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魔王の肖像編 第六話―約束―




 必ず成し遂げてみせるのだと、空虚な墓標で決意した。







 約束とは、自身、ないしは他者との間で交わされる取り決めである。タニアにとっては前者であり、また、後者でもあった。

 タニアの故郷は《シェンナィ連山》の山間(やまあい)に存在した。深い深い谷底で、急流の他には何も無い《カュワラン峡谷》は、僅かな人々が慎ましく暮らす小さな小さな村だった。

 村人全員が家族のような、閉ざされた世界。其処で生まれた時、タニアには既に両親(おや)はいなかった。

 母親(はは)はタニアを産んだ直後に容態が急変し、父親(ちち)はタニアが生まれる前に落石に巻き込まれて亡くなったらしい。

 旦那(つれ)がいなくとも立派に育てると決意し出産に臨んだ母親(女性)の死を悼み、憐れんだ人々によって、タニアは村人全員の子供として育てられた。人数こそ少ないものの、タニアにとっては村人全員が父であり、母であり、兄であり、姉でもあった。

 長じて()()が出来る年頃(ころ)になると、兄や姉であった若者達の何人かが街への移住を希望するようになった。村は閉鎖的という訳ではないが、穏やかで平凡であるが故の平和に飽き刺激を求め、実際に村を出奔する者もいた。

 しかし、外界に憧れを(いだ)若者(他者)とは異なり、タニアは村を出よう等と考えた事もなかった。川しかない、とは言うが、其処には美しい自然があり、またその自然の恵みに因って、人々は日々の生活の糧を得ていた。交易の為に山を越え街や村を行き来する行商人から聞く外界(そと)の話は、興味深くはあっても、羨望や憧憬への変化の兆しは見せなかった。この村で一生を終えたいと、タニアは本気で考えていた。生まれ育った大好きな村に、いずれは骨を埋めるのだ、と。




 幼い頃からタニアの目には、他の村人とは決定的に異なる存在(もの)が見えていた。それは精霊という存在(もの)であり、タニアが〝祝福を受けし者〟であるという事実(こと)の証明であった。しかしタニアの両親(おや)どころか、村には精霊使いの家系も、祝福者の家系も存在しなかった。

 そんな状況下でタニアは村人から畏怖の対象とされる事もなく、精霊を見る目はタニアの個性であるとして、人々から好意的に受け入れられた。これは実はかなり珍しい事象(こと)なのだと、当時のタニアは知る由もなかったが。

 皆が有しない特異な力が、艶羨や嫉妬、恐怖の対象となる事も無く友好的に容認されるという幸運。自身の恵まれた境遇を、当時のタニアは当然のものとして享受していた。己は幸福な少女であったと、現在(いま)ならば解る。

 だからこそ、タニアは許せない。大好きな村を、人々を、幸福(しあわせ)な世界を破壊(こわ)した、魔族という存在そのものを。


 世界の破壊音を聴いたのは、十四歳の誕生日だった。


 何気無い平穏な日々の節目に少しだけ特別な彩りを添える、一年に一度の記念の日。子は生まれてきた事を寿がれ、産んでくれた母に感謝を伝える祝いの日。タニアにとっては生誕の日であると同時に生母(はは)の命日でもあるその日は、あの瞬間(とき)から村人全員の命日となり、亡き人々(ひと)に捧げる哀悼と鎮魂の日となった。

 母親達(・・・)が腕を振るって用意してくれた好物が並んだ食卓が、鳴動に因って破滅を告げた。大地の怒りと錯覚する程の震動が小さな村へと牙を剥く。笑顔は困惑、そして恐怖から恐慌へと次々に玉座が入れ替わり、その破壊と破滅を齎した一体の魔族は恰も温厚な老紳士であるかの如き態度で以て穏やかに、だが容赦無くタニアの故郷を壊滅せしめた。

 それは勇猛か、はたまた無謀か。タニアより幾つか年嵩の青年が、激憤(いかり)悲嘆(なげき)を吐き出した。どうしてこんな事をする、と。


「――何、この老翁めの気まぐれですよ」


 怨嗟を放った青年は、それが最期と自覚する間もなかっただろう。優雅な右腕(うで)動作(うごき)と相反する大地の隆起に一瞬で呑まれた青年は、醜悪な三つ首の口元に愉悦を湛える笑みが浮かんでいる様を見る事はなかった。

 老翁の首と牛の双頭という異形の魔族がそうやって腕を振る度に、大地が蠢き、鳴動し、隆起と陥没が繰り返された。平穏な故郷は瞬きの間に姿を変えて、樹木も草花も、家々も人々も差別する事無く呑み込まれて地中の奥底(そこ)へと消えていく。生から死へと旅路の行く末を変更させられた父親達や母親達、兄姉弟妹(きょうだい)達は大地に沈み、平凡であるからこその平和は、気まぐれ等という理由にもならない理由に因って蹂躙され、破壊され、滅ぼされた。

 魔物や魔族の襲撃は、天災と同義(おなじ)人間(ひと)とは異なる理で世に在る双魔に、人間の道理等通用しない。故に、眼前の魔族が故郷を滅ぼしたその理由が、単なる気まぐれとあると知った時。激憤と共にタニアに湧き上がった衝動は、やはり魔族とは相容れないという感情(もの)だった。

 その感情(おもい)に突き動かされるままに、タニアは魔族へと追い縋った。咽頭(のど)から迸る絶叫は、それまでの生で発した事等無い高音で、憤怒(いかり)悲哀(かなしみ)に塗布されていた。

 相手を倒そうとか、せめて一撃、等といった思考は、その時のタニアには存在すらしていなかった。只、精神(こころ)に従った肉体(からだ)が、考え無しに足を動かし走らせただけ。

 が、十四の少女の衝動のままの突進等、魔族にとって何らの意味もなさなかった。

 タニアの指先は魔族の体躯(からだ)どころか、纏った服に触れる事すら叶わなかった。

 まるで小煩い蠅でも払うかのような、煩わしいとばかりに緩慢に振られた魔族の腕は、タニアの足下へ新たな陥没を生み出した。捕獲さ(とらわ)れた両足(あし)が、満足な抵抗等出来る筈もなく。惨めに横転した自身の上に淡雪のように降り積もるそれが土である事をタニアは嗅覚に因って察して、次いで理解した。埋められているのだ、と。

 湿った土の匂いと、徐々に狭まっていく視界。埋葬とは、生ある身にはかくも恐ろしいものなのかと、遠退く意識の(なか)で思って。陽光(ひかり)から隠されてしまう前にと、必死に手を伸ばした後の記憶は、タニアから消失している。




 曖昧な意識が鮮明になった切欠は、頬を濡らす感触と聴覚が拾った微かな遠雷。

 大地に伏した身体に土に代わって降り注ぐ雨が、冷たさを契機に更なる意識の覚醒を促す。生き埋めという恐怖から本能は無意識に生へと縋りつき、暗く湿った地中から這い出したのだろう。

 身体の苦痛(いたみ)が呻きと化して、タニアの口から零れ出る。不様にも何度か転倒し、その度に泥土に塗れながらも四肢に力を入れて立ち上がる。土の味というものを、この時タニアは初めて知った。

 何もかもが様変わりしていた。数える程しかなかった家々も、僅かばかりの田畑も、水という恵みを齎すと同時に、増水に因って牙を剥く急流も、其処に住まう人々も。全てが等しく赤茶けた泥土(つち)(うず)もれた世界で、タニアが独りで立っていた。

 山間の小さな村は、たった一体の襲撃者の気まぐれで滅亡した。惨状という言葉が、此程までに似つかわしい。

 絶望と悲愴、憤怒と憎悪の中でタニアが放った絶叫は、天空を切り裂く閃光(ひかり)轟音(おと)に掻き消された。







「――……だから、私は貴方を心底憎んでいるのよ」

 藤色の双眸は仄暗く。声音に反映する感情は、憎悪を湛える澱に滲む。

「貴方に復讐する為に、私は生を永らえた」

 自身の名がタニア・ブラッドレイとなる以前。タニアの本名は、タニア・レ・ニャゥといった。タニアが両親から貰えた、最初で最後で唯一の名前(もの)

 今はもう名乗る事も、その必要性も無い、かつての名前を初めて明かした外界(そと)人間(ひと)――イーサン・ブラッドレイとの邂逅は、絶望と希望と決意の中でタニアの生への指針となった。








「――何をしている?」 


 正直なところ、何日そう(・・)していたのかは分からない。あの日から昼夜を問わず降り続ける雨の中で、その日も無心で土を掻き、大地を掘るタニアの腕を掴んだ青年は、声の峻厳さに相応しい相貌を(しか)めた。

 降雨に濡れて額に貼り付く深紅の髪、その間から覗く黄金色の眼差しは、雨天というくすんだ景色の中でなお、否、だからこそ、いっとう輝きを放って見えた。

 黄金の煌めきを一瞥し、掘ってるの、と、答えたタニアに、見れば解る、と、青年は返した。何故そんな事をしているのかと、そういう意味で訊いている、と。

「……埋められたから掘り出すの……」

 大声で呼んでも、どれだけ待っても、誰も地中から生還し(かえら)なかった。呼ぶ事に疲れ、待つ事に慣れないように(・・・・・・・)、タニアは皆を捜す事にした。

 遠雷と呼ぶには程遠い黒雲が占拠する天空(そら)に迸る眩い軌跡と、聴覚を犯す轟音(とどろき)を先兵に、天だけでなく地をも手中に収めんと進撃する氷雨(あめ)がタニアと青年に落ちてくる。

 掴まれた腕を振り解く事に失敗するが、タニアの手は止まらない。拘束を受ける片腕はそのままに、もう片方で泥土を抉る。一度埋まって全身にこびり付いた土は疾うに雨に流されていたが、再び土を掻き出すタニアの身体は徐々に土に塗れていく。

 既に指先どころか肘まで泥に汚れ、爪の間には土が入り込んでいる。掘り出された石や木の枝で怪我をしている事ですら、今のタニアにとっては些事だった。

 嗚呼、皆はもっと深い場所(ところ)に居るのか。ならばもっと、もっと深く、深くまで掘らなければ。


 何処にいるの?見つからない。早く。もっと。深く。もっと。もっと。もっと。


 一心不乱に土を掻く意識を引き戻すように、青年に問われた。何が埋まっているのかと。だからタニアは、村の皆と答えた。ぽつりぽつりと、魔族の襲撃の事を伝える。もしかしたら誕生日だったとか、必要無(いらな)い事まで話したかもしれない。

 雨音(あめ)が激しく勢力を拡大していく中で。豪雨に掻き消されてもおかしくはない独白にも似た声を、青年は正確に聞き取っていたらしい。

「――無意味な事をするな」

 雷鳴が凄んでも雨に打たれても、腕を掴まれても止まらなかったタニアの手が、その一言で停止した。原動力の枯渇ではない。指摘されるまでもなく自身の本能が理解して、それ故に理性が拒んでいた事柄を鋭く貫かれたが為の動揺が原因だった。次いでタニアの裡に湧き上がったのは、激しい怒り。見知らぬ青年に正鵠を射られた戸惑いは激憤へと身を転じ、激情は声量を伴ってタニアの口から飛び出した。

「どうして貴方にそんな事言われなくちゃならないのッ!?」

 そう、本当は疾うに理解していたのだ。土を掘り返しても(こんな事をしても)何の意味も無い、なんて。

 呼び掛けに応えはなかった。どんなに待っても、誰もタニアのように這い出してくる者はいなかった。だから解った。もう村の皆はとっくに死んでいるだと。

 人々は大地に呑まれ、土に(うず)もれて死んだのだ。それなのに、生きる事にしがみ付いた己の身体は、浅ましくも地中から這い出した。何も出来なかった事実に絶望し、大好きな人達の眠る場所で自身も静かに眠りたいと思っても、自ら生命(いのち)を絶つ覚悟もなくて。

 ならばせめて、気まぐれで皆を殺して、村を滅ぼした憎い魔族に復讐したいと思った。出来る出来ないの問題ではなく、たとえこの身を(なげう)ってでも成し遂げる。突然奪われた生と、強制的に与えられた死を嘆いているであろう皆の無念を晴らすのだ、と。

「……でも……っ!」

 でも、きっと優しい皆は、復讐なんて望んでいない。タニアがそんな事をすれば、きっと悲しませてしまう。

 大地深くで眠る村の人達は、誰も復讐なんて望まない。望んでないから、憎い魔族に復讐する事も出来なくて。

 そもそも魔族との戦闘どころか、直接相対する事も、タニアは初めての経験だった。ちっぽけな小娘が、腕を振るうだけで大地を操る魔族相手に抗しうる筈もない。

 自死する覚悟も、然りとて、復讐する力も無くて。非力で無力な自分では、土を掘る他にどうすればいいか分からない。

 己の頬を濡らすものが雨か涙かの区別もつかぬまま、千々に乱れた激情に任せ雷雨に反逆するかの如くタニアは声を荒らげる。まるで獣の咆哮のようだ。

「復讐したくても力が無いっ!皆は復讐なんて望んでない!じゃあほかにどうすればいいのよ……っ!」

「……ならば、お前は何がしたい?」

 何をすればいいのだと吼えれば、返ってきたのは静かな問い掛け。

「復讐か?弔いか?或いは死か?」

 この場に居合わせたのも何かの縁だ、望みを叶える為に助力をしよう、と。

 その申し出が実はかなり珍しい事なのだと当時のタニアは知る筈もなかったが、見知らぬ青年の言葉(それ)は暗がりに一条の光明(ひかり)が差すかのようにタニアの胸の最奥(おく)へと届いた。

 魔族への復讐か、村の人々の弔いか。或いは死か?と、青年は訊いた。

「……死にたいって言ったら……殺してくれるの……?」

 見ず知らずの小娘の譫言(うわごと)めいた言葉にも、青年は真摯に応えてくれた。

「お前が、真にそれを望むなら」

 降雨(あめ)に煙る視界の中で茫然と青年を見上げて、片腕が掴まれたままだという事に気付いたタニアは逆に青年の腕に縋り付く。

「……復讐したい……」

 そうだ、本当は死にたいなんて思ってない。だって死んでしまったら、もう復讐する事が出来なくなる。たとえ皆が望んでなくとも、悲しもうとも、タニアが真に望むのは憎い(あの)魔族を斃す事。弔いも、自身の生に終止符(おわり)を打つのも、その後にするべきだ。だって、本当は復讐したくて(その為に)、自分は地中から這い出したのだから。

「……ふふっ、……」

 なんだか急に可笑しくなって、口元が綻ぶ。身体の震えが寒さや憎悪ではなく笑いであると覚ったのは、自身の口からくすくすと声が洩れたから。

 篠突く雨が緩やかに矛先を収める。地上全てを侵略するかの如く苛烈さで以て天空(そら)から落ちていた雨は、鳴り響く雷音と共に撤退を決めたらしい。

 黒雲の色彩が鈍色へと転身し、隠匿されていた陽光が何日かぶりの相貌(かお)を覗かせる中で唐突に笑いだしたタニアに、訝し気な眼差しを向ける事もなく佇む青年と視線を合わせる為に立ち上がる。それでもずれる、目線の高さ。見た目と言動から分かってはいたが、青年はタニアよりも年嵩なのだろう。

「ねぇ、貴方って変わっているわよね?普通、復讐は止めるものなのじゃなくて?」

 遺族という被害者は、復讐に因っていとも容易く加害者へと変貌を遂げる。悲哀(かなしみ)憎悪(にくしみ)の連鎖は、どこかで誰かが苦渋を呑んで絶ち切らなければならない。だが少なくとも、今のタニアには絶ち切れそうになかった。

「……復讐は為しても為さずとも、死んだ人間は甦らん……」

「……なら、」

「怨嗟の声も無く、賞賛もせん……死者とはそういうものだ」

 望んでいないと恨み言を言う事も、どうして為したと嘆き悲しむ事も、よくぞ為し遂げてくれた、と、賞賛される事も無い。

 なればこそ、と、青年は言った。なればこそ、真に従うべきは己の心だと。

 その言葉の裡に成し遂げた(・・・・・)者の響きがある事を、タニアは悟る。

「……ねぇ、私、タニア・レ・ニャゥっていうの……貴方は?」

 小さな村では家名等、有って無いようなものだった。だから、両親(おや)から貰った唯一を、タニアは生まれて初めて、他人(誰か)に明かした。

「イーサン・ブラッドレイ」

 淡々と、何らの感情も乗せる事なく簡潔に名乗った深紅の髪の青年――イーサンは、タニアが眠らせようとした生きる意思を呼び覚ました。故郷を滅ぼされた復讐にこの身を永らえる、仄暗い生への執着心を。

「復讐する相手は魔族だが……これ(・・)が見えるか?」

 これ、という言葉に合わせて、イーサンが黄金の眼差しを向けた先。追随するかのように控える小柄な老婆が、上品な所作で一礼する。

 誰もいなかった筈の場所に、村人(ひと)と似通う、或いは人間(ひと)とは違う何かの姿が時として不意に現れる。幼い頃からの経験は驚愕や恐怖を伴わず、只事実としてそれを受け入れる。だから、別段タニアは驚かなかった。素直に見たままを伝えた。お婆ちゃんがいるわ、と。

『見えるという事は素質があるという事……見込みはありますね、坊っちゃま』

 所作を裏切らぬ品の良い声が、喜色を添えて穏やかな笑声を洩らす。口元に手を当て微笑む老婆に、坊っちゃまは止せと呟いて、イーサンはタニアに道を示した。即ち、精霊使いとしての未来を。

「精霊が見えれば誰でも精霊使いになれるの?」

 その問い掛けに、努力次第だと言い放ち、イーサンは続ける。

「一度発した言葉を違えるつもりはない」

 この場に居合わせたのも何かの縁だと。望みを叶える為に助力をしようと言われた声が、タニアの脳裡で反響した。

「共に来い。このイーサン・ブラッドレイが、お前の望みを扶助しよう」

 差し伸べる、というよりも、己で掴めと言われているかのような握手(それ)

 故郷が滅亡した絶望と、復讐を果たす為の手段が示された希望。そして、必ず成し遂げてみせるのだという決意。生への指針が志半ばで挫折す(おれ)る事の無いように、タニアはイーサンの握手に応える。

「……此処は空虚な墓標だわ。石も杭もないけれど……」

 何も無くなってしまった大地は、かつての故郷。今は、皆の永眠す(ねむ)る場所。

「ねぇ、約束するわ……魔族を斃す力を得るまで……いいえ、復讐を果たすまでは泣き言を言ったり、弱音を吐いたりしないって」

 だから、と、タニアは言った。鋭利な煌めきを放つ双眸を真っ直ぐに見据えて。

「私を生かした責任を取って、お嫁に貰いなさい!」

「な……!」

黄金を熔かして流し込んだかのように、冷ややかさを湛えていた瞳が見開かれた。深紅の髪の青年が、初めて動揺の色をその頬に乗せる。それは大人びた、と言うよりは、年齢(若さ)に不釣り合いな厳格さの牙城を崩し、イーサンが初めて見せた年相応の表情だった。

「……ふふっ、冗談よ?」

 相貌の変化に満足し、タニアはすぐに前言を撤回する。

 そう、冗談だ。だって、イーサンに諭されるまでもなく、タニアは生を望んでいたのだから。元より眼前の青年に負うべき責任等は無い。

「その代わり、貴方も約束して……見捨てたりしないって」

 敢えて冗談を言ったのは、この言葉を解き放つ為に少しの勇気と、何よりも勢いが欲しかったから。それでもやはり、私を、とまで言えなかった。

 拒絶を恐れる微かな震えは、覚られずに済むだろうか?

「……よかろう、約束しよう」

 握られた手の力が僅かに強まる。タニアの紡げなかった言葉まで正確に汲み取った上での優しい強さに、この手と共に在れる幸福を噛み締める。

「……ありがとう」

 (のち)に、このイーサン・ブラッドレイとの邂逅は本当に縁だったのだと、否、もっと稚拙な言い方で運命(・・)だったのだと、タニアは称する事になる。







 約束とは、自身、ないしは他者との間で交わされる取り決めである。タニアにとっては前者であり、また、後者でもあった。あの雨天(そら)の下の出逢いと、交わし合った約束は、現在(いま)もタニアを支えている。

 思い返してみれば、あの時の自分は可愛くなかった。幼児(おさなご)のように泣き喚いて、身体はずぶ濡れの泥だらけで、髪も顔もぐちゃぐちゃで。

 聞けば六歳も年上だった青年(イーサン)に、随分な態度をとったものだ。

 弱音は吐かないと約束をした。空虚な墓標と化した故郷で、必ず成し遂げてみせると誓った。例え自分の生命(いのち)を犠牲にしてでも、刺し違えてでも斃すのだと、己の精神(こころ)に決意という名の楔を打った。打ち込んだ、筈なのに。

「……いつの間にか、生きる理由が増えちゃった……」

 生き延びたいと、生きていたいと、そう思うようになってしまった。

 冷ややかな眼差しの、優しい手の青年が、タニアの生きる理由になった。あの時放った冗談が、まさか真実になるなんて、と、過去の少女は未来で微笑む。だから、と。

「……この千載一遇の好機を逃さず……不倶戴天の仇敵を斃す……」

 眼前で嗤う魔族の狙いは、隣に立つヴァレンティン家当主(アルフレッド)なのだろう。タニア等眼中にないという明白(あからさま)な態度に、かつての少女のままだったなら憎悪しか浮かばなかったかも、なんて冷静に己を分析する。しかしタニアは、もうあの頃の少女(こども)ではない。

「――イェンロン、掟霊解放」

 声に(いら)えて巨大な鰐が、タニアの傍らに顕現する。通常、鰐の尾とは天を仰がず地を這いずるもの。その常識を覆すかの如く、垂直に立てられた尾の先端(さき)から、硬い鱗に鎧われた女の上半身が伸びる。波打つ髪は煌びやかな陽光の如く黄金色(こがねいろ)、同色の瞳に獰猛さと、微かな妖艶を纏わせる美女からは青白い炎が立ち昇る。

 復讐の為にという仄暗い生への執着心は、想い合って結ばれた(ひと)()の証しである息子に因って未来を見据える希望へと変化した。もう刺し違えてもいい、なんて、それこそ死んでも思わない。帰還(かえり)を待っている人がいるから。

「……そう、だから……、必ず生きて帰るのよ……」

 そのイーサンのところへも、魔族は差し向けられているだろう。今頃孤軍(ひとり)で魔族と相対しているであろう自身の夫を胸中に描いて、やはり微笑む。

 さぁ、この復讐を成し遂げて、故郷に眠る人々を弔おう。そして、夫と我が子を伴って、墓前の皆に告げるのだ。幸福な少女は、今も幸福(しあわせ)に生きています、と。

「『“赫火扇(しゃっかせん)”』」

 自身の契約精霊の名を呼んでタニアがその身を委ねれば、肉体の支配権を得たイェンロンが自身の武具を具現化させる。華麗に開かれた赫い扇で口元を隠す、いつも通りの仕草。要と両の親骨の先から垂れる蒼い飾り房が、揺らめく陽炎めいて美しい。

「『いざ、参る……!』」

 炎を司るタニアの契約精霊が、雄々しい開幕宣言と共に《不帰之森》で戦端を開いた。




タニア・ブラッドレイ〈Tania・Bradley〉

Tania:妖精の女王

髪=桃色/瞳=藤色/年齢=44/性別=女

長所:素直で純粋/短所:頑固

イーサンの妻。ユンの母。明るく穏やかで優しい良妻賢母だが自身の故郷を滅ぼした魔族に復讐を誓い生を永らえた仄暗い過去をもつ。

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