精霊の祝福編 第一話―精霊の祝福―
夕闇の迫る中を、一人の少年が走っている。
――……また遅くなっちゃった……!――
少年――ライリーは帰路を急いでいた。亜麻色の髪が走る度に上下に躍り、深緑のような双眸には焦りの色が濃く表れている。毎日のように通っている、図書館からの帰り道。それは、ついつい読書にのめり込んでしまうライリーの、いつもと変わらない日常。
「……だ……な……」
そのいつもと変わらない筈だった日常に、不意に入り込んできた、誰かの声。
「?」
ライリーは無意識の内に足を止めた。聞こえてきた話し声の方向に反射的に視線を向ければ、樹木に囲まれた小さな広場が目に入る。その先には、同い年くらいの少年が一人。
「……そうか……それなら……、」
一人の筈の少年は、まるで見えない誰かがいるかのように一人で話を続けている。
――……あの人、精霊が見えるんだ……――
自分が見えない誰かと話しているという事は、少年は祝福を受けし者――精霊が見えるのだろう。
――……いいな……――
それは、ライリー自身には到達出来ないであろう、精霊の見える世界。素直に羨ましいと思った。
――……こんなぼくが祝福なんて、受けるはずないけど……――
これ以上此処に留まっていても、何も変わらない。見える者を羨望しても自分が惨めになるだけ。そう、自分自身を無理矢理納得させるのに、ライリーは少年から視線を外す事が出来ないでいた。
「――ん?どうした?」
傍にいるであろう精霊に何か言われたのか、少年がライリーに気付いたらしい。黒曜石のような黒髪の少年の、夕暮れの空のような橙色の瞳が、ライリーを見据えた。
「……ぁ……えっと……」
不躾に少年を見詰めてしまっていた事に気付き、ライリーの頬が羞恥から朱に染まる。
「お前もこっちに来いよ。一緒に話さないか?」
「……ぇ?……でもっ、ぼくは精霊見えないから……!」
少年からの呼び掛けに、ライリーは慌てて言葉を返す。
「……そうなのか?」
まるで見えない事こそ不思議であるかのように、少年は続けた。
「でもお前の傍にいる精霊は、お前と話したいって言ってるぞ?」
「え!?」
少年の言葉は、ライリーにとって衝撃だった。精霊が見える者は、その別称の通り精霊からの祝福を受けていると言われている。ライリーは、自分が精霊から祝福を受けるに値するとは、どうしても思えなかった。ましてや、自分と話をしたいと思ってくれている精霊が存在するなんて、俄には信じ難い。
ライリーの脳裡に、騙されているのでは、という疑心が湧き起こる。それと同時に、まだ出逢ったばかりの目の前の少年を信じたいという望みも生まれた。
「だからお前も、お前の傍にいる精霊と話したいって思えばいい」
「……精霊と、話したい……」
「祝福なんて言われているが、結局は話をしたい人と精霊の……お互いの思いの強さ次第なんだよ」
「……思いの強さ……」
――……そういえば……ぼくは今まで、本気で精霊と話したいって思ったこと、あったっけ……?――
見える人達を羨んで。自分で勝手に、自分なんかが精霊と話せる訳がないのだと決め付けて。祝福なんてこんな自分が受ける筈はないのだと、自分で自分の可能性を潰して……。
ライリーの心が少年に対する疑惑から、精霊を見られるかもしれない、話せるかもしれないという希望へと傾いていく。
「お前なら、見えるようになると思うぞ?」
その少年の一言が、ライリーを言い訳と諦念の呪縛から解いた。
「……精霊を見たい……話したい……!」
――……そうだ……ぼくは……、本当はずっと……!――
それは、曇っていた空が晴れるような……今まで解けなかった問題が理解出来た時のような、不思議な感覚。
ライリーの視界が、これまで見ようとしていなかった世界で彩られた。
そんな開かれた視界の先に映る少年の傍らには、様々な姿をした不思議な生物達の姿。獣や鳥、昆虫に似ていたり。人にそっくりだったり。何種類かの生物の特徴を併せ持っていたり。大きかったり、小さかったり。
今初めてライリーが目にしているのが、少年の言う精霊達なのだろう。
「……っ……」
ライリーは咄嗟に、少年の言っていた自分の傍にいるという精霊の姿を探した。初めて見えた沢山の精霊達の中で、一番最初に話してみたいと思った精霊の姿を。
その小さな精霊は、座っていたのであろうライリーの肩から飛び立って、顔の正面に姿を見せてくれた。
『ティティーだよ!』
容姿は人間に、少女に似ていた。でもその背丈は、ライリーの顔くらいの大きさしかない。肌の色や髪の色、眼の色に至るまで、全身が青い。そして背中には、蝶々のような青い翅が生えている。その翅をゆるやかに羽ばたかせながら、小さな青い精霊は、花の綻ぶような満面の笑みを浮かべた。
『やっとお話しできてうれしい!ライリー!』
ティティーという名の精霊は、ライリーの名前を知っていた。名前を知る事が出来る程の距離に、近くに、居てくれていたのだろう。
「……ぼくと話したいって、思ってくれてたの……?」
『そうだよ!ライリー!』
ライリーの相貌が、歓喜に変わる。ずっとずっと憧れていた、見たかった世界が、そこにはあった。
「……うん、ぼくも……」
小さな青い精霊――ティティーは、色々な話をしてくれた。声が届かなくて寂しかった事。それでもいつも一緒にいた事。いつかきっと話せるようになると信じていた事。ずっと話したいと思い続けていた事を。
ライリーも、同じくらい様々な話をした。声を聴いてあげられなくてごめんと言えば、ティティーは『これからいっぱい聴いて!』と嬉しそうに笑い。話したいと思い続けてくれてありがとうと言えば、『これでいっぱい話せるね!』と楽しそうに答えてくれた。
「ありがとう、ぼくに精霊を見せてくれて」
ライリーは、改めて少年と向き合った。少年は、ライリーとティティーが話をしている間に何処かへ行ってしまわずに、樹木に背を預けていた。
「俺は何もしてないぞ?言っただろ?お前なら見えるようになるって」
「でも、きみは……無意識の内に諦めていたぼくを……ぼくの世界を、広げてくれたから……」
見たかった世界を見せてくれた、見るきっかけを与えてくれた少年。
「……あ……!」
不意に気付いた。まだ目の前の少年の名前すら知らない事に。
ライリーは躊躇した。正直、名前を言うのは緊張する。名乗った事で、この少年の自分に対する態度が変わってしまうかもしれない。それでも、今目の前にいる少年の名前を、ライリーはどうしても知りたかった。脳裡に浮かび上がってくる恐怖を無理矢理捩じ伏せて、意を決して口を開く。
「ぁのっ、ぼく……ライリー・マークス……!」
「ん?あぁ、名前か……俺は、セオドア・シンクレア。よろしくな」
「……セオドアくん……驚かないの……?」
「……ライリーこそ……」
「?」
「?」
やっとお互いの名を知った二人は向かい合った鏡のように、同じ動作をする事になった。ライリーもセオドアも同時に首を傾げて、お互いが驚かない事に疑問を感じている。
固まった二人と沈黙を打ち砕いたのは、蝶々の翅を持つ小さな青い精霊に生じた、新たな疑問だった。
『ライリー?いいの?』
ライリーとセオドアが二人揃って首を傾げているところに、ティティーから声が掛かる。
「えっ?何が?」
『じかん』
「時間……?」
ティティーが、小さな指先を空へと伸ばす。黄金を放つ太陽は既に、大地の彼方にその身を沈めていて。代わりに白銀に煌めく月が、今は天空を支配していた。
「あーっ!」
ライリーの口から、絶叫が溢れ出る。その意味するところは、いいわけがない、だ。
「ごっ……ごめんね!ぼく、もう帰らなきゃ……!あっ、ねぇ……!また逢える!?」
精霊の見えるセオドア。まだ名前しか知らない、少年。だからこそ、このまま終わりにしたくなかった。
「ああ、暫くはこの街にいるから、また逢えると思うぞ?」
その口振りからして、セオドアはこの街の住人ではないのだろう。だったら尚の事、この出逢いを大切にしたいと、ライリーは思う。
「この街にはちょっと用事があってな、宿屋に泊まってる。《銀の馬のしっぽ》って名前の」
その宿屋の名前を、ライリーは知っていた。いつも通っている図書館の向かいにある、煉瓦造りの大きな宿屋だった筈だ。
「じゃあ、明日!逢いに行ってもいいかな!?」
セオドアはライリーの急過ぎる提案に、笑って頷いてくれた。
「ああ、いいぞ」
「……、……、……」
あの後、慌てて帰路に着いたライリーは、全力疾走して乱れた呼吸を圧し殺しながら、自宅となって間もない屋敷の扉をゆっくりと開いた。
家路を駆けるライリーの傍らを飛んで追いかけながら『がんばれライリー!』と走るのを応援してくれていたティティーも、今は空気を読んで小さな口を噤んでくれている。
滑り込むように扉を抜けて、ライリーは自室として与えられた部屋に向かう為、広い廊下を足早に進んで……。
「……ぁ……、」
部屋までもう少し、というところで鉢合わせたのは、濃く淹れた紅茶色の髪をした青年。漸く整い掛けていたライリーの心拍数が、再び乱れ始めていく。
「……ぁ……ぁの……」
ライリーの、声と言うのも烏滸がましい程の掠れた言葉に応える事なく。青年は無言のままで、翡翠のような緑の双眸を細めた。そのまま、声を発する事もなく、彼はライリーの傍らを通り過ぎていく。
「……ぁ……」
セオドアと出逢い、ティティーと話して舞い上がっていたライリーの感情が、翼を射抜かれた鳥のように、急速に落下していった。
『おはよう!ライリー!』
翌日。ライリーは、初めて精霊に――ティティーに起こされる、という経験をした。
結局昨日は沈んだ感情のまま部屋に戻り、ティティーの励ましを聞きながら部屋に用意されていた夕食を食べ。その後お風呂にまでついて来ようとするティティーを何とか宥めて、入浴。ティティーの『いつも一緒だったのに!』との衝撃の言葉に内心で慄きながら、セオドアとの再会を糧に就寝した。
寝惚け眼から完全に覚醒したライリーは身支度を整え、ティティーと共に屋敷を出発する。屋敷からセオドアに教えてもらった宿屋《銀の馬のしっぽ》に至るまでの道程で、ライリーは様々な精霊の姿を目にする事になった。
――……本当にいっぱいいる……――
以前、精霊の見える人から、精霊は人と同じくらいその辺を徘徊している、と聞いた事がある。だが、実際に自分で目にする様は、まさに圧巻だった。
――……ただ徘徊って言い方はどうなの……?――
昨日は見えるようになったばかりで、しかも家路を急いでいた事もあり、精霊達にまで注意を払えなかった。ライリーは視線を、時には首ごと動かしながら道を進む。ライリーがあまりにも視線をキョロキョロし過ぎた為か、何度も人にぶつかりそうになり、その度にティティーの『ライリーあぶない!』を聞く羽目になった。ティティーには感謝しかない。
そうして訪れた宿屋《銀の馬のしっぽ》の前で、ライリーは今セオドアとティティーを待っている。
『ティティーがセオドア連れてくる!』
宿屋に到着するや否や、ティティーがそう言い残して宿屋の壁に消えてしまった。いきなりの光景に目を剥いたが、精霊は普段は実体を持たない存在なのだと書物で読んだ事があるので、恐らく壁をすり抜けたのだろうと納得する。
「ライリー」
昨日知ったばかりの声に振り向けば、セオドアと、きちんとお使い出来ました!とばかりに誇らし気に胸を張るティティーの姿。
「おはよう、セオドアくん」
「ああ、おはよう。昨日ぶりだな」
「……あの、ごめんね……」
「ん?」
再会して、挨拶。からの突然の謝罪に、セオドアの頭上に疑問符が浮かぶ。
「なんで謝るんだ?」
「えっと……、」
昨日。帰り間際に慌てて、ライリーの方から半ば強引に取り付けた、今日の再会。いざセオドアと逢って、ふと冷静になったライリーは血の気が引く思いを味わう事になった。
――……セオドアくん昨日いいぞって言ってくれたけど、やっぱり迷惑だったよね……!?――
セオドアは、用事があってこの街に滞在しているのだと言っていた。用事があるという事は、予定があるという事ではないのか。
「……その……セオドアくんの予定とか、何も考えないで強引に約束しちゃったし……迷惑だったな、って……」
「迷惑なんかじゃないさ。俺も話したいって思ってたしな」
「……え……?……あ、でも……」
――……いくら精霊が見えるからっていったって、つい昨日逢ったばかりのセオドアくんに、精霊のこと教えて欲しいなんて……やっぱりどう考えたって厚かましいんじゃないの……?――
ライリーが図書館に通って、時間を忘れる程読書に熱中しているのは、精霊の書物を読む為だ。けれど、精霊について書かれた書物は精霊使い達によって執筆された、所謂専門書のようなもので。残念ながら精霊についての知識が乏しいライリーには、正直理解の及ばない表現も多い。
どんなに読み込んでも、独学では限界がある。そんな時に出逢った、精霊の見える少年。
セオドアを、精霊について知りたいという自分勝手で浅ましい考えに巻き込んでしまった、という自己嫌悪がライリーの心を蝕んでいく。
「ライリー?どうした?」
『ライリー?』
すっかり固まったまま動かなくなってしまったライリーに、セオドアとティティーが呼び掛ける。その二人の声すら耳に入らず、ライリーは思考の淵に嵌まっていく。
――……今日だってなにか予定があったのかもしれないのに……ぼくが無理を言ったから、わざわざ逢ってくれたんじゃ……――
「おーい、ライリー?」
『セオドア。ライリー固まっちゃった』
「そうだな、肩でも叩いてみるか?」
――……あれ?そういえば……そもそもセオドアくんがこの街に来た用事ってなんなんだろう……?訊いてみてもいいのかな……?――
「ライリー?」
「っ!?セオドアくんは、なんでこの街に来たの!?」
「え?」
不意に、セオドアに肩を叩かれて。直前に考えていた事が、そのままライリーの口からまろび出た。直後、幾ら何でも失礼過ぎる発言に頭が真っ白になったライリーが、謝罪の為にと再度口を開くよりも速く。失言を質問と受け取ったセオドアの口から、その答えが紡がれた。
「――俺は精霊使いなんだ」
ライリー・マークス〈Riley・Marks〉
Riley:勇敢
髪=亜麻色/瞳=緑色/年齢=17/性別=男
長所:優しい/短所:優し過ぎる
自分にいまいち自信を持てない。実は名前負けを気にしている。なんか気付いたら主人公だった。驚異の昇格その1。