大罪の証明編 第二話―精霊病―
「……精霊病……?」
耳慣れない言葉に対する知識欲が問い掛けとなって、ライリーから紡がれた。しかし、いつもなら穏やかに教えてくれるセオドアも、丁寧に説明してくれるサイラスも、口を噤んだまま返答がない。ユンやアリシアですら、一言も発しない。
そればかりか、皆一様に表情も暗く沈んでいる。禁忌の言葉を放ってしまったかの如く、ライリーの身を罪悪感が迫り上がった。
「……精霊病っていうのは、」
「――精霊契約を失敗した者の末路だ……」
長い沈黙の末、重い口を開いたセオドアの声が、途中でユンに奪われる。それは、最初の発言に対する責任を全うするかのようだった。
「……失敗する事なんてあるんですか……?」
彼女の言外に込められた、契約は精霊から赦されている筈なのに、という意味も汲み取って、ユンが答える。
「人が無理矢理契約を推し進めた結果……いや、代償……と言うべきか……」
精霊病。その病を発症した者は〝祝福を受けし者〟に対して、通称〝赦されざる者〟と呼ばれる。何故ならば、精霊自身から赦されなければならない契約を、人の側が強制的に成そうとした為だ。
精霊契約は祝福者の特権と言われている。そして精霊との契約を経て精霊使いとなれば、祝福を受けし者達の中でも更に特別な存在となる。
「だからこそ、禁忌の行為と理解していても……一部の人間はなんとしても精霊との契約に持ち込もうとする……」
その赦されざる行為の結果、人の身に宿る筈の精霊は、恰も寄生するかの如く、祝福者の肉体に融合してしまうのだそうだ。
融合した時点で精霊の自我は喪失し、後には人間でも精霊でもなくなった、かつての祝福者が残される。
魔族と見紛う醜悪な肉体に、人としての自我が残った、既に人ではない何か。それが精霊病なのだという。
それは最早、病というより〝咎〟と呼ぶ方が相応しい。
エルシーと呼ばれていた少女の姿。セオドアの矢を受け放たれた痛ましい悲鳴が、ライリーの記憶に従って鼓膜の奥で谺する。
エルシーが、恐らく射られた痛みによって悲鳴を上げた事でニールの攻撃は中断され、結果的に戦闘は終局した。だが、それまで少女が何処にいたのか、ライリーは全く分からなかった。唯一分かっている事は、誰もいなかった筈の場所に、気が付けば現れていた、という事だけ。
「彼奴……最後は武具が具現化されていた……」
ユンに説明を譲った事で聞き役に徹していたセオドアから発された声に、エルシーの容姿で埋め尽くされていた脳内から、ライリーは記憶を探り出す。
刺繍の入った布で隠された貌。背に生えた翅と馬の脚。駆け寄るニールの右腕には、眩い煌めきを宿すかのような金色の盾が装着されていた。そして、憑操術を行使している筈のセオドアに傷を負わせた閃光の群れと、何よりもニール自身の発言。
「メルヒオールは創世の光を化身とする聖霊です。風を司る精霊ごときに敵う筈がないでしょう?」
「……光……?」
呟いたのは無意識だった。セオドアは頷いて肯定を示す。
「ああ、光属性だ……つまり、」
屈折や反射を利用したのかもしれない、と。
ニールはセオドアとの戦闘開始以前に、既に掟霊解放していた筈。このセオドアの仮定を正しいとするならば、掟霊解放の効果の中に対象物を不可視化出来る術があるという事になる。そして、その不可視化された対象物が聖霊と武具、あの異形の少女であったなら。
ニールに宿った聖霊は、攻勢に転じた際に不可視化が解除されている。だが、その時はまだニールの武具も、異形の少女も、不可視の状態を保っていた。
セオドアが放った矢は、当然だがエルシーを狙った訳ではない。だが結果としてエルシーが射抜かれた事に因って効果が破られ、不可視化が解かれたのだとしたら。
それと、もう一つ。と、セオドアは続ける。
「……ニール・ハミルトンは聖霊使いだ」
齎された新たな言葉。それは、まだライリーの知らぬ言葉。
精霊使いかと問い掛けたセオドアに対し、ニールは似たようなものだと口にした。その返答に、ユンとアリシアの瞳が宿した、厳しい光。
「……あの、聖霊って……?」
彼女も聞き覚えが無いのか、ライリー同様頭上に疑問符を浮かべている。
「聖霊は人の思いが姿と成って世界に顕現されたモノだ」
精霊とは、思いが姿に成ったモノ。土地や物に宿る現象や、思念と言った強い思いが姿に成って誕生するのが精霊ならば、聖霊は人の遺した強い思いが姿に成ったモノなのだとセオドアが答えた。
人の遺した思念。それは魂魄と言い換えてもいい。しかし当然の事ながら、全ての人間が死してから聖霊に成る、という訳ではない。
故に、聖霊とは人の魂魄が成ったモノではなく、人の身と成っていた神が本来の姿を取り戻した存在である、とさえ言われているそうだ。
従って聖霊使い達は、聖霊を精霊より上位の存在だと考える。その独特の思考が定着し、聖霊は一部の人々の間で崇拝の対象となっているのだとセオドアは続けた。
「あのニールとやらも言っていたな……〝創世の光の化身だ〟等と」
「アイラ以外を信仰する人達がいるのは知ってたけど……」
眉根を寄せて発されたユンの言葉に、ライリーも頷く。
この世界の創世の女神。唯一神アイラを、この世界の人々は信仰している。神話は真実として語り継がれ、アイラの創世記を知らぬ者はこの世界には一人もいない。
しかし、中にはアイラは唯一神ではなく、この世界にはアイラ以外の神も存在すると考える人々もいた。その信仰の対象こそ、聖霊と呼ばれる存在なのだという。
「聖騎士団という名称から推測するなら、あの二人は聖霊を崇拝している可能性が高いと思う……」
顎に拳を当て自身の推測を口にしたセオドアだったが、その声には自信無さ気な響きがあった。
「で、貴様聖騎士団とやらに覚えはないのか?」
「悪いがなにも。ましてニール・ハミルトンなんて名前すら聞いた事が無い」
――……名前も知らない相手に戦いを挑まれるのは、慣れているんだがな……――
胸中の思いが溢れないよう口を噤んでも、勇者という甘美なる果実の誘惑を秘めた称号を欲して挑まれる戦いは想起され、諦念混じりの苦笑が洩れてしまう。幸い浮かべた苦笑は誰に見咎められる事無く、セオドアは思考を切り替えた。
「だが、彼奴は魔王が討滅されてない事実を知っていた」
「また、来る……よね……?」
ニールは妹、エルシーの予想外の負傷に身を退いただけ。
勝負を預けると口にしたニールの、月光めいた銀眼には、憤怒から来る激情の光が宿っていた。あれは再戦、しかも勝利を決意した煌めきだった。
「来るだろうが、それは今でもこの場でもない」
今この場でこれ以上話すこともないだろう、と、ユンが草海の彼方を仰ぐ。
それは対話の終了と同時に、出発への契機となった。
草海の彼方に聳えているかに見えた連山の稜線が、アナスタシアに騎乗する全員の視界に捉えられる。
風は変わらず涼やかに、広大な平原を吹き抜けていた。
――……ほんとになんにもない……――
草と風の他には生命体すら存在しないのではないかと思わせる程、緑一色に染まる平原を見下ろしてライリーが胸中で呟く。これでは確かに、置いていって欲しいと言ったライリーの主張が撥ね除けられるのは当然だろう。正直今は、置いていかれなくて良かったと安堵しているくらいだ。
「ユン、来る時はどうしたんだ?」
それと、帰りもどうするつもりだったんだ?と。
馬車どころか行き交う人の影さえ見えない草海に対して、セオドアがユンに交通手段を訊ねた。
シンクレア家に向かう途中で、山越えの馬車が出せないと言われた時とは逆だな、等と思いつつ、ユンが口を開く。
「父上の契約精霊には転移門の異能がある」
転移門とは、指定した二ヶ所に設置される事で効果を発揮する簡易な移動手段である。転移のように自在に移動する事は叶わないものの、設置された区間を転移によって移動可能という限定的な異能だ。
《シェンナィ連山》の麓と、《ツァオハィ平原》を抜けた先の街に、それぞれ転移門を設置してあるのだとユンが答えた。
転移門は生物が足を踏み入れれば自動で発動し、設置されたもう片方の転移門まで、やはり自動で転移する。麓の転移門から街まで転移し、村街間は馬車で移動してきたのだとユンが語る間に、九つの連山は全員の目前まで迫っていた。
「……着いたな」
九つに連なる山々の集合体、通称《シェンナィ連山》の山腹。断崖絶壁の窪みを利用して建てられたブラッドレイ家の屋敷を示し、ユンが短く到着を告げる。瓦の屋根と煉瓦造りの屋敷の規模は、シンクレア家に勝るとも劣らない。
屋敷自体が絶壁に建てられているという事は、当然ながら屋敷の門もそうだという事。
――……いやこれどこから入るの……?――
侵入はおろか訪問さえ拒むかの如く様相に、まさかあれじゃないよねと、麓から続いているのであろう細く切り立った道とも呼べないそれを目視して、ライリーは慄いた。
ライリーの内心の慄き等無視して、アナスタシアがふわり、と、門前の開けた空間に着地する。
固く閉ざされた門扉をユンが押し開ければ、屋敷の玄関口に小柄で品の良さそうな老婆が立っていた。白髪を団子状に一纏めにした、上品な出で立ちの黒目の老婆。
『お帰りなさいませ、若君。そして……いらせられませ、皆々様方』
ご案内申し上げます、此方へ、と。
そう口上を述べてライリー達に背を向けた老婆は、亀の甲羅を背負っていた。否、甲羅は老婆が精霊である証明。
『若君、主君は教練堂にてお待ちです』
ユンを若君と呼び、恐らくは契約主を主君と呼んだ甲羅を背負う精霊の言葉に、ユンは応えない。只眉を顰め、拳を握り締めただけ。
後をついて歩くライリー達には理解不能なユンの葛藤が、その行動に表れているかのようだった。
「……」
長く広い廊下を進む一行は、以降沈黙に支配された。誰もが口を噤む中で、老婆の姿をした精霊の事も、教練堂と言われる場所の事も問えないまま、ライリーも足を動かす事だけに意識を集中する。やがて教練堂と扁額の掛かった引き戸が現れ、この息の詰まるような静かなる行進は終わりを告げた。
『主君、お連れ致しました』
甲羅を背負う老婆の精霊によって引き戸が開かれ、室内の全容がライリーの瞳に晒される。
板張りの壁と床。木製の格子窓。そして、中老であろう男性が一人。
ユンと同色の深紅の髪に、鋭利さの宿る黄金の双眸。瞳だけでなく貌全体に剣呑さを湛えた厳しい出で立ちに射竦められたのは、きっとライリーだけではないだろう。
「……戻ったか、ユンよ」
銅鐘が響くような、厳かな声。それが自身へと向けられた声ではないと理解していても、緊張でライリーの背筋が伸びる。
シンクレア家の屋敷で逢ったオスカーを春風駘蕩と称するならば、眼前に立つ男性は正に秋霜烈日と称するが相応しい。
「私はシンクレア家の小倅を倒せと命じた筈だが?よりにもよって連れての帰還を果たすとはな」
「――父上、シンクレア家当主殿から書状をお預かりしております」
黄金の呪縛を解き放ち、ユンがオスカーから託された書状を差し出した。男性は――ブラッドレイ家当主は受け取らない。黄金の双眸が、心持ち細められただけ。
「書状を読み、オレの話を聞いて頂きたい」
「……ならば、理解しておろうな?」
「はい」
射抜くかのような黄金に、挑むかのような同色が交錯する。完全に二人の間だけで交わされる言葉に口を差し挟める筈もなく、ユン以外は未だに沈黙を貫いている。
『さぁ、皆々様方はどうぞ此方へ。少々危のう御座いますので……』
老婆の精霊に促され、ユン以外の全員が部屋の隅へと案内された。室内の様相をまるで武術の道場のようだと感じながら、彼女もライリー達と共に移動する。
向かい合ったままのブラッドレイ家当主とユンは、お互い無言のままで中央へと歩を進める。対峙するかのように見えた動作は、決して誤りではなかった。一呼吸の後、跳躍と共に詰め寄ったユンの蹴撃によって、突如、戦闘が開幕した。
相対するブラッドレイ家当主は、回避も防御の体勢もとらない。ユンから繰り出された脚に当主の手が添えられた瞬間に、ユンは床に倒れ伏していた。
「ぐっ……!」
ユンと床との接触は刹那的だった。瞬きの後、ユンは身体を起こし再び跳躍する。
「……なに、が……?」
急遽目前で展開される肉弾戦に、ライリーの裡から無意識に声が洩れてしまう。独白めいた声を拾ったのは、甲羅を背負う老婆の精霊。
『此処は教練堂。ブラッドレイ家に於きましては、当主に意見具申する際には、当主より勝利を得なければなりません』
ブラッドレイ家に於いて、当主の命令は絶対です。命令を覆すのですから、と。
『最も、今まで主君より勝ちを得られた者は一人もおりませんが』
武勇に優れ代々優秀な精霊使いを輩出するブラッドレイ家の中でも、歴代最強の名を恣にする当代当主。
甲羅を背負う老婆は続ける。
『申し遅れました。あたくしはブラッドレイ家当代当主、イーサン・ブラッドレイ様にお仕えする契約精霊、名をシーラと申します……よしなに』
シーラと名乗った精霊は、その品の良い容姿の印象を貶める事のない丁寧な所作で一礼した。
シーラの言葉に意識を向けていた視覚と聴覚は、直後、ユンが壁に叩き付けられた音によって繰り広げられる戦闘へと引き戻される。
イーサンはユンに対して、一切攻撃を仕掛けてこない。ユンから繰り出される攻撃は、常に紙一重で躱される。時折、思い出したかのように触れられるイーサンの手によって、ユンは瞬間的に壁や床との抱擁を強制される。その度に行われる接近と跳躍、そして、再びの蹴撃。
「……なんで戦闘方法が肉弾戦なんだ?」
勝機の一筋どころか、劣勢を極めるユンに何を思ったのか、シーラに静かに問い掛けたのはセオドアだった。
ユンも、当然ながらイーサンも精霊使いである。二人の勝負の内容が、憑操術の行使であっても決して不思議ではない。だからこそ、何故直接対峙しているかと、セオドアは問う。
『命令も、命令に対する意見具申も当人方の主張ですから』
要は発言に対する責任は当人同士にあるが故の事なのだと、シーラは語る。
シンクレアの勇者を倒せと命令を下したイーサンに対して、ユンが主張するであろうオスカーから託された御三家の交流復活。
自身の発言に責任を持ち、その意志を貫く為の手段である戦闘には、自身の純粋な武力のみを以てして行う事。それがブラッドレイ家に於いて取り決めされている、当主に対する意見具申の儀礼なのだという。
それに、と、更にシーラは続けた。
『これは戦闘訓練も兼ねておりますから』
憑操術を行使する精霊を自らの身体に宿す精霊使いは器に過ぎないと、以前ユンとの戦闘でセオドアが口にしていた事をライリーは記憶の淵から引き上げる。
魔物や魔族との戦闘時に於いて、実際に精霊使いの肉体を通して戦っているのは憑操術を行使する精霊である筈。精霊使いの役割は肉体を提供し、宿った契約精霊の動きを阻害せず、尚且つ意識を失わないように努める事なのではなかったか。
ライリーの脳裡に浮上した疑問は、表情にも浮かんでいたらしい。シーラの言葉に納得したようなセオドアが、ライリーに対して答えを示した。
「肉弾戦の不得手な精霊使いはいないぞ?特に憑操術を行使する者ならな」
「精霊が身体を使おうとして、思い通りに動かせなかったら困る」
アリシアが珍しくも、セオドアの言葉を補足するように口を開く。
宿った精霊使いの肉体を精霊が自在に操れず、動作に齟齬が生じた場合。結果としてそれが致命的な敗因となる事もある。故に、精霊の動きを制限しない為にも、精霊使いは肉体を鍛える必要があるのだそうだ。
その一環として精霊使いという人種は皆例外なく、無論個人の差はあれど武術の心得があるのだという。
実際問題として、契約精霊に肉体を貸し与える憑操術ではなく、武具に契約精霊を宿す憑装の場合は、戦闘は精霊使い自身によって行われる。
例え精霊を宿した武具であったとしても使用者である精霊使いが戦えなければ、それは正に持ち腐れといったところだ。
――つまりオスカーさんは肉弾戦があんまり得意じゃないのかな……?――
春の陽だまりのような暖かさで、戦闘はあまり得意じゃないと洩らしたオスカーの相貌を、ライリーは脳裡から呼び起こす。
『付け加えるならば、私達は肉体を拝借している身の上です。確かに実際戦闘は行いますが肉体の本来の持ち主は精霊使い……意思は最大限考慮致します』
自ら付け加え、と称したサイラスの言葉に、セオドアが戦闘中に何度かサイラスの名を呼んでいた事を、ライリーは追想した。そして、その呼び掛けによってサイラスが行動した事も。例えば、先のニールとの戦闘は正にそれだった。あれはニールによる広範囲かつ高速度の攻撃に対し、セオドアが回避は不可能と判断し耐久を選択した結果だったのだ。
新たな知識が聴覚から齎され脳へと刻み付けられながらも、ライリーの視界はユンとイーサンに捕らわれたままでいる。
依然、戦闘はユンの劣勢。厳しさと冷ややかさに満たされた相貌は崩れる事もなく、息一つですら乱さずに攻撃を躱すイーサンに、ユンは果敢に挑むものの未だに打撃を与えられずにいた。
闇雲で単調。他の手等無いかのように、ひたすら接近と跳躍を繰り返し繋げる蹴撃の音律が、不意に変化した。
数える事すら放棄する程の床との接触。その直後に来るのは、接近と跳躍である筈だった。そのどちらの行動もとらず、ユンは床に接地した直後に、起こした身体を限界まで沈ませる。伸ばされた脚が回転し、草を刈り取る鎌の如く鋭利さを以て、イーサンの足首を捉えた。
一連の動作に、イーサンの双眸が僅かに反応する。
ユンの攻撃の変動は、イーサンにも伝播した。ここにきて初めて、イーサンは回避ではなく、攻勢へと転じたのである。
地に伏すユンにイーサンの手刀が迫る。自身の攻撃圏内へと補足していたイーサンの足首には執着せず、ユンは素早く回避に移った。
掃腿を囮に、イーサンからの迎撃を誘発する。その狙いが達成された今、無理に攻撃を当てに行く必要は無い。何よりもユンの蹴撃より、イーサンの手刀がユンを捕らえる方が早いだろう。そう判断を下した本能に、身体は忠実に従う。
目的は、イーサンの体勢を崩す事にあるのだから。
攻撃から回避へと切り替えたユンの行動は、イーサンに驚愕と同時に、驚き以上の感嘆を齎した。黄金色の双眸が、今度こそ見開かれる。
近視眼的な嫌いのあるユンは、攻撃にも如実にそれが表れる。普段ならば無理矢理にでも当てようと、此方の足首を刈りに来るだろう。無論攻撃を許すイーサンではないが。否、そもそも普段ならば、これ程長く戦闘は続かない。武術訓練に於いて常に攻撃に固執し防御や回避を疎かにした結果、ユンはこれまで幾度となくイーサンに沈められてきた。何よりも意見具申の為にと、ユンから戦闘を申し出た事すら皆無だったのだ。何故ならば、当主の命令は絶対なのだから。
物事を多角的に捉え、大局を見極める。この当主たる者として必要な資質に些か欠けた息子は、当主たるイーサンから与えられる任務や指令に、今まで疑問等抱いた事が無かった筈だ。
それがどうだ。どんな心境の変化を生じさせたのかは不明だが、当主の下したシンクレア家の小倅を倒せという命令を覆すべく、ユンは今、初めて己の意志を貫かんとする為にイーサンへと向かってきている。
しかも攻撃を重視する猪突的な方針を捨て、回避や陽動を自身の戦闘手段に組み込んでまで。
「……純粋な肉弾戦ならユンには勝てないな……」
勝負に水を差さぬようにと声を抑えたセオドアの独白は、自身の耳のみを通過していった。
伏した相手を更に沈めるべく、直立の体勢は既に崩れていた。集中故に視野が狭まり、イーサンの視界に瞬間的な隧道現象が惹き起こされる。
イーサン程武術に長けた者ならば、それは刹那にも満たない僅かな瞬間。ユンがそれを捉えたのは、本能と呼ぶよりは反射だった。
決着とする為に迎撃に出たイーサンは、攻勢より回避に徹したユンの姿を、一瞬見失う。その一瞬がユンにとっての唯一無二の好機であり、イーサンにとって鮮少の隙となった。
回避から、再度の跳躍。背後に回り込んだユンから繰り出された、恐らく渾身の蹴撃が、イーサンの肩口を完全に捕らえた。
「――!」
肉を打つ鈍い音と共に、イーサンの姿が微かにによろめく。
攻撃が入った事で更に体勢を崩したイーサンは、しかし、次の瞬間には己の肩を打ち付けたユンの脚を掴んでいた。
「がッ……!?」
脚を掴んだイーサンの手を振り払えずに、ユンは床へと投げ落とされる。背面から床板に叩き付けられた身体は、既に起上に当てる余力を残してはいなかった。
「――よかろう……」
苛烈さが色を添える呼吸を貫くように、イーサンの声がユンへと落ちる。
「話くらいは聞いてやる」




