勇者の称号編 第三話―旅立ち―
ブラッドレイ家当主に会わせて欲しい。
ユンに対してセオドアが切り出したのは、そんな衝撃過ぎる言葉だった。
「セッセオドアくん本気なの!?」
「貴様正気か?」
ライリーはおろか、ユンですらセオドアの正気を疑う発言をする程、その言葉は意想外だったのだ。
「父上はシンクレア家を憎んでいるんだぞ……シンクレア家次期当主であり、勇者の称号の継承者である貴様に会うわけないだろう……というか貴様、会ってどうするつもりなんだ?」
「確認したい事がある」
ユンに対するセオドアの返答は、至極簡潔だった。
「確認だと?」
確認、というセオドアの言葉に、ユンの眉根が訝しげに顰められる。
「あぁ、だから会わせてくれないか?」
「いや、だから貴様正気か?」
セオドアがユンから二度目の正気を疑う発言をされる中、ライリーも正直なところセオドアの正気を疑っていた。
ついさっきまで、お互い戦い合っていた相手だ。彼女の発言によって、ユンのセオドアに対する憎悪は鳴りを潜めた。もしかしたら、このまま消滅するかもしれない。だが、ユンにセオドアとの戦いを決意させた、ブラッドレイ家当主の憎悪は本物だろう。どのような人物なのかライリーには見当もつかないが、ユンの言う通り、セオドアに会う可能性はないだろう。それどころか、ユンが強襲してきたように、問答無用で戦う羽目になるかもしれない。
「……どうしても、確かめたい事があるんだ……頼む」
「……」
セオドアの様子に、ライリーは察した。恐らくセオドアは、全て理解した上で言っている。門前払いになる可能性がある事も、戦闘になるかもしれない事も。しかし、セオドアにはその危険性を冒してでも、確認したい事があるのだろう。
ユンが明白に吐息を洩らすのが、ライリーにも聞き取れた。
「……、どうなっても知ら」
「――必要ない」
「!」
上空から響き渡った少女の声が、ユンの返答を遮った。
その場にいた全ての者が、声の発せられた天空を見上げる。
ライリーの目に飛び込んできたのは、一人の少女の姿。
少女は、雪豹に座していた。否、豹と呼ぶには、その体躯は許容範囲を超える程の巨大さだった。そんな巨体が、何の制約も受けずに少女を背に乗せたまま空中に浮かび、静止している。即ち巨大な雪豹は精霊であり、その巨体に座する少女は精霊使いであるという事の、それは何よりの証明だった。
ライリーの肩に掴まったまま、小さな身体を更に小さくしていたティティーが、『……おっきい……』と呟いた。
「……人が、浮いてる……?」
信じ難い光景を目撃した彼女が呟いた事で、ライリーは彼女と自分の見ている光景に差異がある事に改めて気が付いた。
彼女には、精霊が見えない。だから、彼女には少女が何も無い天空に座っているようにしか見えないのだろう。と、いう事はやはり、あの巨大な雪豹は精霊なのだ。
「……アリシア」
少女の名前らしきを、小さな声で洩らしたのはセオドアだった。
地上のセオドアから放たれた声が聴こえた訳ではないだろうが、まるでその声に応えるかのように巨大な雪豹は高度を下げて着地する。
――……可愛い……それに綺麗な子……――
それが、彼女が少女に対して抱いた、率直な感想だった。
少女は陽光を浴びて輝く金髪の一部だけを耳の上で結っている。その髪型は、前世の雑誌に掲載されていたハーフツインテールと呼ばれるアレンジに酷似していた。深い海を思わせる、つり目がちの青い瞳と、喜怒哀楽といった感情を浮かべていない表情とが相まって、やはりこれも前世で見たキャストドールめいた雰囲気を醸し出している。
先程は少女が何も無い空中に座っているという衝撃の光景に思わず声を出してしまったが、自身に見えないだけで何も無い訳ではないのだとすぐに理解した。見えていないだけで、少女は恐らく精霊に腰掛けていたのだろう、と。
少女は座していたらしい精霊から降りたようだった。今は宙に浮く事もなく、自身の両足で大地を踏み締めている。
「……アリシア・リー……セオドア・シンクレアの、婚約者」
「……」
唐突過ぎる自己紹介という名の婚約者発言に、ライリーを含めその場の全員が何の反応も返せなかった。婚約者である筈のセオドアですら、一言も発しない。
「でも嫌」
「でも嫌?!」
が、その直後のアリシアからの急な手のひら返しに、反射的にライリーが叫ぶ。そんなライリーのツッコミをものともせずに、アリシアは涼しげな顔をして佇んでいる。
「……えーと、アリシア……お前、どうして……」
「セオドア、必要ない」
「……なぁ、その言い方だと俺が必要ないみたいなんだが……」
セオドアの主張を無視し、アリシアは淡々と言葉を紡いだ。
「シンクレア家当主は御三家の交流復活を望んでる」
「!」
アリシアが、今は傍に控えている巨大な雪豹に乗って現れる直前まで、セオドアはユンに、ブラッドレイ家当主に会わせて欲しいと言っていた。確認したい事がある、と。
セオドアの真剣な言動にユンが応える寸前で、アリシアが声を掛けた事により話は中断しているが。
アリシアが上空から放った言葉は、「必要ない」だった。あれは、セオドアに対して放たれたものだったらしい。
「ブラッドレイ家当主には、シンクレア家当主が直接話す。だから、セオドアは必要ない」
「だからそれは俺の確認がって意味だよな?」
自身が必要ないみたいな言い方をされて、セオドアが少しへこんだ声を落とす。
「それよりセオドア、迎えに来た。あと、命令も預かってる」
「あ、あぁ……え?」
セオドアには一切言葉を返さずに、アリシアはセオドアに告げた。
「……命令?」
婚約者発言、からの拒否発言、おまけに必要ない発言に何とも言えない顔のままのセオドアに、アリシアは簡潔に続けた。
「そう、当主の命令。連れて来てって」
「……それは、誰のことだ?」
「え?」
セオドアから放たれた問い掛けに、ライリーの口から声が洩れる。
アリシアは、命令を預かっていると言っている。そして、連れて来て、とも言った。預かっているという事は、命令はアリシアではなく、セオドアに宛てられている。では、シンクレア家当主がセオドアに連れて来て欲しいのは誰なのか。
「分かってるくせに」
吐息と共に、アリシアが呟く。表情にはあまり変化が見られないが、心なしか煩わしそうだ。アリシアはセオドアから、連れて来てと言われているであろう人物に視線を移した。アリシアが移した視線の先の相手は、
「……え……?わ、たし……?」
「……お、お姉ちゃん……?」
「――一緒に来て……シンクレア家に」
深い海のような青の瞳で、彼女を見据えてアリシアは言った。
「はい。乗って」
アリシアが、自身の契約精霊であろう巨大な雪豹を示す。上空に仰ぎ見ていた巨体が地上に降り立っている事で、ライリーには更に巨大さが増したように感じる。その大き過ぎる雪豹はアリシアの背後に大人しく控えていたが、アリシアが彼女に騎乗を促した事で今は体躯を屈めていた。どうやら乗り易いように、という配慮らしい。
「?」
誰かがライリーの袖を引いた。彼女だ。
「……あの、ライリー君、その……乗るってどこに……?」
「え?どこって……あっ」
彼女に耳許で囁かれた言葉にライリーは疑問符を飛ばしたが、その疑問符は一瞬で消え去った。
ライリーは失念していた。自分だって見えるようになってまだ日が浅いのに、自分が見ている光景を彼女も見ているのだと錯覚する。精霊が視界にいるという光景は、決して日常風景ではないのに。
「あー……アリシア、彼女は精霊が見えないんだ」
ライリーと彼女の受け答えを見ていたセオドアが、アリシアへの説明役を買って出た。
「だから、その……お前のアナスタシアには乗れない……」
だが説明は簡潔だった。確かに分かりやすく、また事実ではあるが。
そしてどうやらアナスタシア、というのが、この巨大な雪豹の姿をした精霊の名前らしい。
アリシアはきょとんとしている。つり目がちの青い瞳が、今は見開かれていた。ライリーの目に映るアナスタシアも同じ思いなのか、長い尻尾がピーンとなった。
「……あたしが来た意味ない……」
アリシアの声の調子が変わった。例えるならば曇天のような、どんよりとした声音。表情は相変わらず感情の起伏に乏しいが、今は明らかに落ち込んでいるのが判る。アナスタシアもピーンとなっていた尻尾が、今はへにょり、と垂れている。契約主同様、項垂れているようだ。
「いや、えーと……馬車で行こう。馬車で」
「……うん……」
どうやら二人の間で話がまとまったらしいが、ライリーはどこか遠い気持ちで、セオドアとアリシアの遣り取りを聞いていた。
――……セオドアくんが、帰っちゃう……――
それは、覚悟していた事だ。覚悟していた、筈だった。
彼女を異界まで捜しに行って。灯火の精霊に憑依された彼女を発見して。彼女に纏わり付く炎を、灯火から託されて。異界から世界に帰還した時。
神殿の司教様からの依頼でこの街に来たセオドアは、依頼が完了したら帰ってしまうのだと解っていた。
理解していた筈、なのに。いざとなると、こんなにも淋しい。
――……それに、お姉ちゃんも……――
アリシアは、シンクレア家当主の命令を預かって此処にいる。当主の命令で、セオドアが彼女を連れて行く為に。
勿論彼女とも、セオドアとも、今生の別れではないだろう。だが、それでも別れというものは、いつだって寂寥を感じるものだ。だから、次にセオドアから掛けられた言葉に、ライリーは目を見開いた。
「ライリーとユンはどうする?」
「え?」
「は?」
さも当然であるかのようにセオドアに問い掛けられて、ライリーとユンの口から疑問が声となって吐き出された。
「え、と……どうするっていうのは……?」
「?俺達と一緒に来るかの確認だが?」
セオドアからの質問の意図を完全に測りかねたライリーが、逆にセオドアに問い掛けた結果は、一緒に来るか否か、というものだった。
「……えーと……」
「何故オレにも訊く?」
ライリーは自分自身に選択の余地があるのだろうかと思案した結果口籠もり、ユンは理解出来ないものを見る目でセオドアを見る。
「え?ユンは来ないのか?」
「貴様正気か?」
結果、セオドアはユンから本日三度目の「正気か?」を貰う羽目になった。
「出来れば来て欲しいんだが……」
「逆に訊くが、何故貴様はオレが行くと言うと思っているんだ?」
いいか、と、嘆息の後、ユンは口を開く。
「父上がシンクレア家を憎悪する理由は、シンクレア家が勇者の称号を名乗り、それを代々継承しているからだ」
ライリー達を襲撃した時、ユンは勇者の行方をライリーに問うていた。
「父上はブラッドレイ家に保管されていた文献を読み解いた……それは精霊大戦当時に書かれたもので、中にはシンクレア家が犯した大罪について記されていたらしい」
「……大、罪……?」
ライリーがぽつり、と声を落とした。セオドアの先祖が罪を犯していたというユンの言葉が信じ難いが故の、それは無意識下での呟きだった。
「オレは文献を読んだ父上から、シンクレア家の次代勇者を倒せと命を受けた」
「……お前もその文献を読んだのか?」
セオドアからの問い掛けに、ユンは首を振って否定を表す。
「いや、父上から聞かされただけだ」
「……ユン……やっぱり一緒に来てくれないか?」
「貴様……いや……」
ユンは、今度は否定しなかった。思案するかのように、視線を落とし沈黙している。
「シンクレア家が大罪を犯したのは本当だ」
「!」
「え!?」
ユンは落としていた目線を戻した。黄金色の双眸が、見極めるようにセオドアを見据える。
ライリーは驚愕に声を発した。その声の大きさに自身で驚き、慌てて口を押さえている。
「千年前に何があったのか……そもそも何故精霊大戦が起こったのか、本当の真実を知って欲しい……だから、シンクレア家に来てくれないか?」
それは、ブラッドレイ家当主に会わせて欲しいと言った時と同じ貌、同じ聲。
「……分かった」
セオドアの言葉に、ユンは静かに頷いた。
「よし、じゃあライリーはどうする?」
「……あ、……えーと、ぼくは……」
――……どうしよう……一緒に行きたい……でも……――
セオドアは、どうするかを訊いている。つまり、ライリーが頷きさえすれば、セオドアは了承してくれる。それは恐らく、セオドアと彼女を迎えに来たアリシアも同様に。
思いのままに頷いて、本音に従ってしまいたい。まだ、セオドアと一緒にいたい。もっと色々な事を知りたい。話したい。彼女について行きたい。灯火が託した最期の思い。彼女を取り巻く炎について教えて欲しい。
だが、ライリー自身の境遇と、ユンの語ったセオドアの話した内容が、ライリーの思いに蓋をする。
精霊大戦や御三家、勇者という言葉は、ライリーにとって現実味のない、どこか遠い世界のものだった。そんな遠い世界の言葉が、セオドアとユン、アリシアから飛び出した。
薄々予感はしていた。セオドアが、常人とは違う特別な存在である精霊使いの中でも、更に特別な存在である事は。
ユンの襲来によって、その予感は確信に変わった。
セオドアは御三家の、それも、次代の勇者を継ぐ者で。ライリーを、セオドアを襲撃したユンも、やはり御三家の血族で。
そんな、他と隔絶される程の名家に、彼ではなく自分のような人間が足を踏み入れていいのかと、ライリーは思ってしまう。
只でさえ返答に窮していたライリーの思考は、答えを出す事なく彷徨い続ける。そんなライリーに答えを促したのは、
「――共に行ってくるといい、ライリー」
「司教様!?」
聞こえた声に振り向けば、司教、ウィリアムが立っていた。
「引き取り手には、私から話をしておこう」
「……あ……でも、ぼくなんかが……」
「それに、ライリーが共に行くのなら彼女も心強いだろう」
彼女はシンクレア家の当主に呼ばれている。共に行くか行かないか選択の自由があり、尚且つセオドアと面識のあるライリーとは違い、彼女はセオドアとは顔を合わせたばかり。まだきちんと話をした事もないセオドアと新たに加わったアリシア、ユンと共にシンクレア家に赴く事になる彼女の相貌には、不安が色濃く浮かび上がっていた。
「私は……ライリー君が一緒だと、心強いです」
彼女の表情はライリーに、一緒に来て欲しいと訴えている。
その瞬間ライリーの脳裡から、自身の境遇や御三家の血族といった悩みが全て消え去った。そうして残った素直な気持ちが、ライリーに答えを選ばせる。
「……うん。一緒に行く」
ライリーの出した答えに、彼女が相貌を綻ばせた。
「では、セオドア・シンクレア殿……彼女とライリーの事、よろしく頼む」
「……はい」
ウィリアムにセオドアが応える。二人の視線は数瞬の間交錯したが、以降は言葉を交わす事なくそのまま視線は外された。
「……そういえば、シンクレア家ってどのくらいかかるの?」
セオドアとアリシアが馬車と言っていた事を思い出し、ライリーがセオドアに問い掛ける。
「割と近いぞ。途中山一つ越えるが馬車で移動出来るし……うん、三日くらいだな」
「割と遠くない?!」
セオドアとライリーによる「近いぞ」「遠くない?!」発言の後。お互いの距離感に齟齬があるのでは、と、摺り合わせを行った結果。
ライリーは丸三日間馬車に乗ると思っての発言だったらしいのだが、セオドアは途中の村や街での宿泊も併せての発言である事が判った。
この世界は前世のように科学や技術は発展していない。いや、正確には日々発展はしているが、まだ前世の世界技術の水準には遠く及ばない。つまり、車や電車のまだないこの世界の主な移動手段は徒歩、または馬車となる。厳密に言えば人力車や馬以外の動物に牽かせる車、例えば牛車や砂漠地帯の駱駝車等もあるらしい。
が、一般的には馬車が主流だ。おまけに馬車は余程辺鄙な場所以外は、村や街を行き来する乗り合い馬車が運行している。セオドアの馬車発言も、この乗り合い馬車を示していた。
摺り合わせの結果、今居る街からシンクレア家のある街までは、一つの村と一つの街を通過する事が判った。
この街から乗り合い馬車で次の村まで移動、まずその村で一泊。翌日別の乗り合い馬車で村を出ると、すぐにセオドアの言った途中にある山に差し掛かる。
この山越えは朝に村を出発してから、夕暮れに下山となるように馬車が運行しているそうだ。下山してすぐに次の街があり、そこで一泊。その翌日にまた別の乗り合い馬車で移動して、シンクレア家のある街に到着するらしい。やはり割りと距離がある。
旅人や行商人は徒歩の者もいるが、この街から出た事のない彼女やライリーに、長距離の徒歩移動は酷なものがある。何より時間も掛かる上、途中で野宿ともなると土台無理な話だ。
その点馬車ならば、乗っているだけでいい。唯一の難点は、運行の台数である。
前世でお馴染みのバスや電車とは違い、馬車は運行の台数自体が少ない。その日はその一台だけ、という事もざらにあるそうだ。故に、到着した村や街で次の馬車を待つ間、一泊するのを余儀無くされる。
因みにアリシアのアナスタシアなら、馬車よりもかなり速く到着するそうだ。アナスタシアは空を駆けて移動するので、距離や時間が大幅に短縮出来るらしい。
彼女はライリーに、自身の目には見えない精霊達の姿を尋ねていた。アナスタシアはライリー曰く「とっても大きな雪豹」だそうなので、見えない事を酷く残念に思った。
勿論アナスタシアだけでなく、ライリーの周囲を飛んでいる蝶々の翅のティティーや、セオドアのサイラス、ユンのレィリィンも見てみたいのだが。
「ティティー、セオドアくんを連れて来てくれてありがとう」
セオドアとユンの戦いが始まってから目まぐるしく状況が変わって、ライリーはティティーにお礼も言えないでいた事を思い出した。ライリーがユンから殴打を受け大地に伏した直後、ティティーは今にも泣き出してしまいそうな悲痛な声で『セオドア!呼んでくる!』と飛び出していった。
そして、すぐにティティーはセオドアを呼んで来てくれたのだ。
「……少しいいか?」
そうして出発前にティティーと話をしていたライリーは、ユンから話し掛けられた。
何を言われるのかと戦々恐々としていたが、ユンから紡ぎ出されたのは意外にも謝罪の言葉だった。
「……その、すまなかった……傷が痛むようなら言ってくれ……」
傷とは、頬と腹部に受けた殴打と蹴撃の事だろう。
失礼過ぎるが、ユンから謝罪されるとは思ってもみなかったライリーは、呆けた顔で固まってしまった。同時に、あの時ユンから放たれた「精霊使いではないのか?」という発言の意味を理解した。あの時ユンはティティーを連れたライリーを、精霊使いだと勘違いしたのだろう。
恐らくユンは、ライリーがセオドアと共に行動していたのを目撃したのではないか。そしてライリーの事を、勇者と近しい精霊使いだと思い込んだ。ユンは勇者であるセオドアの行方を問う為に、ライリーに近付いた。現にライリーが反撃しないでいる事に、ユンは疑問を抱いたようだった。
「……あ、えっと……大丈夫、です」
殴打と蹴撃の後、ティティーが呼んできてくれたセオドアとの戦闘に突入した事や、初めて目にした精霊使い同士の戦い。アリシアの乱入からシンクレア家に行く事になる、といった怒涛の流れの中で、ライリーはすっかり痛みを忘れ去っていた。現に直後に感じていた熱さは、もうとっくに冷めている。
頬や腹部に若干の違和感があるものの、痛みもだいぶ和らいではいた。まあ、痣が出来ているかも知れないが。
「そうか、勇者本人ではないからと一応手加減はしたが……痛むようなら薬もある」
その時は遠慮なく言ってくれ、と言われ、この会話はお開きとなったが、結果的にライリーの慄きは復活する事になった。
「……あれで手加減されてたの……?」
すごく痛かったのに……という呟きは、風に流れて消え去った。
急遽決まった旅立ちの割に、その始まりは順調に開始された。
まずは街から隣の村までを移動する乗り合い馬車が、即座に確保出来た事だ。他の乗客もおらず、ライリー達の貸し切り状態で馬車は街から出発した。
その後も特に問題はなく、馬車は隣の村に到着。宿屋も部屋に空きがあり、というか全室空室で、宿泊先も確保出来た。
問題が起きたのは、その村で翌日の乗り合い馬車を探していた時だった。
「馬車が出せない?」
セオドアの言葉に頷いたのは、山越え馬車の停留所にいた乗り合い馬車の御者だった。
「ああ、悪いが馬車は出せねぇんだ」
理由を尋ねたセオドアに、申し訳なさそうに御者の男性は答えた。
「何があったのか他の山越え馬車が戻ってこなくなっちまってな……おまけに旅人や行商人すらこの数日山を越えて来ねぇんだ」
馬車の運行台数が少ない最大の理由が、馬車自体の少なさにある。大抵の乗り合い馬車は、渡し舟と同様に往復する。故に山越えの馬車も、この村と山の向こうの街とを行き来して人や物資を運んでいる。
村街間での乗り合い馬車は交代制である。山越えをして戻って来た馬車と交代する形で、待機していた馬車が出る。その馬車が、行ったきり戻ってこないのだという。
現在この村で待機中の馬車はこの一台だけ。だから交代の馬車が戻らない限り、馬車を出す事は出来ないのだと御者は告げる。
「山に魔物が出たのかもしれねぇって話もあるが、村が襲われたってワケでもねぇから精霊使いに依頼も出せねぇ」
御者はそう言って、最後にもう一度、悪いな、と付け加えた。
乗り合い馬車で行けない、となると残された山越えの手段は馬車を持つ行商人に乗せてもらうか、或いは徒歩かという事になる。が、旅慣れているなら兎も角、不慣れな者に徒歩での山越えはきつい。馬車ですら、朝から夕暮れまで掛かって下山する距離だ。人の足では、確実に山中で野宿となる。
「貴様来る時はどうしたんだ?」
ユンの問いに、セオドアとアリシアは互いに顔を見合わせた。そして、互いが互いを指差した。
「送った」
「送ってもらった」
どうやらセオドアは、ライリー達の街に来た時は乗り合い馬車を使わずに、アリシアのアナスタシアに乗ってきたらしい。彼女の失踪からセオドアの到着まで、間が空かなかった理由がここで判明した。
「そう言うユンはどうしたんだ?」
「オレの家はこっちの方角じゃない」
ブラッドレイ家のある街は、シンクレア家のある街とは反対方向にあるそうだ。
「さて、どうするか……」
その場の皆の心情を、セオドアが代表するかのように独言する。アナスタシアに乗れれば簡単に解決する問題だが、彼女が乗れないのでは話にならない。
「馬車を出してもらえるように、俺達で問題を解決するか」
「貴様正気か?」
四度目の正気を疑われる発言をものともせず、セオドアは続ける。
「でも魔物の仕業なら俺達の領分だろ?」
「まだ魔物の仕業とは言い切れんだろ」
「それを確かめるのも領分の内じゃないか?」
「……」
正しくぐうの音もでない、といった表情でユンが押し黙る。
「セオドアは、ああいうところある」
呟いたアリシアにライリーが反応した。
「ああいうところって?」
「有無を言わせないところ」
「よし、じゃあ精霊達に訊いてみるか」
精霊使い達によるそれぞれの主張の軍配は、どうやらセオドアに上がったらしい。
セオドア、ユン、アリシアは村の精霊達に聞き込み。サイラス、レィリィン、アナスタシアは件の山の現地調査。ライリーと彼女は村の人達に聞き込みとなった。
「ティティーは……ライリー達と一緒にいるんだぞ?」
『うん!』
と、いう訳で。ライリーと彼女は一先ず、村を見てまわる事にした。村はこじんまりとしていて簡素だが、閉鎖的という訳でもなく、長閑な雰囲気だった。村人達も気さくに話をしてくれる。
馬車が出ない事に同情してくれる人も多くいたが、乗り合い馬車の御者同様に馬車が戻ってこない事、数日間旅人や行商人が来ていない事、山に魔物が出たのかもしれないが村に襲撃や被害はない事、くらいしか情報はなかった。徒歩の旅人が山へ向かったとも聞いたが、引き返してきた者はいないという。旅人は元々山向こうへ行くので、無事に山を越えて行ったのかは分からないらしいがそれはそうだ。
「……あんまり情報掴めなかったね……」
村を一周してしまい、ライリー達は今、村の出入口にいた。村をまわりながらセオドアやユン、アリシアの姿も目撃した為、やはりこの村はそれ程広くはないのだろう。出入口も、この一ヶ所だけのようだ。
ティティーは樹の枝に腰掛けている。村の目印として出入口に植えたのか、生えていたところを出入口としたのかは不明だが、樹には白い花が咲いていた為ティティーはご満悦だった。どうやらティティーは花が好きらしい。精霊が見えるようになってから、ライリーは何度かティティーのこんな光景を見ている。
「……っ……ひっく……ぅ……ぇーん……」
「え……?」
ライリーの耳が、微かな嗚咽を拾った。聴こえてきた方角に目をやれば、両手で顔を覆いながら小さな女の子が歩いていくのが見えた。
少女は泣きながら歩いていく。その足の向かう先には、サイラス達が現地調査に向かった山がある。
ライリーは反射的に動いていた。少女が何故泣いているのか、何故山へ向かっているのかは分からないが、いずれにせよライリーは放っておけなかった。
「どうしたの?大丈夫?」
だから、ライリーは少女に駆け寄って声を掛け、その華奢な肩を叩いた。山の安全が確認出来ていない以上、少女を一人で山に入らせる訳にもいかない。
「ライリー君?」
困惑した声に、湧き上がる疑惑。それは、泣いている少女に反応したのが、ライリー一人だったという事。
「そこに誰かいるんですか?」
彼女の発した声が、ライリーの疑惑を確信に変える。何故、すぐに気付かなかったのだろう。優しくて面倒見の良い彼女が、泣いている少女に声も掛けず、反応しない筈がないのだと。
「……人じゃ、ない……?」
嗚咽は、いつの間にか止んでいた。泣いていた筈の少女が、顔を覆っていた両手を下げる。
『……ばレ、ちャっ……タァ……』
目も、鼻も、口も無かった。光を通さぬ深淵のようにぽっかりと、樹木の洞めいた三つの穴が、目と口の役割を果たしていた。
「うわぁぁぁっ!?」
ライリーの声が、自らの恐怖を代弁する。洞めいた闇がにやり、と歪み、少女の手の形をした何かが、肩に乗せられたライリーの手に絡み付いた。
『……此処は良い村だ』『魔物なンていないヨ?』『……山は、綺麗です』『……山ハ……美しイ』
村の精霊達は皆示し合わせたように、同じ言葉を口にした。セオドアもユンもアリシアも、精霊使いを名乗る者として、この違和感に気付かない筈がなかった。
「――確実にいるな、あの山に」
歩きながら口火を切ったのは、ユンだった。
「ああ、多分この村の精霊達は感染している」
「山、登る?」
話を続けたのはセオドア。そのセオドアに、アリシアが問い掛ける。三人は聞き込みを終えて、偶然合流していた。
「そうだな……」
『セオドア、戻りました』
村の出入口にある樹が見えたところで、山の現地調査に向かっていたサイラス達が戻る。
『山中で馬車を発見しましたが、近くに御者の姿はありません。それと、魔物ですが……セオドア?』
「ライリー……?」
「は?」
今アイツ関係ないだろ、の意味が込められたユンの「は?」に応える事なく、セオドアが走り出す。
「なっ!?おい!」
「セオドア?」
ユンとアリシアの呼び掛けに、やはりセオドアは応えない。駆けるセオドアの後に続いた二人の視覚と聴覚に、その答えが飛び込んできた。
「うわぁぁぁっ!?」
「サイラス!掟霊解放!」
恐怖に彩られたライリーの叫びが響き渡るのと同時に、鋭さを含んだ契約主からの命令に於いて、風の精霊が精霊術を行使する。
「『――“翠嵐箭”……!』」
翠の風が集束し、具現化された風の弓を手に跳躍したセオドアは、そのまま腕を横薙ぎに振るう。
翠の弓が鈍い音を立てて、少女の頭部に叩き付けられた。
大地や海、この自然界には、様々な生物が棲息している。生物の中には、餌を使って獲物を誘き寄せる種族もいるらしい。わざと撒き餌をして、獲物を誘うもの。自らの一部を、餌に見立てて引き寄せるもの。その見立てられた餌の名を、何と言ったか。
――……あぁ……疑似餌、だ……――
少女は、少女に似た何かは、疑似餌だったのだ。
洞めいた闇が笑みの形に歪められ、ライリーの手を、少女の手の形をした何かが絡め取る。
自身の絶叫が、何処か遠くで響いているような感覚に陥った。視界の隅に、彼女が走り寄る姿が見える。
来ないで、お姉ちゃん……そう言いたいのに、咽頭から迸るのは声にならない恐怖だけ。
だが、恐怖は長くは続かなかった。席を奪われるかのように、恐怖は驚愕に取って代わられる。
「……ッ!」
ライリーの瞳が、跳躍するセオドアの姿を映していた。
ユンとの戦闘で行使した翠風の弓が、ライリーを絡め取る少女の姿を借りた何かに叩き付けられる。
鈍い音と共に、ライリーの手は絡み付いていた何かから解放された。
「――ッ大丈夫か?」
「セオドアくん……!」
セオドアは弓を構えたままでいる。夕暮れ色の瞳が見据える先には、まだ少女の姿が蠢いていた。
「『……“凍風”』」
指を鳴らして、セオドアが矢を放つ。淡く発光する翠の弓が、少女を模った何かの姿を、正確に射抜いてみせた。
『……あー、ァ……シッ、ぱィ……し、チャ……っタ……』
セオドアの矢に射抜かれて、蠢いていた何かが陽炎のように揺らめいた。そして、空気に溶けていくように、少女の姿は完全に消滅する。
「……失敗……ぅわっ!?」
消える間際に残された言葉を、ライリーの耳が拾った。無意識に呟いたライリーを衝撃が襲う。
「大丈夫ですか!?」
衝撃の正体は彼女だった。今にも泣いてしまいそうな、悲痛な表情で、彼女はライリーの肩を掴んでいる。
「……うん」
安心させたくて、ライリーは頷いた。実際に怪我はしていない。ただ、不安は燻っていた。あの少女に似た何かは、一体なんだったのだろう。
「……一度宿屋に戻ろう」
険しい相貌で山を一瞥したセオドアが、そう切り出した。
「あの山に魔物がいるにしても、まずは情報の整理からだ」