魔物 1
月明かりは一行を導かない。か細いそれは木々の天蓋に弾かれてしまう。
よって光源を持たない彼らが目的地に辿り着くことができたのは、ゲルダの優れた夜目と単純に距離の近さゆえであった。
少女の先導に従い日没と争うように歩いた彼らはついに樹木の緞帳を抜けた。
水流の音がリュクルスの耳を満たす。
覆いを失った川辺はまだ弱い月光を、あるいは星の瞬きを貪欲に飲み込んでいる。ゆえに人は視ることができる。
小川というにはいささか川幅が大きいそれは、天然の迷宮と呼んで差し支えない緑壁において唯一、ある程度の直行が可能な道を左右に備えている。細かい礫岩に覆われたところ。川に沿って走る縁である。
「上へ」
ゲルダは振り返り、後続の2人にそう声を掛けると再び歩き出した。視線のうちに先を行く羊を捉えながら。
”導き手”は見事な行軍を為した。彼は自身が率いる”群れ”を確認し、逸れぬように歩を進める。羊にとって地面の雑草はごちそうである。にもかかわらず脇目も振らず歩いた。その様はまさに誇り高いラケディアの市民の振るまいだ。肉の快に惑わされず、目的のために生きる。
上。
川の上流へ向かう道すがら、リュクルスはそんなことを考えた。”執政官”の白い毛並みは弱光にもよく映える。実際のところ、森の夜に慣れぬリュクルスとマルガリティアにとって、それはある種の目印として機能した。
——まさに”執政官”の名に相応しい。”隊列”を堅固に導く。
脳裏に浮かぶその台詞は青年の心内を如実に表す。
端的に述べるならば心細さ。
側に1人、目前に1人の女がいる。そして自身の背には1人の男が乗っている。人に囲まれながらも彼は感じている。寂しさと近しい感情を。
——まともなのはあいつとおれだけだ。
◆
枝組の簡素な屋根を木々の間に渡した場所を「住処」と称したゲルダの姿に、リュクルスは人ならば誰もが生来持つ感情——他者への憐憫を抱いた。ラケディア市民を父に持ちながら魔物まがいの生活を強いられた兄弟の存在は、この世に存するあらゆる不幸の中でもとびきりのものである。
人が魔物に混じって生きるなど。
「きみたちの父の名を教えてくれ」
大きな荷物——ゲルギウスを地に横たえ河原で火をおこし終えた頃合いを見計らってリュクルスは問う。
兄妹を見る限り素材としては悪くない。兄の方は比較的大柄な彼を凌ぐほどの巨躯。妹は素早い身のこなしと度胸。ラケディアは彼らを受け入れるだろう。
ただし忌々しい顔の刺青は消さねばならない。深く皮膚を抉り肉を削ぐ必要があるだろう。
「ガイオン」
「——ガイオン。残念ながらおれは知らない。父上はなぜ緑壁に? 理由を聞いているか」
「父は…あれと一緒に来た」
ゲルダが指さす先にはアルカン。マルグリティアに寄り添い丸くなる羊の姿があった。
「…燔祭の遣いか」
意外な答えである。
兄妹は物心つかぬ頃、何らかの理由でラケディアの戦士——それは父かもしれず母かもしれず、あるいは他者たる僚友かもしれない——とともに緑壁に迷い込み、運悪く魔物の手に落ちた。彼は当初そう予測していた。
ゲルギウスが身につけた戦装束は同行したラケディアの戦士、恐らく父から譲り受けたものであると考えれば、その使い込まれた風情にも説明が付く。
当然のことながら疑問はいくつもある。
まず、ラケディアにおいて10の歳以前に都を離れる者はいない。次に、10の歳以前の子どもが”間引き”に同行するなどありえない。そして最後に、魔物たちが彼らを生かしている。食わずに。
だが、幾多の謎を秘めてなお、その予測以外にはなかろうと考えていた。
「燔祭の遣いに子を持つ者が選ばれることはないはずだが。加えてその子を同行させるなど」
ラケディア、麗しの都において子は最も貴重な資源である。ゆえに子を殺めることは最大の禁忌である。ただし、その子がラケディアへの奉仕を行う能力を持たぬとみなされた場合を除いて。
——つまりこの2人は何か「障り」を持つということか。同胞ガイオンは自身を処理するついでに、2体の不適格児をも処理する命を受けたと。ならば運良く生き延びたとてラケディアは彼らを受け入れまい。
リュクルスの心内に起こるさざ波は同情と極めて近しい何かである。1月前であれば決して抱くはずのなかったもの。ラケディアに益をもたらさぬ者は存在すべきではない。そう考え、一顧だにしなかったはずの者たち。
今、彼は確かに彼らに同情していた。
彼らは字義通りリュクルスの現在の僚友である。
ラケディアにとって無益な者として。
「ゲルダとゲルギウスは…ここで生まれた」
黙り込んだ青年の顔を眺める少女の視線は控えめながらも気遣いを含んでいた。深刻な表情を浮かべた彼に対して。
川水で顔と首筋を洗い流したゲルダの肌は焚き火の暖光に照らされて、少し赤みを帯びて輝いていた。目元に走る二本の刺青と共に。
「では母の名は?」
男女揃って燔祭に向かうなどありえない。
供犠の遣いは身寄りのない偉大な老戦士に与えられる栄誉である。ラケディアにおいて、男の偉大さは戦における振る舞いによって、女の偉大さは成した子の数と質によって測られる。
ゆえに女の遣いは論理的に存在しえない。燔祭の遣いに足る偉大さを示した女は確実に子を持っている。子を成せぬ女はラケディアに益のない存在である。つまり、老いを待たずに処理されているはずなのだ。子を全員失い、もはや新たな子を産めぬ歳に達した女は偉大な女ではない。子が全員が亡くなるとはつまり、産んだ数が少なかったということである。
「スィケィ」
少女の簡素な返答をリュクルスの耳は捉えきれない。音は届けど意味を成さない。
「スィケィ? それは?」
「母の名」
「同胞たるきみにこのような事を述べるのは無礼かもしれないが、きみの言葉からは少し訛りを感じる。シルケア、あるいはシルカ。それが正しい発音だろう」
昼下がり、少女がリュクルスに叫んだ「ラキディ」の語もまた訛りである。この少女ゲルダがラケディアの正しい言葉を使えぬことは状況を鑑みれば致し方ない。
これほどに悲惨な身の上があろうか。光輝ある市民の子が幼くして魔物に攫われ、汚らわしい刺青を刻まれ、あげくに言葉まで半ば奪われている。
——あるいは彼らは処理されていた方が幸せだった。そうであったならば、このような恥辱の中で生きることも…
思考は少女の言によって中断を余儀なくされた。それは怒気すら含む断固たるもの。
「違う。名はスィケィ。それが名!」
「すまない。無礼だった。だが、ラケディアの女はそのような名を持たない。だから正しい呼び方を…」
「母は違う。ラキディではない」
「では何だ。——まさか隷民か?」
リュクルスは予め頭の隅にその可能性を潜ませていた。極めて不本意にして不愉快ながら。
遣いの道中、肉の欲に駆られた戦士が適当な隷民の女を胎ませ、そのまま緑壁まで連れてきたという可能性。まさかそのようなことはあるまいと一笑に付した選択肢だ。
麗しの都において名を讃えられ神聖な遣いを任されるほどの市民が、穢らわしい隷民女に子種をくれてやるなど信じがたいことである。それは3重に嫌悪すべきことだ。
肉の欲を抑えられぬという失態、それを隷民などで解消した愚劣。最後に、その女の胎に子を宿さしめた背信。
よってゲルダの言葉が真実であれば、父ガイオンとやらは唾棄すべき男の評価を免れない。
「母は奴隷ではない」
「それは良かった。きみの父上の名誉のために。母が従民であるならばまだよい。彼らは元を辿ればラケディアの者なのだから」
リュクルスは努めて明朗にそう返した。
従民とつがうなど嫌悪を催す行為だが、その本心を伝えれば眼前の少女は落ち込むかもしれない。自身の劣った血に気づいてしまう。
成り行きとはいえ緑壁——敵地の中で連れ合う者である。少女の哀れな身の上を指摘することを彼は敢えて避けた。
リュクルスは善い心根を持つ優しい青年なのだから。
「奴隷ではない。母はヒューレ」
ゲルダの態度もまた明瞭であった。青年の心中など推し量る術もない。彼女は自身の感覚を気負うことなく表現する。
ヒューレ。そう言いながら自身を指さし、兄を指し、最後に彼方を指した。
つまり、森を。
男の沈黙は長い。兜を脱いだ素顔はその怪訝な表情を隠すものを持たない。彼は少女の黒い瞳をじっと見つめていた。
膠着状態を破ったのは果たしてもう一人の女だった。
「戦士様、何のお話を?」
「ゲルダにその父の名を聞いていた。——ところで彼は落ち着いたか」
「どちらの? アルカン? それとももう一人の戦士様ですか?」
「ラケディアの戦士だ」
「でしたら、呼吸も少し落ち着いて眠りに入られました。腕の傷はもう出血していませんから、後は体力次第ですね」
ゲルギウスの右上腕には斜めに傷——おそらくは刀創——が入っていた。凝血により赤黒く盛り上がったそれは長さ深さともに大したことはない。だが位置が悪い。リュクルスは「住処」に辿り着いて早々”僚友”の手足を確認し、状況を即座に理解していた。これでは剣の持ち手に力が入るまい、と。
敵の腕を”削る”のは個対個の戦いにおける常道である。左手の円盾を使いこなせない未熟な者はそれを防げず、結果死に到る。いかに立派な鉄兜と厚皮の胸甲で身を守ろうと、剣をまともに握れねば敗北は時間の問題だった。
不幸にしてその状態に到ったとき、取り得る手段は一つしかない。逃走である。
ラケディアの法は戦場におけるそれを厳禁する一方で、1対1の戦いにおいては容認する。場合によっては推奨さえする。形勢不利とみれば一度撤退し、機を見て復讐を遂げるのは恥ずべきことではない。目的を達するための「戦術」である。
戦場においても目的を達するために”隊列”を後退させることは認められている。ただし、その判断は司令官に委ねられる。ゆえに司令官、ひいては彼を任じたラケディアに服従すべき戦士の個人的判断は許容されない。しかし個人間の戦いにおいて、戦士の司令官は戦士自身であるのだから、そこには裁量の余地があった。
「それはよい。ゲルギウスはよい判断をした。恐らく即座に。ラケディア、麗しの都の市民に相応しい戦い方だ」
アポリアの名を冠する少女は、しかしリュクルスが見せた不自然な態度を見逃さない。妙に力強く、妙に長く、妙に明るいその声は、平静の青年に相応しくないものに感じられた。
「それで戦士様、そのお父様はなんとおっしゃる方なのですか?」
「——ガイオン、と。燔祭の遣いとしてここに派遣されたそうだ」
「そうなのですね。——ところで戦士様」
青い瞳を輝かせて女は言葉を続ける。楽しげに。
「この方はなぜ魔物のような格好をしていらっしゃるのでしょう? 光輝あるラケディアの戦士様が」
リュクルスとアポリアの問答を間近で聞きながら、ゲルダの目は川辺と森の境、仮の住居に注がれる。そこには兄と子羊がいる。アポリアの不在を埋めるべく、アルカンは寝入るゲルギウスの側で丸くなっていた。
「——それは分からない。ゲルダの言葉は少々訛っていて、おれには…」
「ゲルダは明らかに告げた」
青年の曖昧な声色を断ち切るゲルダの言葉には少量ながら苛立ちが感じられる。
「わたしにも教えてくださいますか? 戦士様」
戦士様。アポリアはゲルダにそう呼びかける。艶やかな笑顔を浮かべながら。
「ゲルダとゲルギウスはガイオンの子。そしてスィケィの子。我々はラキディとヒューレの子」
「ヒューレとはなんですか?」
先刻同じ事を問われたばかりのゲルダは、またか、とばかりに豊かな巻き毛をかき上げ、遠く森の彼方を指さした。
「つまり、ヒューレの民、ということでしょうか」
「そうだ」
「ではわたしと同じですね。わたしはマルガリティア。イリスの民の娘です」
「父はラキディの?」
「いいえ。父も母もイリスの」
背丈も年齢も近しい少女2人だが、その容姿の差異は想像以上に大きい。マルガリティアが金の髪と青い双眸ゆえに白ならば、黒髪黒目を備えたゲルダは明確に黒。焚き火の色づいた光の下においてさえ白と黒は揺るがない。
ただし、リュクルスにとって彼女達はほとんど同一の存在とすら感じられた。
謎めいている。その一点において。
マルガリティアが秘めた謎は神意ゆえと理解できる。だが、ゲルダのそれは全く意味が分からない。
「つまりゲルダ様は、ラケディアの戦士様と魔物の混ざりものなんですね」
否、意味は分かっていた。分かってなお、それを受け入れなかったに過ぎない。
麗しの都の市民と魔物がつがい、子をなすなどと。
それは嫌悪を通り越し、もはや恐怖ともいえる感情を青年に想起せしめた。
ラケディア市民と魔物の子。
「そう。マルガリティは正しい。賢い」
それにひきかえ、とでも言いたげにゲルダはリュクルスに一瞥をくれると、兄の横たわる「住処」に歩み去った。
◆
残された青年と女はしばし無言で見つめ合う。先に口を開いたのは男の方である。
「おまえは理解できるのか?」
「はい。何か難しいことがありましたか、リュクルス」
彼は女の得意げな笑みをこれまで何度も見てきた。自身に向けられた嘲弄の。
「ありえないことだ。光輝あるラケディアの市民と魔物がつがうなど。おまえは羊とつがい子をなせるか? それと変わらない」
「そうでしょうか? あなたとアルカンの違いは分かります。あなたはすべすべでアルカンはもこもこですね。でも、あなたとゲルダさんのお兄様の違いは分かりません。どちらもラケディアの戦士様です」
リュクルスが女と会話するとき深い心労を覚えるのは、望まぬ自制を強いられるがゆえだ。ともすると怒鳴りつけそうになる自分を強く戒めなければならない。いきり立って吠える姿はマルガリティアを喜ばせるだけと分かっているがゆえに。
彼女は思うだろう。
——偉大なるラケディアの戦士様が小娘のちっぽけな一言にむきになっている、と。
「違いはある。明らかだ。魔物の血を引くなど。それはつまり人ではないということだろう」
「わたしも昔はそう思っていました。姿形も違う、腕が4本あって、狼のような顔をした怖い生き物なのだと。見たことがありませんでしたから。でも、ゲルダさんが魔物だというのなら、その違いが分かりません。どこが違うのですか? あなたとあの方達の」
「——魔物は言葉を解さない。恥ずべき文様を肌に刻んでいる」
青年の言葉には意思がなかった。それは与えられた言葉だ。彼は注がれた水を他に注ぐだけのちっぽけな水差しに過ぎない。
——石の如きリュクルス! 皆が讃える! ラケディア、麗しの都の子!
「声」は跳ねるように、歌うように頭蓋の中を走り回る。悪意をもって。
「ゲルダさんとはお話が出来ました。文様、あの赤い染みが分けるのですか? 人と魔物を」
「そうだ」
「でも、あれは生まれた後に入れるものですね。リュクルス、わたしは単純に分かりません。——模様が刻まれる前のあの人達は人ですか? 魔物ですか?」
リュクルスの呼気は長く、大きく、川辺の大気を貪り尽くさんばかりの貪欲さであった。そして彼は静かに吐き出す。長く、大きく。胸中の炎を排出せんと。
「魔物は神を信じない」
「お聞きになりましたか? ご本人に」
「聞かずとも分かる」
「なぜです?」
「もしあれらを嘉したもう神がいらっしゃるならば、その方はきっと魔物どもを正しく導かれただろう」
マルガリティアの笑いは常になく嘲りが少ない。それは失笑であった。
「少なくともゲルダさんは導いてくれましたね。水場に。わたしたちを助けてくれました」
「騙したのだ。卑劣にも。——おれはやつらを同胞と勘違いした。やつらはおれにそう錯覚させた。ラケディアの市民を装った。もし真実を知っていればあの場で確実に仕留めていただろう。醜悪な魔物の混ざりものが…」
少女は遮る。軽やかに、歌うように。
「リュクルス、リュクルス。なぜ騙されたんですか? 人と魔物は人と羊ほどに違うはずなのに。——違いは明らかなはずなのに。一目で分かるはずなのに」