後胤の宿命編 第五話―アリシア―
アリシア・リーは、幼少期から特殊な環境下で育った。
アリシアの生家であるリー家は、精霊使いの一族だった。故にアリシアは他の精霊使いの家の子供と同様に、生まれた時から精霊使いになる未来が決定していた。
必ず、という訳ではないが、精霊使いの家には精霊使いの資質を宿す子供、即ち精霊の見える者――所謂、祝福を受けし者が生まれ易い。
アリシアも例に漏れず、物心が付く頃には精霊の姿を視認していた。
アナスタシアとの出逢いについて、アリシアは正直幼さ故に細部までは覚えていない。只、アナスタシアから精霊契約を持ち掛けられて、アリシアは契約を了承した。その時から、アリシアはアナスタシアの契約主に、アナスタシアはアリシアの契約精霊になった。
アリシアの特異性が発露したのは、アナスタシアと契約して少し経った頃の事。
「アリシアには俺達には無い特異性がある。それは……」
――……蜘蛛……――
二人の精霊使いが言葉を交わす傍らで、彼女の脳内はユンの言葉を反芻していた。
糸を巡らし、獲物を待ち構える蜘蛛は、獲物が罠に掛かれば捕らえ、弱らせ、そして最後には食らい尽くす。
狭間という名の蜘蛛の巣の中、敵の手中にあるも同然の異質な空間内に閉じ込められているという事実に加え、離れてしまったライリーやアリシアに至ってはその安否を確認する術すらない。
「……」
四方の壁に取り付けられた、四枚の扉に視線を移す。
扉には鍵が掛かっていない。しかし扉の先は全て、窓も無い閉ざされた空間に繋がっているだけ。
「……」
開けても何も変わらないと理解している筈なのに、一縷の希望を期待して彼女は一枚の扉に近付く。
「……お姉ちゃん……」
小さく呟くような、くぐもったライリーの声が聞こえたのは、彼女が取っ手に指を掛けた瞬間だった。
「……お姉ちゃん……開けて……?」
開けて欲しいと訴えるライリーの声に、彼女は安堵の表情を浮かべる。
「ライリー君?よかった、無事で……」
「!待て、忘れたのか!?」
「扉の先には何も無い!」
「え……?あ……」
彼女の異変に気付いたユンが、鋭く制止の声を発した。ユンの言葉に重なるように、セオドアも声を荒らげる。
だが、取っ手に掛かっていた彼女の手首は、既に捻られた後だった。
四方の壁に、四枚の扉。鍵も掛かっていない開閉自由の扉の先は、何も無い閉ざされた空間だった事を、既にユンがその目で確認している。
では、今扉の先にいるライリーは、今まで何処にいたというのか。そもそも何故、鍵が掛かっていない、取っ手を回せば入室出来る筈の部屋に、今まで入って来なかったのか。
彼女の手によって開かれた扉の隙間から、青白い指先が入り込む。指先は扉の縁を掴み、強引に扉を開け放った。
「あ……!」
強制的に開かれた事に不満を申し立てるように、扉と壁との間で激しい衝撃音が奏でられる。
「ッ!」
荒々しく舌を打ったのは、意外にもセオドアだった。彼女を引き寄せ背後に庇った相貌には峻厳が色濃く、茜色の瞳には剣呑さが煌めいている。
「『……招いてくれてありがとう……』」
完全に開いた扉の向こうに、見覚えのない少年が立っていた。嘲るかのように、口角があがっている。年齢は、十に満たないかもしれない。異質な空間には凡そ不似合いな容姿は、無邪気な子供そのものだ。
「『ボク達と友達になってね?』」
まだ声変わりもしていない幼さの残る声が、重なり合うように室内へ届いた。
精霊使いと契約精霊は契約を結んだ直後から可視化出来ない何かに因って結ばれ、精霊使いの呼び声は距離を超越して必ず契約精霊に届く。
しかし、その逆はあり得ない。契約精霊の声が、離れた精霊使いに伝わる事はない。
だから、言うまでも無く。如何に精霊使いと言えど、引き離された契約精霊のいる場所を、感知出来る筈がない。
扉の外から響き渡る異音は、徐々に苛烈さを増していく。扉を叩く断続的な音に取っ手を回す金属音も加わって、歪な共鳴は恐怖に色付けされた不快な旋律を奏で始めた。
最早叩くと言うより叩き付けると言った表現が正しく聞こえる程、扉が異音を伴って軋む。
局地的な地震に見舞われているかの如く、激しく震える扉の外からは、彼女のものとは到底言えない何者かの絶叫が谺していた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「……っ」
ライリーは思わず耳を覆った。その動きに呼応するように、瞼が反射的に視界を閉ざす。迸る音の奔流によって、空気すら振動しているかのようだ。
鼓膜を害する程の喚声に、恐怖と不快感が募る精神に、アリシアの姿が映り込む。咄嗟に閉ざしていた視界を開けば、深海色の双眸に厳しさを滲ませたアリシアが、軋む扉を見据えていた。
「――大丈夫……多分こっちが招かない限り入ってこない……」
鋭さを纏う眼差しは、アリシアが心底不快である事を表明しているかのようだ。
最早声とすら思えない音の羅列と化した叫声は、精神に恐怖と不快さを煽り立てる。
――……音……振動……地属性……――
異音と声が自身に齎す影響から、アリシアは狭間の創造主の属性を推測した。
地属性は、属性の中でも特殊と言われている。その理由は、複数の型が存在するからだ。
地属性の中でも正統な型が、大地に類する力である。震動により隆起や陥没、硬軟等を自在に操り、地形を変動させる術。地属性と言えばこの型の力が最も多く、主流であるとも言われている。
震動と双璧を成すのが、大地に根差す植物を操る術。地属性の中でもこの力を扱う術者は〝植物使い〟と呼ばれ区別される。
そして地属性にはもう一つ、別の型が存在する。それが、振動に因って音を発生させる術。術者自身が音源と成り、自ら振動を生み出す事によって発生させた音を操るこの力は、地属性の中で最も珍しい型でもある。
「ナーシャ!」
アリシアは再度アナスタシアの愛称を呼ぶが、やはり応える声は聞こえない。
――……声が遮断されてる……――
扉の外の何者かが放つ振動によって、アリシアの振動が妨害され、遮断されているのだとすれば、声が届かない事にも説明がつく。
狭間の異能持ちは、展開した狭間内でしかその特異性を発揮出来ない。精霊使いと契約精霊を引き離し、合流を阻害している事から、この空間の異能持ちの攻撃の特異性が見て取れる。
――……精神干渉……――
ライリーの相貌に恐怖の色が浮かんでいる事や、自身の身の裡に不快感が込み上げてきている事から察するに、音は肉体を攻撃するのではなく、精神に作用するものであると推測出来る。
精神干渉による攻撃は、時として肉体が損傷を負うより深い傷を精神に及ぼす。肉体的な死はなくとも、精神崩壊の先に待つのは、最悪狂人か廃人だ。
「……なら、ナーシャを見つければいいだけ……」
アリシアの落とした呟きは、凄まじい絶叫に掻き消された。
衝撃による振動が、扉全体を軋ませる。喧しい喚声が覆っている筈の手を容易くすり抜け、ライリーの鼓膜に直接影響を及ぼす。
響き渡る絶叫は終息どころか凄烈さを増す一方で、最早苦痛と呼ぶのも生ぬるい。
「……っ!?アリシアさ……!」
同じ絶叫を耳にしている筈なのに、アリシアの表情は崩れていない。ライリーのように、耳を塞ぐ事もない。深海を思わせる青だけが不快さと苛立ちに揺らめく中で、アリシアは騒音の原因である扉へと向かっていく。
彼女ではない彼女の声に気を許し、ライリーが扉を開けようとしたのを制止したのは、他ならぬアリシア自身だった。しかし今のアリシアは、まるで扉を開け放とうとするかのように扉の前に立っている。
――……アリシアさん……?何を……――
アリシアは何をするつもりなのか。
絶叫による恐怖と不快さに対する防衛手段として、本能が閉じ掛ける瞳を理性によって開かせて、ライリーがアリシアを見詰める中。
アリシアが、軋む扉を蹴り開けた。
アリシアの蹴撃を受けた扉が、衝撃音と共に破壊される。無理矢理役目を放棄させられた扉が最期の抵抗とばかりに、抗議するかのような騒音を相棒に頽れた。
ライリーの双眸が、驚愕に見開かれる。
「えぇぇぇぇ?!いやけっ……えぇぇぇぇ?!」
「ライリーうるさい」
「いや扉のほうがうるさくない?!……あれ?」
アリシアによる凄まじい強引さを以てして、扉は強制的に開け放たれた。だが、扉だった残骸の先には、誰も――何者の姿もない。
居た筈だ。歪みに引き摺り込まれた時に、はぐれてしまった彼女の声を模倣して、ライリーに呼び掛けてきた相手が。開けて欲しいと訴え続け、その要求が通らずに絶叫を放っていた何者かが。声だけではない、扉を軋ませる程叩き付けていた、誰かが。
「……どうして……」
扉の外に、確かに居た筈の姿が見えない。恐怖心を煽り立てていた声も、もう聞こえない。気配すらなく、最初から誰もいなかったのではないかと錯覚する程に、今や空間の支配者は騒音から静寂へと代替わりを果たしていた。
「多分あれは招かれないと入ってこれない何かだった」
だから声に騙されて、扉を開けては駄目だったのだと、アリシアが続けたのだが。
「……えーと……?今アリシアさんが蹴り開けたのは……?」
蹴りとはいえアリシアが開けたのはいいのだろうか?という思いでライリーは問い掛けるが、アリシアの答えは簡潔だった。
「蹴り開けてない。蹴り壊しただけ」
もうこの部屋に用はないと言わんばかりの態度で、無惨な残骸と化した扉を踏み越えたアリシアが、扉枠から外へ出ていく。
「……へ理屈なんじゃ……?」
アリシアの後を追うライリーの声が、無人の室内に谺した。
――……扉の先には、扉がいっぱいありました……――
そんな幼子の感想のような言葉が、ライリーの脳内を占めていた。
漸く〝恐怖!絶叫と騒音の部屋〟から出られたと思ったら、また扉。しかも異空間である事を殊更強調するかのように、無数の扉が無作為に並んでいる。
「……」
先に部屋から出たアリシアは、無数の扉全てを注意深く見渡していた。深海の青が様々な扉を視界に収めていく様は、まるで何かを探しているかのようだった。
「……こっち」
暫く立ち止まったまま扉を眺めていたライリーに、アリシアから声が掛かった。アリシアは、一枚の扉の前に居る。
ライリーが隣に立った事を確認したアリシアが、目の前の扉に手を掛けた。取っ手を掴んで開け放ち、躊躇する事なく足を踏み入れる。
「……また、扉……?」
ライリーの洩らした言葉の通り、二人が足を踏み入れた先の部屋には、再び無数の扉が並んでいた。
「……」
アリシアは先程と同じように、全ての扉を注視している。やがて無数の扉の中から一枚の扉を選択し、再度扉を開け放つ。
アリシアが無数の扉の中から、一枚の扉を選びとる。扉を開き、入室する。部屋にはまた無数の扉があり、アリシアは再び、扉を一枚選択する。
アリシアとライリーは、幾度となく扉の選択と開放、入室を繰り返した。
「……見つけた……」
もう何度繰り返されたか分からない行為に、ライリーが数える事を放棄した頃。一枚の扉の前でアリシアが小さく呟いた声を、ライリーの耳が拾った。
「何を見つけたの?」
その問い掛けに対する答えは、開け放たれた扉の内、ライリーの瞳に直接提示される。
「!サイラスさん!と……え?誰……?」
扉を開けた先の空間には引き離されていたサイラスと、長身の美女の姿があった。
『誰とは随分ご挨拶だなライリー・マークス。妾の事も分からぬ輩にアリシアはやれんぞ?』
女性らしい豊満な肉体の、魅惑的で妖艶な美女が、その容姿に違わぬ蠱惑的な声を発した。
銀にも黒にも見える不思議な色合いの緩い巻き毛と、黄色味がかった灰色の瞳。何よりも、先程の発言。
ライリーの脳裡に浮上したのは、山中で女性の魔族と対峙した時のアリシアの掟霊解放。
アリシアの背後に重なった、ライリーの知らない女性の姿。
「……アナスタシア、さん……?」
『如何にも』
ライリーの記憶が、艶やかに微笑む美女によって肯定される。サイラスの傍に佇んでいるのは、アリシアの契約精霊、アナスタシアが人型をとった姿だった。
「……アリシアさんもしかして……アナスタシアさん達が此処にいるって分かってたの……?」
最後の扉を開ける前、アリシアは〝見つけた〟と呟いている。実際に扉を選択している時のアリシアは、何かを探しているようにも見えた。
――……そういえば……――
思えば、扉を選択している際のアリシアには、当て推量とは言えない明確な意思があった。アリシアが足を止めるのは、扉を選びとる間だけ。一度扉を選択したら開ける事には迷いがなく、その行動は確固たる自信に裏打ちされているかのようだった。
「……でも、どうして?精霊使いは精霊の居場所までは感知出来ないはずなんじゃ……」
精霊使いと契約精霊の、可視化不可能な現象については、ライリーも知っている。正しくは、セオドアから得た知識だが。
精霊使いの呼び声は、離れていても必ず契約精霊に届く。契約主の元へと導かれるこの現象は、時には〝絆に因る召喚〟とも称されるらしい。
セオドアは言っていた。突発的な事態によって契約精霊と引き離された精霊使いは、まず始めに自身の契約精霊の名を呼ぶのだと。名を呼びさえすれば、契約精霊はその声によって自身との契約を赦した精霊使いの元へと導かれるのだと。
ライリーが目覚めた最初の部屋で、アリシアは何度もアナスタシアの愛称を呼んだ。しかしアリシアの呼び声に、アナスタシアが応える事はなかった。
故にアリシアはアナスタシアを捜す為に、ある種理不尽とも言える強引な手段に出たのだろう。いや、手段というか実際使ったのは足だが。
「……ナーシャのいるところなら、離れていてもなんとなく分かる」
アリシア・リーは、幼少期から特殊な環境下で育った。
生家であるリー家は、精霊使いの一族だった。
故にアリシアは生まれた時から精霊使いになる未来が決定しており、物心が付く頃には既に精霊の姿を視認していた。
アナスタシアとの出逢いを、アリシアは正直覚えていない。アナスタシアから契約を持ち掛けられて、アリシアはアナスタシアの契約主になった。
契約を結んだと言っても、四六時中共にいる訳ではない。アリシアがアナスタシアの傍を離れる事も、アナスタシアがアリシアの傍を離れる事もあった。
アリシアの特異性が発露したのは、アナスタシアと契約して少し経った頃の事。
どんなに離れていても、アリシアはアナスタシアのいる方角をなんとなく感知する事が出来た。それは感覚的なもので、アリシア自身にも上手く説明する事が出来ない。
一種の特異性とも言えるアリシアの特殊な直感力は、その発露と共にリー家に知れる事となり、すぐ様検証が行われた。
アナスタシアから距離を取り、アリシアに方角を当てさせる、という簡易実験の結果。アリシアの精度と正解率は、驚異の十割を記録する事となった。
アリシアは、自身の契約精霊であるアナスタシアのいる方角を感知出来る。通常、如何なる精霊使いであっても持ち得ないその特異性を以てして、アリシアはアナスタシアの居場所を探り当てたらしい。
『壁が扉に変化した時は身構えましたが……流石ですね、アリシア様』
ライリー達が最初にいた部屋とは違い、この室内には一枚の扉もなかったそうだ。四方を壁に囲まれて完全に閉ざされていたところに、不意に扉が出現しアリシアが入室してきたらしい。
『その話は何時でも良かろう?今は此処から脱するが先決よ』
アナスタシアの一声に、ライリーは本来の目的を思い出した。
「でも、脱するって言ってもどうやって?」
この異質な空間の名称を、アリシアは狭間と言った。しかし、ライリーが脱出方法についてアリシアに問い掛けたところで、扉に異変が起こった。鍵の施錠が解かれ、歪みに引き摺り込まれた際にはぐれてしまった、彼女の声を模倣した何者か。その何者かに質問自体が遮られ、ライリーはまだ答えを知らずにいる。
『狭間を脱するには、創造主である異能持ちを倒す必要があるのです』
「倒すにはおびき寄せる必要がある」
『アリシアよ、この戯けた空間を創り出した異能者の属性に見当は付いておるのか?』
「うん」
この狭間の創造主の属性が音――地属性であるという事は、呼び声が阻害されていた事と、先程の異音現象によって推測出来る。更に、精神に異常を来すような攻撃方法を用いた上に、契約精霊を呼ばせないとなれば、狭間の主は属性による直接攻撃の応酬には長けていない可能性が高い。即ち、
「此処で掟霊解放して暴れればいい。きっと来る」
「そんな暴力的な解決方法しかないの……?」
幾ら何でも野蛮が過ぎない?と言いたい思いに蓋をする。そもそも精霊使いでもないライリーに、始めから方法に異議を唱える権利等ない。しかも他の方法を提案する知識もない。ライリーは沈黙する事にした。
「ナーシャ、掟霊解放」
契約主の声に、契約精霊が憑操術を行使する。
「『“銀雪双剣”』」
アナスタシアを宿したアリシアの両手に、白銀に煌めく双つの短剣が具現化された。
無邪気な子供が浮かべる満面の笑みに恐怖を感じる事があるのだと、この時彼女は初めて知った。
声も、顔も。その全身で歓喜を主張する少年の、その奇妙なまでに蒼白な肌が、どこか虚ろな眼差しが、彼女の恐怖に拍車を掛ける。
両腕を真横に広げる少年と重なり合うように、別の何かが見えているのは、恐怖心故に作り出された幻影だろうか。
浮かべている筈の笑みですらどこか作り物めいた、偽物のような雰囲気を見せる姿に、彼女の背筋が冷えていく。
「『……招いてくれてありがとう……』」
「『ボク達と友達になってね?』」
少年の放った言葉の意味は、彼女の理解の範疇を完全に超過していた。
「『さあ、遊ぼうよ?』」
くすくすと楽し気に微笑みながら、少年は態度と違わぬままの口調で彼女達に問い掛ける。
「願い下げだ……!」
楽しくて堪らないと言わんばかりの言葉に反応し、その誘いを切り捨てるかのように声を発したのはユンだった。黄金に煌めく双眸からは、嫌悪と不快さが滲み出る。
助走もつけずに跳躍し、ユンは少年の頭上へと、自身の踵を振り下ろす。
両腕を交差させ、防御の体勢をとった少年の腕が、ユンの攻撃で不自然に曲がった。
折れている。
「『痛いなぁー』」
言葉とは裏腹に痛み等一切感知していないかのような態度で、少年が折れ曲がった腕を振る。
「……貴様が痛みなど感じるわけがないだろう」
舌打ちと共に着地したユンの相貌は、厭わしさと苦々しさ、そして、何故か憐憫が表れていた。
恐怖心に縛められて停止していた彼女の思考が、ユンの行動によって漸く働きを再開する。
旅立ちの直前に、ライリーがユンから謝罪を受けた事は、彼女も聞いていた。
手加減したって言われたけど凄く痛かったと遠い目をしていたライリーだったが、手加減というその言葉は虚偽ではなかったのだと今をもって証明された。あの時のユンはライリーに対して、本当に手加減していたのだろう。でなければ、ライリーの肋骨は折られていた筈だ。目の前の少年の腕のように。
「『あーあ、人間の身体はすぐダメになっちゃうから大切にしてたのに……』」
曲がったままの腕が上手く動かせなくなった事で、それまで浮かべていた歓喜の表情が変化した。まるでお気に入りの玩具を奪われたかのように不満さを全面に押し出して、少年は口元を歪める。
「『この身体は死んだばっかりでせっかくキレイだったのになぁ……』」
勿体ないと呟きを落とす幼い声が、彼女にはやはり理解出来ない。
その少年に対しての、ユンの言動も。先程から言葉を発しないセオドアの方が、腕を折られた少年より余程苦痛に塗れた表情をしている事も。
「貴様何を躊躇している?あれは死人だ……成り代わりはもう助からん」
鋭利さを増したユンの黄金が、セオドアを見据えて細められている事も、彼女の理解を外れている。
「……成り代わり……?」
ユンの言葉を拾った彼女の口から、無意識に声が滑り落ちた。だが、その言葉の意味に対する答えは、室内に響いた異音によって、掻き消される事になる。
異音は、氷が割れる音に酷似していた。
異音を奏でる壁の一部に、微細な罅割れが走り出す。異音が大きさを増す毎に、走る罅割れも増加していく。その奇怪な相乗効果が、やがて限界に達した瞬間。
罅割れた壁は剥落し、砕け散った。
それは、歪みに引き摺り込まれる直前に見た光景を、追体験するかのようだった。
「『そんな!?どうやって……!』」
破片の散乱する壁から突如現れた乱入者の姿に、浮かべていた笑みを消し去って焦燥を露にした少年が叫ぶ。虚ろだった瞳は今や、驚愕に見開かれていた。
「あ、お姉さん達いた」
両手に構えた短剣で壁を破壊したアリシアは、驚愕を放った幼い声に答える事すらせずに、彼女の姿を視界に捉える。
「『精霊とは引き離したはずなのに……それに、扉だって……!』」
扉の開閉によって誘発する攻撃を、少年は予め仕掛けておいた。
扉は内部の者が開ける事に意味がある。声に惑わされ扉を開ければ、自身は室内へと招かれる。招かれなければ創造主であったとしても入室不可能という強い縛りがあるが故、一度招かれた室内に於いては、少年は攻撃の制約から解放される。
その一方で内部の者が異変に気付き扉を閉ざしたままでいたとしても、一定の時が経過すれば音に因る精神干渉が発動する筈。
だが何よりも、何故眼前の精霊使いは、引き離していた筈の精霊と共にあるのか。
「扉なら蹴り壊した」
「『!?』」
感情の伴わない、淡々としたアリシアの発言は、少年に更なる驚愕を齎した。
「『蹴り開けたところで……!』」
「開けてない。蹴り壊した」
「……へ理屈ではないか……?」
「あ、やっぱりそう思う?」
落とされたユンの呟きを、アリシアに次いで入室していたライリーが耳聡く聞き付けた。
ライリーとユンが自身に対して同様の感想を抱いているとは露知らず、アリシアは更に言い放った。暴れれば来ると思っていた、と。
逆にアリシアさんが来ちゃってるよね、とは、流石に言える雰囲気ではない。
「……女性に対して無礼を承知で言わせてもらうが……貴様の婚約者蛮族が何かか?」
「違う、と言いたいところだが……否定出来ないんだよなぁ……」
「それ蛮族かもしれないってことじゃん……」
「むしろ蛮族を肯定しているのでは……?」
「『……ッあり得ないっこんなこと!』」
扉を開く事は、創造主である自身を招く事に繋がる筈だった。しかし裏を返せば、開けたという認識がなければ〝招かれた〟とは言えないという事なのだろう。自身の制約にこんな弱点が存在した事による焦燥と混乱が、少年の窮地に追い討ちを掛ける。
「『みんな壊して友達になって欲しかったのに……!』」
幼さの残る相貌は歪められ、悲痛と称する事すら足りない叫びが、少年の口から溢れ出る。
ライリーは改めて、少年を自身の瞳に映した。
蒼白で細身の胸元に、仔犬のような生き物が重なって視える。人と何かが重なり会うその光景は、ライリーにとって見覚えのあるもの。
「……憑依、されてる……?」
その状態を憑操術ではなく憑依と口にしたのは、ライリーにとって相手の少年が精霊使いには見えなかったという、只それだけの理由だった。
「もう違う……あれは成り代わり」
ライリーに答えたアリシアの、深海色の双眸が、憤怒と悲哀を宿した気がした。
アリシア・リー〈Alicia・Lee〉
Alicia:高貴な姿(真実)
髪=金色/瞳=青色/年齢=16/性別=女
長所:沈着冷静/短所:マイペースが過ぎる
セオドアの婚約者。だが全力で辞退したい。シンクレア家当主の命によりセオドアと彼女を迎えに来た。
蛮族かもしれない疑惑が浮上中。




