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ラケディア、麗しの  作者: 本条謙太郞
第2章 リュクルスのケイデーへの旅
11/24

緑壁 2

 幸不幸は常に(あざな)える。

 それはリュクルスと少女——マルガリティアにとっても例外ではありえない。アルカンが残した微かな(しるべ)を辿る追跡行が、濃度を増す緑の中に光る白い塊を発見したとき、そこにはやはり新たな問題の芽が顔を出していた。


 リュクルスは長槍を無言で女に預け、丸盾を背から下ろした。そして剣を抜く。すべては音もなく行われた。

 彼はマルガリティアを大木の陰に招く。指で地を指し、しゃがみ込むよう身振りで伝えた。アポリアの名を冠する少女はおとなしく指示に従った。彼女が難なく”聖句”を諳んじるのと同様、男は戦いに特化した存在であるのだから。


 ——海のものは海に、山のものは山に


 少女は口内に馴染みの一節を呟いた。それはイリスの民がかつて()を体験した事実のささやかな証である。

 人には適所がある。”聖句”はそう教える。今彼女にとって適所とは大きく根を張りだした巨木の陰であった。


 女から見れば巨体と表現して差し支えない、その分厚い体躯に似合わず、リュクルスの動きは俊敏なものだった。そして静かだった。地面の粘性をものともせず男は軽やかに進む。


 子羊(アルカン)は果たして無事だった。

 4本の足でしっかりと大地を踏みしめている。まだ短い尾が丸い尻を巻き込んで右に左に所在なく揺れていた。


 よって問題はその先にある。

 あるいは傍らに。


 アルカンの行動はリュクルスの目に慣れ親しんだものだ。

 子羊は人とみれば見境がない。それが親愛の印、あるいは挨拶の洗練された形態であると勘違いしているかのように、人の四肢に小さな額をねじ込でくる。

 このときアルカンは明らかに挨拶を繰り返していた。


 地に伏せる、()()()()()()()()に。





 ◆





 逡巡は一瞬のこと、幼時から染みついた用心の類いを全て投げ捨ててリュクルスは駆けた。死体の背に乗った青い丸盾と傍らに転がる剣は間違いなくラケディア市民のものである。


 ——”間引き”でしくじったか。


 緑壁周縁部に現れる”魔物”の多くは鍛え上げられたラケディアの戦士にとって脅威とはなりえない。1つの群れに属する個体数も10を越えることはなく、うち2,3はたいてい幼生体である。

 だが何事にも例外はある。

 群れに知恵の回る個体が混じっていた場合、面倒なことが起こる。”魔物”は逃走を装いながら戦士達をそれぞれ異なる方向に引き剥がし、森の奥へ誘い込むのだ。戦いの興奮の中で我を忘れた者は気づかぬうちに異境に足を踏み入れてしまう。そして帰らない。


 未熟ゆえの事故。

 リュクルスも幾度か耳にしたことがあった。彼はその度に、哀れな戦士が歩む死出の旅が安らかならんことをマヌ神に祈った。未熟はあれど卑怯はなかった。敵に背中を見せて死んだわけではない。ならばラケディア、麗しの都の市民に相応しい誇りの死だ。そう考えた。


 目の前に倒れ伏した戦士もまた、愚かしくはあるが勇敢な市民であったのだろう。

 彼は戦士の兜に額を擦り付ける子羊(アルカン)を少々邪険に追い払う。

 鈍く銀に輝く兜の側頭部、顎から頬を守る張り出しは幾多の傷と凹凸に溢れている。つまりそれは多くの戦を経験した歴戦の戦士の物だ。


 ——ならばなぜ?


 当然の疑問が湧き上がる。

 ”間引き”で死ぬ戦士は若年者が大半である。

 熟練の市民は命のやりとりがもたらす異常な血気を受け流す術を心得ている。戦において冷静であることはラケディア戦士の理想であるが、その境地に達するためには実戦経験を必要とする。それを持たぬ者は危ない。


 リュクルスが僚友達の敬意を集めた理由はここにある。彼は初陣において既にその理想を体現した。

 ゆえに彼は生まれながらの戦士、猛きマヌ神の愛し子と見なされたのだ。

 石の如きリュクルス。

 それはラケディアにおいて最高の賛辞であった。


 彼は()()の首裏に右腕を通し革製の肩当てを左手で掴むと、ゆっくりと手前に引き込んだ。

 未熟ゆえに斃れたとはいえラケディアの市民である。死体になったとて、天を睥睨し横たわるべきなのだ。地に顔を埋め朽ちる無様を放置しては僚友の誇りを汚すことになる。


 戦地で同胞に見守られながら死ぬことはラケディア市民の理想であった。

 図らずも理想に辿り着いた亡き”僚友”の姿がリュクルスの心中に冷めた思いを生み出す。


 ——この男は幸せだ。同胞たるラケディアの市民に見送られて。それに引き換え、おれは誰にも看取られない。この忌々しい魔物の住処で孤独に死ぬ。隷民女の死体の横で。


 ”常識”はそう簡単に抜けはしない。

 それは心身の最奥まで染みこんだものだ。彼はラケディアの市民であり、アポリアは隷民の女である。一方で、彼はリュクルスであり、彼女はマルガリティアでもある。かみ合わぬこと明らかな2つの意識が彼の中で混濁していた。

 だからだろうか、光輝ある市民の在り方にそぐわぬ愚痴が彼の集中を削いだがゆえだろうか。

 腕の中の”僚友”が発する微かな息づかいを察するのが遅れたのは。


 それに気づいたとき彼は努めて平静を装おうとした。しかし口は心に従わない。


「おい! ラケディアの同胞よ!」


 兜の鼻甲と頬甲が落とす影が戦士の顔を黒く塗りつぶしている。返事はない。ただ漏れる呼気だけがリュクルスの耳に届いた。

 それで十分だった。


「きみは立派に事を成した。ラケディア、麗しの都に奉仕した!」


 囁きながら兜の縁に手をかける。

 そして力の限り、それを取り去った。


 閉じた瞼の間を小ぶりな鼻が走る。土埃の汚れに覆われてなお、その肌の白さが分かる。

 兜が外れた勢いのままに、漆黒の巻き毛が宙を舞った。


 そしてリュクルスは見た。

 まだ年若い”同僚”の右の頬、眼窩の下から耳元にかけて走る指幅ほどの()()()。2本の。痣ではありえない幾何学的な。それはラケディアの戦士が「人」と「魔物」を区別するときに着目する2()()()()のうちの1つ。


 ——”魔物”!


 魔物がなぜ、光輝あるラケディア市民の戦装束を?!

 理解を拒む奇妙な状況に直面してなおリュクルスは動いた。

 彼の心身に染みこんだものは市民と隷民の別だけではありえない。市民にとって最も重要なこと。果断に、断固として事を為す姿勢である。

 混乱の最中にあってなお、リュクルスの身体は即座に動いた。それは反射に近い。

 傍らに置いた剣を拾い上げ、迷いなく”魔物”の首筋に狙いを付ける。


 切っ先の行く手は定まっていた。そこに意思は存在しない。身体が覚えている。彼の四肢は自動的に動いた。


「リュクルス! リュクルス!」


 刹那、森の暗がりを引き裂いて少女の声が耳を刺した。

 男は自己を取り戻す。身体の操縦権を奪い返す。

 ()()()()()()()


 振り返った彼の視界を占めたのは、黒い()と、その中心に鈍く光る短刀の切っ先であった。自身を穿とうと突き出された。





 ◆





 初撃の刺突を刀身中程にあてて受け流す。滑らかに。

 いなされた塊は僚友に()()()”魔物”の身体を飛び越えて地に転がる。

 中型の獣——狼、あるいは猪を思わせる動き。

 塊は即座に立ち上がり、中腰でリュクルスと対峙した。


 岩のごとき黒塊と思われたそれは”魔物”が身に纏う毛皮の色である。肩から腕を守る外套は分厚い木の葉を継いで作られている。頭部を覆う漆黒の長い巻き毛と合わせて、それは1個の塊を形成していた。目元の赤い二筋だけが闇の中に鮮烈な印象を残す。


 典型的な”魔物”の姿。

 彼は幾度も()()を処理してきた。成体も幼生体も。数えきれぬほどに。


 状況を把握できてしまえば焦りはない。

 リュクルスは敵の総身を視界に捉えたまま、捨て置いた丸盾を素早く拾い上げた。

 半身を覆う左の盾と自在に踊る右の剣。2つを揃えた彼は自身の勝利を確信した。ラケディアの戦士の。


 ただし、勝利はあくまでもリュクルスだけのものだ。

 大股で走れば数歩の距離で木陰に身を隠すアポリアと、獣の本能をどこかに置き忘れてきたとおぼしきアルカン——横たわる”魔物”の腹を飽きもせず額で小突く愚かな羊を保護しなければならない。

 新たな敵の出現も十分考えられる。だが、2、3体程度であれば何とかなる。

 羊か女、どちらかを諦めさえすれば。


 彼の理性は真っ当な結論を導いた。

 増援を仮定すれば目前の敵に集中するわけにはいかない。その貧弱な得物を見る限り、決着はすぐにつくだろう。しかし、その()()は伏兵が背後の女を攫う、あるいは殺すのに十分な猶予といえる。


 ゆえにリュクルスは後退を選んだ。

 女と子羊の両者を天秤にかけたとき、守りやすいのは明らかに女の方だ。少なくとも女は彼の指示を理解するだろう。そこに夾雑物は存在しない。予測しうる未来の中から最善を選択するべきである。


「アポリア。周りをよく見ておけ。動きがあれば知らせろ」

「はい。——戦士様」


 大木を挟んで背中合わせに男は囁いた。女もまた静かに返した。





 ◆





 互いの間合いを大きく外してリュクルスと”魔物”のにらみ合いは長く続いた。

 彼は一言も発することなく、掲げた盾の陰から敵の動きを観察する。

 心拍は平静を保つ。

 木々の背後に潜む他の”魔物”から矢を射かけられる可能性もあるが、少なくとも緑壁周縁部において、それほどに好戦的な個体と遭遇したことはない。これまでのところは。

 彼が処理してきた”魔物”のほとんどは短刀すらまともに使えぬ脆弱な個体ばかりだった。

 ”魔物”たちは恐らく戦闘に従事する個体と生産向けの個体に別たれている。

 指呼の間合いでにらみ合う個体は明らかに前者に属するものと彼は推測した。


 ——まるでラケディアのようではないか。


 これまで思いもしなかった()()()()()が不意に湧き上がる。

 彼はこれまで、そんなことを思いもしなかった。

 ラケディアのようだ、などとは。


 先に動いたのは”魔物”の方だった。

 胴体の黒い毛皮から伸びた二本の白い足を折り曲げて、地に横たわる()()の側に膝を付くと、その両脇に手を入れて引きずろうと動いた。


 敵前においてなされた無防備な行動が意味するところを彼は推し量ることができない。自身が伏兵を警戒するのと同様、相手もまた知っているはずだ。ラケディアの戦士が複数で動くことを。

 にもかかわらず、目前の”魔物”はリュクルスに注意を向けるのみ。通常の”間引き”であれば、背後に回り込んだ仲間が難なく2匹を処理するだろう。


 しかし意外なことに、対する敵はついにリュクルスへの最低限の意識すら手放してしまった。その視線は明らかに()()に注がれている。

 地に寝そべる大柄な肢体に比して、それを引きずり去ろうとする”魔物”は明らかに一回り小柄だった。

 脱力した身体は存外に重い。自己の体格を越えるそれを動かすのはなかなか骨の折れる作業だ。案の定、”魔物”の試みは遅遅として進まない。

 そして依然、我らが司令官(アルカン)は”魔物”の側を離れない。


 彼は決断した。


「アポリア」

「はい」

「これで身を隠せ」


 手にした円盾を背後に放る。可能性は低いが伏兵への備えである。

 ”魔物”どもをこのまま見逃すことはできない。1匹でも多くそれを仕留めることはラケディアに対する奉仕である。

 何よりも、ラケディア市民の身ぐるみを剥ぎ、その誇りたる戦装束を掠め取った邪悪な存在を生かしておくわけにはいかない。


 彼は地を蹴り踊り出た。戦場(いくさば)へ。

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あれ、まさか魔物ってただのにん……麗しの都に永久に栄えあれ!
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