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ラケディア、麗しの  作者: 本条謙太郞
第2章 リュクルスのケイデーへの旅
16/24

「人を引きつけ率いる力。おまえはそのように言うが、おれは他者を率いたことなどない。市民は共同体の命にのみ従う。不磨の法に記されたことを為す」


 男の口調は存外に柔らかかった。それはまるで幼子を諭す年長者の風情である。


「いいえ。あなたはもう率いています。わたしたちを」


 ”わたしたち”。つまるところそれは少女と羊を一括りにしたものに過ぎない。彼は刹那苦笑を浮かべ、すぐに消した。


「おれはおまえを率いてなどいない。おまえたちを。それはラケディアの威光によるものだ。ラケディアの市民に隷民や家畜の類いが従うのは当然のこと」


 マルガリティアは腕をほどき、男の進路を遮るように前面に回り込んだ。


「おかしな話ですね、リュクルス。あなたの言葉が正しいとすればなおさら変なことです。だって、あなたは()()()()()()()()()()()()のですから。それでもわたしは着いてきました。ここまで」

「おれの力ゆえだ。おれはおまえを容易く殺すことができる。それをおまえは恐れた。この力はラケディアより産み出されたもの。麗しの都の威勢そのものだ」


 男にとって理屈は明白である。彼は少女を力で従わせたのだ。直接手を下さずとも、それを為しうる状態を以て彼女を支配した。身寄りない女が1人生き延びるにはこの世界は少々過酷である。リュクルスの存在は彼女を庇護するものだ。ラケディア市民の所有物を害そうとする者は稀である。

 にもかかわらず、どこかしら筋の通らぬ据わり悪さを彼は心内に残していた。それを言葉にしたのはやはり目の前の女だった。


「わたしが命惜しさで死に行く男に——あなたに、ここまで着いてきたというのですか? 共に行けば同じく死が待ち受けているのに? それほどおかしなことはありません」

「ではなぜ着いてきた? 確かに認めよう。おまえは命を惜しまなかった。それはあたかも共同体の市民のような堂々たる姿勢だ」


 女の視線が眼下より迫る。男の瞳を射貫かんとする。


「それがわたしの”物語”だからです。そう定められていたから」

「おまえの言葉に偽りはないな。おまえが崇める”名も無き方”の教えだ。一貫している。だが、それを真とするならば最初の主張と矛盾するだろう。つまりおまえは”物語”とやらに流されたのであって、おれに引きつけられたわけではないことになる」


 陽は木々の壁を完全に乗り越えた。陽は2人を存分に照らした。

 朝が生まれたのだ。


「それこそがあなたの”物語”です。あなたはその身を以て、これより幾多の人々を引き寄せ導くでしょう。——それは川辺の石よりも多く海の砂よりもなお多い。白亜の都が崩れ落ち荒野に戻りし後もあなたの言葉は残り続ける。人の生の間七度を七度重ねて覆いきれぬほどの未来に至るまで、あなたの”物語”は在り続ける。あなたは人々の”物語”を束ねる。そう在るように定められた。この世において唯一在る方がそう在るように定められた。リュクルス。声を聴く者」


 謡うように祭司(アポリア)は述べた。軽やかに。

 男は笑い飛ばそうと試み、失敗した。女の言葉からあふれ出る得体の知れぬなにかを笑うことは叶わなかった。決して。


 ——かく在れ、リュクルス!!


 雷鳴の如き「声」が耳を砕く。戦場に響き渡る剣戟と怒号、その全てを束ね倍しても三倍しても「声」の勢威には到底及ばない。彼は二十年に渡る生において初めてかくの如き轟音を感じた。

 たまらず地に腰を落とす。「声」は音ではない。それは強靱な(つるぎ)の一撃に等しい。兜の上からリュクルスの頭部を叩く。頭蓋は揺れ、刹那平衡を失した。

 彼は吐き気を抑え、喘ぎに近しい問いを発する。


「…それは()()か? ”名も無き方”の巫女よ」


 神は自身が寵愛するごく限られた人物にその未来を垣間見ることを許す。かつて猛きマヌは愛し子アルトクレスに告げた。ケイデーの山頂からラケディアの地を指し、そこに都を築くよう伝えた。「かの都永久(とこしえ)に栄えん」と。


「リュクルス。これは()()です。”唯一在る方”がわたしに預けられた言葉。定められたあなたの物語を、わたしは預けられたのです。それをあなたに伝えるように、と」


 座り込んだ男の眼前に二本の足がそびえ立つ。

 皮紐を編み上げた粗末な履き物の上に伸びる、細い、白い、所々擦り傷を残す皮膚の連なりを見た。そして膝の上に裾を見た。女が纏う粗末な麻の着物。

 その裾を。


 彼は瞼を閉じ、耳を千切らんばかりの勢いで兜を剥ぎ取った。眼球の裏を突き刺されるに等しい疝痛と二枚の盾で圧搾されるがごとき鈍痛。それら全てを鎮めるために。


「率いる——おれが、ラケディアを率いるのか」


 穢らわしくも甘美な夢想。青年が心の奥深く沈めた欲望。共同体に戻り、大隊列を率い、やがて執政官となる。そしてラケディア、麗しの都を繁栄に導く。僚友達は畏敬を込めて呼ぶだろう。テセウスの子リュクルス、偉大な市民、と。

 瑕瑾を自覚して諦めたはずの望み、未練が俄にうずき出す。恥ずべき私欲であったはずのものが。


 祭司(アポリア)の返答は頭上から落ちてきた。青年の首を落とす敵の刃のごとく。その秘した欲を断ち切るように。


「ラケディアなど。そのような矮小なものではありません。あなたは遍く皆を率いる。地の砂を全て集めても足りぬほどの”物語”を、あなたは束ねる」


 少女が告げるのはあまりにも荒唐無稽な未来であった。我に返った彼はそれを笑い飛ばそうと試み、再び失敗した。


()とは。では魔物も? 人とも獣とも知れぬ者たちだ」

「重ねて言います。あなたは遍く皆を率いる」

「では()()に尋ねてみよう。おれに着いてくるか、と」


 川辺の2人を遠巻きに見守る4つの瞳。

 リュクルスは自身に投げかけられる視線に殊更鋭敏であった。戦場においてその有無が生死を左右する極めて重要な技能である。


 女の口調は存外に柔らかかった。それはまるで幼子を諭す年長者の風情であった。


「ええ。そうしてください」


 朝が産まれ、新しい日が始まる。

 第一の日である。




 ◆





 誘い。

 その行為は予想以上の効果を青年の心内にもたらした。同行を誘うとは仲間を作ることに他ならない。遭遇や仮の連れとは決定的に異なるものだ。リュクルスにとって仲間とは”僚友”を意味する。それ以外の存在を彼は知らなかった。よって兄妹を勧誘するためには彼らを僚友としなければならない。

 僚友は戦場において自身の背を預けるに足る存在である。ゆえに信頼が求められる。こうして青年は図らずも”魔物”を理解する必要に迫られたのだ。

 彼は尋ねねばならなかった。彼らの事情を。


 天頂に向かう太陽の光が地を支配しつつある。水辺の割に湿気は薄い。乾いた熱のみがある。四人の男女は木陰に入り陽光の直射を避けた。

 事の経緯を問うリュクルスに対し、ゲルギウスは容易に答えようとはしない。しばらくの沈黙を経て彼が口にしたのは意外な事実だった。


「私たちは——ラケディアを目指しました」

「ラケディア? きみたちは…その、森の民だろう」


 ”魔物”。そう言いかけて踏みとどまる。

 彼にとって依然兄妹は”魔物”である。譲歩を重ねても魔物と人の()()()に過ぎない。だが、その姿は彼がかつて抱いた観念に致命的ともいえる罅を入れた。


 ——この兄妹は()()魔物かもしれない。


 言葉の存在は偉大であった。ラケディアの「正しい言葉」を流暢に操るゲルギウスに彼は素朴な好感を抱いた。まだ拙いながらもそれをしゃべるゲルダに対しても同様である。つまりそれは自身が属する世界の優位を再確認する体験であった。

 よってゲルギウスが語気荒く己の言葉を否定したときにも、彼が気分を害することはなかった。むしろ申し訳なさすら覚えた。


「違う! リュクルス(けい)、私たちは森の民(ヒューレン)などではありません! 光輝あるラケディアの市民です」


 額を隠す黒い巻き毛を跳ね上げて、ゲルギウスは半ば叫びに近い声で主張する。その様は周囲を圧する体躯と合わさり大型の肉食獣に等しい迫力を示した。

 だが誠に締まらないことに、あぐらをかいた男の太ももを1匹の勇敢な草食獣が攻め立てていた。アルカンは怯まない。彼は戦士である。


「きみの怒りは理解できる。ラケディア、麗しの都の市民にとって()()と同列に扱われるなど耐えがたい恥辱だ」


 リュクルスは対面する青年の怒りを違和感なく受け入れた。

 しかしそうなると次の疑問が湧き出してくる。ゲルギウスの容姿と振る舞いはラケディアの戦士と見分けがつかないほどに完成されている。彼が身体に忌むべき魔物の血を含むことを示す証は目元に入った赤い刺青のみ。それも兜を被ってしまえば分からないものだ。そんな()()()()()()彼が確かな名乗りを上げ友好的に話しかけたとき、()()()()()はどのような反応を見せるだろうか。

 右腕の刀傷を見る限り戦闘があったのは明らかだが、それがなぜ起こったのか、理由が想像しえない。なぜ間引きを担う僚友は彼を魔物と断じたのか。


「ゲルギウス、きみはなぜ共同体の戦士と戦った。きみはラケディアの軍装を纏いラケディアの名乗りを上げる者。事情を話せばいかに市民といえど、きみを襲うことはなかったはずだ」

「市民と? (けい)、私は市民と戦いなどしません」

「だがその傷は刀傷だろう」


 緑壁の縁で戦いが行われるとすれば、それは間引きの仕事に従事するラケディアの戦士と魔物の間にしかありえない。彼はそれを身を以て知っている。数え切れないほどの魔物をその手で屠ってきたのだから。


 不可解な事態。疑問を解いたのはゲルダだった。


「ゲルギウスはヒューレンと戦った」

「同胞と?」

「その通り」


 小さく頷く妹の声を圧するように、兄が吠えた。


「あれは同胞ではない! 汚らわしいやつら。おまえを拐かし余所にくれてやろうとした! 私たちはラケディアの民だ。それを…」

「きみは落ち着け。戦士は常に冷静であるべきだ」

「リュクルス(けい)、私はこの恥辱を我慢できない! やつらは父ダイオンの力を借り庇護を受けながら、父が死ぬと我々を疎んじた。獣のごとき者達。私を軽んずるのみならず、妹を”(かみ)の民”に贈ろうとした。恥ずべきことです!」


 被った侮りの数々を思い出したのかゲルギウスの怒りは容易に収まらない。勢い込んでしきりに膝を叩く。間近に起こった衝撃に驚いたアルカンは機敏な身のこなしで後ずさり、状況を確認すると速やかに安全地帯へ避難した。マルガリティアの元へ。


「魔物にも種類があるのか」


 リュクルスは激高止まぬ兄を避け、あえてゲルダに尋ねた。


「ヒューレンには多くの”集い”がある。”(かみ)の民”もその一つ」

(かみ)とは(うえ)のことか?」

「ええ。その”集い”は上の山に住む」


 少女が右手を上空にかざす。彼は頷き了解を示した。

 ラケディアが”魔物”と一括りに見なす者達もまた、複数の集団に分かれ相互に交流を持っている。それは”人”の世界では特段珍しいことではない。ラケディアと他の自由都市——堕落都市の関係に近しいものだ。ラケディアはその特異性ゆえに他の都市との交流を好まぬものの、全くの没交渉というわけでもない。強大な宿敵「帝国」との戦いにおいて共同戦線を張る必要から時折使者を送り最低限の関係を保っていた。


「つまり魔物共は、きみの同意なくきみを余所の都市に贈ろうとしたのか。それではまるで隷民の扱いだ」


 ラケディアの女性がそのように扱われることはありえない。仮に他の都市がラケディアの女性を要求するようなことがあれば、共同体は名誉にかけて断固たる対応を取るだろう。そのような侮辱は想像さえも厭わしい。

 酷い侮蔑に晒されたこの哀れな少女に同情すらも覚えた。数日前に刃を交えた”魔物”に対して。


 ——混ざりものとはいえ、半身ラケディアの血を引く女をそのように扱うことは決して許されない。


 だが、男の内心を知らぬ少女の答えは意外なものだった。


「ゲルダは同意した」

「なぜ?」

「母もそうして贈られた。ダイオンに。だからゲルダも…」


 言葉は咆吼によってせき止められる。我慢の限界を超えたゲルギウスは俄に立ち上がり、傍らに座する妹を憤然と見下ろす。


「愚かなこと! あれを母と呼ぶな。あれは森の民(ヒューレン)の女だ。父が死ぬやいなや我らを捨てて自分の”集い”に逃げ帰った。畜生にも劣る。ゲルダ。ゲルダ。兄は何度もおまえに伝えた。我らはラケディア、麗しの都の市民だ。父ダイオンは私にそう教えた」

「ゲルダは…」


 リュクルスとマルガリティア、「正しい言葉」を喋る2人が単語を聞き取ることができたのはそこまでだった。兄妹の会話はいつしか耳慣れぬ不可思議な音律に変わった。硬く鋭く響く音の連なり。それこそが魔物達の言葉。

 彼はゲルダをとりわけ興味深く観察する。これまで内気な印象を与えた少女だが、その本来の言葉においては雰囲気が一変する。しなやかな、弾性を秘めた素振りはまさに彼が刃を交わした相手のものだ。


 言い争いを続ける兄妹を横目に捉えながら、リュクルスは隣に座する少女に語りかけた。


「おまえは知っていたのか」

「はい。ゲルダさんとたくさんお話しましたから。つまりリュクルス、あなたと同じです。お二人もまた元の居場所を追い出されたんです」

「おれは追い出されてなどいない。ラケディアのためを思い、自ら出た」


 マルガリティアは事もなげに答える。自身の膝に小さな頭を乗せて安らぐアルカンの首筋を撫でながら、取り澄ました顔で。


「もちろん分かっています。それにしても面白いですね。——ゲルギウスさんも同じことを言うでしょうから。自ら出たのだ、と」





 ◆





 かくしてリュクルスは2人の同行者を得た。行く宛もない兄妹。

 4人の男女は誰一人としてそれを持たない。羊もまた。

 見事なまでに彼らは迷い行く者達であった。寄る辺なく行く手なし。


 ラケディアの戦士はケイデーの頂を目指す。その行程において”隊列”は兄妹の育った”集い”に立ち寄る。そこには食糧があり、彼らはそれを得る権利があったからだ。

 たとえ半身のものであれ、ラケディア市民の血を引く者達に与えられた恥辱は晴らされねばならない。雪辱は力によってのみ果たされる。


 打ち倒し、征服すること。リュクルスは自余の行為を知らない。

 彼は戦士である。人を率いた(のち)にも変わることなく、彼は戦士でありつづけるだろう。

 打ち倒し、征服する。

 それが彼の自然であった。


 第一の日である。

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