敵
密生する木々は天然の檻である。人の背丈を遙かに超えて頂の見えぬ巨木は、気ままに枝葉を伸ばし周囲の僚友と緊密に結び合う。それはあたかも天蓋のごとく空間を仕切った。
風の無い初夏の午後、空気は淀んだ。
リュクルスは集落の領域に足を踏み入れる大分前から、目的地が近いことを明確に理解した。
先頭を行くゲルギウスが言葉を発することはない。間断なく周囲に視線を発しつつ、少し腰を屈め、地を滑るように進む。それはまさに接敵直前の姿。
”隊列”はリュクルス、アルカンを抱いたマルガリティアと続き、最後尾をゲルダが占める。森の地勢に不慣れな”野の人”を”森の民”が守る。ラケディアの戦士の本領は開けた土地において発揮される。太い幹が作りあげた果てしない迷路、その陰からなされる襲撃を捌くことは得意とはいえない。
兄妹に予め聞く限り、二人の所属した集いには二十名程度の構成員がいる。森の中に気まぐれに生まれる木々が途切れるところ——「空地」に住むという。よってリュクルスに求められたのはまさに「空地」の中を制圧することであった。
目指す場所に近づくにつれ、彼の四肢もまた警戒の度を高めていく。円盾と槍を構え、斜め前方左右を可能な限り精査する。当初の予定よりもやっかいな出来事が待ち受けている可能性が高いことを、彼はかなり前から把握していた。より正確には皆が理解していた。
濃い腐臭を嗅ぎ分けたがゆえに。それは大気の中にある全てのもの——とりわけ4人の男女に等しく纏わり付いた。
不幸なことに、あるいは幸運なことに、彼らはそれをよく知っていた。人死の匂いを。
◆
木々の途切れるところ空地が始まる。
太い枝を組み上げて作られた、小屋と言うには少々大ぶりの住処が五つ、広場と形容するには少々手狭な空間を囲むように建てられていた。
丸一日を過ごした木陰は消え去り、久方ぶりの陽光がリュクルスの兜を照らした。
そこには羽音だけがあった。空から舞い降りる鳥たちが至る所に塊を作り、一心不乱に昼食を取っている。耐えがたくも慣れ親しんだ匂いを存分にまき散らしながら。
「これはよくあることか、ゲルギウス」
リュクルスは特に気負った風もなく先を歩く青年に追いつき声を掛けた。
「時折は」
「原因に想像は付くか? 手を下したのはラケディアの戦士ではないな。我々がここまで奥深く踏み込むことはない」
ゲルギウスは問いに答えず、死体に取り付く鳥と羽虫の群を剣で追い散らして歩く。その後ろ姿を彼は無感動に眺めた。
ラケディアの戦士であれば取るべき行動は一つしかない。それは遺骸——たとえ肉親や友のものであれ——を確かめることではありえない。剣は死肉をついばむ畜生を追い払うために抜かれるわけではない。それはこのような情景を現出せしめた者達、つまり敵の身体を裂くために使われるべきだった。
「ゲルダ、きみたちには敵がいるのか」
「いる。多分、ゲルダとゲルギウスが集いを出た後に、それは生まれた」
「敵が?」
「そう」
最後尾から追いついて自身の傍らに立った黒髪の少女に彼は重ねて問いかけた。
「きみは大凡のところ事態を理解しているか?」
「している。多分”上の集い”がこれをした」
「きみが嫁ごうとした群か。なぜ?」
ゲルダは腕の甲で額を拭う。弾けた汗を陽光が打つ。小さな火花のように。
「父ガイオンが死んでゲルダたちの群れは弱くなった。”上の集い”よりも弱くなった。だからゲルダが贈られることになった。でも…行かなかった。だから」
兄妹の父ガイオンは老いを迎えたとはいえ歴としたラケディアの戦士である。その武威が魔物たちの間で突出したであろうことは想像に難くない。
リュクルスはともすると表に出そうになる感情——侮蔑の念を努めて押しとどめた。麗しの都の市民でありながら、共同体を守るためにこそ培われた力をよりにもよって魔物のために使うなど、まさにおぞましい振る舞いの極地である。魔物共を力によって支配したのならばまだよいが、兄妹の話を総合する限り、ガイオンはその力を魔物の群れに受け入れてもらうために使ったのだ。
——このように恥知らずの男がラケディア市民であろうとは。その有り様は燔祭の遣いの名誉すら傷つける。
「きみたちはつまり、森の民の隷民なのか? それならば捨て置けぬことだ。光輝あるラケディア市民の子が隷民に落とされるなど」
「違う! ゲルダの集いはゼウの民。奴隷ではない」
共に生きた者達の骸を見てさえ揺るがなかった少女の態度が一変した。細い眉の下に見開かれた黒い瞳が今はっきりと、怒りをたたえて男をねめつける。
「ゼウ?」
「それはつまり、鳥のごとくあること。支配されず捕まらない。思うがままに動く」
「”正しい言葉”で言い表すところの自由民か。では”上の集い”は何者だ。自由民であるきみたちを襲い殺すとは。血が異なるのか?」
ラケディアはその長い歴史の中で他の堕落都市との戦争を数多く経験している。敵は都市に留まらない。より強大な東方の「帝国」とも、文字通り共同体の生死を賭して凄惨な戦いを演じてきた。いずれも共同体の市民誰しもが共有する栄光の記憶であるが、それらが名誉とされる理由は敵手の身分にある。
同等の自由民と戦い勝利すること。ラケディアにおける真の戦いとはそのようなものであった。堕落都市も「帝国」も、ラケディアと同等の存在でありながら異なる血を持つ人々の集まりであり、よって敵であった。同じ血を持つ者は同胞である。同胞は戦わない。同胞とは同じラケディア市民であることを意味するのだから。
一方で、従民や隷民を殺すことは戦いではない。従民も隷民も自由民ではない。つまり「敵」とはなりえない。ゆえにそれは面倒な「仕事」である。
「同じ。”上の集い”もゲルダたちの集いも」
「では同胞と? きみたちは同胞と殺し合うのか! それは…まさに獣と変わらないだろう。愚かにも程がある」
少女の答えはリュクルスにとって意外の一言に尽きた。
いかに”魔物”とはいえ、同胞と殺し合うなどという愚劣な行為が行われていようとは想像だにしなかった。ラケディア市民にとって内紛は禁忌中の禁忌。それは都市の尊厳を貶めるのみならず実質的な機能も弱める、最も唾棄すべき行為である。
「なぜ皆殺しに? これでは、まるでラケディアのやりようです」
マルガリティアが呟く。
慣れ親しんだ——慣れ親しまざるをえなかった光景を眼前にして少女は怯えを隠しえない。胸に抱いたアルカンを強く抱きしめて。
「森ではこれ以外に方法はない」
「あります。ラケディアのように相手を隷民にすれば…」
ラケディアが敵を皆殺しにするとの認識に異論はなくとも、同胞を手にかけるとの思い込みは断固糺さねばならない。訂正しようと口を開いたリュクルスは、しかしゲルダの苛烈な勢いに先手を取られた。
「奴隷になるくらいならば、”鳥のごとく在る民”は死を選ぶ! それに森の民の集いには奴隷を養う余裕はない」
青年はゲルダの言をすぐに咀嚼した。森の民の一般的な集いがこの集いと同様の規模を基本とするのであれば、確かに”余分の人間”を抱えることは不可能だろう。地を耕すことなく動物を狩って生きる以上、人口を規定する食糧はそう豊富とは言えない。それは単純に物理的な問題であった。
一方で前者の意識は男に混乱を与えるものだ。ゲルダの口ぶりを聞く限り、少なくとも彼女が属する”集い”は自由民であることに強い誇りを抱いている。同胞殺しを厭わぬ低劣な魔物かと思えば、かくも高貴な精神を備えている。この矛盾が彼を悩ませた。
「きみのその言葉は真っ当だ。自由民であることは何よりも尊い。そのような心根を持ちながら、なぜ同胞相争う? 一方でまるでラケディア市民のように誇り高く、また一方で下等な隷民どものような卑劣さを示すとは」
「ラケディアの戦士はおかしなことを言う。——”鳥のごとく在る”以上、戦いは必ず起こる」
「そのようなことはない。我らラケディア市民は自由民であり、かつ同胞を手にかけなどしない」
リュクルスの語を受けて、ゲルダの苛烈な瞳は緩やかに弛緩した。代わりにそこに浮かんだのはある種の憐れみであった。
「ラケディアの民は”ビトの民”。真に”鳥のごとく在る”ことはできない」
「ビトの民とは? 理解しているか。きみはラケディア、麗しの都の市民を前にして、我らを自由民ではないと罵った」
「ビトはラケディアの言葉で表すならば”狼のごとく在る”。それは侮辱ではない。かつて”鳥のごとく在る者達”と共に山にあり、やがて野に降りた。森の民はそれを知る」
「我らを魔物と同じと言うのか」
精神の摩耗がはっきりと示されていた。
リュクルス、この誇り高きラケディア市民の心は明らかにすり減っている。目前為される二人の会話を聞きながらマルガリティアはそう断じた。かつての彼ならば、事ここに到り会話を続けたりはしなかったであろう。その右の手が握る槍で決着を付けようと望んだはずだ。
「森の民とラケディアは共に生きた。”鳥のごとく在る者”と”狼のごとく在る者”は。それが”下られた方”の教え」
◆
かつて山の頂に神が降りた。
森に住まう獣の一部は神の恩寵を受けて”人”となった。神は火と鉄を与えた。そして火よりも鉄よりも遙かに重要なもの、人たる証を授けた。それは文字と規律である。
神は新たに生まれた”人々”に対し、その在るべき姿を教えた。”鳥のごとく在り、狼のごとく在れ”と。神——”下られた方”の教えのもと、下られた方の治めるままに人々は生きた。そこには争いはなく隷属もなかった。人々は鳥のごとく心のままに振る舞い、狼のごとく協働し群れた。
”下られた方”の治世は五百年に及んだ。五百年が過ぎたとき、”下られた方”は再び天に昇られた。”下られた方”と共に山の聖なる調和も消えた。人々は”鳥のごとく在る者”と”狼のごとく在る者”に別たれた。人々はもはや共存し得なかった。
長い戦いの後、”狼のごとく在る者”は山を下り、野に去った。かくして山は”鳥のごとく在る者”の地となった。
ゲルダが「正しい言葉」で拙く語る物語は”魔物”の神を表すものであった。
”下られた方”。
少女の口がその単語を放つときリュクルスは心内敬意を示した。いかに魔物とはいえ、その信じる神ならば軽率な侮蔑は危険である。世界にはラケディアが未だ知覚せぬ大いなる存在が満ちていることを、彼は師カミノスより学んでいた。
「きみたちはその”下られた方”を信ずるのか。その方はこのケイデーに由来のある御方。ならば、おそらくは我らの信ずる猛きマヌと何らかの関係をお持ちだろう。おれは礼を失していないか?」
神は人の無礼を許さない。それが過失や無知ゆえであっても、ときには峻厳な罰が下される。
今から5年前、国王ガイオンの12年に起こった堕落都市デルフとの戦いがラケディアの敗北に終わった理由は、市民の1人がマヌを嘲る戯れ歌を歌ったことに対する神罰である。元老会は即座に涜神の男の腹を割き、生きながら燃やす香気を以てマヌの怒りを鎮めたのだ。
「”下られた方”はお優しい方。リュクルスに怒らない」
「それはよかった」
青年が胸をなで下ろす一方で、今度はマルガリティアが疑問を投げかける。ゲルダが語るお話に対して。
「なぜ”鳥のごとく在る者”と”狼のごとく在る者”は争ったんでしょう。神様がいらしたときには仲良くできたのに」
「”鳥のごとく在る”ならば必ず他者と衝突する。意のままに他者を襲う」
「ということは、”鳥のごとく在る”人たちも互いに争うことになりますね。ゲルダさんたちもまた」
ゲルダは小さく首肯して返した。
「そう。だから釣り合いを求める。同じ力を皆が持とうとする」
「ええ、そうですね。でもそれだと、結局”狼のごとく在る者”と変わらないのではありませんか? 皆等しいのですから」
「違う。”狼のごとく在る者”は等しいことが全て。他の全てよりも。”鳥のごとく在る者”は違う。等しいことよりも意のままであることが大切」
——やはり獣の理屈だ。
彼は考えた。気ままに振る舞うために力を得て、気ままに振る舞うがゆえに他者の権利を侵す。それを押し通すために更なる力を欲する。だからこそ魔物達は同胞相争い、相手が弱ったとみれば殺し尽くす。そこに人の尊厳はない。ラケディアの自由民とは似て非なる存在である、と。
「だからこの群れは襲われたと。ダイノスの死によって均衡が崩れた。では、きみが敵の群れに赴けばそれを防ぐことができたのか?」
「できた。私はラケディアの血を引く。ラケディアの血は価値がある」
「なるほど。確かにラケディア市民の血は高貴なものだ。魔物も欲しがるところだろう」
得心するリュクルスに、しかし少女の答えは冷たいものだった。
「違う。ラケディアの血は”新しい血”。森の民はそれを求める」
「では私の様な隷民の血も、でしょうか?」
「そう。それもまた新しい血」
森の民にとってラケディアと隷民の区別などない。そう明言したゲルダにリュクルスは我慢ならない。
無知な小娘に正しい認識を教えてやろうと口を開きかけたところで、彼の心境を代弁するがごとく背後から野太い声が響いた。
「ゲルダ! 馬鹿なことを。我らはラケディアの市民だ! 森の民や隷民の血など比較にならない。リュクルス兄もお分かりでしょう。下らぬ話です。ここには世迷い言ばかり蔓延っています」
ゲルギウスの叫びはゲルダよりもリュクルスにとって効果的に働いた。我に返るために。
鳥に食い散らかされた10を超える死体とそれを覆う黒い羽虫の膜。そのただ中で空疎なお話にふけるなど、冷静になってみれば誠におかしな行動である。
今為すべきことではない。
「敵は山の上に住む群ときみの妹から聞いたが、間違いないか?」
「確実に。リュクルス兄、私は死んだ者達になんら思うところはありません。ラケディアを軽侮した、まさに死すべき者達でした。ですが…」
「自身の集団を襲われて何もしないなど、ありえないな」
「その通りです! この報いを与えねばなりません。愚かな者達に」
男達の会話はほとんど無意味なものである。結論は既に出ていたのだから。
結局のところ、リュクルスにとってこの惨劇は全く以て無関係なものであった。しかしラケディアにおいて培った感性は彼を強く揺さぶった。血と死は人を高揚させる。戦士であればなおさらに。
「では為すべきことを為そう」
常のごとく落ち着きを払い、リュクルスは静かに会話を締めくくる。大げさに騒ぐほどのことでもない。
魔物の群がもう一つ、根絶やしになるだけ。
むせかえる腐臭にさえ人は慣れる。ならば殺しもまた。