勇者の称号編 第二話―精霊大戦 陽―
久遠の眠りに就いていた少年が、胎動と共に目を覚ました。やがて、真紅の宝玉に似た双眸が、ゆっくりと開かれる。
それは、永劫とも思える時の流れの中で、少年を唯一の王と崇める者達が、待ち望んだ瞬間だった。
「――……あれから何年経った?」
少年の問い掛けに応えたのは、中性的な女性の声。
『……千年の歳月が流れて御座います、我が君』
「……そうか、僕は千年も眠っていたのか……あっという間だったな……」
感慨深さと恍惚さを伴って、追憶するように少年が呟く。
「さぁ、まずは姉上を迎えに行こうか……そして憎き人間共を今度こそ殲滅する……そうだ……今度こそ、僕達は幸福に暮らすんだ……」
この大陸は、魔族の脅威に晒されている。魔族とは獰猛で危険な存在である魔物を使役する者達の総称であり、事実人々が魔族の使役する魔物に襲われる被害は多い。
この大陸には精霊が存在する。魔物と違い全ての人に見える訳ではないが故に、精霊を見る事の出来る人々は〝祝福を受けし者〟と呼ばれる。その祝福を受けし者達の中で、〝精霊使い〟と呼ばれる人々がいる。精霊使いとは精霊と契約する事を、精霊自身から赦された存在である。契約を交わした精霊使い達は精霊術を行使出来るという権限を与えられ、この精霊使い達が精霊術を行使して、魔物を使役する魔族達に対抗している。
精霊大戦。今を遡る事千年前に勃発した、魔物を操る魔族の軍勢と、精霊と契約を結んだ精霊使い達との全面戦争。
当時、秩序や統率等とは無縁だった魔物共が、突如軍隊と化して人々を襲撃し始めた。それまでの魔物は単独で人々を襲う事こそあったが、集団を形成し、組織的行動によって街や村を襲撃する事等は皆無だった。この魔物の異質さに、事態の異常さを悟った当時の精霊使い達は、群れを成す魔物共の背後に、魔物を操る何者かの気配を感じ取る。
今でこそ魔物は魔族が操っているという事実は常識だが、当時は魔物を操る存在がいる事は、人々に知られていなかった。
魔物を操る何者かは当時の精霊使い達に対し自らを魔族と名乗り、やがて魔物の襲撃に対する精霊使いの防衛戦は、魔族共と精霊使い達との争いに、その名を変えていく事になる。
これが、千年の時を経てもなお、人々に語り継がれている魔族と精霊使いの争い――世に言う〝精霊大戦〟の幕開けである。
では、何故魔族共は魔物を使い、人々を組織的に襲撃したのか。
群れで行動する動物に、統率する頭がいるように。国を造り生活を送る人々に、統治する王がいるように。魔族にも魔族を従える、〝魔王〟と呼ばれる存在がいた。
魔物を操る、魔族。その魔族を従える、魔王と呼ばれる存在。軍隊、という表現は、比喩ではなく真実だった。魔物共は魔王の率いる魔族の軍勢――魔王軍であった。
この魔王軍と精霊使い達との争いは熾烈を極め、一時精霊使い側は壊滅寸前にまで陥ったが、精霊使いであった当時のシンクレア家当主によって魔王と呼ばれる存在が討滅された事で戦いの流れが変わる。文字通り王が滅ぼされた事で、魔族共の統率は乱れ、魔王軍の瓦解が始まったのだ。その好機を逃さず、精霊使い達は魔王軍の討伐に成功した。こうして終結した争いは後の世で精霊大戦と呼び慣らわされ、魔王を滅ぼした功績によって、シンクレア家当主は〝勇者〟の称号をその身に冠する事になる……。
言葉が、過去を呼び覚ます。
それは、シンクレア家が――セオドアが背負う重い宿命を揺り起こす。
「さて、少し真面目な話をしようか……勇者殿」
「……まだ継いだわけじゃない」
ウィリアムの呼び掛けに、セオドアは相貌を顰めて言葉を返す。ほろ苦い感情が、セオドアの表情を歪ませていた。
「たが、継ぐ事は確定している。シンクレア家は勇者の家系であり、貴殿は次期当主の筈だ」
「……」
続けるウィリアムの言葉に、セオドアは無言を貫く。
「彼女の炎には強い執着が伺える。一見、呪いと勘違いする程だが……そこいらを徘徊する野良精霊の力ではない」
――……え?徘徊……?というか、野良……?――
唐突な徘徊・野良発言に、セオドアが別の意味で顔を歪ませているのを気にする事もせず、ウィリアムは言葉を続ける。
「あの炎は魔物の炎だ」
「!」
セオドアの双眸が、驚愕に見開かれた。セオドアとて精霊使い、その可能性を考慮しなかった訳ではない。彼女に纏わり付く炎について、灯火は〝精霊の炎〟と言っていたが、断定は出来なかった。何故ならば炎を扱える種族は精霊だけではないからだ。
会話の中でセオドアは、炎は使役されているか、協力関係にあるのだと推測した。あの時点で考えられる、炎を行使する存在の可能性は四つだった。精霊、幻獣、そして魔物と魔族だ。
彼女に執着心を抱いているのが精霊使いであるのなら、炎は契約精霊の力である。だが、執着心を抱いているのが人外――精霊使いと契約を結んでいない精霊や幻獣もしくは魔族だった場合、炎は精霊の力であるとは断言出来なくなる。
幻獣は知能が高く、人語を解し、人型となれる個体も多い。炎を扱う種族も一定数存在する上、同じ異界の存在である精霊とは協力関係を結び易い。
魔物は知性も理性も持ち合わせておらず、本能のままに行動する、非常に獰猛で危険な存在である。精霊や幻獣同様多くの種族が存在し、炎を扱える個体も報告されている。悪しき存在として認知される魔物は、魔族と呼ばれる種族だけが使役し、従える事が出来る。
一方で、魔物を従える魔族にも、属性は存在する。当然、炎を扱う魔族もいる。
ウィリアムが放った言葉によって、四つの可能性は一つの答えに収束された。
「ここまで言えば解るだろう?……彼女に執着する何者かの正体、延いては私がシンクレア家に依頼を出した理由が」
真正面からセオドアを見据える紫水晶の双眸が、彼女に執着を抱く者の正体を、言外に告げている。
「……それは、」
『セオドア……!』
今にも泣き出しそうな形相のティティーが、息急き切って壁から飛び出して来たのはそんな時だった。いや、精霊は呼吸をしないから、息急き切るという表現は可笑しいのだが。
「ティティー……?どうしたんだ?」
『ライリーがっ!』
必死なティティーの様子から、只事でないと察したセオドアの眉根が寄せられる。
「なにがあった……?」
『ライリー!なぐられた!』
「……は?」
――……セオドアくんが、勇者……?――
殴打と蹴撃を受けた身体が、苦痛と発熱を訴える中、ライリーの脳内は少年の放った言葉を反芻していた。
目の前の少年は、勇者の行方をライリーに問うた。その勇者とは、ライリーが先日出逢ったばかりの精霊使い、セオドア・シンクレアであるらしい。
勇者――今から千年前に起こった精霊使い達と魔王軍との争い、世に言う精霊大戦に於いて、魔族の軍勢を統率していた魔王を討滅した者。正確には、魔王を討滅した当時の精霊使いの功績を讃え、その精霊使いに与えられた、称号。
あの夕暮れ時の出逢い。お互いに名乗り合った時に、セオドアはライリーが、セオドアの名前に驚かなかった事に驚いていた。あれは、そういう事だったのだ。
セオドア・シンクレアが、千年前の精霊大戦に於いて魔王を討滅した精霊使いの末裔であるという少年の発言が、苦痛と発熱で混乱するライリーの戸惑いを加速させる。
「……」
理解の及ばない言葉に呆けた様子のライリーに、舌打ちせんばかりに少年は相貌を歪ませた。
「……セオドア・シンクレアが勇者であるということすら知らず、精霊使いでもない……何故こんな男と行動を共にする……?」
それは問い掛けの体をしていたが、実際は独白に近かった。事実、少年はライリーに対して答えを求めている訳ではない。
「……そうか、この女か……」
黄金色の双眸が、捕らえた彼女を貫いた。
ライリーが勇者という言葉で呆然としている中で、彼女も混乱の境地に達していた。
急に現れた少年に腕を掴まれたかと思ったら、ライリーが殴り倒された。その上何故か拘束される羽目になり、手を伸ばしてくれたライリーを少年が蹴り飛ばすという暴挙。そして、謎の勇者発言。
勇者という単語自体なら、彼女も当然聞き覚えがあった。勿論、前世でも、今世でも、だ。
前世の記憶上にある単語の意味で誤りでないなら、偉業を成し遂げた者といった意味合いで使用されていた。そこから転じて凄い事したね、という意味で使われてもいたが。「その距離自転車で行ったの?勇者じゃん!」とか。
だが、今世に於いての言葉の意味は、前世の記憶を持つ自身にとっては神話や御伽噺の類いを感じさせる過去の争い、精霊大戦での功績を讃え当時の精霊使いに与えられた称号である。
この世界は、魔族の脅威に晒されている。危険で獰猛な魔物を使役する魔族に対抗するべく、精霊使い達は精霊術を行使する。
これが、この世界の常識。子供でも知っている、世界の理。
そう、この世界には魔物がいて、魔族がいる。常人には見えないけれど、精霊がいる。見た事のある者は少ないが、幻獣もいる。
「……そうか、この女か……」
「……え……?」
少年の声に我に返り、彼女は思考の淵から引き上げられた。黄金めいた双眸に、彼女の全身が射竦められる。
「魔族にでも執着されたか……だからわざわざシンクレアの勇者が来た……そんなところだろう!?」
最後の問い掛けは、彼女でも、ライリーに対してでもなかった。少年が彼女から視線を外し、首を回らせて声を張り上げた先には、
「……セオドアくん……!」
息の上がったセオドアが、夕暮れ色の瞳に焦燥を煌めかせて立っていた。
「捜す手間が省けたな」
「……お前、は……?」
呼吸を整える間すら惜しんで誰何するセオドアに、少年が不敵な笑みで答える。
「オレの名はユン・ブラッドレイ……お前と同じ――〝精霊使い〟だ……!」
「……ぁっ!?」
高圧的に名乗ったユンが、乱雑に彼女を解放する。突き飛ばされた彼女を正面から抱き留めたセオドアに、ユンは足を振り上げた。
「……ッ!」
ユンから繰り出された蹴撃を、彼女を庇いながら躱したセオドアが、困惑に声を荒らげる。
「なにをするんだ!」
セオドアから放たれた言葉に答える事なく追撃を仕掛けてくるユンに対話の無意味さを悟ったセオドアは、ライリーに視線を移す。
ティティーは殴られたと言っていたが、恐らく殴打以外の暴行も受けたのだろう。セオドアが到着した時に、地に伏したままのライリーは頬を腫らして、腹部を押さえていたのだから。
「どうした!勇者の名が泣くぞ!」
「理由も分からないのに戦えない……!」
ユンは攻撃を繰り返し、セオドアはそれを避け続ける。互いが攻撃と回避に行動した結果、ユンはライリーから離れ、逆にセオドアはライリーの傍らに立ち、やがて両者は正面から対峙する形となった。
一方ライリーは、蹴られた腹部を押さえながら弱々しくも立ち上がる。
足取りが覚束ないライリーの赤くなった頬に、顔を顰めたセオドアが小さく問い掛けた。
「……ライリー、大丈夫か?」
「……うん、大丈夫……」
よろめきつつ、セオドアの言葉に頷いたライリーに、彼女が駆け寄る。ティティーは悲し気に表情を歪め、ライリーの顔を撫でながらすぐ傍を飛んでいる。
「……、そうだな。勇者相手に肉弾戦で勝利したところで意味がない……――レィリィン!」
一度攻め手を緩めたユンが居丈高に呼んだ相手は、この場にいる誰の名でもなかった。だが、その呼び声に応えた者がいる。
『御意』
声が聴こえたのと同時に、ユンの雰囲気が変化した事を、ライリーは感じ取る。それは彼女を捜して異界渡航をした時に、セオドアがサイラスに呼び掛けて行使した憑操術と、同様の変化。
「『……私怨はないが、主君の命を遂行する……』」
セオドアとライリーの目に重なり合って視えるのは、人型の男性に似た精霊の姿。
背丈は、長身のサイラスと比べても尚高く。頭頂で結い上げた鉄紺色の長髪と、同色の瞳が煌めく雄々しくも凛々しい精悍な相貌。褐色の肌に筋骨隆々とした逞しい体格は、正しく威風堂々たる様で。堅苦しい口調も、重々しい声音も、その豪傑さを体現するかのようだった。
だが人と錯覚しないのは、人間とは異なるところがあるからだ。背と腰から生えた二対の両翼、そして、羽毛に覆われ鉤爪を持った脚部である。
広げた翼は、髪と同色の鉄紺色。猛禽類を思わせる、鋭利な鉤爪の鳥足。それは、半鳥獣型の精霊だった。
「……ライリー、動けるか?」
「……う、うん」
「悪い……彼女と離れていてくれ」
憑操術を行使しているのであろうユンから視線を逸らさずに、セオドアがライリーに呟く。
硬質な声と、厳しい相貌。初めて目にするセオドアの表情に、頷く事で了承の意を示したライリーが、彼女やティティーと共に後方に下がる。
「さぁ、貴様の精霊を呼べ!セオドア・シンクレア!」
「……、サイラス!」
『――此方に』
セオドアがサイラスの名を呼んだ瞬間、憑操術が行使された事をライリーは覚った。重なり合ったセオドアとサイラスは、ユンとその契約精霊、レィリィンと改めて対峙する。
「『主君』」
「許す」
先に動いたのはレィリィンだった。ユンの右手が真上に掲げられ、指先に天空から閃光が落ちる。瞬間、ライリーの瞼は反射的に閉ざされていたが、それでも閃光を防ぎ切れずに、視界が純白に染め上げられた。その直後に響き渡った怒号の如き轟音に、視力に続いて聴覚が、その機能を停止する。眩さに麻痺を起こした瞳が再び開かれた時、ユンの手には鋭利さを体現するかの如く紫色に輝きを放つ、一振の槍が握られていた。
「『……“紫電槍”……参る!』」
言動から察するに、ユンの契約精霊であるレィリィンの属性は雷なのだろう。
豪傑さと精悍さを兼ね備えた精霊の武具に相応しく、具現化された槍は、無駄な装飾は一切施されていない。所謂素槍と呼ばれる形状のそれを構えたユンが、セオドアに向かい突きを繰り出す。
「『……』」
サイラスは無言で、セオドアの右手を正面に突き出す。ライリーの脳裡に、灯火の精霊の炎を防いだ時の光景が想起される。同時に、あの時は目視する事が出来なかったサイラスの風を、ライリーは視認した。
ユンの手にする槍が紫に発光しているように、セオドアの眼前に展開した風は翠の光を放っている。ティティーは壁と話したが、ライリーの目には風で作られた盾のように見えた。
その風の盾に、雷の槍が迫る。刹那、落雷のような轟音と共に破壊されたのは、風の盾の方だった。
「『……なっ!?』」
紫電の槍が風の盾を突き崩し、サイラスが驚愕に声を洩らす。咄嗟に身を捻り、紙一重で躱したセオドアの身体を、ユンの槍が追尾する。
「……がっ!?」
突きから直ぐ様横薙ぎへと繋げる卓越した槍術に対応する事が出来ず、セオドアの身体が弾き飛ばされる。大地に傾覆したセオドアの隙を逃す筈もなく、ユンが更なる追撃を仕掛けた。
「『“天雷”』」
それは、突きの連続攻撃だった。雷光を纏った紫電の槍から繰り出される高速の突きが、間断無くセオドアを襲う。
「『……くっ!』」
身体を起こしたセオドアが、右腕を突き出す。再度展開した風の盾は初撃を再現するかのように轟音と共に破壊され、しかし、破壊された瞬間に新たな盾が展開されていく。
それは、破壊と創造の回帰だった。
轟音、衝撃、崩壊、再構築、展開。そしてまた、轟音。攻撃こそ食らわないまでも、繰り返される応酬はサイラスの、セオドアの劣勢を示しているかのようで、ライリーの顔色は蒼白に支配される。
それ以外の選択肢が無いかのように防御に徹するセオドアに、嘲笑を滲ませたユンが叫ぶ。
「どうした!貴様の実力はその程度か!?まさか勇者ともあろう者が“掟霊解放”出来ぬ筈もあるまい!」
「……掟霊解放……」
ユンの放った言葉に《銀の馬のしっぽ》で話したセオドアとの会話を、ライリーは追想した。
沢山の会話の中で、ライリーはセオドアに精霊術の種類について質問している。彼女を捜して異界に行った時に、セオドアは精霊術は大別すると二種類あるのだと言っていた。そこでライリーが知ったのは、物体に精霊を宿す“憑装”、精霊使いに精霊が宿る“憑操術”。そして、憑操術を通して行使する“異界渡航”だった。
憑操術と憑装、この二つを併せて精霊術と呼ぶのだそうだ。異界渡航は憑操術の中に含まれる、所謂応用のような技らしい。
「大雑把に言えば、異界渡航は憑操術だ」
憑操術は術者である精霊が、器である精霊使いを通して、自身の力を世界に具現化する。その力の具現化の一つが世界の固定を外し、異界へ渡航する異界渡航だ。
「つまり、憑操術っていうのは精霊が自分の力を、精霊使いを通して世界に具現化する術なんだ」
セオドアはそう言っていた。
精霊使いが精霊の力を借りて世界から異界に渡航するように、精霊は精霊使いの身体を借りる事で、自身の力を世界に具現化する。精霊の持つ属性を具現化する術、その手段が憑操術であるのだと。
そして、ユンの言い放った“掟霊解放”。これも憑操術の中に含まれる。〝精霊の掟を解放する〟という意味通り、精霊使いに宿った精霊の持つ属性を、世界へと解放する術。
契約精霊が精霊術を行使する理由は、戦う為。その主な相手は精霊と同じく個々が各々の属性を持つ魔族や魔物であるが故に、精霊は属性に対抗するべく、自身の属性を解放して戦う事を余儀無くされる。属性を解放し、その効果を行使する事で、精霊は精霊使いを通して魔族や魔物の属性を伴った攻撃に対処、応戦する事が可能となる。
灯火の精霊を相手にした時や、現在サイラスが展開している風の盾は、属性を完全に解放している訳ではないらしい。サイラス曰く、あれはただ正面に風を発生させているだけです、との事だ。
ユンの手に在る紫電の槍が、レィリィンの掟霊解放の効果なのだろう。掟霊解放する場合属性の力を引き出す為に、自身に見合った武具の形に具現化する事が多いのだと、サイラスは言っていた。
『掟霊解放は器となる精霊使いの身体に負担を掛けます……故に、行使する際は必ず契約主の許可、もしくは契約主側からの使用命令が必要となるのです』
属性で武具を具現化するという事に興味をもったライリーが、サイラスに掟霊解放の効果を尋ねた時。サイラスは、いずれライリー様も目にする機会があるでしょう、と答えていた。
容赦無く襲い来るユンの槍を、破壊される度に再構築して展開する風の盾で防ぎながら、体勢を整え距離をとったセオドアは荒い呼吸を繰り返している。
「『……セオドア、掟霊解放の許可を……』」
「……許す」
「『有り難く』」
サイラスはセオドアの両腕を掲げる。頭上で交差した両腕を開きながら緩やかに下ろすにつれて、セオドアの手に翠の風が集束していく。
「『……“翠嵐箭”……』」
やがて具現化されたのは、翠色に淡く発光する風の弓矢。
通常、弓とは細く、華奢な造りを想像するが、セオドアのそれは違っていた。
鎧、と呼んでしまうのは、些か物々しいだろうか。弧を描くような流線形の弓は太いが、武骨さは感じられず、洗練された芸術品のような美しさがある。
「……綺麗……」
彼女が嘆息と共に声を洩らした。精霊の姿こそ見る事は出来ないが、憑操術によって具現化された武具は彼女にも視認出来るらしい。
「……ライリー君……二人の持つ槍や弓……あれも精霊使いの力なんですか……?」
「……うん、多分……あれは“掟霊解放”……精霊使いと契約精霊が行使する、精霊術……」
サイラスがセオドアの口を借り翠嵐箭と称した武具は、弓矢の形を成している。ユンの手にある雷の槍をレィリィンが紫電槍と称したように、武具や技に名称を与える事で属性の威力を増す効果が付与出来るのだそうだ。名称を与え、他と隔絶し、個とし、己の武具とする。そうする事で、精霊は自身の力を世界で行使する事が出来る。
――……翠に煌めく風の弓矢……――
彼女はライリーの言葉を聴きながら、前世で弓道の構えを見た事を回想していた。あの時に見た弓道の構えとセオドアの構えが異なるのは、あれが通常の弓ではなく、あくまで精霊の力が具現化したものだからなのだろうか。
「……」
セオドアは、矢を番えたまま動かない。
精霊の力の具現化とはいえ、打撃や刺突、薙ぎ払う事を主な攻撃とする槍と、遠方から対象を射抜く弓とでは、そもそも戦闘方法が異なる。故にあれだけ猛攻を仕掛けていたユンも、その動きを止めていた。
「……」
対峙した精霊使い達の沈黙と硬直は、ライリー達にも伝播した。だが、息の詰まるような奇妙な均衡は、不意に構えを解き、突進したセオドアによって崩される。
「なにっ!?」
距離をとったセオドアが、相手との距離を必要とする弓矢という武具で接近戦を仕掛けるとは、流石にユンも想定範囲外だったのだろう。槍は一度懐に入り込まれると、近接戦闘では長い柄が一転して不利になる。ユンの持つ紫電の槍は普通の槍ではなく精霊の力の具現化だが、当然その特性に逆う事は出来ない。
完全にユンの虚を衝いたセオドアは、そのまま弓でユンの肩口に殴り掛かる。
「ぐッ!?」
「えぇー?!」
「いや、弓ってそんな使い方しないでしょ?!」
予想外過ぎるセオドアの行動に、彼女の口から驚きが声となって飛び出した。そんな彼女の横では、セオドアの攻撃方法についてライリーが激しくツッコミを入れる。
一撃離脱とばかりに後方に飛び退きながら、セオドアは頭上で交差させた両腕を開き、再び射る構えをとった。
「『“凍風”』」
サイラスの言葉と共に、風の矢を番えたセオドアの右手の指が鳴らされた。弾かれた指の音と共に、セオドアの手から翠を纏う風の矢が放たれる。
「ッ!」
不意打ちで体勢を崩されたユンの槍が、セオドアの矢に射抜かれる。翠の矢が紫電の槍を貫いた途端、具現化されたレィリィンの槍がユンの手から掻き消えた。
「……無意味な戦いはしたくない」
次の矢を番えたセオドアが、ユンを見据えて言葉を紡ぐ。
「ハッ!一度破壊した程度でもう勝者気取りか?」
「次も射る」
「やってみろ!レィリィン!」
ユンの右手が再び真上に掲げられた。直後、落雷の如く閃光と轟音を響かせて、ユンの手に紫電の槍が再び顕現される。
「『“天雷”!』」
具現化された紫電の槍が、雷光を纏ってセオドアに迫る。サイラスが展開した風の盾を、轟音と共に何度も突き破ってみせた高速の突きが、ユンに宿ったレィリィンから再び繰り出される。
「『……』」
セオドアは、矢を番えた体勢のまま、その場から微動だにしない。戦闘中とは思えない程静かな、凪いだ瞳で、迫り来る槍を見据えている。
「『――“凍風”』」
瞳と同様の静かな声と共に、セオドアの指が鳴る。それは、正しく刹那の瞬間だった。翠を纏った風の矢は、紫電に煌めく槍の穂先を、正確に射抜いてみせたのだ。
「『何……!?』」
貫かれた穂先から、再び槍が消失する。驚愕の声を洩らしたのは、今度はレィリィンの方だった。
「『……主君、これ以上は……』」
一度ならず二度までも自身の武具を撃破され、レィリィンが主君と仰ぐユンに言葉を掛ける。
「……黙れ」
「『ですが、』」
「――ええいッ!黙れ!貴様はこのオレの精霊だろう!誰のお陰で精霊術を行使出来ると思っているんだ!我が手足となりシンクレアの勇者を倒せ!」
――……そうだ……オレがシンクレアの勇者を倒し……父上の……ブラッドレイ家の悲願を……――
ユンの脳裡を、ブラッドレイ家当主である父の言葉が過る。
「いいか、ユンよ……お前は我がブラッドレイ家の嫡男だ。いずれはお前が私の跡を……このブラッドレイ家を継ぐのだ」
父は、厳格な人だった。だが、当主として只厳しいだけではなく、父としての優しさも持ち合わせていた人だった。
ブラッドレイ家は、古くから続く精霊使いの一族だった。精霊大戦の頃より現存する〝御三家〟と呼ばれる名家の内の一つであり、代々優秀な精霊使いを輩出するブラッドレイ家は、他の精霊使い達とは一線を画す存在だった。当然現当主である父も優秀な精霊使いで、ブラッドレイ家歴代最強の名を恣にしていた。
そんな父に追いつきたくて。少しでも力になりたくて、ユンは父に師事し、精霊術を学んだ。精霊術で敵わないなら、せめて武術でと身体も鍛えた。
父は、ユンの誇りだった。
他の精霊使い達の追随を許さないブラッドレイ家当主である父の矜持が歪み出したのは、ブラッドレイ家に伝わる古い文献が端緒だった。
膨大な量を誇るブラッドレイ家の蔵書の中にあった、精霊大戦当時に記された文献。それを父が発見し、読み解いた。読み解いて、しまった。
「……忌々しい……シンクレア家が勇者だと?……千年前の当主の威光に縋るだけの一族だと思っていたが……このような大罪を犯していたとは……」
それから、父は変わった。文献に記された真実を知り、勇者を――シンクレア家を憎悪した。
「……ユンよ、シンクレア家の小倅はお前とそう年齢の変わらぬ若僧だそうだ……」
次代の勇者を継ぐ者が、シンクレア家現当主の息子が、我が子と近しい年齢だった事も、父の憎悪に拍車を掛けた。
「どうせ勇者としての実力も伴わぬ若僧だろう……ユンよ、シンクレア家の小倅を倒せ……そしてお前が……我がブラッドレイ家こそが、真なる勇者の一族となるのだ……我が一族の悲願を果たせ……」
「貴様を倒し、勇者の称号はオレが貰うッ!」
黄金を流し込んだかの如く輝くユンの双眸が、憤怒と憎悪によってその煌めきを増していく。
「……称号に思い入れなんてないが……勇者の称号だけは譲るわけにはいかないんだ……」
対峙するセオドアの、夕暮れの空を閉じ込めたような瞳には、見えない重圧に耐えるかのように哀愁と諦念が溢れていた。
セオドアが頭上に弓を構え直す。矢を番えた指を鳴らし、翠を纏った風の矢が虚空に向かって放たれる。
「馬鹿め!どこを狙って……なっ!?」
弦から解き放たれた矢は、中空で静止した。静止したまま大地へとその鏃の向きを変え、無数に分裂し、増加していく。
「『“虎落笛”』」
セオドアが再び指を鳴らす。分裂によって数を増やした翠を纏った風の矢が、甲高い笛のような音を奏でながら、豪雨のように降り注ぐ。
「ぐぅぅぅっ!?」
「……よく勘違いされるが、憑操術を実際に行使しているのは精霊使いじゃなく精霊だ。精霊使いは器に過ぎない……」
「ッ!?」
数多に降る矢を囮に使い、セオドアはユンの背後に回り込んでいた。間髪入れずに、弓を持つ左腕を横薙ぎに振るう。
「……がッ!?」
セオドアの弓が、ユンの項に叩き付けられた。
「――そんなんじゃ勝てないぞ」
「……すごい……」
ライリーの口から、無意識に言葉が零れ落ちる。呼吸を止めていたのではないかと錯覚する程に、息もつかせぬ攻撃は、ライリーが初めて目撃する精霊使い同士の戦いだった。
セオドア劣勢で始まった戦闘は、今や完全にセオドア勝利で決着したと言える。寧ろ始まりの劣勢ですら、セオドアには戦う理由が無かったが故の防戦だったからと言えた。
セオドアの弓に薙ぎ払われたユンは、大地に片膝を突いて立ち上がった。黄金色の双眸が、今度は屈辱に煌めく。
「……ふざけるな……!忌々しい……認めない……オレは……オレは父上の……!」
「あの……!」
ユンから吐き出される憎悪と怨嗟を遮ったのは、彼女の声。
「どうしてそんなにせ……えっと……、」
どうしよう。弓矢を持っている少年の名前が出てこない。ライリーが何度か名前を言っていたような気もするが、そんなすぐに覚えられない。確か〝せ〟がついたと思う。せ……せ……ダメだ、精霊使いと被って全く出てこない。襲撃してきた少年に至っては、あんなに偉そうに名乗っていたのを誰よりも近くで聞いていたのに出掛かりもしない。頭がポンコツ過ぎる。
「せっ、……精霊使い君は精霊使い君を憎むんですか!?」
「精霊使いくん?!」
神殿にいた頃から何度も貰っていたツッコミを、彼女はまたライリーから貰う羽目になった。対峙していた筈の二人ですら微妙な顔がシンクロしている。
「……いや、オレが憎く思っているのはシンクレア家の勇者であって、精霊使いが憎いわけではなく……というかオレの名はユンだ!なんだ!精霊使い君って!」
「えーと、俺はセオドアです……よろしく……?」
二人とも名乗ってくれたし、セオドアに至ってはよろしくと言われた。優しい。顔は相当困惑していたけども。
「えーと……じゃあ改めて……どうしてユン君は、セオドア君を憎むんですか?」
一度よくわからない空気を挟んだからか、幾分か冷静さを取り戻したユンが答えた。
「……それは、父上が憎いと言ったから……」
「父親に言われたからよく知りもしないセオドア君を憎むんですか?それは、本当に貴方の意思なんですか?」
「……な、にを……」
「もう一度聞きます。貴方は、本当にセオドア君が憎いんですか?」
「……それは……」
勇者が憎い。だから、シンクレアの勇者を憎んでいた。憎んでいた、筈だ。それは自身が尊敬する父が憎いと言ったからで、その称号を奪おうと戦いを挑んだのも、やはり、父に言われたからで。
「そこに貴方自身の思いはありますか?貴方の意思はどこにあるんですか?」
「……」
彼女の言葉に、答えられない。何故ならば、気付いてしまったから。
「憎むな、とは言っていません。でも、自分が憎んでもいない相手を憎もうとするのは……駄目だと思います」
「!」
真っ直ぐにユンを見詰めて言葉を紡ぐ彼女に、黄金色の双眸が見開かれた。
「……ユン」
言葉を返せないユンに、掟霊解放を解き翠嵐箭を消滅させたセオドアが呼び掛ける。
「ブラッドレイ家の当主に会わせてくれないか?」
「セえぇぇぇぇ?!」
ユンに対してセオドアが切り出した衝撃の言葉に、ライリーの声が意味を成さない絶叫となって谺した。
セオドアがティティーによって連れ出された、神殿の応接室。
『……宜しいのですか?ウィリアム様』
「……キース、戻ったか」
一人になったウィリアムに言葉を掛けたのは、彼の契約精霊、名をキースという。
キースの容姿は、月白色の大蛇だった。長い胴体はとぐろを巻き、巨大な蛇の額部分からは胴体と同色の長髪と、同色の鱗に包まれた人型の――男性の上半身が生えている。
蛇の両眼に当たる部分に眼は存在せず、人部分の双眸も瞼で堅く閉ざされていた。盲ている。
「……我がヴァレンティン家は、この事態を重く見ている……」
精霊大戦の頃より現存する精霊使いの御三家、シンクレア家、ブラッドレイ家、そして、ヴァレンティン家。
精霊大戦にて共闘した一族も、千年の時を隔てた今や、お互いの交流は皆無である。そう、皆無であった筈、だった。
自身の管理する神殿で彼女の部屋の燭台から精霊が誕生した事を、司教の位を持つウィリアムは当然気付いていた。
そして、その精霊の誕生から少し経った頃。彼女の指先を炎が掠めるようになり、炎は腕から、彼女の全身を侵蝕し始めた。更に時を同じくして兄が当主を務めるヴァレンティン家に、これまで交流が断絶していたシンクレア家当主から、とある申し入れがあった。
「兄君からの返答は?」
『一考の余地有り、と』
ウィリアムの兄、ヴァレンティン家現当主、アルフレッド・ヴァレンティン。シンクレア家からの申し入れとは、途絶えていた御三家の交流を復活させる事だった。
「兄君は聡明なお方だ……恐らく承諾されるだろう……」
その申し入れを受けるか否かアルフレッドは即答を避け、代わりに弟の神殿で起こった事件の解決を、シンクレア家に依頼した。その事件というのが、彼女の失踪である。
結果、依頼を受け派遣された次代の勇者――称号の継承者であるセオドア・シンクレアによって、彼女は異界からの帰還を果たした。その後のセオドアの考察もウィリアムの、アルフレッドの期待に沿うものだった。
言い方は悪いが、ヴァレンティン家はシンクレア家を試したのだ。そしてそれは同時に、申し入れの真意を探るという意味もあった。
事件解決までの流れ、先程までのセオドアとの応酬から推察したシンクレア家の真意を、ウィリアムはキースを通してアルフレッドに伝えていた。キースからウィリアムの伝言を受け取ったアルフレッドの回答が、キースの言った〝一考の余地有り〟であるならば、アルフレッドはシンクレア家の申し入れを承諾するだろう。
一考とは、シンクレア家の申し入れの事ではない。ウィリアムがキースに託した、ウィリアムの推察に対するアルフレッドからの返答だ。
「……精霊大戦の再来、なんて御免だが……それを覚悟しなければならないかもな……」
神殿を預かる司教の言葉が、月白色の大蛇には何故か、酷く寂寥感を伴って聴こえた。
セオドア・シンクレア〈Theodore・Sinclair〉
Theodore:神の贈り物
髪=黒色/瞳=橙色/年齢=17/性別=男
長所:視野が広い/短所:???
ライリーの住む街の神殿の司教から依頼を受け、派遣された精霊使い。穏やかで人当たりが良く寛大な性格であるが故に自身の事は二の次に仕勝ち。