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ラケディア、麗しの  作者: 本条謙太郞
第2章 リュクルスのケイデーへの旅
10/24

緑壁 1

「緑壁! なんてきれい!」


 アポリアの驚嘆を含んだ声が軽やかに跳ねた。


 男の背を幾重にも縦に連ねたよりもなお高く、木々はそそり立つ。地を疎らに覆う緑草は柔らかく、人の歩みを遮らない。今はまだ。

 それは果てしなく続く円柱に支えられた巨大な会堂に似ている。枝葉がかけた天然の屋根を通して初夏の陽光が不規則に降り注いだ。


 男の数歩先を歩く少女にとって、密生する低木の群れ以上のものを見るのはこれが初めてのこと。興味深そうに右へ左へ視線を飛ばす様はリュクルスの心内に意外な感情を想起せしめた。


 ——まるで何も知らぬ子どものようだ。


 ラケディアの戦士より幾ばくかの敬意を引き出すほどに堂々たる佇まいを見せたはずの女は、今や元気を持て余して路上で走り回る女児さながらに、あちらへこちらへ、前へ後ろへと動き続けていた。


「緑壁といってもここはまだ境界域だ。人の手が入っている」


 ペルピネの平原に蓋をするようにそそり立つ緑の壁——緑壁は、その周縁部に”人”の侵攻を許して久しい。近圏に点在する村の隷民達は大木を裁ち、運び、木材として加工する。それらは従民の都市、あるいはラケディアに貢納品として運び込まれる。ラケディアが良質な鉄器を領内でまかなうことが出来る理由の一端がそれであった。


「では、ここはまだ”人”の世界なんですね」


 両手を広げ少女は軽やかに一回転する。一瞬の日差しが金の髪を照らし、儚い光の輪を残した。


「日々”間引き”を行って何とか維持しているに過ぎない。それを止めればすぐにでも、ここは”魔物”どもの住処と化す」

「リュクルス様。果断なラケディアの戦士様。なぜそんな回りくどいことをするのですか?」


 アポリアの言に皮肉の色はない。単純に疑問を投げかけたに過ぎない。

 ペルピネのみならず世界にその名を轟かせる精強なラケディアの”隊列”ならば、”魔物”など一掃するのはたやすいのではないか、そう考えたのだ。


「”隊列”にとってこの森はおよそ最悪の戦場だ。”隊列”の強さは個々の市民の堅固な連帯によるものだが、この入り組んだ木々の元でそれが徒になる」


 4人からなる横列を縦に8つ並べて構成されるラケディアの”隊列”は、その優れた戦士育成の成果として圧倒的な推進力を誇る、いわば人の()である。敵と対する最前は一切の怯えと動揺を見せない。頑丈な刃のごときそれを、後列の戦士達が前へ前へと押し出していく。円盾の連なりから顔を出す幾多の長槍が、肉を圧し斬る牛刀のように、敵の脆弱な肢体を引き裂いていく。

 ペルピネ、あるいは世界において”隊列”に似た軍団を組織する都市は数多くあるが、ラケディアのそれに適うものは存在しない。

 ”隊列”の強さは縦列同士の信頼関係によっている。最前の兵士が一度でも臆病を感ずれば組織は一気に瓦解する。敵に背を見せ逃走を図る者にとって、後列は自分を死地に追いやる「敵」に等しい。横に逃れるか、あるいは逆進を試みるか。いずれにしても運動力は霧散してしまうだろう。

 ラケディアの”隊列”は縦と横の信頼を保ち続ける。隣を歩む戦士が卑劣な行いをするはずがないと信じる。前列は後列の支援を信じ、後列は前列の勇気を信じる。彼らは一つ屋根の下で暮らす仲間であり、ラケディア、麗しの都市において同等の市民であった。


 だが、ラケディアの精華ともいえる”隊列”はその堅固な連帯ゆえに、木の円柱にひっかかってしまう。32人の長槍を抱えた男達が纏まって動けるほどの空間はここには存在しない。

 ゆえにラケディアは「間引き」を選んだ。”隊列”から選抜された3名から5名の戦士達が”小隊列”を作り個々に”魔物”を処分していく。正規の”隊列”に加えられない女性もこの”小隊列”に属することはある。

 ラケディアは女に「戦士の母」たることを強く求めた。つまり敵を屠るとはどのようなことであるか、それを実感する者であることを、である。強い母体を育成するためであれば多少の非効率はやむを得ない。猛きマヌの都市はそう考えた。


 彼はふと、自身が行った最後の”間引き”を思い出した。あの時から半月も経たぬうちに彼が属する”小隊列”は驚くほど変わった。


 ——あのとき、おれの僚友は獅子の如きパレイオスと美しいエイレーネだった。それが今や、貧弱な隷民女と役立たずの子羊を引き連れている。いや、偉大な”執政官(アルカン)”に率いられた”小隊列”か。


 兜の下で口元を軽く歪める。青年には珍しい表情である。苦笑という。


 しかし、彼らの歩みはまさにその偉大な”導き手(アルカン)”によってかき乱されることとなった。


 常ならば2人の側を決して離れない子羊だが、その姿が見当たらない。


 つまりリュクルスはここ戦場において最悪の状況に陥ったといえる。

 軍の指令を発する”執政官(アルカン)”を見失うという。





 ◆





「リュクルス様、ほら、ここから続いています」


 途方に暮れたリュクルスを助けたのは不本意な”小隊列”の僚友アポリアだった。

 彼1人であれば到底不可能なことだ。アルカンが残した蹄の跡を発見するなど。

 剥き出しの大地に刻印されたハの字型の楕円を目にしたところで、それが羊の足跡であると青年には分からない。彼は家畜の蹄など興味を持ったこともなければ知る必要もなかった。彼はラケディアの戦士であった。


「よく見つけたな」

「わたしも時にはお役に立ちます」


 得意げに自身を見やるアポリアに、彼は知識の出所を尋ねたりはしなかった。必要を感じなかったがゆえに。そして、それを厭うたがゆえに。


 男の心内を見透かしたかのように、少女は静かに語りかけた。


「アルカンを抱き上げた時に、ときどき触っていたんです。すべすべして気持ちいいんですよ」

「あれは嫌がらなかったか?」

「多分。でも、嫌だったとしても仕方がありませんね。抱き上げられてしまったらもう逃げられません」


 またも当てこすりかと疑うが、男が観察する限り横を歩く少女の表情は歳相応のものだった。少し悪戯めいた笑み。


「あいつに与えられた”物語”というわけか」

「はい。わたしに抱き上げられてしまったらそれを受け入れるしかありません。かわいそうなアルカン」


 ——かわいそうなアルカン


 それは一つの旋律として脳内に響いた。彼は反芻する。かわいそうなアルカン、と。

 少女の言葉は存外に深く彼の意識に食い込んだ。


 つまるところ、燔祭の羊とは餞別である。

 共同体に貢献した戦士に与えられた最後の褒美、最後の食事なのだ。


 遣いに選ばれた戦士は緑壁に到り、その中で死ぬ。方角も定かならず水場も知れぬ森の中で、”魔物”どもの領域で、生き残ることは明らかに不可能だ。飢えがもたらす狂乱に至る手前、ラケディア市民としての誇りを保ちうる限界点において、戦士は()()を捌くのだろう。

 解体し、火をおこし、焼く。

 その香気は天に昇りマヌ神を喜ばせる。かくして使命は果たされる。ケイデーの山頂とはいかないが、ともかく羊を捧げたのだから。

 そして戦士は焼けた肉を食うだろう。それが最後の食事だ。次に為すことは恐らく自決である。


 全ては想像に過ぎない。だが、リュクルスは今まさにその過程を体験しているのだ。通常”間引きの仕事”では欠かすことのない帰還用の目印を彼は作らなかった。その旅に必要がないものであったからだ。

 緑壁に足を踏み入れる前、小規模な隷民の村を横目に彼はアポリアを解放しようとさえした。わざわざケイデーに赴かずとも、少女の言が戯れ言であればいずれ罰が下される。その場が山頂であるか、あるいは名もなき隷民の村であるか、ただそれだけのことだ。しかし、同族でもなく、痩せて子も産めそうにない女を生かしておく余裕は村にはないだろう。遅かれ早かれアポリアは死ぬ。


 果たして彼女は同行を選んだ。

「”そうあるように定められている”からか?」

 彼の無感動な問いに少女は答えた。

「はい。だって、わたしがそう決めたのですから、それは()()()()()()()ことになります」

 彼は何も言わなかった。


 アポリアはアルカンの足跡を辿り楽しげに歩く。弾む歩幅がそれを伝える。

 リュクルスは理解していた。その一歩一歩が生から遠ざかるものであると。

 緑壁に足を踏み入れた当初から、”目的”に到るための計画など何もなかった。

 だが、先刻までは一つの可能性があった。ラケディアの領域へ引き返しどこかの村に隠れ住むことができた。それは唾棄すべき行為、麗しの都と市民の誇りを捨てる行為である。彼の生が依って立つところのものを。

 彼がその選択肢を採用することはありえない。だが、少なくとも可能性は存在した。


 今、可能性は消失した。

 彼らは緑壁周縁部の中程に達しつつある。”間引き”においても滅多に足を踏み入れることはない深部。”円柱”の密度が目に見えて増している。


 ——かわいそうなアルカン。

 子羊の末路も定まった。リュクルスと少女が見つければ彼は食われる。うまく逃げおおせることができればつかの間の生を得る。しかしいずれは野垂れ死ぬ。同族もいない。野生の獣が彼をたやすく引き裂くだろう。


「リュクルス様? どうしましたか?」


 思考の沼に腰まで使った青年の意識を少女の声が引き上げた。


 ——リュクルス様。おれに「様」など付ける者はいなかった。ラケディア、麗しの都においては、おれたちは皆等しく市民だった。


「なにもない。ところでおまえはなぜおれを名で呼ぶ」

「いけませんか?」


 彼にはそれが酷く空しいものに思われた。

 彼はここで死ぬ。女もここで死ぬ。森を彷徨った末、腰袋の水を飲み尽くして乾きに苦しむだろう。そして限界に至る。


 リュクルスは「最後」を迎える手順すら考えていた。

 まず女を殺す。痛みを与えず首を落とすには彼に余力がなければならない。首骨の切断は存外力を要する行為だからだ。よって自身の力と正気が保たれているうちにそれを為す。

 無事”仕事”を終えたら、時を置かず自裁する。喉を突いて。


 つまり、ラケディアの領域を離れ、避けようのない死を前にして2人は同等の存在であった。緑壁に踏み入る前であれば思いもしなかったことだが、今の彼にはよく馴染む考えだ。


「いい。だが、”様”は必要ない」

「なぜですか?」

「ラケディアの市民は常に同等だからだ」


 突如、少女が足を止めた。

 その変容はこの世のものとは思われぬほどに壮絶である。先刻無垢に、軽やかに歩いた少女が、今その瞳に凄惨な色を湛える。

 嗜虐の。


「でもリュクルス()。わたしは()()()()()()()()()


 男が辿り着こうとする「最後」を彼女は嗤っていた。リュクルスは少女の瞳の中に意図を見た。

 死の前に市民も隷民もない。そんなことも分からなかったのか、と。

 にもかかわらず、ラケディアの誇りを謳い、幾多の”人”を手にかけてきたのか、と。


「では言い直そう。——()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ、と」


 女は虚を突かれたように黙り込む。そして笑みを浮かべた。

 柔らかくつり上がった口の端に嘲りはない。めまぐるしく変わる女の表情を小さな驚きをもってリュクルスは眺めた。


「それは素晴らしいことですね。——リュクルス」

「それでいい。アポリア」


 ——恐らく女は3日と保たないだろう。

 彼はそう予測している。自分1人であれば場合によっては10日以上生き延びられるかもしれないが、女の身体は男のそれよりも遙かに脆弱なはずだ、と。


 アポリア。

 青年の声が届いたとき、少女の顔は再び変化を遂げた。

 笑みの成分は霧散した。底冷えするような青い双眸が白い肌の海の上にぽつりと浮かんでいる。


「では、わたしのことも名で呼んでください。アポリアはわたしの立場を表す呼び名です。イリスの民の祭司、”解を持ち得ぬ謎を伝える者”の娘という」

「おれがラケディアの市民と名乗るようなものか」

「はい」

「ならばおまえを示す名は?」


 リュクルスは極めて率直に問うた。

 彼が違和感を覚えたのは”様”という敬称である。死を視野にはっきりと収めた今、名など大した意味を持たない。ゆえに少女のそれに対してさしたる興味もなかった。


「マルガリティア」


 少女も答えた。

 極めて率直に。





 ◆





 ——背信者リュクルス! 死を恐れラケディアを捨てた! 脆弱な者! 臆病な者よ! 


「声」は常に彼を満たす。

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