士とはいえ1人では荷が重い。
敵の総数が40から50人程度であるとすれば、狩猟に従事する人数は最大でも20名ほど。戦闘に耐えうる数はそこからさらに半分程度となる。20名規模の集落であった兄妹の集いにおいて戦闘に従事可能な人間は5人。よって兄妹不在の襲撃時、集いは3名で”上の集い”を迎え撃ったことになる。その者達が抵抗時に倒した人数とリュクルス達が始末した敵4名を合わせて差し引けば、現状”上の集い”が投入できる戦力は10名を超えるかどうかであろうとリュクルスは読んだ。
10対3の勝負はそう悪いものではない。先刻の遭遇戦で敵の平均的な力量も推し量れる。対人戦の経験が明らかに少ない。平地に比して格段に低い人口密度から考えるに、人と人が殺し合う機会が足りないのも当然のことである。一方ラケディア市民はまさに敵を殺すことに特化した存在であり、戦闘と殺人は生活の一部である。
リュクルスは”集い”の構造についても兄妹から聞き取った。「空地」中央の広場を囲むように家屋を建てる形は森の民に共通する様式であると述べたのはゲルダ。神話に描かれた原初の集いから変わらないという。
それは図らずも、リュクルスにとってもなじみ深い形態であった。
規模は全く異なるが、都市ラケディアもまた同様の構造を持つ。あるいはラケディアから派生した他の従属都市も。
以上の状況を把握したとき青年の前には二つの選択肢があった。
鏖殺か、あるいは戦士との戦いか。
夕闇に紛れて静かに侵入し、人影とみれば手当たり次第殺すこともできる。戦地の覚悟を持たぬ人の群は死の匂いにたちまち恐慌状態に陥るだろう。従民都市における数度の「仕事」を経験した彼はその様を容易に想像することが出来た。
または、堂々と名乗りを上げて敵の戦士を呼び寄せてもよい。一対一の勝負にはなるまいが、いかに囲まれたところで数名倒した段階で敵は戦意を喪失するだろう。
彼が選んだのは後者だった。
「ゲルギウス。きみと隊列を組む。地上見渡す限り知らぬ者はないラケディアの”隊列”を」
指示を受けた彼は喜色満面、拳を突き上げて答えた。
「兄、なんと光栄なこと!」
「我らの”隊列”に敗北はない。ただしこれは変則的なものだ。戦場ではおれの指示に必ず従え」
「もちろん。名を汚さぬよう励みます」
実際のところは二人が互いの背を守りながら周囲の敵と対峙するだけのもの。しかしリュクルスはあえてそれを”隊列”と呼んだ。
「ゲルダはマルガリティアとともに森の暗闇の中に。弓は使えるな?」
「できる。でも、ゲルダも共に行かなくてもよい? ゲルダも戦える」
先ほど倒した魔物から剥ぎ取った弓矢を掲げてそう答えたものの、言の端には若干の不満が感じられた。
「きみは我ら”隊列”の命綱だ。陽が落ちれば”空地”の外は光もない。木々に覆われぬ”空地”のみが月の光を得る。暗闇から敵を狙え」
「……」
「ゲルダ、勘違いしているようだが、ラケディア”隊列”の核は後方にある。後列に限りない信頼を抱くがゆえに前列は精強無比であり続ける。後ろに弱兵を置いては前列の力は発揮されない。つまりきみの存在は戦いの帰趨を定める」
戦闘能力を持たぬマルガリティアを守るためにも、ゲルダを”隊列”に組み込むことはできない。よって彼女の役割は定まった。
「分かった。ゲルダはマルガリティを守る。”隊列”も」
「それでいい。——ところでゲルギウス、きみは”森の民”の言葉をしゃべれるな?」
ゲルダの脇に並ぶ青年に向き直り尋ねる。
「それはもちろん。はい。……ですがあまりしゃべりたいものではありません」
「おれが為せぬ以上きみしかいない。ケイデーの頂まで、あるいは月にまで届くほどの大音声で名乗りを上げろ。そして敵の頭を呼び出せ。頭でなくともいい。とにかく戦士を引きずり出せ」
「分かりました。しかしリュクルス兄、私も”正しい言葉”で……」
「魔物の言葉で一度名乗ったらその後は好きにしていい。この後でラケディアの名乗りを教えてやる」
兄の些細な不満を容易く摘み取ってから彼はマルガリティアに語りかけた。
「おまえはゲルダと共に。今回は盾を貸してやることはできない。とにかく木の陰に身を隠せ」
「分かりました。——そういえばリュクルス、この子はどうしましょう」
少女の膝に頭を乗せ午睡を貪るアルカンはその存在によって男に思案を強いた。思わぬところで鳴きでもしたら面倒なことになる。成体に比べてか細くも羊の鳴き声は存外よく通る。
「放置すれば彷徨い出すやっかいなやつだ。おまえが捕まえておけ」
「いいのですか? 戦士様のことですから、てっきりこう言うと思っていました。”ラケディアの誇りを汚す獣め、ここで絞めて食べてしまおう!”って」
明らかな揶揄いを含んだ台詞に対して青年は小さく肩をすくめて答えた。
「彼は”執政官”だ。ラケディアの執政官は常に戦場に在る。後退はない」
真面目な口調で重々しく語られた言葉だが、それはまさに少女の驚きを引き出すに不足ないものだった。
マルガリティアは瞠目を禁じ得ない。
隷民の娘が生涯見ること叶わぬはずのものを今、目撃しているのだから。
ラケディア、麗しの都の”隊列”を率いる戦士がどのような存在であるか、彼女はその目で一部始終を見たのだ。
それは堂々たる姿であった。
紛れもない、執政官の。
ペルピネの大地を統べる都市、ラケディア、麗しの都の精華がそこに在った。
石の如きリュクルス。