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大罪の証明編 第三話―ブラッドレイ家―




 ユンとイーサンが肉弾戦を行った教練堂から場所を移し、ライリー達は現在ブラッドレイ家当主、イーサン・ブラッドレイの執務室へと通されていた。

 当主の執務用の机と椅子、僅かばかりの調度品だけの殺風景な室内は以前ライリーが入室した経験のあるオスカーの執務室とは些か趣きは異なるものの、乱雑との無縁さにはどこか共通点があるように思える。

 自身の感じ取ったこの共通点が当主の執務室としてのものなのか不明のまま、ライリーはセオドアの横に並んでいた。

「……」

 沈黙が玉座を預かる室内には、微かな紙面(かみ)の音のみがその存在を認知されていた。呼吸音ですら闊歩を許可されないかのような静寂の中で、イーサンは執務用の椅子に座したままユンから差し出されたシンクレア家当主オスカーからの書状を読み進めている。

 書状に書かれた内容を、ライリーは勿論知らない。セオドアもユンも同様であろう。この場で唯一それを知る権利を持つイーサンは、書状の末尾まで目を通した後も暫くの間は無言を貫いた。

 やがて、やはり無言のままで、机から数枚の用紙を取り出したイーサンは、それを自身の机の正面に立つセオドアへと突き付ける。

「書かれた内容に相違はないか?シンクレアの小倅よ」

「!」

 一目見ただけでも歴史を感じさせる重厚な、有り体に言えば古びて色褪せたそれは、イーサンがブラッドレイ家の書庫で発見し、読み解いた文献(もの)。大戦当時下のブラッドレイ家当主であったレナード・ブラッドレイが記録した、千年前の精霊大戦に関する文献だった。

 眼前に突き付けられたセオドアが、イーサンから文献を受け取る。

 イーサン同様無言のままで、紙面に目を通したセオドアは、重く頷く事で肯定を示した。

「弁明はあるか?」

 銅鐘めいた声が響くように、セオドアの精神を侵食する。威圧に固まり掛ける本能を理性で以て制し、セオドアは口を開いた。

「……当時、精霊使い達の中には魔王を討滅する事が出来る程の実力を有した者はいなかった……当時のシンクレア家当主であったユージーン・シンクレアも含めて……」

 言葉を押し出しながらも、脳裡は文献の内容を反芻する。

 当世、精霊大戦と呼び慣わされる、精霊使いと魔族の戦争(あらそい)。魔物を率いる魔族の軍勢から人々を守護すべく(まもらんと)、精霊術を行使し前線に立った、当時の精霊使い達。

 長く暗い細道を行くような、終焉(おわり)の見えぬ戦い。やがて精霊使い達は、魔物を操る魔族を率いる魔王の存在へと辿り着く。

 魔物と魔族の討伐から、魔王の討滅へと精霊使い達の攻撃の矛先が変化する中で、魔王の有する力の強大さは、精霊使い達に最大の脅威として牙を剥いた。

 他の精霊使い達とは一線を画し、類い稀なる実力を有したシンクレア家、ブラッドレイ家、ヴァレンティン家の当主達でさえも、魔王を滅する事は不可能だった。

 文献の中、記録は続く。

 大戦以前の交流こそ無いものの、共に魔王を討滅せんと共闘したシンクレア家当主、ユージーン・シンクレアが、魔王の拠点を発見。激闘の末に魔王を討滅したとの報告(しらせ)がブラッドレイ家当主、レナード・ブラッドレイへ齎されたのは、あまりにも突然の事だった。

 唐突過ぎる吉報に、歓喜よりも当惑と疑念が湧き上がったと記録は語る。しかし、事実魔王軍と称した軍勢は統率が乱れ、結果的に乱れ(それ)は瓦解へと繋がった。劣勢と苦境に立たされていた精霊使い達は、今が好機と大攻勢を決意する。その決断が功を奏し、敗北寸前まで追い込まれていた精霊使い達は数多の犠牲を払いながらも、魔王軍の討伐に成功。人々は魔物と魔族の脅威から救われ、元々力の拮抗から特に共闘の多かったブラッドレイ家、ヴァレンティン家、シンクレア家は御三家と呼び称された。

 更に魔王を討滅したシンクレア家当主の功績を讃え、ユージーン・シンクレアは勇者という称号を得る事になる。

 戦争(あらそい)の終焉。その影で、レナード・ブラッドレイはとある考察を行った。

 それは、魔王の存在について。

 そもそも魔王とは、一体何者であったのか?

 魔王が誕生した理由、経緯。これを解き明かさなければ、真に戦争は終わらない。そしてそれは同時に、第二、第三の魔王を生み出さない為でもある。

 あれだけの被害と恐怖を、人々の心身に刻み付けた魔王の最期。その様は如何様だったのか。

 いきなり戦争の表舞台に現れた魔王は、その退場も突然だった。

 精霊使い達を混乱の境地に陥れる程の脅威でありながらも、その正体は謎に包まれ、ユージーン・シンクレアによって舞台上から去る事になった魔王。

 その魔王が討滅されていない事をレナード・ブラッドレイが知ったのは、幾つかの偶然が重なった結果だった。否、それは最早必然であったのかもしれない。

 ユージーン・シンクレアの施した封印。討滅という偽りの報告。その許し難い正体も。

 魔王は討滅等されていなかった。しかもその正体は、共に精霊使いとして共闘していたシンクレア家の出身だった。ユージーンは、シンクレア家は大罪を犯していたのだ。

 文献の最後は、怨嗟と慟哭に満ちていた。


〝――何故だ?我々は、共に戦った仲間ではなかったのか……?〟


 偽りによって、虚構の栄光と名声を手にしたシンクレア家への憎悪。この文献を読み解くであろう未来の後裔に、偽りを正す事を嘆願し、結びとしたところまで回想を終えて、セオドアは続きを紡いだ。

「……だから、ユージーン・シンクレアは未来に望みを託した……いずれ甦る魔王を、今度こそ討滅する為に」

 偽りの栄光は、一族の者から魔王を生み出した大罪に対する贖罪の証。一族の咎を決して忘れる事のないように、と、奥深くまで打ち込まれた、楔。

「……未来、か……」

 黄金の双眸を閉ざし、長吁(ちょうく)と共にイーサンは言葉を吐き出す。

 シンクレア家もブラッドレイ家も、共に先達から未来を託された。一方は希望を、もう一方は怨恨を伴って。

「――私はシンクレア家を侮蔑していた……」

 大戦以降、長い世代(とき)を経る中で、御三家の交流は隔絶し、断絶した。

 先代から当主を継ぐ以前から、イーサンはシンクレア家を千年前の当主(勇者)の威光に縋るだけの一族と侮蔑していた。それは第三者からすれば些か誇大な感情であったが、共闘の機会どころかシンクレア家に連なる者との交流すら皆無であったイーサンにとって極めて自然の心情といえた。

 侮蔑が憎悪へとその身を華麗に翻したのは、端初こそシンクレア家からの書状であったが、決定打となったのはレナード・ブラッドレイの文献だった。

 綴られた当時の記録と記憶。仲間であった者からの裏切りとも呼べる行為に失望したレナード・ブラッドレイの記した真実は、イーサンの胸中を侵食するのに遺憾無く手腕を発揮した。

「実力の伴わぬ者が勇者を名乗る等愚の骨頂……」

 我が息子にすら勝てぬ若僧に勇者を継ぐ資格はなかろう?と。

 黄金の煌めきは、射抜くかのようにセオドアを貫いたままでいる。

 代々武勇に優れるブラッドレイ家は、精霊大戦以降も御三家の名に恥じぬ優秀な精霊使い達を輩出してきた実績がある。

 ブラッドレイ家(その一族)の当代当主として、イーサンには魔物と魔族の脅威に晒される人々を守護する義務と、矜持がある。そして、何よりも……、

「我がブラッドレイ家には悲願がある……故に、」

 元来精霊使いとは、世界と異界を繋ぐ為に在る。しかし魔物の出現や魔族の台頭によってその立場は変わり、現在は人々を魔物や魔族の脅威から守護す(まも)る者としての地位を確立しつつある。

 その為に、本来ならば守護者として存在する精霊使いの一族から魔王が生み出され、人々に甚大な被害を齎したのだという事実は、イーサンを憎悪と失望の渦へと導く事に苦を労しなかった。

 精霊使いとは、人々を魔物や魔族から護る存在(もの)。その守護するべき立場にある精霊使いが、よりにもよって人々を害す魔王に成る等、言語道断。ましてや一族から魔王を生み出しておいて、討滅した等と虚偽の功績を語った挙げ句、現在に至るまで子孫が勇者としての栄光を受け継ぎ続けているとは……!

 それならばいっそ、レナード・ブラッドレイの言葉通り偽りを正し、ブラッドレイ家が真なる勇者の一族となろう。そして、諸悪の根源たる魔王を滅し、悲願である魔物と魔族、双方の根絶を成し遂げるのだ。

 それはイーサンの裡に宿る、崇高なまでの信念の故だった。正義感と言い換えてもいい。

 魔物と魔族の根絶は、決して容易な事ではないだろう。千年経っても未だに魔族は蔓延り、魔物は存在し、人々を脅かし続けているのだから。

 だが、誰かが為さねば成らぬなら。それが、力を有する一族として生まれた者の義務である。

 イーサンは改めて、眼前に立つセオドアの姿を黄金の視界に映し込む。正確な年齢(とし)は知らぬが、息子と同年代という事は十五から十七程度だろう。その年代の一般的な少年達とは違い、どこか大人びた双眸はイーサンに既視感を(いだ)かせる。

 あの眼差しを知っている。鏡面に浮かぶ、まだ幼い自身の瞳を蝕む、仄暗い光。選択肢等存在する事すら無く、先達によって舗装され、使命によって荒廃した道を強制的に歩まねばならない事に対する、諦念の眼差し。

 世に生を受けたその瞬間から次代ブラッドレイ家当主としての道しか用意されていなかったイーサン同様、シンクレア家の次代当主として勇者の称号を受け継ぐ事が決まっていたのであろうセオドア。

 精霊使いの一族として生まれた者の、逃れられぬ運命の重圧(おもさ)を背負うが故に瞳に生じる、独特の光。

 自身との相似を見出だしたところで、憎悪が消える訳ではない。猜疑心は停滞を続け、侮蔑は撤退する気配すら無い。遺恨は過去と割り切って、手を取り合うにはまだ遠い。しかし、

 イーサン・ブラッドレイは、ブラッドレイ家当主たる身の上である。その身は(はな)から、イーサン個人のものではない。

「……故に、条件を出そう。我等が悲願、魔物と魔族(双魔)の根絶を達すべく交流復活を受諾する」

 最大限の譲歩をしてやろう、と。

「!」

「父上……!」

 夕暮れめいた橙色に驚愕を上回る感謝の色が差し込まれ、諦念を僅かに揺らがせた。

 瞳をこそ見開いてはいるものの、恐らく衝撃に声を封じられたセオドアと異なり、ユンは声を発したが、すかさず同種の衝撃に絡め取られた声帯はその機能を喪失する。

 再び沈黙が巨大な翼を広げて舞い降りるのを阻止したのは、亀の甲羅を背負う老婆の容姿(すがた)をした精霊だった。

『さぁさ、それでは皆々様方、堅苦しいのはここまでと致しましょう』

 胸の前で手を叩き、シーラは全員の注目と視線を集約する事に成功する。

『お茶のご用意を致します。それと、若君の手当てのご準備も』

「……必要ない」

 眉根を寄せて治療を拒否するユンは、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

『嘘おっしゃい。あれだけ叩き付けられていたのですから』

 あれだけ叩き付けられて、のくだりに噛み潰す苦虫の数を増やしてユンは小さく舌を打つ。しかし、態度とは裏腹に治療は受ける事にしたらしい。

『主君、あたくしは若君を手当てしますから、皆々様方を応接室までお連れ下さいませ』

「……私がか……?」

『当然で御座いましょう?あたくしは若君の手当てをするのですから』

 それとも、主君が手当てなさいます?と。

 ユンの契約精霊であるレィリィン同様、シーラは契約主(あるじ)たるイーサンを主君と呼ぶ。自らお仕えする、と語った通り、恐らく忠誠心も厚いのだろう。しかしその優雅で丁寧な口調の奥に、有無を言わせない絶対感が忍ぶ気もなく紛れ込んでいた。

「……」

 ユンに続いてイーサンまでもが苦虫を噛み潰した事で、元から似通う父子の相貌が更に重なる。品の良い老婆の微笑みがその渋面を作り上げた事にライリーは深緑の瞳を瞬いた。シーラという名の精霊の、どうやらこちらが素のようだ。

 邂逅した当初とは別の意味での鋭利な表情を保ったまま、イーサンは無言で座していた椅子から立ち上がった。







『若君は良い友を得ましたね』

 無言で立ち上がり、退出しようとした背中に声を掛け、イーサンの口から滲み出るような「……ついて来い……」を放たせた後。シーラは宣言通り、別室にてユンの手当てを行っていた。

 受け身を取っていたとはいえ、全てに対応出来ていた訳ではない。特に最後は攻撃だけに全神経を集中させていた事も起因して防御は疎かとなり、結果、ユンは完全に背中から床へと叩き落とされた。

 鈍痛はあるが我慢出来ない訳ではない、程度の疼きが勢力を拡大する前に、鎮痛作用の含まれた軟膏がシーラによって塗り込まれていく。背を向けている為に表情こそ見えないものの、安堵の混じる優しい声音から、ユンには父の精霊が微笑んでいる事が判った。

「……友に見えるか?」

『あら?違うのですか?』

 口から零れた声は、思いの外静けさに彩られていた。それを意外だと伝えるかのように、シーラの微笑が落とされる。

「分からんな……友などいたことがない」

『少なくとも自分が誰かの為に必死になれる……その誰かの事を、友とお呼びするのでは?』

「……」

 不思議な連中だ、とは思う。セオドアは勿論だが、彼女やライリー、途中で加わったアリシアも。

 最初は父から受けた命令だった。これまでと同じ、何の疑問も(いだ)かずに、ユンはシンクレア家の勇者を倒しその称号を得んが為に戦いを挑み、そして敗れた。

 それは決して、完膚なき敗北ではなかった。だからあのまま、レィリィンが戦闘を中断せず続行していたら、と考えてみる。レィリィンの精霊術はサイラスに劣っている訳ではないが、結果としてやはり、ユンは敗北していたのではないか。

 契約精霊が精霊術を行使出来るのは、精霊使いの存在があるからこそだと信じていた。しかしセオドアとの戦闘によってその信念は覆され、そして、何よりも。


「貴方の意思はどこにあるんですか?」


 自身の狭隘を自覚させられた彼女の言葉は、今もユンの胸中で色鮮やかに(とど)まっている。下された命令に対し只忠実に従ってきたユンにとって、彼女の言葉は正に青天の霹靂だった。

 それまで精神の支柱だったとも言える信念が単なる固定観念に過ぎなかったのだと気付き、しかし茫然とする(いとま)すら与えられず急遽向かう事になったのは疾うの昔に交流の断絶したシンクレア家。

 そこで聞かされた真実は、自身が全く知らぬもの。

 巻き込まれた、とは思っていない。知るべくして知ったのだ。

「……初めてだった……」

 旅と呼ぶには、やや短く。それでも同年代の者達と、これ程長い時間(とき)をユンは共に過ごした事は無い。

 ライリー達との出逢いは、結果としてユンに多大なる心境の変化を齎した。そしてユンはその変化を、好ましいと思っている。出逢い、戦い、行動を共にしなければ得られなかった、今が在る。

「……そうだ、初めてだったんだ」

 今までの境遇に、呼吸が苦しいと感じた事は無かった。だが行動を共にする中で、楽に呼吸が出来る事に気付いたのは、いつからだったか。息が詰まっていたのだど、漸く気付く事が出来たのは。

 それはどこか不可思議で、しかしとても心地好い感覚。

「協力しなければ、ではなく……協力したいと思ったのは……」

 この身の裡に(いだ)く思い。それを友情と呼ぶのかは、まだユンには解らない。

 歓喜を相貌に宿したシーラは優しい微笑を浮かべたまま、ユンの背に包帯を巻き終えた。







 苦々しさが具現化したような態度のままのイーサンによって、新たに案内された応接室にて。

「……」

 ライリーは現在長椅子に腰掛け、沈黙から来る静寂に耐えていた。

 無論、座っているのはライリーだけではない。ライリーの左側には彼女、右側にはセオドアが。更に彼女の隣にアリシアの姿があった。契約精霊達はそれぞれ契約主(あるじ)の背後に佇み、ティティーはいつも通りライリーの肩の上にいる。

「……座って待て……」

 そう言葉を発した後、長椅子に腰掛けたイーサンに倣い、ライリー達もイーサンの対面に置かれた長椅子に腰を下ろした。が、それ以降言葉を禁じられたかの如く沈黙を続けるイーサンの前で、誰もが口を開ける筈もなく。

 セオドアとアリシアは微動だにせず、ライリーと彼女は時折目を合わせながら、この気不味さが霧散する奇跡の到来を希った。

「――……小倅よ、名は何という?」

 対面に座し黙したままでいたイーサンは、噛み潰し過ぎた苦虫を漸く嚥下し終えたらしい。開かれた口から洩らされた問いは、セオドアへと向けられていた。

「……セオドア・シンクレアです」

 ユンより厳しい光を宿す黄金の双眸を真っ直ぐに見据え、セオドアは自身の名を告げる。

「隣の小僧もシンクレアの精霊使いか?」

「……え?あ、や、ち、違いますっ!」

 隣の小僧、が自身を示している事に気付いて、ライリーは慌てて否定を返した。若干声が裏返ってしまった事は深く追及しないで欲しい。

「?では何故共にいる?」


――……ですよねぇー?!……――


 意訳はきっと〝何故共に我が屋敷に来た?〟だろう。鋭利を刻む眼差しに疑問の色が生じた事をライリーは正しく理解した。そして思った。それ、ぼくが訊きたいです、と。

 ライリーの方こそ、こんな展開は全く予想していなかった。そもそも精霊使いでもないライリーに、ブラッドレイ家を訪問する必要等皆無であり、本来であれば彼女やセオドアと共に神殿へと戻る予定だったのだから。アリシアとて、ユンを送れば帰還の途に就き、屋敷に滞在する必要はなかった筈だ。

 途中で引き摺り込まれた“狭間”、そして聖騎士団団長を名乗ったニールの来襲。この事象が重なり合い、ライリー達は今此処にいる。だが、それをライリー自身が長々と説明するのも憚られた。というよりも、そもそも混乱を極めた頭で、理路整然と話せる訳もない。

「ぼくは精霊使いでもなくてっ、精霊だってまだ見えるようになったばっかりで……!」

「……」

 疑問が濃度を増し困惑と化した色彩となってイーサンの相貌を侵食していく様が、一層ライリーの混乱に拍車を掛けていく。室内の温度が急速に下がっていると感じるのは果たして事実なのか、或いはライリーの体温が低下しているからなのか。


「だから……えっと……と、友達なんです!」


 到底掻き集められない程に、散り散りになった思考回路。結果、残された感情は何らの装飾も施されないままに、ライリーの口から飛び出した。

「……」

 あ、空気が凍るってこういう事だと、ライリーは学んだ。出来れば別の機会に勉強したかった等と考える脳は、既に思考を放棄している。

 器から零れてしまった水が二度と元へは戻らないように、一度口から発した言葉を体内へ戻す事は不可能。しかし、今ばかりはどうにか出来ないものか。

 冷気を通り越して最早吹雪と化したのではと錯覚する程急激な寒気に、ライリーの背に冷たい汗が伝うより早く。


「……ふ、」


 イーサンの口元に宿ったのは、微かな笑み。

「……ふ……ははは……」

 笑みはやがて声を纏い、イーサンの口から放たれる。それは嘲笑等とは程遠い、否、対極に位置していた。

 肘置きに肘を突き指先で額を押さえたままに笑声を洩らす姿からはそれまでの厳格さが鳴りを潜め、イーサン・ブラッドレイという人間の本質を垣間見せるようで。


『――あら、主君が笑う等……明日は幻獣が見られるかもしれませんわね』


「!」

 深緑の双眸を瞬かせるライリーの対面で、イーサンの身体が硬直し(かたまっ)た。

「……シーラ、扉を叩け……」

 代わりに解き放たれた呻くかのような苦声は、いつの間にか入室していたシーラの微笑に一蹴される。

『扉どころか声だって掛けました。主君がお気付きでないだけで』

 亀の甲羅を背負った精霊はくすくすと楽し気に微笑んでいるが、実際のところはイーサンを含め室内の全員がシーラとユンの入室に気付かなかった。それ程までに、眼前の光景が衝撃的だったという事なのだが。


――……確か……――


 彼女は記憶の淵を探った。シーラの言った幻獣が見られる、とは、滅多に起こらない、珍しい事という意味で使用される言葉であった筈だ。前世の(ことわざ)で明日は雪でも降るんじゃない?に相当する言葉(もの)だったと彼女が追想するのと同時に、そこまで珍しい事なのかと思い至る。

 現にユンは、驚愕を体現するかのように瞳を見開いていた。呟かれた、父上が……笑って……?が、信じられないという思いを周囲に伝えて余りある。

 別の意味で額を押さえるイーサンを尻目に未だ相貌を綻ばせながら、シーラは優雅な所作で全員分のお茶を淹れ始めた。







 天蓋の付いた寝台に仰臥する最愛の姉の姿を、少年が愛おし気に見詰めている。

 ジュディスからの報告にあった、炎の力の発現。かつて少年がジュディスに命じ、姉の肉体に施した守護の炎の発現の行方を、三日月に捜索させた結果。三日月の天眼は、一人の女性を探り当てた。

 その女性は、少年の眼前に横たわる愛しい姉と、同様の容姿(すがた)をしているのだという。

 満月にシンクレア家を襲撃させた理由は、勿論現当主たるオスカーの力量を試す為。そしてあわよくば、女性の容姿を古参である満月に確認させる為だ。

 しかしオスカーと満月との対峙の最中、三日月の天眼によって、彼女はシンクレア家には居ない事が発覚した。ならば自身の兄の後裔であるセオドアと行動を共にしているのでは、と少年は推測し、三日月にセオドアを探らせるも、答えは〝視えない〟だった。

 恐らく、否、確実に、狭間に落ちていたのだろう。

 正直、彼女の容姿について、未だ少年は半信半疑である。あるが故に、やはり彼女を直接自身の目で見ておくべきかと結論を出し、少年は寝台に膝を突く。

 少年の加重によって、寝台が僅かに軋んだ音を鳴らした。

 姉の為にと誂えた、柔らかで肌触りの良い寝台。

 少年は自らの身体を横たえ、手を伸ばし、姉の頬へと手を添えて……しかし、その程度の接触では到底足りずに、結局は姉を抱き寄せる。

 抱き締める、というよりも、まるで縋り付くかのように。

「……もう間もなくだ……僕は真なる王となり、この肉体()に姉上の魂魄(たましい)を呼び寄せる……今度こそ、姉上は僕と幸福(しあわせ)に暮らすんだ……」







 ブラッドレイ家、門前にて。

『――それでは皆々様方、お達者で。またお逢い出来る日を主君同様心待ちにしております』

 腕を組み、飲み下した筈の苦虫が復活したかの如く渋面を浮かべるイーサンとは対照的に、シーラは出逢った時と寸分違わぬ上品さでもって、丁寧に一礼する。

 あの後シーラに供されたお茶はシンクレア家にてオスカーの淹れた紅茶とは色合いや風味、茶器すら異なり、少なくともライリーにとっては初めて味わうものだった。

 爽やかな香りと後味、色合いは薄い緑色。普段ライリーの知る深みのある風味の紅茶とは違い、清涼感のある独特の味わい。

 茶器も持ち手のあるものとは違い縦に長い筒状をしている為、片手、もしくは両手で握り込むようにして持つのだそうだ。

 この緑色の茶は器も含め、《シェンナィ連山》の山向こうで流通しているらしい。


――……お姉ちゃんすごく嬉しそうだったな……――


 自身の前に見慣れぬ色のお茶が注がれた茶器を見て、え?どう持つの?となったライリーの隣で、彼女の相貌に歓喜が宿ったの見た。

 直?直なの?という問い掛けを発するより先に、彼女がシーラにお礼を言って器を両手で包んだ事で、ライリーも、あ、直なんだ、と納得した。

 その後、そんなにお気に召したのでしたら……、と、シーラから茶葉を貰った事で彼女の表情が輝かんばかりに煌めいていたのは特に印象的だった。

「――此度の事、誠に感謝致します」

 言葉と共に深々と頭を下げたセオドアに、無言を貫いていたイーサンも軽く首肯する。

 これからライリー達は、大分(だいぶ)遠回りになってしまったが、神殿へと向かう事になっていた。そしてライリー達にとって嬉しい誤算だったのは、ユンの同行をイーサンが命じた事である。

 イーサンは詳しく語らなかったが、オスカーからの書状がその要因である事はその場の誰の目から見ても明らかだった。

 もうすっかり乗り慣れた、アナスタシアに騎乗する。ふわり、と、重力に逆らい天空へと駆け上がる巨大な雪豹の背中から、佇むイーサンと緩やかに手を振るシーラの姿が彼方へと遠ざかっていった。







 蒼穹の果てへ疾駆する、雪豹の巨体を見送って。

 ブラッドレイ家当主、イーサン・ブラッドレイは自身の契約精霊に告げる。

「……シンクレア家に赴く。準備を」

『――はい、主君』

 甲羅を背負う精霊は、品良く一礼し契約主(あるじ)(いら)えた。




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