精霊の祝福編 第三話―憑依精霊はかく語る―
「『……邪魔……、しナいデ……!』」
よく知る彼女の声に、彼女ではない少女の声が重なる。まるで、セオドアとサイラスのように。
ライリーは、先程セオドアから教わったばかりの憑操術を思い出す。同時に、彼女が異界にいる理由も直感的に理解した。
彼女を護る為に、燭台から誕生した精霊は彼女に憑依した。そして彼女の身体を得た燭台の精霊は、自らの持つ力に因って彼女を世界の固定から外し、彼女を異界へと連れて来たのではないか。
――……あれ?でも待って……――
セオドアは言っていなかったか?精霊は、憑依した人間の生命活動を維持出来ないと。意識も明け渡してしまったら、呼吸をしない精霊によって、やがて心臓が止まってしまうと。
――……もしかして……!――
脳裡に過った考えから導き出された最悪の想像に、ライリーの相貌が、彼女を発見した喜色から蒼白へと変化した。自身の体温が、急激に下がっていくのを自覚する。
「……ぁ……、」
呼吸が荒くなる。脈拍が乱れる。喪失してしまうという恐怖のあまり、目尻に浮かび上がった涙が、零れてしまいそうだった。……いや……、頬を伝っていった。
「――大丈夫だ。生きてる」
「……ッ……セ……オ……」
「憑操術と憑依は違う」
暗闇に射し込む閃光のように、セオドアの声が、絶望に沈んだライリーに届く。
「憑操術は、憑依した精霊が精霊使いの身体の支配権を得る」
精霊使いが、自ら身体を精霊に明け渡す事によってのみ、精霊は、身体の支配権を得る事が出来る。そして、支配権を得た精霊使いの身体を通して初めて、精霊自身の持つ力を世界に具現化するのだという。精霊使いが身体の支配権を明け渡す代わりに、その身に宿した精霊の力を全て引き出し行使するのが“憑操術”なのだ。
「……だが、“憑依”はそうじゃない」
憑操術とは違い憑依では、精霊は自身の持つ力の全てを発揮する事が出来ない。憑依した人間の身体を通して、少しだけ力を使えたり、精々身体を動かせたりする程度。身体を明け渡す意思の無い人間自身によって、憑依した精霊の力が阻害され、身体の支配権を全て得る事が出来ないからだ。憑依対象の人間が、自らの意思で身体を明け渡さない限り、精霊は身体の支配権を完全に得る事は出来ない。精霊は憑依した人間の身体を、思い通りに操れない。だからこそ、憑依された人間には身体の支配権が僅かに残り、身体は必要最低限の生命活動を維持する事が出来る。
「今の状態の彼女に意識があるのかは判らないが、無事なことは確かだな」
人は寝ていても呼吸が出来るだろう?と。
「ただ、楽観視してはいられないが……」
セオドアは厳しい表情のまま、彼女に宿った精霊に問い掛ける。
「いつからその状態なのかは知らないが……無理矢理憑依を続けたら、彼女が死ぬぞ?……護りたいんだろ?」
「『……邪魔しナイでッて言っタでショ……!』」
彼女の掲げた手のひらが燃えあがった。否、手のひらから火が発生していた。
『……火の精霊……』
「『……成る程……燭台から誕生したので属性は火になるのですね……』」
ライリーの肩に大人しく座り、身を潜めていたティティーが呟いた。囁くような小さな声を正確に拾ったサイラスが、その呟きを肯定する。
「『ワタシは〝灯火〟……こノ子の、灯リ……』」
ライリーの瞳に、彼女と重なる精霊が視えた。姿は小さい。恐らくティティーと同程度の精霊が、彼女の胸元に重なっている。
灯火を名乗る精霊の上半身は人間の少女に似ていたが、下半身は蜥蜴のそれ。精霊の腰から下は、蜥蜴の胴体と尾が生えている。人間で言う肩甲骨の辺りと、蜥蜴の胴体の背中部分からは蝙蝠に似た翼を生やし。そして肌や髪、眼の色に至るまで、その全てが燃えるような――赤。
「『ダからッ、ワタシが護ル……!』」
掲げられていた彼女の腕が振り下ろされる。同時に、手のひらに纏っていた火が、セオドアへと放たれた。
「……サイラス」
セオドアの声に反応したサイラスが、セオドアの腕を正面に向ける。迫り来る火はセオドアの腕を掠める事なく、見えない何かに弾かれた。
「……今のって……」
目の前で突如開幕となった戦闘に思考の追い付かないライリーが、小声でティティーに問い掛ける。先程“火”と言ったティティーなら、サイラスが何をしたのか解るかもしれないと思った為だ。何よりも、今のセオドアとサイラスに、問い掛け等出来る筈もない。
『サイラスはたぶん……風』
少し自信が無さそうに、ティティーが答えた。彼女の腕から何度も発生し放たれる火を、セオドアは見えない何かで弾き続ける。その見えない何かの正体は、ティティー曰く“風”だという。
『たぶん……えっと、風でカベ……?を、つくってる』
向かい風が、進む者の行く手を阻むように。ティティーの言葉を借りるなら、サイラスは風の壁を発生させて、灯火の攻撃を防いでいるのだろう。
『あと、セオドアきっと……きれるの、まってる』
「きれる……?」
言葉の意味が解らずに、ライリーはセオドアを見る。セオドアからは、一切攻撃を仕掛けない。それどころか、始めから一歩たりとも、その場を動いてすらいなかった。
「『いイ加減ニ……ッ!?』」
再度腕を掲げようとした彼女の身体が、大きく傾いだ。そのまま、大地に倒れ込む。起き上がろうとしているようだが、思うように身体が動かせないのだろう。弛緩した四肢が、弱々しく地面を掻いている。
「……身体は動かせるんじゃないの……?」
「力を使い過ぎたんだ……だから、彼女の身体の支配権を喪失しつつある」
腕を下ろしたセオドアが、改めて彼女に近付いて行った。その後を追って、ライリーとティティーも近付く。
「お前、憑依した時にも無茶したんだろう?今の攻撃で、もう力が殆ど残ってない……このままだと、力を使い果たして死ぬぞ……?」
セオドアは倒れた彼女、正確には灯火の精霊に手を差し出しながら、静かに告げる。
ライリーはティティーの言っていたきれるがどういう事かを理解した。あれは、精霊の力が切れるのを待っている事を示していたのだと。だが、今はセオドアの更なる衝撃の言葉に、新たな疑問が湧き上がっていた。
「え!?精霊って死ぬの?」
精霊は死とは無縁の存在なのだと思い込んでいたライリーにとって、それは青天の霹靂だった。精霊にも死が存在するという事実に驚愕するライリーに、サイラスが答えを返す。
「『死にますよ』」
正しくは消滅ですが、と。
強い思い――思念が姿と成って、誕生するのが精霊である。肉体を持たない精霊は、人間や他の生物のように、肉体の損傷や老化によって死ぬ事はない。肉体を持たないが故に、寿命も無い。それだけならば、永遠を生きるかのように思われる。しかし肉体の寿命はなくとも、精霊にも消滅という終焉があった。
その終焉が訪れる瞬間が、力を使い果たした時なのだという。
残された思いの強さによって、精霊の、延いては精霊術の強弱は変わる。容姿や造型はあくまで誕生した精霊の象徴に過ぎず、力の優劣や強さの判断材料にはならないらしい。例えば猛獣の姿をしているからといって、猛獣と同程度の力を有しているかどうかは、その精霊の思いの強さ次第だそうだ。
彼女に憑依した灯火の精霊の“火”。セオドアの憑操術で、サイラスの行使した“風”。そして“異界渡航”。これらは全て精霊の力による術――精霊術だ。
精霊の力とは人間の体力に近い。身体を酷使し過ぎると過労で倒れたり、最悪死亡する事になるが、身体を休める事によって体力が回復するように、精霊の力も通常は時間経過と共に回復していく。
その回復が追い付かない状態。精霊術を行使し続ける事等に因り自身の力を使い果たすと、精霊は姿を顕現する事が出来なくなる。
思いが姿に成って誕生する精霊が、姿を保てなくなるという事。それが、精霊にとっての死。〝消滅〟なのだという。
永遠に一番近い存在と言われる精霊ですら、永遠は手に入らないのだと、ライリーはこの時初めて知った。
「消滅したら……どうなるの……?」
「『我々精霊は、元々無から生み出された存在です。消滅したらまた無に還るだけですよ』」
そう答えたサイラスの言葉は、少しだけ淋しそうに聴こえた。
「『……ッ……ダメよ……!』」
差し出されたセオドアの手を弱々しく振り払い、灯火の精霊が悲痛な声を発する。
「『……優しクしてクレタ……ずっト……』」
彼女に憑依した精霊が、静かに語り始めた。全ては、彼女を護る為だと。
灯火の精霊は、彼女の燭台から誕生した。孤児だった彼女が神殿に来るずっと以前から、燭台は神殿に在った。最初は祭壇の上。次に物置に仕舞われた。そして彼女が神殿に来た日、部屋を用意された時に、燭台は彼女の部屋に移る事になった。その日から、燭台は彼女の傍に在り続けた。彼女は引き取り手に恵まれず、やがて神殿を出て自立する年齢になった。その時にはもう、燭台には僅かながらに精霊誕生の片鱗が――自我が芽生え始めていた。彼女が神殿を出て行く事、彼女と離ればなれになる事を知って、燭台は哀しい気持ちになった。それが、自我の芽生えた燭台が、最初に知った感情だった。
彼女と離れてしまう事が哀しいと思った。燭台は知っていた。彼女が、神殿に来た日からずっと、燭台を大切にしてくれている事を。だからこそ、燭台に自我が芽生えたのだという事を。別離の日まで。否、これからずっと、この哀しい感情を抱えたまま、燭台は再び神殿の物置に仕舞われるのだと思った。
だが、別離は訪れなかった。彼女はそのまま、神殿で過ごす事になった。神殿が、彼女の職場になったからだった。燭台は嬉しい気持ちになった。彼女と離れなくても良い事がこんなに嬉しいのだと知った。〝嬉しい〟は、〝哀しみ〟の次に、燭台が知った感情だった。燭台が嬉しさを知った時、燭台に二度目の変化が訪れた。一度目の変化は、自我が芽生えた事。二度目の変化が燭台に齎したのは、精霊としての誕生だった。哀しみと嬉しさという二つの感情を知った事で、燭台は灯火の精霊として姿を成す事が出来るようになった。灯火は姿を顕現した。彼女と、直接話をしたかった。いつも大切にしてくれてありがとうと、お礼を言いたかった。大切にしてくれたから、精霊に成る事が出来たのだと伝えたかった。
だが、彼女は灯火を――精霊を見る事は出来なかった。やっぱり灯火は哀しい気持ちになった。それでも、灯火は彼女の傍にいた。傍に、居続けた。話せなくても、ただ、彼女の近くに居たかった。このまま、ずっと彼女を傍らで見守っていきたいと思った。
あれは確か、彼女と仲の良い少年に引き取り手が見つかって、少年が神殿を去り少し経った頃の事。
燭台に宿った思いが精霊として覚醒し、姿を得た灯火は、ある日彼女に纏わり付く小さな〝炎〟に気が付いた。
炎に気付いたのは、自身が同じ灯火だからなのか、灯火には解らなかった。解らなかったが、炎は危険な存在なのだという事だけは、灯火にも解った。
最初から、炎は彼女を取り巻いていた訳ではない。突然、何の前触れもなく。ある日彼女の指先に、戯れるように小さな炎が視えたのだ。その炎は徐々に大きくなり、指先から手首、腕へと勢力を伸ばしていった。やがて、灯火が危機を感じる程にまで、炎は彼女を侵蝕していく。
この炎は彼女を蝕み、やがて、全て呑み込んでしまうだろう。
だから、灯火は護りたいと思った。護らなければと、思った……。
「『だカラッ……ワタシが護ルノッ!炎がコノ子ヲ呑ミ込ム前ニ……ッ!』」
「……炎……?」
小さく呟いたのは自分だったのか、それともセオドアだったのかとライリーが考えた瞬間だった。まるで糸が切られた傀儡のように、脱力した彼女の身体が停止した。
大地に伏した彼女の傍に、彼女と重なって視えていた赤い精霊が、二対の翼を羽撃かせて浮かんでいる。
「……離れた……?」
「支配権を喪失したんだ」
倒れた彼女を抱き起こしながら、セオドアが答える。彼女の全身は力なく弛緩して動かず、瞼も閉ざされたまま――意識を失っていた。
「お姉ちゃんはっ!?」
「お姉ちゃん?」
「ぁ……えーと……」
気が動転しているあまり、つい昔からの呼び方をしてしまう。セオドアに指摘され、ライリーの頬が羞恥で染まるが、発言は取り消せない。
「意識はないが、呼吸もしている。大丈夫だ」
姉発言にはそれ以上触れずに、セオドアはライリーに言葉を返した。顔色は少し悪いが意識を失っているだけだと確認し、ライリーは安堵する。
『あの炎はダメよ!あれは暖める為のものじゃない……全てを焼き尽くす猛火なの!』
蜥蜴の尾を振り乱しながら、興奮した灯火が悲痛ともいえる叫びを上げる。その間にも灯火の姿は薄らいでいき、背後の光景が透けて視える程になっていく。
『……ッ……』
もう、長くはないと悟ったのだろう。これまでの攻撃性は鳴りを潜め、興奮すらも消し去って、次に灯火の精霊が口にしたのは、懇願だった。
『……ねぇ、こんなの勝手だって解ってる……でも、お願い……助けて……』
あの炎から、と。
だらり、と。力無く、灯火の尾が垂れ下がる。凪いだ海のように静かな、諦念を含んだ沈んだ声に、灯火の――精霊の終焉が近付いているのだと、それは誰の目から見ても明らかだった。
「その炎ってなんなんだ?」
「セオドアくん?」
「ん?どうしたライリー?」
「いや、どうしたっていうか……」
分からなきゃ助けられないだろ?そう言ったセオドアに、ライリーはおろか、簡単に受け入れてもらえるとは思っていなかった灯火は、信じられないとばかりに赤の双眸を見開いている。
『……助けてくれるの……?』
「?お前が助けてくれって言ったんだろ?」
何でもない事のように。当たり前だというように。
「だから、話してくれないか?お前の言う炎の事を」
――……ああ、セオドアくんらしい……――
つい先日逢ったばかりのセオドア。まだ、「彼らしい」なんて言葉を言える程、ライリーはセオドアを知らない。知っている訳ではない。けれど、これこそがセオドアの本質なのだとライリーは理解した。
灯火は静かに語り始める。
『……炎はこの子に執着してる……』
「炎っていうのは、精霊なのか?」
セオドアの問い掛けに、灯火は小さく首を振って否定する。
『……この子には、精霊の炎が纏わり付いている……でも、炎は精霊じゃないと思う……』
彼女を取り巻く炎があるのだと、灯火は語る。その炎は精霊の炎で、彼女への執着の顕れらしい。だが、炎は精霊自身の姿ではないのだという。
「……炎は使役されているのか……」
「えっと、どういうこと?」
あっという間に置いていかれたライリーが、セオドアに説明を求めた。
「多分、彼女に執着している誰か、もしくは何かがいる」
その誰か、もしくは何か、は理由は不明だが、彼女に執着心を抱いている。そしてその何者かは炎の属性を持つ精霊を使役しており、その何者かに使役されている炎の精霊が、使役者の執着心から彼女に炎を纏わせているのではないか。
何者かが人間ならば精霊使い。人外ならば、その炎の精霊は支配下にあるか、または協力関係にあるのだろうとセオドアは言う。
『……ワタシが離れたから……異界渡航を使えるアナタにも……炎が視えると思う……』
セオドアは抱えた彼女に視線を落とすが、僅かに首を左右に振った。
「……駄目だな、異界では視えない……戻ったらすぐに確認してみる……炎の事も、背後にいる何者かの素性も」
灯火は頷く。そして、小さく声を洩らした。
『……最初から……アナタに……頼っていれば……よかったな……』
それはもはや語りではなく、呟きだった。ぽつり、ぽつり、と小さく灯火が呟く度に、ぽろり、ぽろり、と剥落するように、精霊の姿が崩れていく。崩れた先から、消えていく。
『……護りたくて……危険に晒して……本当に勝手……』
蜥蜴の尾を生やした小さな赤い精霊は、彼女の頬に手を添える。否、添えようと伸ばした手は、頬を掠める事なく崩壊した。
彼女は目覚めない。意識を失って、瞳は閉ざされたまま。
『……一度だけでも……話して……みたかったな……ずっと……大切、に……して、くれ……て……』
――……言いたかったな……ありがとうって……――
最期は、空気に溶けていくように。彼女を護る灯火は――異界からも、世界からも……消滅した。
ライリーは頬を拭った。いつの間にか濡れていた。
それは、精霊が見えるようになって、初めて目にした精霊の最期。精霊の〝死〟だった。
『……ライリー、泣かないで……』
ティティーがそっと、ライリーの頬に寄り添う。ティティーの方が泣きそうな声をしていた。
「……ティティー……?」
ライリーもティティーに手を添える。すり抜ける筈の小さな精霊の青い手は、ライリーの指先を優しく握り返してくれた。
「……さわ、れる……」
ライリーは、以前読んだ書籍の内容を思い出す。精霊は基本的に肉体を持たないが、自らの意思で実体化する事も可能であると記述があった。壁をすり抜けたり、かと思えば植物等に座っていたりするのはその為なのだと。ライリーが初めてティティーを見た時に、ティティーはライリーの肩に座っていた。彼女を発見した時も、ティティーはライリーの袖を引っ張って知らせてくれた。今思えば、あれも実体化していたのだろう。そして今もティティーは実体化しており、ライリーに寄り添ってくれているのだ。だからライリーも、今はこうしてティティーに触れられる。
あの灯火も。きっと、最期に触れたかったのだ。けれど、それは叶わなかった。
「……ありがとう、ティティー……」
『……うん……』
「……」
寄り添い合うライリーとティティーの傍らで、彼女を抱えたまま虚空を見上げていたセオドアは、夕暮れめいた橙色の双眸を刹那の間世界から閉ざした。耐えるように小さく、短く吐息を洩らし、再び開かれた瞳には、もう悲哀は宿していない。
未だに涙が止まらない自分とは大違いだと、ライリーは強く目許を擦る。きっとセオドアは、精霊の死を見るのは初めてではないのだろう。それでも、瞼を閉ざしたあの瞬間に、あの表情に、セオドアの思いは痛い程に伝わってきた。その悲哀を呑み込んで、セオドアは瞳を開いたのだ。哀しい、けれど、哀しんでばかりはいられない。優しくて、強い人だから。
――……やっぱりセオドアくんはすごいや……――
見倣いたい。少しでも、セオドアのようになりたい。ライリーの涙も、漸く止まりそうだ。
彼女を神殿に送り届けた帰り道。
あの後――灯火の精霊の最期を見届けた後、セオドアはサイラスに帰還を命じた。命令に応じたサイラスが異界渡航を発動し、ライリー達は重なり合う異界から、世界に帰還を果たした。
それまで視界で重なり合っていた光景――蒼穹、樹木、道が本来の色を取り戻す。異界から還って来たのだと実感したライリーは、長らく重なって見えていた景色にどこか違和感を覚えてしまい、瞬きを繰り返す事でどうにか視界を慣らす事に成功した。漸く見慣れた景色を取り戻したライリーの傍らには、セオドアと、ティティー。セオドアの隣にはサイラスの姿。異界から戻って来た事で、憑操術を解いたのだろう。
「……ああ、確かに視えるな」
神殿へと向かいながらも、セオドアはすぐに、灯火の言っていた彼女を取り巻く炎を確認したらしい。ライリーも視線を向けるが意識を失った彼女が見えただけだった。
『……なんか、こわい……』
『ええ、酷く攻撃的で……嫌悪すら感じますね』
精霊であるティティーとサイラスにも彼女に纏わり付く炎は視えているようで、ティティーは恐怖を、サイラスは嫌悪を感じているようだった。
ライリーは、自身の無力さを痛感する。精霊が見えるようになってまだ一日も経っていないのだから、仕方ないのかも知れないが。神殿にいた頃から姉と慕っていた彼女に対して、なんの力にもなれそうにない事が、こんなにも悔しい。
自分だけ何も視えない無力感に打ちひしがれながら、神殿へ到着する。驚愕と歓喜に舞い上がる彼女の同僚に案内されて通された彼女の部屋には、三本立ての燭台があった。彼女が毎日手入れをしている筈の燭台が、ライリーには、何故か少しくすんで見えた。
セオドアは彼女について話を訊くつもりだったが、生憎と司教は不在だった。
神殿には明日再度伺う旨を伝えた上で、ライリー達は神殿を後にし、一先ずセオドアの宿泊先である《銀の馬のしっぽ》に向かっている。
「……ねぇ、セオドアくん」
先を歩くセオドアを、ライリーが呼び止める。
「……ぼくは……最初はただ、精霊のことが知りたくて……でも今はそれ以上に、セオドアくんのことが知りたい……」
呼び掛けに振り向いたセオドアの瞳を、ライリーは見据えた。夕暮れの空を閉じ込めたような橙色と、若葉を思わせる深緑が、蒼穹の下で交錯する。
「――ぼくは、きみと友達になりたい」
――……ああ、まただ……きみと話すとぼくは、ぼくの知らない……新しいぼくになる……――
それはライリーにとって、嬉しい変化。今までの自分なら、きっと出てこなかっただろう、願望。
セオドアは精霊使いとして、神殿の司教から依頼を受けてこの街に来ている。その依頼は、達成されたと言っていいのだろう。依頼内容は失踪した彼女の捜索で、彼女は無事に発見された。失踪の原因となった彼女の部屋の燭台から誕生した精霊は消滅してしまったものの、彼女は現在神殿に戻っている。彼女を取り巻く炎という現象についても、セオドア程の精霊使いならばすぐに解決出来るのではないか。
セオドアはこの街の住人ではない。依頼が完了したのなら、当然この街を去る事になる。
セオドアの住む街を、ライリーは知らない。セオドアの事だ、きっと尋ねれば教えてくれるだろう。だが、知ったところで逢いに行けるかどうかは別の話だ。ライリーにも、セオドアにも生活がある。頻繁に逢う事は難しい。だからこそ、繋がりをもっていたかった。
『望みが叶いましたね?セオドア』
ライリーからの脈絡のない「友達になりたい」発言に瞳を見開いて硬直していたセオドアは、揶揄うような、それでいてどこか嬉しそうなサイラスの声に我に返る。
『貴方、友達居ませんものね?』
「え?」
「……サイラス!」
楽し気に微笑むサイラスに、頬を朱に染めてセオドアが叫ぶ。あんな貌もするのかと、ライリーはセオドアの新しい一面を知れた事を嬉しく思った。
『ティティーもともだち!』
セオドアの肩にティティーが抱きつく。実体化したのかすり抜けないティティーを、セオドアは優しく撫でている。それにしても、
「セオドアくん、友達いないの?」
「え!?……あぁ……いや、まぁ……」
少し困ったような表情で首筋を掻きながら、セオドアが視線を逸らす。その頬はまだ染まったままだ。
「……その、ぼくも友達いなくて……だから……えと……お、お互い様ってことで……改めて、よろしく……」
あの時は、先にセオドアが右手を差し出した。だから今度は、ライリーが先に右手を差し出す。あの時のセオドアと、同じ言葉を伴いながら。
差し出されたライリーの手を、セオドアが握り返して微笑む。あの時の、ライリーの返した言葉と共に。
「ああ、改めてよろしくな、ライリー」
「……そういえば、」
彼女の部屋の燭台を思い出し、ライリーは言葉を紡ぐ。
「……あの灯火の精霊にも、名前はあったのかな……?」
それは小さな赤い精霊が、名前ではなく〝灯火〟を名乗った時に脳裡に浮かんだ疑問。
そもそも精霊に個を識別する名前があるのだという事を、ライリーは昨日初めて知ったばかりだった。ティティーと話して、ティティーが名前を告げてくれなければ、まだ知らないままだっただろう。
『精霊は誕生した瞬間に、自身の姿と名前を理解致します』
独り言めいたライリーの疑問に、サイラスが答えをくれる。
『我々精霊は最初に自我を得るのです。自我を得た思いはやがて姿と成り、そうして世界に顕現されるのですよ』
サイラス曰く、自我を得た時ではなく、世界に顕現した時に、精霊は自身の名前を理解するのだという。
『ティティーもそうだったでしょう?』
『うん、ティティーってわかった!』
名称とは個を表すモノ。大別と区別するモノ。名前がなければ、ライリーもセオドアも人間という種族の、男という性別でしかない。名前が有るからこそ、ライリーとして、セオドアとして、個として確立されている。
彼女を思い、彼女を護ると言っていた、蜥蜴の尾を生やした赤い精霊。
「……あの灯火の精霊にも、名前はあったはずなんだ……」
知りたかったと呟くライリーに、言いたくなかったのだろう、と、空を仰いでセオドアが答える。
「……きっと、彼女以外の……」
その名を、裡に秘めたまま。誰にも言わずに世界から消滅した、彼女の灯火。
「……誰にも知られたくなかったんだよ……」
【精霊の祝福】
【祝福の裏側】
「そういえば、ティティーはなんの精霊なの?」
『ライリーが助けてくれた!』
「うーん……?」
『ちょうちょ!』
「ちょうちょ……?」