大罪の証明編 第一話―大罪の証明―
「……?」
崩壊した筈の足下に、大地の感触が戻っていた。耳許で潮騒のように鳴っていた轟音と婚姻を結んだ震動は、どうやら盛大な挙式を挙げた末に蜜月の旅行へ向かってしまったようだ。
本能的に閉ざしていた瞼を、理性の力で抉じ開ける。蒼穹に座し大地を統治する陽光が、ライリーの深緑を瞬かせた。
「……」
其処は、涼やかな風の吹き抜ける平原だった。遥かなる草海の彼方には、幾重にも連なる山々の峰が聳えている。
青々とした自然の美しさを感じさせるその草原は、ライリーにとって全く見覚えの無い場所だった。
「……此処って……?」
「――歪みの影響だ」
ライリーから洩れた独白には、〝何故見覚えの無い場所にいるのだろう?〟という意味合いも含まれている。その含みを正確に読み取って、セオドアが答えを口にした。
歪みとは無数に枝分かれし、細く捩くれた小道のようなもの。更に不規則に世界と繋がる為、入口と出口といった概念も存在しない。故に引き摺り込まれた地点と、脱出した地点とが同一である事はほぼないのだそうだ。
狭間の崩壊の直前でセオドアが放った言葉は、引き摺り込まれた時と同様に、全員の分断を避ける為だったらしい。元より一処にまとまっていた事も功を奏し、ライリー達は誰一人欠ける事なく空と大地の在る場所へと帰還を果たした。そしてそれはあの狭間からの脱出と、狭間自体の消失を意味している。恐らく展開されていた狭間は、創造主である仔犬めいた精霊とその運命を共にしたのだろう、数多の躯骸を道連れにして。
「……あの精霊の目的ってなんだったのかな……」
最期は髑髏に凭れ掛かるようにして消滅した精霊の姿が、ライリーの瞳に焼き付いている。
あの精霊は言っていた。みんな壊して友達になって欲しかった、と。その言葉の意味、真意も本懐もライリーには理解が及ばない。
「……分からない……今となっては」
首を振りながらセオドアが答えた。精霊は自らの意思や思考、信念や美学に基づいて行動する。そして人とは異なる思考回路をもつが故、行動の結果が人に害を与える事例もある。今回の事態は正にそれだろうが、当の精霊が消滅してしまった今、最早その目的を理解する事はこの場の誰もが不可能だった。
「分からないことをこれ以上考えても仕方ない。誰か、この場所に見覚えある?」
一番早く思考を切り替えたアリシアが、景色と共に全員の顔を見渡した。問い掛けるという事は、少なくともアリシアにとっても、此処はライリー同様に見覚えの無い場所なのだろう。
「……《ツァオハィ平原》だ」
彼方に聳える山々を見据えたまま、声を発したのはユンだった。言葉と同時に上がった指先は、連なる山の中央に位置する峰を示している。
「……アリシア嬢、すまないがあの山へ向かって欲しい」
広大な草の海上を、彼方に聳える山脈目指してアナスタシアが駆けていく。
目的地は、九つに連なる山々の集合体だった。最高峰である中央の山を代表し、通称《シェンナィ連山》と呼ばれているのだとユンは告げた。ユンの生家であるブラッドレイ家の屋敷は、その山の中腹に建てられているらしい。
引き摺り込まれた狭間の門に相当する歪みの影響に因って、到着する筈だった、というよりは視界に捉えていた筈の街から、ライリー達は遠く離されてしまった。代わりにブラッドレイ家近くの平原で狭間から戻って来られた事は、果たして幸運なのか凶運なのか。
例え憎悪の対象であろうが関係のあるセオドアや、シンクレア家に連なるアリシアは兎も角として、無関係と言っても過言ではないライリーまでがブラッドレイ家へ赴くのはどうなのかと、ライリーは訪問に難色を示した。だが、一度遠ざかった神殿まで戻るより、このままブラッドレイ家に向かう事を決定したのはユンだった。
眼下に広がる《ツァオハィ平原》には、街はおろか村すらないそうだ。ライリー達を文字通り草しかない平らな大地に置いていくという選択肢は、ユンの中に初めから存在していない。
故に全員が再びアナスタシアに騎乗して、天空の旅路を続けている。
――……みんな壊して、友達に……――
狭間の創造主である精霊の言葉が、ライリーの脳裡で谺する。独自の意思や思考の基に行動する精霊は、その信念や美学によって人に害を齎す事例もある。つまりあの精霊の言動も、その信念に因って行動した結果であったという事だ。
――……それに……――
シンクレア家に向かう山中での、女性の魔族。あの時の魔族も、ライリーには到底理解出来ない言葉を放った。〝みんなで樹になる〟。〝見える子じゃないと栄養にはならない〟。
片や精霊、片や魔族の言だとしても理解不能という点に於いて一致している事が、更にライリーを悩ませていた。
――……精霊と魔族って……――
何か繋がりがあるのだろうか、と、考える。それはもう、完全に精霊使い達の分野だ。だが、セオドアからそんな話を、ライリーは聞いた事がない。
「「伏せろ!」」
異口同音に発されたセオドアとユンの二重奏が、ライリーを思考の淵から引き上げる。声と同時にライリーは、アナスタシアの背に倒されていた。
それまでは乗っている事を気付かせない程、振動とは無縁だったアナスタシアの動きが劇的に変化する。荒廃した大地を疾走しているかの如く、強烈な激しさがライリーの全身を揺さぶった。
異常な何かが起こったのだという事は、流石に理解出来る。しかし、実際に何が起こったのかは解らない。
自身の行動が好奇心からか防衛心からかも不明のまま、ライリーは衝撃に因って閉じていた瞳を開いた。
――……星が、墜ちてる……?――
ライリーがそう錯覚する程に眩く煌めく閃光が、流星のようにアナスタシアの周囲を舞い躍る。
「……っ!降りる!」
閃光の群勢を回避する事が困難と悟ったアリシアが、アナスタシアに下降を促す。契約主の意思を汲み取った巨大な雪豹が、数多の星々に似た輝きの間を縫って広大な草海に降り立った時、その正面に立つ人影がライリーの瞳に映し出された。
「セオドア・シンクレア殿とお見受け致します。聖騎士団団長ニール・ハミルトンと申します」
人影が声を発した。年齢はライリー達よりも、少なくとも二、三は下であろう。子供らしさと少年らしさが同居する、十代半ば独特の容貌。純白と呼んで差し支えない髪色が陽光を受けて煌やかさを増す中で、冴えた月光を思わせる銀色の双眸は、真っ直ぐにライリー達、否、セオドアへと向けられていた。
聖騎士団団長という耳慣れない役職を示すかのように、ニールと名乗った少年は金糸で縁取られた黒の詰襟と外套を身に纏っている。その黒さがニールの髪と肌の白さを、より一層際立たせていた。
視線を向けられたセオドアは正面のニールにも、その役職ですら、身に憶えが無いようだった。夕暮れめいた橙色からは、困惑が強く伝わってくる。
戸惑いに溢れたセオドアの視線等意に介さず、ニールは更に言葉を続けた。
「大罪の証明に、僕に生命を差し出しなさい」
「!」
ニールから放たれた〝大罪〟という単語に、セオドアの表情が変化した。ユンと対峙し、勇者と呼ばれたあの時のように、困惑から、哀愁と諦念が湧き上がる。
セオドアの名を知り、尚且つ大罪と口にする。それは聖騎士団の団長を名乗る眼前の少年が何者であるかを推察するには、充分な効果を発揮した。
「精霊使いか?」
「そう言われるのは心外ですが……まぁ、似たようなものですからね」
ニールの返答に反応したのは、セオドアだけではなかった。ユンとアリシアの双眸に、剣呑な光が混じり始める。
「……お前も勇者の称号が欲しいのか?」
静かに紡がれた問い掛け。そのどこか冷めた声の裏側に、セオドアがこれまで幾度となく称号を理由に理不尽ともいえる戦闘を経験してきた事が窺える。
「……」
自身がその一人であったユンが複雑な表情を浮かべた事に、彼女だけが気が付いた。
「まさか。要りませんよ、そんなもの。偽りの称号なんて、なんの意味もないでしょう?」
緩やかに首を振り、相貌には穏やかな程の笑みを混じえながら、ニールはセオドアの言葉を否定する。
「何故俺だけじゃなく全員狙った?」
天から星が墜ちてくるかのような、眩い閃光の乱舞がライリーの脳裡を貫いて、漸く理解した。先程自身が流星と錯覚したあれは、ニールによる奇襲だったのだと。即ち眼前の少年は、既に憑操術を行使しているのだという事に。
セオドアの言葉の真意は、戦えないライリーや彼女までを攻撃の対象とした事への返答も追及していた。
問われたニールの表情から、それまで浮かべていた微笑みが消える。
「質問の意味が解りませんね……偽りの勇者に与する者は皆等しく聖騎士団の敵ですが?」
銀色の瞳からも、月光に似た輝きが喪失する。澱んだ闇でも内包するかのような瞳孔に、ライリーは初めて眼前の少年に恐怖を感じた。
「……悪い」
それは誰に対しての、何に対しての謝罪だったのか。
返答すら受け付けないというかのように、謝罪を口にしたセオドアがニールに歩み寄る。正面から対峙する両名の間を、乾いた風が吹き抜けた。
「サイラス、掟霊解放」
先に動いたのはセオドアだった。自身の契約精霊の名を呼び、器となるべくその身を預ける。
「『“翠嵐箭”』」
契約精霊を憑依した精霊使いが、頭上に掲げ交差した両腕を開く。緩やかに下げられた両腕に、翠の風を集束させた美しい弓矢が具現化された。
身の裡に巣食くった動揺を静められぬまま、ライリーはニールの姿を見る。掟霊解放は戦闘手段。つまりセオドアは今、ニールとの戦闘を決意したのだという事。
――……光が……?――
掟霊解放によって翠嵐箭を展開しているセオドアと異なり、ニールは只佇んでいるだけに見えた。
両手には何も持たず、掲げず、何よりも器である精霊使いと重なり合う筈の精霊の容姿を、ライリーの瞳は認識出来ない。ニールの胸元には、小さな太陽にも似た光の塊が見えるだけだ。
「……」
僅かな吐息と共に構えを解き、セオドアの身を借りたサイラスが跳躍した。瞬きの間に距離を詰めたセオドアが、佇むままのニールの肩口に弓を持つ左腕を振り下ろす。
「……何故アイツはいつも初撃で殴りかかるんだ……」
場合にもよるだろうが弓矢とは基本、中から遠距離用の武具である。だがセオドアは矢を用いずに、弓を持つ左腕を振るって直接打撃を仕掛ける事が多い。過去にその打撃を受けたユンによる半眼の呟きは、アリシアによって拾われた。
「サイラスの武具は矢じゃなくて弓」
「それって……?」
何が違うの?と、ライリーが問う間も無く。
金属同士が打ち合うような硬質な音が、全員の鼓膜を貫いた。
金属音と共に、セオドアの攻撃が不自然に停止する。相対するニールは胸の前で右肘を曲げ、拳を握っているだけだ。だが、セオドアの弓とニールの腕の間には、見えない何かがあるかのように空白が存在していた。
「『……“凍風”』」
後方に飛び退いたセオドアが、番えた右手の指を鳴らした。弦から解き放たれた矢は、ニールを射抜く直前でやはり、見えない何かに弾かれる。
「『……』」
セオドアが、頭上に弓を構え直した。矢を番えた指を鳴らせば、翠を纏った風の矢が虚空に向かい疾走する。放たれた矢は中空で静止し、分裂し、増加して。
「『“虎落笛”……!』」
セオドアが再度、指を鳴らした。それは、静止からの解放の合図。分裂によって数を増した風の矢が、甲高い笛の音色を奏で、豪雨の勢いで降り注ぐ。
ニールの相貌は崩れない。微笑みの中にどこか嘲笑の色を差し、肘を曲げたままの右腕を自身の頭上へと掲げた。
数多の笛の音を掻き消すように、草海の音の支配者は、鋭い金属の高音へとその身を替える。
「……」
降り止んだ風の矢の中で、変わらずにニールが立っていた。
「……セオドアくんの攻撃が……全部弾かれるなんて……」
信じ難い思いが独語となって、ライリーの裡から溢された。肩に乗るティティーや、隣の彼女も同じ思いなのか、表情には驚愕と、セオドアに対する心配の色が浮かんでいる。
あの夕暮れの出逢いから、そんなに歳月は経っていない。だが、もう随分と長くセオドアと共にいるような気がする。それだけライリーにとって、セオドアという年若い精霊使いとの日々は記憶に深く刻み込まれていた。
セオドアが風を操る精霊、サイラスと戦闘に身を投じている様を見るのは、まだ数える程度しかない。しかしその数少ない回数の中で、翠を纏った風の矢は、いつだって標的を過たずに射抜き、そして貫いてきた。
そんなセオドアの、サイラスの攻撃は今全てが弾かれて。対峙するニールは、完全にセオドアを圧倒している。
「……」
アリシアとユンも、厳しい眼差しを向けている。だがその双眸は、ニールというより周囲に対しての警戒に見えた。
アナスタシアが低く唸っている。レィリィンの鉄紺色の眼が、探るように瞬いた。
『……主君』
「ああ、姿は見えない……だが、もう一人いるな……」
――……武具が見えない……――
苦衷が相貌に反映し、セオドアの表情を滲ませる。
空中で受けた襲撃。無数の輝耀が舞踏し跳躍するかのような絢爛さを纏った閃光は、その攻撃力の高さから鑑みて、間違いなく掟霊解放に因るものだ。
掟霊解放とは、精霊の掟を解放する術。器となった精霊使いの身に宿った契約精霊の属性を、世界へと解放し、行使する戦闘手段。
精霊自身の属性を解放し効果を行使する為に、具現化した武具や繰り出す技に名称を与え、他の技と隔絶し、己の力とする事で属性の威力を増加させる。
つまり眼前で微笑むニール自身は、奇襲時から既に掟霊解放していた事になる。だが、世界に対して具現化する筈の武具も、憑依している筈の精霊の姿も、セオドアの瞳に映らない。
しかし、その武具の不可視化こそニールの掟霊解放の効果の一部である事を、セオドアは正しく理解していた。
しかも精霊使いかという問い掛けに対して、ニールは似たようなものだと口にしている。その言葉から、セオドアはニールに宿る正体の答えに辿り着いていた。
――……聖霊使い、だ……――
「こちらの番ですか?」
「!」
ニールの周囲に、太陽を縮小したかのような複数の光球が顕現する。煌めきを宿す光群が漂うかのように浮遊を開始するのと同時に、セオドアの視界に今まで認識を阻害されていた容姿が、漸く正しく認識された。
人間の男性と同様の肢体は、長身で痩躯。金糸めいた長髪に、伏せられた瞼。例え腕の良い細工師が手掛けたとしても、到底作り得ないであろう絶世の美貌と、背から伸びる五対の皓翼。
美貌も、翼も。存在全てが、人ならざる者としての証明だった。
波間を宛も無く彷徨う小舟のように、揺蕩うような動作でくるくると舞い躍る数多の輝きが、美貌の聖霊に呼応する。伏せられていた瞼が開くに連れて、その光の群勢が明確な意思をもつかのように躍動し……、
「!サイラス!」
初撃の技と覚ったセオドアが、鋭く声を発した瞬間。
「『――“極光”』」
躍動する光球全てから、冴えた閃光が放たれた。
避け切れないと判断した本能が、セオドアに耐久を選択させる。
迸る眩い煌めきに焼かれ、セオドアの視力は瞬間的にその役目を放棄した。皓に染め上げられ封じ込まれた視界の中で、契約主の意思を正確に読み取った契約精霊の突き出した翠風の弓に、閃光による衝撃が次々と着弾していく。
「ぅッ……!?」
防ぎ切れなかった攻撃が、セオドアの頬を掠めた。創傷部より溢れ出る血液が頬を這い、顎へと滴り落ちる感覚が発熱と鋭痛を帯同する。
流星めいた閃光群の終息に代わり視力を取り戻した夕暮れ色に、開かれた月光の眼差しが映った。
「……凌ぎ切るとは思いませんでした。少々見くびっていたようです……ですが、」
「!」
軽やかに大地を蹴り、今度はニールがセオドアに近付く。先程のセオドアの再現のように、一瞬でセオドアの懐へと潜り込んでみせた、直後。
「がッ!?」
「セオドアくん……!」
風を切るような音を伴い、ニールの右腕が、否、右腕に装着された見えざる武具が、セオドアを身体ごと薙ぎ払う。驚愕に苦痛を掛け合わせたライリーの声が、遠くセオドアの耳朶を打った。
「メルヒオールは創世の光を化身とする聖霊です。風を司る精霊ごときに敵う筈がないでしょう?」
「ッ!?」
セオドアが傾覆した身体を起こした途端、再度距離を詰めていたニールは、不可視の武具を備えた右腕を既に振り被っている。
「『くっ……!』」
片膝を突いたまま咄嗟に翳した翠の弓が、再度の打撃を防いだ。草海に、またも金属音が鳴り響く。
「『“凍風”……!』」
翳した弓に風を具現化した矢を番え、セオドアの指が音を紡ぐ。至近距離から迫る矢が、ニールに初めての回避行動を齎した。半歩身を引いて躱したニールの眼前を、標的を見失った翠の矢が草海の彼方に消えていく。
「……」
「……」
見上げる者と見下ろす者。双方の沈黙と睨視による永劫続くかに思われた硬直は、突如介入した第三者の悲鳴によって中断を余儀無くされた。
「――お兄様っ!お兄様ぁっ!」
「!エルシー!?」
草の生い茂る広大な平原に、兄を求める悲痛な叫びが谺する。発信者である声の主による絶叫は、少女と言うにはやや幼い。
セオドアとの戦闘を放棄してニールが駆け寄ったその場所に、全員の瞳が反射的に吸い寄せられた。
いつの間に現れたのか。或いはいつから現れていたのか。
兄と同色の波打つ長髪を揺らめかせる、幼い少女と思しき姿。その相貌は、小さな額から頬の半ばまでを黒に金の刺繍で飾った布で覆われており、表情を窺い知る事は難しい。唯一露になっている口元だけが、少女の必死さを伝えてくる。
貌の隠れた少女の背には透明な翅が生え、腿から下に伸びるのは馬の脚と、蹄。
それは、少女としては、否、人としては些か奇妙な容姿をしていた。
「エルシー!どうして……ッ!?」
ニールを支配していた困惑が、驚愕へと座を明け渡した。少女の姿から刹那にも満たない僅かな一時、自身の右腕へと視線を落とす。右腕に金の煌めきを放つ盾の存在を目視し、再び月光を宿した銀眼が少女を映した時には、相貌の支配権は既に憤怒へとすり替わっていた。
隠された瞳から隠せない苦痛が、涙と化して少女の白い頬を伝う。セオドアが放ち、ニールが躱した風の翠矢が、少女の肩に深々と突き刺さっていた。そのか細い肩からは、既に鮮血が溢れ始めている。
「……」
異常であるその容姿を目撃した全員が驚愕の為に各々の瞳を見開いている中、纏っていた黒の外套を、ニールは優しくエルシーと呼んだ妹に被せる。まるで、奇異の目線から守護するように。
「……お兄様っ、お兄様っ……!」
縋るように身を預け未だ悲痛な声を上げ続けるエルシーの身体を支え、ニールがセオドアに厳しい月光の眼差しを注いだ。
「……勝敗は其方にお預け致します。ですが、魔王は我々聖騎士団が討滅します。偽りの勇者殿……次は、頬の傷程度では済ませませんよ……?」
星々の瞬きに酷似した一際眩い煌めきが、ニールに宿った聖霊から迸る。広大な平原の全土をも強烈に照らし出すと言わんばかりの閃光が、セオドアを、否、その場全ての者達の世界を皓く奪った。太陽を直視した時のような一過性の盲目の後、開かれた視界には、風吹き抜ける平原だけが残された。聖騎士団団長を名乗った兄も、不可思議な容姿の妹も広大な草の海から消失し、最早存在を確認する事は出来ない。
「……転移か……」
誰に聞かせるでもない呟きを落とし、頬に滴る血を乱雑に拭ったセオドアに、二つの影が走り寄る。
「ほっぺた……!ほっぺたが……!」
「セオドアくんのほっぺたが……!」
「お、おう落ち着け……そんな騒ぐほどの怪我してないぞ?」
ほっぺた、を連呼しながら心配を全面に押し出すライリーと彼女に、セオドアは手をひらひらと振って怪我の程度を主張した。掟霊解放を解除したサイラスは、美貌に苦笑を浮かべている。
『確かに軽度の切創ですが……憑依していなかったら骨まで切れていましたね』
その声には、どこか諭すような響きがあった。
「?あ、」
サイラスの発言に首を傾げ疑問符を飛ばし掛けたライリーだったが、直後脳裡に過った知識に因って、その疑問符は消滅する。
それは以前、ライリーがセオドアとサイラスから得た知識。
憑操術を行使している間、器である精霊使いの身体は、恰も鎧を装着しているかのように防御力が格段に上がる。原理は不明だが、憑依した精霊が身体に何らかの作用を及ぼしているのではないかと推測されているそうだ。
生身で受ければ骨まで達する程の怪我でも皮膚が切れただけ、くらいに傷が浅くなるのは、この原理不明の現象の、一種の恩恵であるとも言えた。
ライリーが胸を撫で下ろした傍らで、そういえば、と、彼女は思い至る。この世界には回復薬や治癒魔法、蘇生術といった術は存在しなかったのだ、と。そんな都合のいい事はないのだと言わんばかりに、怪我や病気になったら医師や薬剤師のような役職に従事する者が、その対応や治療にあたる。前世と比較してその設備や技術は高度であるとは言い難いが、水準は決して低くはない。
「……ってそんな雑に拭いちゃ駄目ですよ?!」
ちょっぴり前世へ思いを馳せている内に、セオドアが手の甲で負傷した頬を擦っていた。どうやら血を止めようとしているらしい。意外な乱雑さを発揮するセオドアに、そういえば狭間内でも舌打ちをしていたと彼女が思い出すと同時に、ユンが何かを放って寄越した。
「薬だ。塗っておけ」
――……ほんとに薬持ってたんだ……――
いや、決して嘘だと思っていた訳ではないが。
胸中の独白に呼応するかのように、ライリーはもう痛みのない筈の腹部を無意識に摩った。それは旅立ち前に受けた謝罪にて、ユンから痛むようなら薬もあると言われていた事が脳裡に湧き上がった結果である。
投げられた容器を掴み薬を塗布したセオドアは、ユンの貸し出し方法を選ばず、律儀に手渡しで薬を返却する。自身の手元へと戻された薬に目線を落とし、それにしても、と、ユンが発した。
「……あの娘、精霊病だな」
己に縋り、苦痛に耐える妹と共に、聖騎士団本部へと帰還する。
肩に突き刺さっていた矢は既に消失していたが、消失により、却って肩からの出血量は増していた。早急に手当てを行わなければ。
「すみませんエルシー……無茶をさせました……」
偽りの勇者であるセオドア・シンクレアの征伐に失敗した挙げ句、妹を危険に晒した事でニールの声音は重く沈んでいる。
「……いいえ、お兄様……」
辛いだろうに気丈に振る舞い、エルシーは蒼白が支配する相貌に微笑を浮かべた。
「……正義の為です……我らの無念を晴らせるのならばエルシーはどんな痛みにだって耐えてみせます……!」
自身が悲鳴をあげてしまった所為で兄が聖戦を中断してしまった事を、エルシーは悔いていた。自分が邪魔さえしなければ、今頃兄は偽りの勇者であるセオドア・シンクレアの征伐に成功していたというのに。
偽りの勇者を征伐し、我ら聖騎士団が残虐非道な魔王を討滅する。そう、我らが受け続けてきた無念に比べれば、この程度の痛みがなんだというのか。
今、エルシーが為すべきは、一刻も早く肩の傷を癒やす事。そして、
「……お兄様、あの者達の目的はシンクレア家、ブラッドレイ家、そしてヴァレンティン家……この御三家の交流復活にあるようです……」
そして、この病に因って獲た異能を兄の為に役立てる事。
忌まわしい瞳に映し出された光景を、妹は兄へと報告した。




