双魔の宿業編 第二話―勝者と敗者―
完全に見開かれた両眼に揺らめく縞模様が、憤怒に因る煌めきを帯びる。恰も本物の瑪瑙を嵌め込んだかのような輝きに映るは、対峙するウィリアムへの殺意と、己が劣勢からくる焦燥。別離した四脚の返礼だと言わんばかりに、傾覆した巨体から地を揺るがす咆哮が迸る。憎悪の滲む絶叫と共に激憤を従えて放たれる光線の如き水砲と、その間隙を縫って撃ち出される水球が鉄と錯覚する程にまで硬質化している事実は、大地を抉る衝撃が雄弁に語ってあまりある。が、威力こそ凄まじいものの、その情感に翻弄されるが故の代償として攻撃の正確さは伴わない。
あまり穴を開けないでほしいのだがな、と、ウィリアムは胸中で独り言ちた。修復作業の為の人手も、その費用も、無限に湧き出る泉の如く、という訳にはいかないのだから。
攻勢に因る大地の破損を契約主共々苦々しく思いつつキースが回避に徹しているのは、あの破壊力を誇る猛攻に対し防御による耐久は不可能だと覚っているからだ。ウィリアム自身の体力配分は考慮せねばならないが、ここは躱し続ける方が好手である。それに幾ら攻撃を重ねたところで、激情に駆られ、冷静さを欠いた攻勢等に、キースが後塵を拝す筈もなかった。
「……キース、幕を下ろせ」
「『はい、ウィリアム様……』」
無情に、そして無感動に、神殿を預かる司教の言葉に、契約精霊が是を示す。
数字が表す序列とは、数字の若さに地位の高さが比例する。〝六番〟、〝瑪瑙〟と名乗った魔族の下位に何体いるのかは不明だが、上位には五体の魔族が座している事が推測出来る数字。誉れであるかの如く告げたその意味は、地位の高さか、もしくは希少性が故だろう。何れにしろ、己は魔王に抜擢され、栄誉を与えられし者である、という事か。
では六番とは、果たしてどれ程の地位なのか。
ウィリアムがライリー達を、と言うよりは、負傷したセオドアと狙われた彼女を離脱させる為の時間稼ぎ兼、足止めとして挑んだ魔王には、狐型の魔族が追随していた。しかし、側近と呼ぶに相応しい風格と実力を備えていたかの魔族と比較してみれば、面前の魔族は明らかに劣る。少なくとも、愉悦が故に隙を生じ、反撃を許す等しなかった。
「『“鯨波”!』」
「ぐぁッ」
戦場に於いての覇権を握る優位性を喪失し正しく手負いの獣と化した羊型の巨躯に、キースが追撃の術を放つ。行使した精霊術は、触れる者全てを押し流す巨浪。
凄絶な速度と質量を従え発現された荒れ狂う波濤が、聳えるかの如く壁と化して魔族の体躯へと押し迫る。切断された四脚が回復していない肉体は襲い来る衝撃に対処出来ずに直撃を食らい、呑み込まれ、挙げ句自由を浚われた。魔術を行使し反撃へ転じる余力すらも鯨波に没して揺蕩う様は、小船よりも儚く脆い。
それは無残に打ち捨てられた塵芥か、はたまた永の旅路の果てに辿り着いた漂着物か。
潮引く汀を舐めた水流が、名残を惜しむかの如く瑪瑙の巨体を吐き出した。余韻と共に消失した波濤の残痕に抗するような蠢動が、振動を経て痙攣に席を明け渡す。
「『“白雨”』」
契約主の言葉に応えたキースは、追撃の手を緩めない。雨という名の水滴の硬度を落下に因って生じる加速で更に強固にした術は、相手を殲滅する天空からの刺客。大地すら穿つ真白き群勢が遥かなる高みより雫と化して、横たわる巨躯へと降り注ぎ、墜ちていく。
身分の差等、些末な事だった。少なくとも、お互いにとっては。しかし、両家の者達にとっては、些末ではなかった。只、それだけの事だ。
生まれた家が悪かったのだと、本当は縁等なかったのだと。そう簡単に諦められる想いならば、最初から育ちはしなかった。
二人の家等、身分等関係無く、只お互いが惹かれ合った。隣に在って笑い合い、悲しみを分かち合う。想い合う相手に巡り逢えた歓喜を知れた、それはどれ程の幸福か。
許可出来ないというのであれば、許容されずとも構わない。だから二人は互いに家を、家族を、相手以外の全部を棄てた。只、互いが隣に在れさえすれば。二人にとっては、それだけで良かったのだから。
けれど相手を引き離す為に、双方の家から追手が掛かった。もしも捕らえられ連れ戻されれば、きっと望まぬ婚約者を宛行われ、二度と会う事は叶わないどころか、この身の自由さえ奪われるであろう。
二人は互いに覚悟を決めた。一度は全部棄てた身だ。棄てた者達を互いの為に害する事等、二人にとっては造作もなかった。
だから殺した。互いの為に。想いの為に。自由の為に。殺して。殺して。殺し続けて。
そうして殺し続けた結果がいつか自身に還ってくると、きっとお互いに気が付いていた。動き出した因果は廻る。殺し続けた報酬は殺される事なのだと、疾うに理解出来ていた。抗ったのは運命ではない。互いの別離なのだから。
例え死であろうとも、互いを別つ等あってはならない。離れないと誓い合った、離れるものかと決意した。死の凶手が迫る最中、二人は互いに手を繋ぎ、腕を掴み、足を絡めて、胸を合わせて、抱き締め合った。抱擁がお互い、最期の記憶となる筈だった。
抗いの成果は、酷く傲慢な願いに因って報われた。互いの誓いと、決意とを違える事無く。
――だから今も、二人は離れず隣に在る。引き離す事等不可能な肉体へと、その身を変えて。
「がぁあぁあぁァッ!!」
雄獅子の咆哮よりも猛烈に、雌羊の鳴声よりも激烈に響く三重奏は、人間と雄獅子と雌羊の口から紡がれた絶叫。死の雨が齎す苦痛と恥辱に対する、抗議の証明。
「……なんたる、屈辱か!人間、ごときが……!」
「……なんと、無様な……!許さぬぞ……!」
悪辣な呪言を吐露する人型の口元には、既に先刻までの愉悦はない。
満身創痍の肉体に反意を示す両眼が憎悪と闘志を漲らせ、法衣を纏った司教を鋭利に睨め付けた。が、限界を超越した肉体は受けた創傷の回復を許容せず、剥離し、崩壊して、砂粒よりもなお微細な塵へと、魔族を変貌させていく。
「……そんな……」
「……ばかな……」
「……こん、な……」
「……はずでは……」
精霊使いとは言え、矮小な人間風情に創傷を許した我が身の醜態に対する驚愕が、男声、女声と交互に紡がれ。やがて声音すら、風の合間に消え去って。
最期に揺らめく縞模様が、煌めきを曇らせ、砕けて散った。
「……、」
勝利の美酒に酔い痴れる事無く、余韻に浸る事もせず。代わりに勝者は只小さく嘆息を洩らし、蒼穹を仰ぐ。黒雲等見当たらぬ程に晴れ渡る天空とは裏腹に、神殿を預かる司教の裡には、嵐を孕む暗雲が重く立ち込めていた。
それは、正しく刹那の煌めきと共に起こった。
雷光や陽光と似て非なる、柔らかく暖かな眩い閃光。生命の燈めいた閃光が迅雷へ取って代わった瞬間、白に染め上げられる視覚に追従し、轟音に因って聴覚が占領された。
燻っていた白が晴れ、塗り替えられた視界が色彩を取り戻した時、共闘していた聖騎士団団長の姿は、副団長達の眼前から消失していた。
戦闘下に於いて対峙する敵から意識を逸らす事が命取りになる等承知の上で、ルイの視線が実兄の行方を捜して彷徨う。ニールの実弟である事実を証明する同色の瞳が、困惑と焦燥に揺らぐ。
が、その揺らめきは瞬時に立ち消えた。
ルイの意識を引き戻そうと声を掛けるべく開いたイルハンの口元が、苦笑の形状に引き結ばれる。どうやら使徒としての使命を見失ってはいないらしい。
魔族が魔族を庇うという現象に続き、塵化する魔族を魔族が喰らうという行為。二体の魔族の肉体が完全なる一つの肉体と化して戦闘が続行される最中での、聖騎士団団長の消失という事態。
有り得ない現象と、奇怪なる行為。そして、不可思議な事態。それ等全てを誇りある聖騎士団の使徒たる理性で以てして呑み込み、イルハンとルイは邪悪なる魔族に対峙する。
「アハハハハハハハハハッ!」
哄笑を吐き出す相貌は歪み、狂乱たる様相を呈する魔族に、最早知性は見られない。
知性無く猛り狂う眼前の敵を、最早魔族とは呼べないだろう。醜悪な容姿で、その凶暴性で以て人々を襲う魔物ですら、対象への攻撃という本能は存在する。が、攻撃とは本来、他に対して積極的な排除、もしくは危害を加える事を目的とした行動である筈だ。けれど飛来する氷塊と迫り来る樹根には、対象を排除しようという意思よりも、接近を忌避するかのような拒絶が読み取れる。
逆上とも、発狂とも、錯乱とも似て非なる、純然たる狂気から放たれる攻撃は激しくも単調で、既に標的等定まっていないのかも知れない。まるで癇癪を起こして暴れまわる、幼子であるかのようだ。
統合なのか融合なのかも定かではないが、同族の身を喰らったあの行為がこの事態を生み出した事実は明白。その結果引き起こされた現状は、相対するイルハン達にとっては危機でもあり、好機でもあった。
魔族が人間にとって脅威である最大の理由は、魔物同様の凶悪さに加え、知性を有しているからである。だが、知性が消失した相手ならば、征伐の難易度は魔物と同程度となるだろう。しかし命中率は兎も角としても間隙を縫う糸口も無い程の猛攻に防御と回避を強要され、二体の契約聖霊は攻勢に転じる事が出来ない。
「……ムハンマド、あれを」
直接当てられないのであれば、まずは足場を崩すべきかと決断した契約主の呼び掛けに、燕尾服を纏った山羊頭の聖霊は術の発動で以て応えてみせた。乱撃を潜り抜け天高く跳躍し、振り被った巨大な鎚を天空から振り下ろす。
「『“崖錐”!』」
大地を穿った震動は轟音を伴侶に四方へと走り、亀裂という名の腕を広げて崩落を麾く。顕現させた武具の接地面から広範囲を崩壊させる大技に因って瓦解した立脚地に八脚を取られた蠍の体躯が喚声を従えて傾覆し、氷塊と樹根の狂乱が途切れる。
「ルイ!リーゼ!」
「『……“夜想曲”……』」
イルハンとムハンマドの作った好機に追随し、ルイに憑依した契約聖霊の指先が、嫋やかに、優雅に楽曲を奏でた。奏者の静謐に満ちた贅沢な孤独が可聴領域を支配して、夜の情景を連れて来る。
特殊と言われ、複数の型が存在する地属性の中で、音属性は振動に因って音を生み出し術とする。指向性や無指向性は思いのまま、可聴範囲内に存在する相手の精神に作用し、間接的に、或いは直接的な影響を及ぼす。
聴き手の心身を蝕み、時には操る。それ故に、精神の異常を回復する術を行使出来る事もまた、音使いの特性である。
リーゼロッテの奏でる“夜想曲”は指向性の術であり、対象聴者の精神異常を正常化し、快癒の力を有する。通常は味方に掛ける術を相対する魔族に放つという選択が、正しい判断であるのだと証明するかの如く。地面に伏して踠く魔族の体躯が震えて、反応を示した。
「……」
真珠と紅珊瑚の両眼は、嗤笑から驚愕、やがて茫然へと王座を譲り。理性無き獣めいた哄笑を吐き出す口元に、歪みは既に影も無い。
全身から失せた狂暴は、魔術を行使するという意識、即ち戦闘を継続しようという意思も根刮ぎ刈り取ったらしい。足掻くように、必死に土を掻いていた関節肢が止まった。蠍鋏と蜘蛛脚、毒針を有する尾も、人型の腕も、その指先も。完全に動作が停止する。
その呆けたような表情が、暗がりで光明と見えたかの如く微笑みへと変化した。彷徨っていた視線が定めたその先には、竪琴の奏者の姿がある。
指先が、手が伸ばされた。縋るように、救いを求めるかのように。自我を取り戻す契機を与えた相手に、見出だした希望から溢れる暖かな感情を乗せたまま魔族が手を伸ばす。
「『……“鎮魂曲”……』」
聴者の要求に応えた奏者が、新たなる旋律を奏でた。贈られたのは、死者を悼む、弔いの歌。
竪琴から紡がれる音と、奏者の口から響き渡る二重奏は、苦痛を伴う攻撃ではない。リーゼロッテの術の中で唯一の、聴者に苦痛無き死を捧げる優しい歌。慈愛で以て悲哀を和らげ、安息を願い、安らかな眠りを祈る、葬送の調べ。
「……、……」
嘲笑や愉悦といった、歪な嗤いとは掛け離れた、否、対極に位置する微笑を浮かべた蠍と蜘蛛の肉体が、演奏の進行と共に音も立てずに剥落していく。
剥がれ、しかし、破片は大地に落ちるその直前に舞い散る塵と化し、少量ずつ削れていく。実体が崩壊していくその表情に、やはり苦悶や苦痛は無い。
「…………と、……しょ……」
吐息めいた呟きに合わせるかのように、紅珊瑚色と真珠色、双眸の煌めきが消失して。最期に、パキン、と弾けた双つを、微風が拐って去っていく。
「『……〝救われたい〟と泣いていた……』」
苦しいと、悲しいと泣いていたのだ、と。
契約主の口を借りた海の歌姫の静かな声を聞きながら、呟きの為に微かに動いた敗者の口元を追想したイルハンの相貌が憐憫に顰められた。
――ずっと、いっしょ……。
無防備に立ち尽くす背後から、鋭爪を突き立てる筈だった。
「……がはッ!?」
この魔術の発動条件は、三日月の鳴らす鈴の音を聞く事。聞いた相手は五感を奪われ、世界に満ちる全ての情報から遮断される。匂いも音も感じず、聞き取れず。皮膚と咽頭の感覚は麻痺し、何も触れず、声を発する事すら出来なくなる。視覚も閉ざされ暗闇よりも深い暗澹から、いつ抜け出せるとも知れぬ恐怖。それは人間の脆弱な精神等、容易く破壊せしめるに至る。が、一部の精霊使いの中にはそれが効かぬ例外もいる。
それが故の、二段構えの魔術である。相手の記憶の淵を浚い、暴いて揺さぶる、精神に作用する術の妙。記憶とは、快楽や喜楽のみでは決して構成されない。苦痛や辛酸、悲愴や憂愁といった忘却に沈めたい記憶も、必ず内包しているものだ。
敵と対峙する最中に五感全てを剥奪されるという圧倒的苦境に立たされた上で、悲痛な記憶が呼び起こされる。更に記憶から構築される、その相手にとって刃を向ける事すら出来ない〝誰か〟の幻影。
剥奪された五つの感覚の内、返還された聴覚と視覚は、その誰かの声音を拾い、容姿を見る。
幻影だと判らぬまま、否、例え理解していたとしても、この魔術から脱する方法――即ち唯一の解除条件である、誰かへの攻撃は不可能。現実ではなく記憶の産物であるからこそ、それは鮮烈で侵し難い禁域となるからだ。
だから。今回も三日月は、自身が勝者となると確信していた。それ故の愉悦であり、哄笑であり、攻勢であった。なのに、何故。
「……な、んでっ……!?」
何故。己が無様に大地に伏せて、敗者の如く睥睨の眼差しを浴びているのか。
「――悪いがこの手の術は効かん……シーラ、掟霊解放」
相対した瞬間から一切の変化も生じさせぬまま、嘲弄や憎悪の影無き淡々とした口調のままで。五感の全てを奪還せしめたイーサンが、武具の具現化を精霊に許す。
「『“紫霄斧”』」
その武具は、小柄で上品な老婆の容姿の精霊が具現化するには些か不釣り合いと言えた。
暁を告げる天空に座する、正しく紫霄の名に相応しい輝きを放つは、老婆の身長等優に超える長柄武器――斧槍、であった。
鋭利な槍の穂先に、重厚な斧頭。そして、鈎状の突起。様々な状況に対応可能な用途の広さと、実用に優れた多機能性を発揮する特徴は、その一方で使用者に多大なる練度と技術を対価に要求するであろう事は疑い無い。だが、イーサン・ブラッドレイという男の出で立ちには当然、熟練の強者たる風格があった。
――……ヤバい……!――
アレは食らったら駄目なモノだと、顕現した武具を構えた相手に三日月の脳が警鐘を鳴らす。その本能に忠実な肉体が大地からの抱擁を解き放ち再度の臨戦態勢をとると同時に、似つかわしくない穏やかな声音が峻厳たる戦場を駆け抜けた。
「『……久方ぶりですねぇ、主君が掟霊解放を許すのは』」
「たまには操っておかんとな」
操り方を忘れそうになる、と、短く返す契約主に淑やかな笑声を洩らし、甲羅を背負った老婆が続ける。
「『あら、冗談が御上手ですこと……さて、』」
重なり合う声音と表情とが、剣呑と硬質を帯びた、直後。
「――え……?」
白虎の巨体は少年の胴体に、永遠の別離を告げていた。
「『主君はあたくしの精霊術等必要としませんよ……自身の武術だけで大抵の相手は倒して御仕舞いになりますもの』」
構えた斧槍を音速にも勝るかの如く速度で以て横薙き振るった精霊使いの立姿が傾いで、次いで横倒しになった事で、初めて三日月は横転したのは自身の方だと理解する。驚愕が痛覚を凌駕したのか苦痛すら感じぬままに見開かれた視界の端では、響いた鈍音を道連れに白虎の体躯が頽れた。その耳朶を打つ、上品な声。
「『故に、滅多に掟霊解放しません。精霊は単なる鎧です』」
ですから、と、言葉が続く。
「『行使される事実を、光栄に思いなさい』」
「くそがァッ!!」
ちり、と。
風すら斬り裂くかの如く刎頸の為に振り下ろされる斧槍が奏でる終幕に、三日月の悪態と微かな鈴音が重なった。
イーサンの耳朶が拾い上げた小さな異音を正確に異変と感知して、シーラがその場から跳躍する。大地が揺蕩い鳴動を与える波紋が周囲に広がる速度と、イーサンの身体が回避に成功する速度とが、ほぼ同時。
シーラが飛び退いた事で標的を見失った刃先が虚しく空を斬る傍らで、少年の半身を――三日月を起点とした揺らぎが漣から、やがて波浪へと姿を変える。
「覚えてろ!この屈辱の借りは返すからな……!」
玲瓏と響き渡る鈴の音に、憎悪を含んだ哄笑が色を添えて余韻を掻き消す。その荒ぶる激情ごと三日月を呑んだ大地の鳴動が鎮まって、水面を模したかのような大地が本来の硬度へと回帰した時には、切断した筈の白虎の巨体も消え失せていた。どうやら肉体を両断されてなお、転移に費やす魔力を行使するだけの余力は残されていたらしい。
「『……あら、逃げましたわね』」
随分と熱烈な再戦の宣言ですこと、と。
然したる口惜しさも無い口調からは、逃げられた、と言うより寧ろ、逃がしてやったと取れる声質が滲んでいた。
「取るに足らぬ敗者の遠吠えだ。捨て置け」
脅威とも呼べない相手に尾を引く程、ブラッドレイ家当代当主という立場は軽くない。契約精霊は契約主に従い、憑操術を解除した。
「……シーラよ、敢えて逃がしたな」
肉体の支配権が自身へと戻ったイーサンが放った言葉には、しかし、口調とは裏腹に叱責の影すら感じられない。問われたシーラも、上品な笑みを浮かべたままで佇んでいる。ええ、と、首肯し、答えを紡ぐ。
『敗北で魔王側も学んだ筈ですから……精霊使い側には、魔王軍を撃破出来るだけの戦力がある……そう覚らせるのも大切で御座いましょう?』
未帰還の敗者ばかりでなく、無様な大敗で以て生還する己が配下の魔族に対して、果たして魔王はどう動くのか。
人好きのする微笑に混じる、仄かな愉悦。それは甲羅を背負う小柄な老婆が人間とは異なる存在であると、明確に示すかのようだった。
「御三家の誰かが敗北を喫するとは思わんのか?」
『あらまぁ、心にも無いことを』
容姿に相応しい淑やかな所作で、精霊は口元に手を当てる。
配下の魔族を、それも魔物という軍勢付きではなく単体で差し向けた理由は定かではないが、イーサンだけに魔族を派遣した等という可能性は皆無であろう。他の御三家の当主、更にはその子息等、今回の一件で繋がりを持つ事となった御三家とその所縁の深い者達にも魔族の襲撃はある筈だ。恐らくは己と同様に。それは、あの醜悪な白虎の言動からも窺い知れる。
「光栄に思いなよイーサン・ブラッドレイ!オマエの相手はこの三日月サマがしてやるよ!」
オマエの相手、という事は、即ちそういう事であろう。
しかし、その身を案じる必要性をイーサンもシーラも感じてはいない。それ程に惰弱な者達ならば、そもそも御三家の一角たるブラッドレイ家当主としてイーサンは縁を結んだり等していない。
『……それにしても、感情の揺さぶられるままに掟霊解放の行使を許すとは……』
かの魔術は、それ程腹に据えかねましたか?と。
相貌から愉悦を根絶し代わりに慈母の如き笑みを乗せて問うたシーラは当然、契約主たるイーサンの友人を知っている。その最期の姿も。
「……感謝スル……狼青……」
シーラの問いには応えずに、イーサンから洩れた独言。交流のあった証明として密やかに誇る言語を口にすれば、脳裡を過るは懐かしき友人の容姿と最期の言葉。そして。
――……ユン……――
息子に付けた、名の由来。
イーサン・ブラッドレイ〈Ethan・Bradley〉
Ethan:強い/堅牢な
髪=深紅色/瞳=黄金色/年齢=50/性別=男
長所:泰然自若/短所:頑固
精霊使いの一族、ブラッドレイ家現当主。ユンの父。身内から大罪人を出したシンクレア家が精霊大戦の英雄として勇者の称号をもつ事を許せずにいるが悲願成就の為に譲歩し断絶していた御三家の交流を復活させた。




