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ラケディア、麗しの  作者: 本条謙太郞
第2章 リュクルスのケイデーへの旅
15/24

夜明け

 払暁、リュクルスは出立の準備を整えた。支度といって持つものはほとんどない。胸甲に兜、盾と剣、そして槍。腰の糧食はとうに尽きている。水を入れる革袋も空のままだが、しばらくは川辺を遡上するため水には事欠かない。


 よって問題は同行者の存在にある。

 燔祭の遣いは子羊をケイデーの山頂まで導く行為である。ゆえに(アルカン)は欠かすことのできないもの、いわば目的そのものであった。

 にもかかわらず、肝心のアルカンはアポリアの少女に抱かれ、未だ惰眠を貪っている。


 女の腕に無警戒に身を任せる羊に、男は無言で手を伸ばす。密集した腹の毛の下に確かな胴体の感触があった。アルカンの身体は細い。ただ溢れんばかりに纏わり付いた白い巻き毛がそれを大きく見せる。


 リュクルスの手にまず反応したのはアルカンだった。彼は小刻みに頭を振り硬質な鳴き声を上げる。異変に気づいた少女が瞼を薄く開く。そして一瞬の後、大きく見開いた。

 両腕を引き締めアルカンを抱き寄せるマルガリティアの姿はあたかもなにかを守ろうとするようだった。羊か、あるいは()()()()()を。


「…リュクルス?」


 寝起きの枯れた声に含まれた怯えを彼は正確に受け取った。かつて光輝ある都の市民であったときならば、少女の反応に憤りすら覚えたことだろう。猛きマヌの都の民が隷民の娘を犯すなどありえないことだからだ。

 しかし今、青年はその立派な鬣のごとき気位を大きく損なっていた。彼は羊の腹に差し込んだ自身の手を一度戻し、囁くように答えた。


「何もしない。ただ、羊に用がある」

「何のご用です? アルカンはわたしのことが好きなんです。戦士様のところには行きません」


 まどろみから抜け出て間もないにもかかわらず少女は即座に状況を理解した。それは不意の出来事ではなかった。想定内の行動である。

 リュクルスが自分を置いて行ってしまう、という。


「そいつは誰にでも懐く。おまえにも、おれにも」


 問答をする気はないと男の腕が告げていた。彼は再び両手を羊の腹に差し込みマルガリティアから引き離そうと軽く力を入れた。


「いいえ。いいえ! アルカンはわたしと一緒に居たいと」


 なおも子羊をかき抱き離れぬ少女を前にして、リュクルスはしばしの逡巡を経て手を引いた。片膝を復してゆっくりと立ち上がる。

 そして見下ろした。アポリアの少女と羊を。


 ——卑怯なリュクルス! 臆病なリュクルス! 手強い敵には背を見せる。唾棄すべき者!


 脳裏に響く「声」は師父カミノスのものでも、僚友パレイオスのものでも、初のつがいエイレーネのものでもない。もう何日も前からそれはラケディアの面影を欠片も持たない。彼とラケディア、麗しの都を結ぶ唯一の紐帯は消失した。

 彼はもはや語り得ない。自身が何者であるかを。


 青年は地に刺した長槍を引き抜き、無言できびすを返す。

 そして川辺に向けて歩み出した。

 燔祭の遣い。

 それだけが彼に残されたものである。にもかかわらず、彼は羊を諦めた。その方が良いと判断したからだ。愛玩されるにせよ食われるにせよ、この金髪の少女と共にある方が(アルカン)のためになると考えた。

 少女——マルガリティアもまた、ゲルギウスやゲルダと共にある方がよい。彼らの行く末に興味はなかった。彼らがどのように生きようとするのかリュクルスは知らない。ただ、少なくとも()()()()()()()()だろう。


 開けた川辺は視界の限り続いている。だが、いつしかそれも尽きる。

 小川は水源に向かうにつれて細くなり、いずれは湧き水へと痩せ細る。そこまで辿り着いたら、後は森の中に踏み入る他はない。

 足が動く限り歩む。歩行に思考は必要ない。求められるのは意思だけだ。

 死への。


 一条の陽が水面を微かに照らす。さざ波に反射した無数の矢が、兜の頬当を巧みにすり抜けてリュクルスの目を焼いた。

 まぶしさに意識を取られた瞬間、彼はまさに無防備であった。緑壁に踏み入って以来、彼が戦士として鍛え上げた周囲への警戒心は一枚一枚と剥がされていた。警戒とはなにかを守るために行うものであるが、当の”なにか”が失われつつあったのだから当然の帰結だった。そして今、彼はこの上もなく無警戒であった。


 兜に軽い衝撃。その後、背の盾に、右の肩に、断続的にそれは与えられた。痛みはない。鍛え上げられた男の体躯にとって、それは戯れに近しい感触に過ぎない。

 リュクルスは静かに振り返る。


 そこには果たして女がいた。

 薄汚れた麻の貫頭衣を纏い、左の腕には羊を抱え右の手は小石を握りしめて。歪に伸びた金の髪は左の瞳を半ば隠す。残された瞳は陽を浴びて光を放つ。あたかも波打つ小川のように。


「卑怯なリュクルス! 臆病なリュクルス!」


 青年の耳朶を叩いたのは紛れもなく声であった。兜の裾から入り込み、金属の中で暴れ回る。


 ——卑怯なリュクルス! 臆病なリュクルス!


 声と「声」が同期する。外と内から女の声は響き渡った。低く抑えた動物の唸りのごとき音を彼は全身で受け止めていた。

 それはつまり、緑壁に踏み入って以来ラケディアの者達に取って代わった「声」色であった。





 ◆





「リュクルス…ラケディアの戦士様。どこに行かれるんですか」

「ケイデーに。おまえも知るように」

「なぜ?」

「おれは燔祭の遣いだ。山頂でマヌ神にお会いする」


 マルガリティアは子羊を突き出す。状況を飲み込めぬ羊は4本の足を中空に拙く揺らした。


「アルカンを置いて?」

「羊はおまえの元に。暖を取るもいい。食ってもいい。好きにしろ」

「おかしな話です。あなたは前に言いました。羊を神に捧げるのが燔祭だと。その羊がいないのでは燔祭は行えないはずです!」


 女との会話がろくな結果をもたらさないであろうことを青年はよく承知していた。彼女は男の一番柔らかいところ——脇腹を突くのが上手い。

 理解してなお応答するとしたら、それは青年の未練ゆえだ。


「おれはラケディアの市民だ。その命ずるところに従う」


 間髪入れずに女の言葉が戻ってくる。


「では燔祭が終わったらどうするのですか? ラケディアに帰るんですか?」


 終わった後。彼がそれを考えたことは一度としてなかった。

 燔祭の後などと。


「燔祭の後、戦士は猛きマヌに招かれて天上に昇る。そこで偉大なラケディアの僚友たちと…」

「ではあなたには無理です」

「おれには資格がある。元老会はこの栄えある遣いにおれを選ばれた。おれが優れた市民だからだ。おれは市民として何一つ恥じるものを持たない。あの兄妹の父親の如き醜態を晒しはしなかった」

「それが本心であるのなら、なぜアルカンを連れていかないのです。あなたの信じる神様は羊を好むのでしょう?」


 マルガリティアは青年の間近まで寄ると勢い込んで羊を差し出した。

 蹴躓けば折れそうな細い足。にもかかわらずその歩みは地すら揺るがす迫力をもっていた。


「もういい。マヌ神は羊など…」

「これほどに卑怯なことがありますか? あなたは嘘ばかり。戦士様、あなたはもう信じていません。ラケディアに()()()()()あなたは。心から信じるのならばアルカンを連れていくはずです。天上に招かれるために」


 マルガリティアの口から飛び出した刃はもはや彼を害さない。兜の奥に鎮座した両の瞳は揺るがない。


「おれは共同体の市民だ。市民として生まれ、市民として為すべき事を為し、市民として死ぬ。おれの存在はラケディア、麗しの都のためにある」

「そんなこと、あなたは信じていません。もう」

「信じている。おれの中に確かにそれは在る」

「嘘つき! 卑怯なリュクルス!」


 青年の目にマルガリティアの姿は滑稽とさえ映った。名もなきイリスの村で彼を圧倒した神性はそこにはない。駄々をこねる子どもの風情。取るに足らぬ隷民の娘。栄えあるラケディア市民が真面目に取り合う手合いではない。しかし失望はなかった。


 ——これはただの娘なのだ。矮小な。ゆえにマヌ神は見逃してくださるだろう。涜神の言も哀れな愚かさゆえのこと。何も知らぬ娘の戯言など猛きマヌは気に留められないはずだ。


 興奮のあまり右へ左へアルカンを振り回す少女を眺めながら、リュクルスは意外な安堵を覚えた。


 ——マヌ神はこの娘を許してくださるはずだ。


 しかしリュクルスの平静は長くは続かなかった。

 マルガリティアは下から青年を見上げる。探るように。青く透き通った瞳は男の秘密を暴かんと嗅ぎ回る熱意があった。


「それにしてもおかしいですね、リュクルス。遣いは老いた戦士の役目とゲルダさんに聞きました。でもリュクルスはまだ若いでしょう? 何をしたんですか? きっとなにか不名誉なことですね。——追放に値するような」





 ◆





 創造——大いなる御業ののち、神は世界の中心に一本の天衝く巨木を据えられた。世界の全てのものは、巨木より届けられる神の「声」に従い幸福に在った。ゆえに全ての在るものは意思を必要としない。全ての者、全ての物に、浜の砂粒一つにまで固有の「物語」が与えられた。声がそれを伝えた。世界はかく在るように在った。

 やがて人は文字を得た。声は書き記された。文字は人を増長せしめた。人は”物語”を創造するようになった。偽の”声”、偽の”物語”である。それら汚れた言葉が世を覆った。家は虚飾で満ち、地は耕され、国が興った。神の声はもはや届かず、そこにあるのは全ての者、全ての物の意思のみであった。

 いつしか世界は巨木を忘れ声を忘れ神を忘れた。とりわけ人は意思を誇った。そこに悪が生じた。全ての諍いと不幸が生じた。


 イリスの民の教えにおいて因果律は最も忌むべきもの——哀れにして無知な人間が陥る誤謬の一つであった。

 世界に生起し花開き、やがて消えゆく全ての出来事は、その理由を人が推し量ること叶わぬ神の御業である。未来は過去より産み落とされる赤子ではない。予めそう在るように定められ、そう在り、そう在るだろうものである。

 よって人に求められるのは身を委ねること、受け入れることである。神の声が絶えた後、人は「今」に浸り、それを眺め、追認する他はない。それこそが「声」を聴きえぬ人が知覚しうる唯一の「物語」である。世界はかく在るのだと認めたとき、人は初めて安らぎを得ることができる。


 ()()()、村の離れに建てられた小屋——信仰の陣屋の中で少女は一心不乱に聖句典を唱えていた。人の口からはおよそ生まれえぬ聖なる言葉を脳裏に刻むために。それはイリスの司祭(アポリア)に課せられた義務であり、この上なく素晴らしい権利でもあった。


 晴天の下、屋外に響く怒号と啼泣を尻目に少女は頁を繰った。口内で聖句を歌った。震えながら。

 聖句典はイリスの民が辿った悠久の歴史を伝える。かつて「声」を受け民を導いた者の言行を。「声」を拒否した者の悲惨を。

 世界の何処かに在する聖木は今も神の言葉を発し続ける。この世の始まりから終わりまで、全てを子細余さず描いた物語を。しかしそれを聴きうる者はまことに稀である。


 夜、彼女はいつものように眠った。両親とともに。

 身体は少女の意思を離れて久しい。腹の奥からせり上がる顫動が止むことはない。意味を持たぬ呻きの隙間を縫って、彼女はいつものように唱えた。

「在るものは在るように在り、在るであろうように在るであろう」と。


 修行中の少女マルガリティアは、3日という()()()()()()()を経て、立派な祭司(アポリア)となった。

 最もそう在ってほしくない状況において、それがそう在ることを受け入れたのだ。気の遠くなるほどに果てしない3日のうちに。

 かつて父であり母であった肉体。閉じられた瞼の継ぎ目。そこに一筋微かに蠢く極小の虫群さえ彼女は眺め続けた。


 祭司(アポリア)マルガリティアは「受け入れる」とはなにかを実地で学んだ。”受容”がどのようなものであるかを知る者にとって、それを拒否する者の存在を見分けるのは容易なことだった。

 ゆえに”受け入れぬ者”リュクルスとの旅は、まさに喜びに満ちたものであった。拒否から受容へ至る過程——つまり彼女がつい先頃体験したのと同じ道を男は歩み続けていた。男が受容に到ったとき、彼女は素晴らしい果実を得ることになる。

 同胞、という。


 マルガリティアは心得ていた。男を巧みに刺激し、誘導した。計算などない。その都度時宜にかなった言葉が半ば自動的に口を衝いて出る。

 男が自分を害さぬことは分かっていた。ラケディアの戦士であることを無邪気に誇り力を振るう段階は、2人が出会ったときには既に通り過ぎていたはずだ。邂逅の初めからリュクルスの心内には疑念の種があった。それを彼女は見抜いていた。

 ゆえに彼女は堂々と、ある種の信頼をもって彼に対した。果たして男は信頼に応えた。彼は女を害さず、代わりに自分を害し続けた。虚飾が剥がれ落ちていく様は愉快である。

 彼女の中に最初存在した心地よさ——憎きラケディアの男が苦しむ様を眺める愉悦——はいつしか消え去った。世界はそう在るように在ったのである。

「物語」はラケディアをして少女の全てを奪わしめたが、その代わりに1人の立派な男を贈ってくれたのだ。


 しかし今、その男、()()()()()であるはずの男が去ろうとしている。人の身では決して届かぬところへ。さらに悪いことに、ほとんど残滓となった滑稽な虚構を後生大事に抱えて。

 それはマルガリティアにとって、断じて()()()()()()()()ことであった。





 ◆





「マルガリティア。マヌ神に誓って言おう。おれは何もしていない。ただ、おれの存在はラケディアの勢威を弱める可能性があった。それだけだ。つまり、おれは不名誉な意思を持たず卑劣な行いもしなかった」


 リュクルスは胸を張り、誇らしげに高らかに述べる。彼は意思において邪悪ではなかった。意思においてラケディアを裏切らなかった。それこそが彼の存在のより所であった。今の彼に残されたのはそれだけだった。


「あなたの存在? 立派なラケディアの戦士様なのに」

「おれの存在には欠陥がある。欠陥を持つ者は”共同体”に含まれるべきではない」


 事ここに到りリュクルスは告白する。指呼の間に死を捉えて。

 死に臨んでの卑怯な振る舞いは許されない。それは下劣な意思を持ったことの証であり市民の名誉を汚すものだ。しかし存在そのものに含まれる欠陥は彼の意思を超える。ラケディアにとって有害であれど、それは恥ではない。


(やまい)、ですか?」

「似たようなものだ。——声が聞こえる。日がな一日、絶え間なく」


 マルガリティアは息を飲み、しばし口を噤んだ。身体を締め付ける腕の強さに辟易した子羊(アルカン)の甲高い叫びを無視して。

 沈黙は長く続いた。


「リュクルス。それは幻聴のようなものです。わたしも時々お母様の声が頭の中に浮かんでくることがありますから」

「ならばどれほどよかったことか。おれは耳から聞こえるんだ。耳元で囁かれている。いつも。——マルガリティア、つまり、おれは気狂いだ」

「本当に?」


 男は小さく頷いた。

 彼にとって話はそれで終わりだった。

 行くべき場所があり理由もある。甚だ弱った心を騙すに足る程度の。

 そしてなによりも、魔物の兄妹が起き出してくる前に出発したかった。


 リュクルスの歩みを止めたのは、またしても少女であった。ただし今度は石礫によってではない。その身体によって。


 彼は背後からマルガリティアに抱きつかれていた。

 急に地面に放り出されたアルカンは、迷惑千万といった風情で2人を見上げ、一つ抗議の鳴き声を上げた。


「リュクルス、リュクルス。あなたは気狂いではありません。その声はまさに神のものです! イリスの民にもかつて声を聴いた方がいました。…声に従え、と、聖句典はそう伝えています」


 背に接して発せられた女の言葉は、音よりもむしろ振動としてリュクルスの元に届いた。あるいは身体こそが震源であったかもしれない。


「彼らは声を聴き、声の命ずるままにイリスの民を導きました。声がその方々に力を与えたんです。…わたしたちはそれを”引力”と呼びます。人々を引きつけ、率いる力です」


 背後から自身の胴に回された腕。その先に付いた女の小さな手を彼は見下ろしていた。


 余りにも惨めなことに思われた。

 ラケディア、麗しの都の市民が隷民の娘に抱きつかれ、下等な迷信によって慰められている。自身の身の上を嘆ずるにこれ以上の光景はない。


 ——かつておれの腹を抱いたのはエイレーネだった。美しい市民の娘であるはずだった。それが今ではこの有様だ。


 心中の呟きを口に出すことはない。想いと裏腹に青年は熱を感じていた。女の掌が放つそれを不快とは感じなかった。否、確かに心地よさがあった。


 だが、発した言葉は至極冷ややかなものである。


「気狂いの世迷い言だ。——怪しげな力。理屈に合わぬ力。ラケディアの()()()()()で表現するならば、それは…()()とでも名付けるところだろう」

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ユニウスも人を引き付けるモノを持ってたし…この世界に魔力は実在するんだろうか?
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