先人の宿縁編 第三話―壊滅―
理由は解明されてはいないが、聖騎士団の拠点からそう遠くはない森林の奥に、〝聖域〟と呼ばれる場所が存在する。
森林を流れる小川の畔に建てられた、無人の小屋。その小屋の傍らに、根から幹、枝葉の一片に至るまで白い、一本の古木が生えている。
家主無き小屋の守護を預かるかの様相で以て鎮座する、永き歳月を見詰め続けた老いた樹木が、恰も巨大な腕を広げるが如く捩くれた枝先を四方へと伸ばす先。その枝先の届く範囲は、獣等の動物や虫の類い、魔物や魔族、果ては精霊や幻獣の侵入ですら拒絶する。
それは契約を交わした精霊や、神の化身たる聖霊であれど例外ではない。
宛ら黙視出来ぬ壁が顕現するかのように、人間以外の種族は一歩たりとて足を踏み入れられぬ場所――禁足地。
聖騎士団が設立された後、聖典には森林全土を聖域と崇める事、白樹の及ぼす禁足地に建つ小屋を守護し管理する事が教義として定められた。だが、その理由は記されていない。
しかし、理由等些末な事だ。後裔とは、先人の教えに従うもの。代々の聖騎士団が管理するこの森林を、現代の使徒達も皆、聖域と呼んで守護してきた。
ルイが兄であるニールの命令に従いエルシーと共に避難した先は当然ながら森林内、この不可思議で神聖な、白い古木の根元であった。
実兄の戦果を信じ、凱旋を疑わず。夕闇が侵食を開始する聖域内にてエルシーと身を寄せ合い座して待つルイの瞳が、微かな光に反応を示す。
枝葉が伸びる範囲の瀬戸際で、消え逝く星の最期の吐息であるかのような瞬きは、負傷し倒れ伏した兄という最悪の結果を弟妹に齎した。
「兄さんッ!」
「お兄様……!」
信じ難い光景にルイが銀の双眸を見開くと同時に、エルシーの口から涙で滲む悲痛な叫びが発される。
意識を失った兄の身体に、ルイとエルシーは駆け寄った。負傷を伴う意識の喪失に、弟妹の相貌を蒼白が彩る。
「……エルシー、兄さんを小屋に運びましょう」
「え!?でも、あの小屋は……」
森林の管理者である使徒達でも、唯一踏み入ってはならないとされる領域。立ち入りを禁じられた場所。白い古木の傍らに佇む、無人の小屋。
教義によって絶対不可侵と称された小屋は、代々の聖騎士団団長のみが管理の為の入室を許可されていた。
「兄さんは団長ですし、今は何より非常時です。きっとお許し頂けるはずです」
「わ、分かりました……!」
弟妹達はニールを抱え、初めて小屋へと足を踏み入れた。
外観の規模から予測はしていたが、扉の先は一部屋のみだった。歪んだ小さな窓に不格好な棚、これまた不格好な机に、不格好な椅子が二脚。そして部屋の隅には、やはり不格好な寝台が一つ。その寝台には寝具であろう薄い布が被さっていた。
素人が木材を調達し、見様見真似で作りましたと宣言しているかのような稚拙さが溢れ出る歪な家具。一目で手作りと解る程に完成度の低い木製の家具類が、予期せぬ客人達を無言という歓待で以て出迎えた。
「……これ、は……」
室内の異様な感覚に精神を支配され、ルイは扉を開け放ったまま言葉を失い立ち尽くす。
老木と共に悠久の歳月を過ごしたのだと言わんばかりの古びた小屋の内部には、誰かの暮らした生活の痕跡が色濃く残滓を醸していた。
如何に歴代の団長達が管理をしてきたからとは言え、無人に因っての荒廃もせず、壁や家具、寝具が朽ち落ちる事が無い等あり得るのだろうか。
「……お兄様達が……?」
「……いえ、それはあり得ません」
小屋への入室を唯一許可されている代々の団長達が、壁や家具、寝具の補修を行っていたのかと問いたいのだろう。エルシーの落とした呟きを、ルイは正しく理解して、そして否定を口にした。
そもそも先人の教義に於いて、歴代の団長以外が足を踏み入れる事すら禁じている絶対不可侵の領域を、管理の為とはいえ後裔が手を加える事等許されない筈だ。何よりも室内の補修が許可されているのならば何故、室外――古びた小屋の外観の補修が全く行われていないのか。
今にも朽ち果ててしまいそうな程に古ぼけた小屋の外観が、ルイの脳裡を過って消える。
あれ程老朽化が進んだ小屋が、何故崩れる事も無く建ったままでいられるのだろうか。この外観と、室内との、異様な差は何なのか。
そこまで思い至って、ルイは直感した。この小屋は――室内は、建てられた当時のままなのだ、と。つまり、
――……まるでこの部屋の中だけ……時が止まっているみたいだ……――
歳月の流れに因る無常さを体現する外観とは裏腹に、停滞を続ける内部。まるで外出している誰かが今にも帰宅してくるかのような気配を纏い、室内は静寂だけを友とし、ひっそりと佇んでいた。
「……お兄様……」
異質な雰囲気に気圧されたのか、エルシーが不安気にルイを呼ぶ。妹の声で我に返ったルイは暫しの間逡巡した後、ニールを寝台へと横たえた。
暗転で塗り潰されていた意識が、思考と共に帰還する。一体どれ程の間、自分は意識を失っていたのか。
「――お目覚めですか?」
瞼を開き視界を確保すると同時に、よく知る声がニールの聴覚を刺激する。
濃紫の髪に金の縁取りを施した黒い帯状の布を巻き、使徒である事を示す聖騎士団の正装を纏った二十代半ばの青年が、ニールを覗き込んでいた。
「……イルハン」
「はい。聖騎士団の大事に駆け付けられなかった無礼、この場を借りて深く御詫び致します」
榛色の双眸に安堵を湛えた褐色の肌の青年は、自身の所属する聖騎士団団長からの呼び掛けに応え寝台の脇に跪く。
「……っ、……」
横たえられていた自身の身体を、ニールは寝台から起上させた。機敏とは言い難い緩慢な動作に舌を打ったニールの脳裡に、鮮明に過る惨状の光景。
「……使徒達は……」
「――恐れながら御報告申し上げます。聖騎士団は壊滅致しました……現在所属の騎士の内、生存者は団長とルイにエルシー、そして私だけです」
使徒の聖霊達の中で消滅を逃れたものもおりません、と。
使徒達の安否を問うたニールに、齎された絶望の報告。再び意識を深淵の底に沈めようとする本能を、理性で無理矢理抑えつける。緩やかに周囲を見渡せば、視界に広がる室内は歴代の団長が管理を任されている小屋の内部だと思い至った。
自身は意識を失っていたのだから、第三者――恐らくルイとエルシーの手によって小屋へと運び込まれたのであろう。消えいく意識の片隅で、弟妹達の悲痛な声が響いていたから。
「……ルイとエルシーは?」
「外でお食事の準備をなさっておいでです。僭越ながら、白樹の先には行かぬようにとお話ししてあります」
その白い古木の境にはメルヒオールの他、イルハンとルイの聖霊も控えている事が続けてイルハンの口から報告される。
ニールは視線を窓へと向けた。歪んだ窓に取り付く闇に、時折淡い光が揺らぐ。ルイとエルシーが外で火を熾しているのだろう。
「……僕はどれ程眠っていましたか?」
「魔族共による夕暮れ時の襲撃からまだ一日も経っておりません。ルイ達の話から推測するに四時間程度かと」
イルハンが征伐から帰還したのは、夜の帳が下りる寸前。
太陽を胎内へと呑み込まんとする夕闇にあって尚、目を背けたくなる程の惨状。
拠点であった建物自体に、破損や破壊の痕跡は無い。しかし、生存者の捜索が無意味であったとイルハンが把握したのは、大地に抱擁された使徒達全員が既に遺体と化していたから。
拠点が魔族の襲撃を受けたのであろう事は明白であり、応戦した使徒達が全滅したのであろう事もまた、明白だった。
遺体の人数は、九体。神に選ばれし崇高なる聖霊使い達は皆、聖戦の末に天へとその魂魄を召されたようだ。契約聖霊達も皆戦闘に殉じ、契約主と運命を共にしたのだろう。
「……団長!ルイ!エルシー……!」
イルハンが拠点の内部も捜索したのは、遺体の中に含まれていない団長達の姿を捜す為。
団長であるニールと、使徒であるルイ、特例が認められ騎士を――使徒を名乗る事を許された、エルシーの三名。
結果として建物全てを捜索しても発見には至らず、イルハンは捜索範囲を聖域へと延ばし、漸く古びた白樹の境に控える、ニールとルイ両名の契約聖霊と合流を果たした。
そうして初めて踏み込んだ小屋の中で、歳月が停滞しているかのような奇妙な感覚を味わいながらも、寝台に横たわる団長と、その弟妹の姿を瞳に映す事が出来たのだ。
「……団長のお身体ですが、三日もあれば動けるようになるでしょう。完治は恐らく七日程度かと」
「……そうですか……」
湧き上がる激情が、握り締めた拳の動作と呼応する。
「夜が明けたら拠点から必要品をお持ち致します。今は拠点ではなく此方でお身体をお休め下さい」
再襲撃の可能性がある事は、ニールも理解している。指先一つ満足に動かせず、上半身を起こすだけでも苦を労する今の自身では、またも敗北を重ねる事となるだろう。
そう、敗北。自分は負けたのだ。
不意を突かれた等、浅ましい言い訳に過ぎない。
聖騎士団を預かる団長たる自分が、醜悪で穢らわしい魔族風情に傷創を許した上に、無様な敗北を喫してしまった。
だが今は、怒りや嘆きにその身を落とす暇は無い。
爪が皮膚を突き破り鮮血を滴らせる前に、感情を静めて手のひらを開く。
「……」
未だ痺れを残す指先は、ニールの心情を代弁するかのようだった。
ふ、と、セオドアの意識が浮上する。
瞬きを繰り返し視界の確保に成功すれば、清潔に整えられた寝台の上に身体が横たわっているのが判った。
「……?」
彼女は?と、セオドアが視線を巡らせた先。
揺蕩う記憶の深海の裡で観た彼女は、自身の眠る寝台のすぐ横に置かれた椅子に腰掛けていた。しかし今、彼女はその半身を寝台に伏臥し、双眸を閉ざしている。
「……、……!」
無意識の内に伸ばした手が彼女へと到達する寸前で、セオドアの意識が追い付いた。明らかに触れようとしていたのであろう自身の指先を緩やかに握る。
何故、今。彼女に触れたいと思ったのだろう。
「……ッ……、」
行き場をなくして空を彷徨う手を下ろし、代わりに起上に利用する。酷く緩慢な動作での起上に、セオドアは小さく舌を打つ。一体どれ程の間、自分は眠っていたというのか。
「……、ぇ……?」
セオドアが身を起こした事で発生した振動が、寝台に伝播したのだろう。小さく声を洩らした彼女の、ゆっくりと開かれた瞳が焦点を合わせて、セオドアの双眸と重なり合う。
「……セオドア、君……」
幻影でも見ているかのように、呆けた声で呼ばれた名前。声に心地好さを感じた理由が判然としないまま、彼女に応えようとして……、失敗した。
原因は恐らく咽頭の乾燥。返事の代わりに咳き込んだセオドアに、焦った彼女が慌てて椅子から立ち上がる。
「待っててください!今水を……っ!?」
『――どうなさいましたの!?』
倒された椅子が放った抗議の悲鳴を聞き付けて、何事かと入室した赤薔薇のマザーが見た光景は、眠りから目覚めたセオドアと、床にへたり込む彼女の姿だった。
本体である赤薔薇のマザーの複製体である白薔薇と黒薔薇のマザー達には、所謂自我というものが存在していないらしい。
『少し違うかも知れませんが、人間が手足を動かすようなものですわ』
白薔薇と黒薔薇は、あくまでも赤薔薇の複製。三体揃って薔薇のマザーと称してはいるが、実際に自我を持ち思考するのも、言葉を話す事が出来るのも、自発的に行動するのも全て、本体の赤薔薇だけなのだそうだ。
故に、自我と思考能力を持たない白薔薇と黒薔薇のマザーは基本的に口を閉ざし、無口、無言を貫いている。時折、白薔薇、もしくは黒薔薇のマザーが言葉を発する瞬間もあるが、それは全て赤薔薇のマザーがどちらかの口を借りて発した言葉であるとの事。
人間にとっての手足だとマザーが語った白薔薇と黒薔薇のマザー達は、本体である赤薔薇の思考が直接伝達される事によって各々が行動する。マザーの意思が介入しなければ白薔薇と黒薔薇はどこまでも沈黙し、その行動を停止し続ける。
『――セオドアが目覚めましたわ』
談話室に集まっていたライリー達に、複製体である白薔薇のマザーが発した声は、やはり赤薔薇のマザーと同じ声。
「え、これどういう状況……?」
セオドアの意識が戻ったと聞いて部屋に駆け付けたライリーから、そんな独白が洩らされるのも無理ないくらい、室内には混沌とした雰囲気が充満していた。後に続いて入室してきたユンの相貌にも、困惑が色濃く浮かび上がる。アリシアは表情こそ崩さぬまでも、ライリー達と同様の心境であろう事はその瞳の揺らぎが証明している。
『……確かにお好きなようになさいな、とは言いましたわ。ですが……』
意識を取り戻したセオドアの為に、マザーは複製体である黒薔薇のマザーに水を持ってこさせながら、自身は彼女に物申していた。
「……あの、ごめんなさい……」
マザーの言から推測するに、どうやら目覚めたセオドアに水をと慌てて立ち上がった彼女が立ち眩みを起こしたらしい。原因は明らかに、彼女の顔色の蒼白さに由来するものだろう。
「いや、そもそも俺が」
『怪我人は黙っていなさいな』
「ごめんなさい」
黒薔薇のマザーから手渡された水で、渇いた喉を潤して。
彼女の相貌が蒼白に支配されている理由は間違いなく自身にあると確信しているセオドアが弁護の為にと開き掛けた口は、マザーによって一瞬の下に切り捨てられた。代わりだとでも言うかのように、セオドアの口からは反射的な謝罪がまろび出る。
「「「……」」」
彼女と漸く目覚めたセオドアとが、二人揃ってマザーに謝罪をしている、という中々の光景に、途中入室のライリー達が口を差し挟める筈もなく。
『……セオドアが心配だったのだという事は理解出来ますわ。しかし……』
完全にマザーの独壇場と化した室内にて。親に説教される幼児の如く縮こまったセオドアと彼女は、赤い薔薇に咲く精霊の苦言を甘んじて受け入れた。
セオドアが目を覚ましたのはライリー達のヴァレンティン家到着から四日目の事になるが、マザーの契約主であり、此処、ヴァレンティン家の当代当主であるアルフレッド・ヴァレンティンは未だに帰還の兆しを見せない。
主人不在の屋敷に滞在し続ける事に、ライリーの良心が申し訳無さを叫び始めた。絶叫を続ける感情に根負けしたライリーは、失礼を承知の上でマザーにその事を問うたのだが、マザーからの返答は実に簡潔なものだった。
『アルフレッドは所用を終えるまで戻りませんわ』
此処《不帰之森》の精霊達は、統括者であるマザーと意識を共有する事が出来るらしい。アルフレッドがシンクレア家に赴く際に追随している契約精霊からは定期的に居場所について報告がくるらしい。だが、アルフレッドの所用とやらはもう少し時間を要するそうだ。
『ライリーは少し気を張り過ぎですわ。もっと自分の家だと思ってくつろぎなさいな』
ライリーは思った。それ、シンクレア家でオスカーさんにも言われたな、と。
結局、屋敷の主人であるアルフレッドがヴァレンティン家に帰還したのは、ライリー達の到着から数えて六日後の事で。そして当然の事ながら、ライリーの緊張は全くほぐれる事はなかった。
マザーの言った動物の冬眠――所謂仮死状態から生還したセオドアが、サイラスの手を煩わせる事なく歩行が可能になったのは、目覚めてから更に三日の時を必要とした。ヴァレンティン家到着から、甦った魔王との対峙から本日で七日目、である。
「挨拶が遅れて申し訳ない。ヴァレンティン家現当主、アルフレッド・ヴァレンティンだ、よろしく頼むよ」
つい先日、漸く屋敷への帰還を果たしたアルフレッドと、互いに挨拶を交わした後。療養に対する礼を述べたセオドアに、順調に回復しているようで何よりだ、と、アルフレッドは微笑んだ。
長い事蒼白のままだった彼女の相貌も、今は元の色を取り戻している。笑顔を見せるようにもなったが、時折思い詰めたような表情をしている事はライリーだけでなく誰もが気付いていた。
「……悪い、ユン。ちょっといいか?」
歩行を始めとした身体の動作に問題がない事を確かめつつ、鈍ってしまった感覚の回復の為にと、セオドアはユンに手合わせを申し込んだ。
難色を示しはしたものの機能回復には必要かとマザーは手合わせの許可を出し、屋敷の前庭を訓練場所として提供した。
『再び寝台に戻る、等という愚行は許しませんわ』
というマザーの言葉に、一度〝親に説教される幼児〟を体験したセオドアが何度も無言で首を縦に振っていたのが印象的だった。
「それで、貴様これからどうするつもりだ?」
「一度シンクレア家に戻りたい」
手合わせの最中にユンから放たれた言葉に、簡潔にセオドアは答えた。
マザーの言った、セオドア自身の内なる思考の深海。揺蕩う水面に映し出された、過去の裡で見た母の――ベアトリスの契約精霊の姿。
『――よォ、後裔……真実を知りたくねェか?』
自身とサイラスとが契約を果たした、シンクレア家の〝咎人の間〟。亡き母の契約精霊は、現在も其処に居る筈だ。
「……多分、今がきっと知る時だ」
夕焼けめいたセオドアの瞳が、決意を宿して煌めいた。




