緑壁 3
「ラキディ! ラキディ!」
それは彼が慣れ親しんだ”魔物”の不快な叫びとは明らかに異なる輪郭を持つ。先ほどまで敵意を辛うじて保持していた小柄な”魔物”は、今や自身の運命を悟り抵抗を止めていた。”それ”は短刀すら放り出し”僚友”の胸元に小さな身体を覆い被せている。
幼生体を守ろうとする雌の成体が時折このような態度を示す。リュクルスにとって見慣れた光景。ゆえに何の感慨も覚えない。ラケディアの戦士として成すべき事は定まっているからだ。
常と異なる点はただ一つ。些細な、しかし決定的なものである。
「”ラケディア”と?」
足下で彼に背を見せる無防備な”魔物”に彼は問いを発する。
”それ”が見せた動きが他の仕草であれば、彼が止まることは一切なかったであろう。突飛な行動を示して敵の意識を散らすのは窮地における常道の一つである。
しかしそれが人の「言葉」となれば話は変わる。
ラケディアの戦士が”魔物”を判別する徴は2点。その身体に入った幾何学模様の刺青と「言葉」である。
服装は当てにならない。ラケディア市民とて冬の防寒具として毛皮を纏うことはある。その多くは身体の弱った老人か、あるいは子を孕んだ女であるが、いずれにしてもあり得ることだ。
容姿もまた決め手とはならない。白い肌、浅黒い肌、黒目、青目、茶髪、金髪、黒髪。いずれも同胞と変わりない。
だが、ラケディア、麗しの都の市民が身体に刺青を入れることは決してない。はるか昔、戦場で臆した者の顔に刺青を入れる刑罰があったとも伝わるが、”不磨の法”は光輝ある都市の誇りを損なう醜悪な風習としてそれを厳禁した。
加えて「言葉」である。
”魔物”は言語を解さず、また操らない。獣同様の鳴き声を発するのみ。がさついた汚らしい音の連なり。人が話す流麗な旋律のごとき「言葉」とは似ても似つかぬ雑音である。
ゆえに刺青と鳴き声は”魔物”の印であった。
——ラキディ?
それは「言葉」だ。「言葉」に極めて近い。彼が慣れ親しんだ、人の。
再び混沌が脳内を満たす。”魔物”が人の言葉を発するなどありえないことだ。しかし、男の剣が振り下ろされるのを待つばかりの”魔物”は確かにそう言った。
あるいは何らかの偶然によって、末期の鳴き声が「意味ある言葉」に似たのかもしれない。”魔物”が喋るなどという不可思議を受け入れるよりも、その推測の方がよほど真っ当なものに思われる。
しかし、彼の耳にもたらされた次の「音」は、思い違いの疑念を払拭するに相応しい決定的なものだった。
枯れきった低い男声。大柄な”魔物”——瀕死と見える”それ”がそれを発した。
「……ディア、うるわし…の…」
”ラケディア、麗しの
永久に、栄あれ
エウロイ川が西へ流れを変える曲点に見事な白亜の都市を築き上げたアルトクレス。自身の愛し子たる建国の王に対しマヌ神が祝福と共に与えた言葉。
”不磨の法”冒頭に掲げられたそれはラケディア市民の誇りであり、市民以外の者が唱えることは決して許されない。
「きみは、ラケディアの市民か?」
依然剣を握りしめたままリュクルスは尋ねる。この時、彼の戦意は既に収まりつつあった。理屈に合わぬことばかりの状況だが、それら全てを無視するに値する行いを足下の男は為したのだ。
重い瞼を押し上げて男の黒い瞳が姿を現す。
そして口が微かに開かれた。ひび割れた唇は赤黒い。
「…市民の子…」
「我が名はテセウスの子リュクルス。きみが市民の子であるならば、おれも市民の子だ。僚友よ。なぜ”魔物”などとともに?」
男の年の頃はリュクルスと大差はない。つまり青年である。
「魔物…ではない」
「ではなんだ」
”魔物”はその手に落ちた獲物を巣に持ち帰り食うという。実際に見たことはないがリュクルスはそう聞かされてきた。
今、僚友の胸にしがみつくこの小さな”魔物”は仕留めた獲物を逃すまいと意図しているのか。しかしそれも道理に合わぬことと思われた。
——食べるための餌を守るに自分の命をもってする? 命をつなぐ物のために命を捨てる? 全く以て無意味だ。
彼の疑問はすぐに解決された。
「…ゲルダ。私の妹」
◆
初夏の夕暮れは長い、しかし度を超せば闇に包まれる。獣の時間がやってくる。
緑壁の初日が終わろうとしている。
当初リュクルスは小川の探索を計画していた。土地勘なく入り込んだ森の中で安全を確保するなど不可能であると理解している。ならばせめて飲み水を確保しやすいところに位置するのが望ましかった。水場には様々な動物が現れる。中には獰猛な肉食のものも混じっているだろう。しかし気にしたところで無意味だ。
どこにいても安全などないのだから。
彼の杜撰な、あるいは投げやりな目論見は得体の知れぬ兄妹との遭遇によって呆気なく崩れ去った。
よってこの「異界」への不用意な侵入者たちを導いたのは、小柄な魔物に扮した少女に他ならない。
「ゲルダは…おまえたちを招く。ゲルギウスをおまえが運ぶならば」
抑揚のないささくれだった発音と節の途切れは、少女が「言葉」をしゃべり慣れていないことを示唆している。
”おまえたち”の語はゲルダがマルガリティアの存在を知覚していたことを表している。リュクルスとマルガリティアを比べたとき、与しやすいのは明らかに女の方。にも関わらずゲルダは迷うことなくリュクルスを襲った。
つまり兄を守るための無我夢中の行動である。そう彼に信じさせる根拠の一つとなった。
少女の面持ちは兄のそれと確かに似通っていた。
肩まで無秩序に伸びた黒い巻き毛と漆黒の瞳は両者の血縁を分かりやすく示す。男女を分けるのは輪郭である。余分な肉を纏わずとも、やはり少女の頬は兄に比して丸みを帯びていた。
女の。
「ゲルギウスとはこの男のことか」
「そう」
「念のため尋ねる。この男の言は真実か? おまえたちの父はラケディアの市民であると」
「正しい。父はラキディの男」
「ならばきみの兄はおれが運ぼう。ラケディアの市民は決して僚友を捨て置かない」
話がまとまったところで、彼は木陰に身を隠す同行の女を呼ぼうと抑えた声を投げた。しかし期待した返答はない。
即座に走り寄り木陰を伺うと、果たしてそこには女がいた。
円盾の中にすっぽりと身体を収め、木の根の狭間に背を預け、かすかな寝息を立てている。
「起きろ、マルガリティア。行くぞ」
盾を揺すり起こす。
一瞬の間を置いて女の両目が薄ら開いた。しかし明らかに意識はふやけたまま、視線は焦点を持たない。
「寝ていたのか」
「…え?」
「この状況でよくも眠れる。素晴らしいことだ」
彼は敢えて口にした。紛れもない本音である。
状況が自己の力を明らかに越えたとき、最善の行動は身体を休めることだ。
実際のところ、リュクルスの戦いに彼女の存在は価値を持たない。
敵がラケディアの戦士を圧倒するほどの手練れであった場合、戦の経験を持たぬ貧弱な女が無闇に槍を振り回したところで結末は目に見えている。
リュクルスが勝利した場合、その時点で彼女の安全は保証される。
第三の場合。伏兵に襲われたならば抵抗は難しい。いかに卓越した戦士といえども、正面の敵とやり合いながら背後に離れた女を助ける術は持たない。結果リュクルスの戦いが終わる前に彼女は死ぬ。あるいは攫われる。
ならばじっと佇むより他はない。それが結論である。
マルガリティアが意図的に睡眠を選んだとは思われないが、期せずして彼女は正しい行動をとった。
——素晴らしい女だ。死を前にして度胸がある。
ラケディア熟練の戦士であっても戦前夜に安眠できる者は少ない。
そんなリュクルスの密かな敬意など知るよしもなく、少女は目元を両手でこすり口ごもる。
「いいえ、眠ってなど。これは…」
「咎めてはいない。立てるのなら立て。話がまとまった」
彼は言い放ったきり二の句も聞かず兄妹の元へ歩み出した。
子羊を捕まえておかなければならない。再び見失うことがないように。
「リュクルス? 信じていませんね? わたしは眠ってなど! リュクルス」
マルガリティアはあわてて男の後を追った。抗議の声をその背に投げかけながら。
◆
自身よりも一回り大きいゲルギウスの身体を、しかしリュクルスは難なく背負った。
槍と円盾はマルガリティアが持つ。体格には不似合いな武装だが、当の少女はこれまで常にそうであったように堂々と男の傍らを歩く。
2人の数歩前を進むゲルダも同様に兄の兜をかぶり、盾を背負い、剣を提げていた。脱力した荷物の重量をできる限り軽減しようと剥がせるもの全て剥いだ結果である。
栄えある”隊列”の先陣を切るのはアルカン。
後ろ足と一体化した尻が軽やかに揺れる。意気揚々と、憂いを微塵も感じさせぬ見事な歩みだった。
ゲルダは近くの水場沿いに拵えた仮の住処に彼らを招くという。
ゲルギウスの昏倒とゲルダの動きの原因は何か。さらに、より根本的な問い——なぜラケディア市民の子が”魔物”に扮するのか。尋ねたいことは山のようにあるが、リュクルスはあえて何も言わずに従った。
数週間前、リュクルスを取り巻く世界は明瞭であった。忌々しい「声」の闖入を経てなお透明であった。
生の目的は明白であり、逆算したところに取るべき行動が疑いようもなく示されていた。同等の僚友がいた。”初のつがい”をなすはずの女もいた。
パレイオス。エイレーネ。
その名は10年以上に渡り彼と共にあった。にもかかわらず、緑壁の薄闇を歩く最中、名もまた薄らいでいく。
——同族殺しのリュクルス! 卑劣なリュクルス! ラケディアを汚す者!
「声」だけが不変の友であり続ける。
敬服すべき勤勉さで絶えず彼の不安を暴きだす。
リュクルスはこれまで数えきれぬほどの「間引き」をこなしてきた。ラケディアへの奉仕として。
仕事の際、対象の中に「人」が混じっているなどとは一毫ほども考えなかった。当然のことだ。
”魔物”か「人」かなど、一目で分かるのだから。
意識の下に押し込めた”疑念”を声は探し当てる。
——この”兄妹”の有様がよくあることならば、あるいはおれはそれと気づかず同胞を殺めたかもしれない。おれは確かめなかった。
それこそがつまり、彼がゲルダを問いただせぬ理由であった。
「リュクルス?」
「なんだ」
「重たいですか? その方は」
マルガリティアの単純な問いに彼は答えない。
だが、少女は男の卑怯な無言を許さない。
「ねぇ、重たいですか?」
女は下から彼の顔を覗き込む。労苦を労るように。そして嘲笑うように。彼にはそう思われた。
マルガリティアの青い瞳は、縦に伸び細まった猫の瞳孔とすら感じられる。獲物をじわじわ甚振る猫の。
「重くはない」
努めて平静を装い短く言葉を返す。
「さすがですね。——それでこそラケディアの戦士様」
少女の台詞は容赦なく男の臓腑を抉る。狙い澄ました短刀の一撃。巨大な荷物を背負った彼に逃げ場はない。
「何を言いたい」
「何も。ただ、わたしはあなたの身を案じているんです」
「その必要はない」
リュクルスにとって不幸なことに、少女——マルガリティアは虚勢の匂いに敏感だった。
「いいえ。絶対に必要です。あなたを気にかける存在が」
「それも”名もなき御方”の教えというわけか」
「はい。神は常にわたしたちを気にかけてくださいます」
怒りにまかせて一喝することは造作ないが、その道を選んだときリュクルスの敗北は決する。恫喝とは理屈において勝てぬがゆえの行為である。よって彼は受け流すよりほかになかった。
「おまえの神はとてもお優しい方だな。だが、おまえたちを救ってはくださらないようだ」
アポリア——祭司の娘は小さく声を上げ笑った。
「救いなど必要ありません。——そう在るように定められているのですから。気にかけていただくだけで十分です」