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どうせ死ぬのなら

作者: 碧斗みう

◆    ◆    ◆


 記録 ○○月○○日

 暗号通信 魔力周波数○○○kHz

 一〇九秒のコネクション


 ──我が帝国は、海の向こうに存在するヴェスタニア王国と長年敵対関係にある。

 ──奴らは強大で唯一無二の魔術力を誇り、その武力をもって我々の祖先から故郷(ふるさと)を奪い去っていった。

 ──だがそれは過去の話だ。

 ──我が帝国の魔術力は今や奴らを超え、世界の頂点へと登り詰めようとしている。

 ──我々は今こそ帝国の繁栄を確固たるものとせん。


 ──ブリーフィングを進める。


 ──我が帝国の精鋭が行った一連の諜報活動によって、ヴェスタニア王国が極秘裏に進めている新型魔術兵器プロジェクトの概容が一部判明した。

 ──王国は『既存の魔術では対処不可能』な新兵器を開発・製造しているものと考えられる。

 ──我らが敬愛すべき総統閣下は本件を国家安全保障上の重大な懸念事項に認定し、全容解明を命じられた。

 

 ──従って、ここにプロジェクト・フォルティスを発動する。

 

 ──本作戦は、ヴェスタニア王国における魔術産業の中枢、通称『魔術特区』に対して諜報及び工作活動を展開するものだ。

 ──『魔術特区』は魔導省や魔術産業省といった重要省庁のほか、王立魔導学院や大手魔道具メーカーの本社が点在する一大拠点である。

 ──王国のエージェントも多数存在することが想定され、迅速な対応が必要不可欠だ。

 ──武器の使用及び、殺傷並びに拷問の可否の判断に関しては現地部隊長に一任する。

 ──ただし証拠は残すな、必ず抹消せよ。

 ──命令を受けた要員は各重要拠点への潜入及び調査を行え。

 ──我が帝国に対する脅威は日に日に増大している。

 ──脅威の排除なくして繁栄はない。

 ──帝国の興廃はこの作戦に懸かっている。

 ──各員、一層奮起努力せよ。



◆    ◆    ◆



 某日 王国某所。


「──以上が本国からの伝達内容だ。各省庁及び大手魔道具メーカーには既に指折りの諜報員が潜入を開始していると聞く。一方、俺たちの任務地は省庁や企業よりも特殊だ。完全な閉鎖空間と言って良い。少しくらいの遅れは大目に見てもらえるだろうが……それでも作戦開始は早ければ早い方が良い。単刀直入に聞くが、以前から進めていた計画はどこまで進んでる?」


 薄暗い部屋のなかに、男の問い掛けが低く木霊する。

 声の持ち主は若い男だった。

 金色の髪をオールバックにし、複数のピアスを耳に飾り、目の下には特殊なメイクが施されている。これ以上ないほど印象的な出で立ちだ。しかし、この男を見た者の記憶にルックスの印象が残ることはほぼないだろう。

 なぜなら、男が放つ鋭い眼光が畏怖の記憶以外を塗り潰してしまうからだ。


 そんな恐ろしい眼光は十人ほどいるゴロツキのなかで最も背の高い、一人の青年に向けられている。長身の青年は、緊張を感じさせる声音で返事をした。


「今年度は、一名の入学手続きを完了させております。ただアレは魔術師としての適正が高いだけで経験やスキルは皆無と言って良く、あくまで後に送り込む予定の諜報員の補佐役を予定しているため、本作戦で使えるかどうかは……」

「オイ。テメェ、舐めてんのか。単刀直入にと言っただろ。使えない奴の話なンざしなくて良い。諜報員はいつ配備される。簡潔に答えろ」


 金髪の男の眼光がさらに鋭くなった。

 長身の青年は背中に嫌な汗を流しつつも、無駄な情報を脳内で省き、そして口を開く。


「は、はい。翌年度を見込んでおります」

「翌年だァ? さすがに待てねェな。チッ、この際、簡単な任務だけでも良い。その補佐役とやらにやらせろ。俺たちの評価にも関わってくる」

「はっ。わかりました。……しかし、その──」

「なんだァ? 歯切れの悪い奴だな。なにか問題でもあンのか?」


 その目は明らかな怒気を含んでいた。

 ──不味い。

 長身の青年は、身の危険を感じる。

 だがはぐらかすのは悪手だ。特にこの男が相手のときは。

 だから青年は丁寧に、簡潔に、それでいて出来るだけストレートに言葉を選び、紡いでいく。


「いえ、取るに足らない伝聞ではありますが、学院には良からぬ噂も聞きます。ここは慎重を期した方が良いのかもしれないと思いまして」

「噂だァ? あぁ……魔術師を再起不能せしめる怪物。魔術師喰らい(マグシヴォア)の都市伝説か。まさか、そんなオカルトを信じるほど落ちぶれたわけじゃねェよなァ?」


 空気が震えたような気がした。

 長く会話してはいけない。

 そう直感して、青年は会話から降りた。


「いえ、それはもちろん。噂は噂、これは念のための確認に過ぎません」

「そうか。なら良い」


 ようやく金髪の男の目から殺人的な光が消えた。

 青年はバレないように、ホッとため息をつく。


 刹那して、今度はゴロツキ全員に視線が向く。

 それは、論議が終わったことを示していた。


 先ほどまで姿勢を崩していた者たちもスッと背筋をただす。

 そうして緊張感のある空気が作られたところで、金髪の男からいよいよ命が下る。


「テメェら、耳の穴かっぽじってよく聞け! コイツは命令だ。総統閣下の命令だと思え! 作戦の開始日は工作員の入学式当日に設定、最優先目標は例のプロジェクトに関与していると思われる聖ミクイス魔導学院学長──エウノミアだ。だが本人を狙うのは分が悪い。そこで身元を隠して学園に入学しているという娘の方を狙う。作戦の邪魔になるものは徹底的に破壊しろ。テメェらの暴れっぷりに期待してる。分かったな!」


 男の投げかけに、その場にいる誰もが叫び返す。


「「はっ、総統の命に異議なし!」」


 忠誠は、いま誓われた。



◇     ◇     ◇



 四月一日 聖ミクイス魔導学院・講堂


「皆さん、合格おめでとうございます。私は本校の学長──エウノミア・ユリウスです。既に、各教科担当者から熱意ある指導があったことでしょう。私から皆さんにお伝えすることはただ一つです。それは『真理は自由を与える』ということ。皆さんが自由を得てこの学び舎を飛び立つとき、過ぎ去った苦労は快いものとなります。嘘ではありません。私が保障いたしましょう。皆さんのご活躍、大いに期待しています。最後に、ようこそ聖ミクイス魔導学院へ」


 そう挨拶を締めくくると、学長は一礼し、壇上から降りていく。

 春の陽気な風が吹くこの日、王国最大の魔導学院では入学式が行われていた。

 式典はつつがなく進行し、残すところは在校生による校歌斉唱のみとなった。


 挨拶を終えた学長が自席に戻ると同時に、ピアノの音が鳴り始める。

 そして、綺麗な歌声が講堂に響いた。

 どうやら在校生は在校生でも、歌っているのは聖歌隊らしい。

 緊張の色を浮かべていた新入生たちも、この美声には思わず頬が緩む。


 ただ一人を除いて。


 ──う、目眩が……。


 ここに一人、初めから終わりまで緊張の緩むことがない少女がいる。

 長い黒髪をストレートに伸ばし、青く輝く碧眼が特徴的な少女。名前をイオネ。

 彼女はスパイだった。

 だがスパイとしての技量はない。ちょっとした不幸と偶然が重なってスパイに従事することになっただけの、どこにでもいる少女だ。


 だから──、


「先生! 女の子が倒れました!」


 スパイとしてここに立っているというプレッシャーから、気を失ってしまうほどの緊張に苛まれるのも仕方のないことだった。



◇     ◇     ◇




 イオネが帰路につけたのは、気絶してから半日が経過した夕暮れ時のことだった。


 担任からは「まだフラつくなら送っていくぞ」と心配されたが、いろんな罪悪感から丁重に断り、今は自分の足で学生寮へと向かっていた。


 ──つ、疲れました……。

 ──早く休みたいところですが……。

 ──ここが学生寮……?


 事前に用意していた地図を頼りに歩いていたイオネの前に現れたのは、巨大なホテルのような施設だった。

 最初は道を間違えたかと疑った。しかし何度見ても地図が指し示しているのはこの場所である。


 イオネは覚悟を決めて、目の前の巨大建造物に足を踏み入れる。

 自動ドアをくぐると、フロントのような空間が広がった。イスやテーブルを片付けたらテニスくらい出来そうな広さだ。


 ──うっ……広すぎて目眩が。


 その空間の豪華さに、イオネはまた立ち眩む。

 目を逸らすように、手に持ったメモに視線をやった。


 ──えっと……そうだ、私の部屋は……。

 ──五階のA棟?

 ──なんですかA棟って。

 ──何棟まであるんですか。


 思わず地図に書かれたメモにツッコミを入れてしまう。

 すると、フロントの奥にいた女性がイオネに気づいたらしい。上品な所作でこちらへ近づいてくる。


「新入生さんですね? 生徒証を拝見してもよろしいですか?」

「は、はい」


 ポケットからごそごそと生徒証を取り出し、女性に提示する。


「ありがとうございます。……イオネさんですね。お待ちしておりました。私はドームキーパーのアンティと申します。どうぞよろしくお願いいたします」

「それはどうも、よろしくお願いいたします」

「早速ですが、お部屋までご案内いたしますね」


 アンティと名乗った女性はそう応対すると、イオネを先導するように歩き出した。その姿はとても手慣れていた。

 二人はフロント近くのエレベーターへと乗り込む。


「あの、アンティさん」

「なんでしょう」

「ドームキーパーと仰られたと思うのですが、それは一体どういう……」

「そうですね。一言で説明するのは難しいのですが……寮の管理や、学園生の皆さんの身の回りのお世話をしている、お手伝いさんのような存在だと思っていただければ差し支えありません」

「な、なるほど」


 お手伝いさん。

 そんなものが存在するのか、とイオネは驚く。

 そして同時に、本当にここは学生寮なのかと疑問に思う。


 そうして思考を巡らせているうちに、エレベーターは五階へと到着した。エレベーターホールから廊下を歩くこと一〇秒ほど、アンティの足が止まる。


「着きました。ここがイオネさんのお部屋です」

「ここが……。わざわざありがとうございます」

「いえいえ。また何かありましたら、いつでもお呼びください」


 そう言って、アンティはイオネにカードを手渡す。

 どうやらこの部屋の鍵らしい。


 アンティはカードについて「魔道具なので、あまり魔力濃度の高い場所には置かないでください」とだけ注意すると、その場を去っていった。


 ようやく一人になり、心が落ち着く。

 途端に身体が重くなった。イオネは一日の疲れを感じながら、扉にカードを──、


 ガチャリ


 かざす直前、ひとりでに扉が開いた。


「へ?」


 扉が開くと、そこには少女が立っていた。

 ストロベリーブロンドの髪をボブカットにし、三つ編みハーフアップにまとめた可憐な少女。

 どこか庇護欲を駆られるような出で立ちだ。


 そんな少女と刹那の間、目が合う。

 最初に口を開いたのはハーフアップの少女の方だった。


「もしかして……君が噂の新入生ちゃん!?」

「そ、そうですが……」

「わ~、会えて嬉しいよ~!」


 そう言いながら、少女はなんの躊躇もなくイオネに抱きついた。突然のことにイオネは硬直してしまう。


「あ、あの……!」

「ハッ、身体は大丈夫? 倒れたって聞いたけど」


 場の空気は完全に少女のペースとなった。

 抱きつかれたかと思えば今度は素早く飛び退かれ、心配そうな顔で覗き込まれる。

 あまりに素早く移り変わっていく展開にイオネは追いつけず気圧されてしまう。とはいえ、一〇秒ほどで平静を取り戻すと、イオネはようやく言葉を紡いだ。


「それは大丈夫です。あの、ところで貴方は新入生ではないのですか?」

「あれ? もしかして……部屋割りについて先生からなにも聞いてない?」

「部屋割り?」


 イオネは帰宅時のことを思い返す。

 だが、担任の教師から寮の部屋割りについてなにか話をされた覚えはなかった。


「聞いていない、と思います」


 だから、そう素直に答える。

 その返答に少女は少し驚きつつも、すぐに目を細めて「あの人、さては忘れたな~」などと独り言をつぶやく。

 それからイオネに向き直ると言う。


「そっかそっか。ごめんね~、びっくりしたよね。私は二学年のセレナ。部屋数の問題で、学年は違うけど同室ってことになったの。よろしくね!」


 そう言うと、セレナと名乗った少女はにっこり笑う。

 同性から見ても可愛らしい笑顔を前に、イオネの頬もつい緩くなった。

 だからだろうか。イオネは、スムーズに言葉を返す。


「そうでしたか。すみません、自己紹介が遅れました。私はイオネ。イオネ・エレクトリーです」

「イオネちゃんか~。良い名前だね! どこから来たの?」

「東海岸のカリストロという場所から」

「カリストロ……って、あのお城の遺跡が有名な?」

「ご存知なのですか」

「えへへ、地理はちょっとだけ得意なんだ~。──って立ち話もなんだし入って入って」


 そう手招きされて、イオネは部屋へと入った。


 セレナに先導されながら直線の廊下を通り抜け、最奥の広間へ出る。


 そこは黒と白を基調とした空間だった。

 手前に灰色のソファーが、その向こう側には白色のテーブルが見える。それらの下には縞模様の絨毯が敷かれ、空間に温かみをもたらしていた。

 最奥の白い壁にはテレビまで設置されている。


 セレナは振り返って言う。


「ここがリビング。テレビとかテーブルとか、備品は遠慮せずに使ってね」

「は、はい……」


 イオネは返事をしながらリビングを一通り見回すと、その右側に隣接する部屋に視線を移した。


「隣は……キッチンですか?」


 そこには木製の机と四つのイス、そして流し台のようなものが奥に見えた。

 疑問にセレナが答える。


「そーそー。まぁ一階に食堂があるからまず使わないかな。あっ、でも冷蔵庫は使うか……。飲み物とか、好きに入れてくれて大丈夫だからね~」

「なるほど……覚えておきます」

「そしたら自室はこっち!」


 まるで子供のように手を引っ張るセレナに振り回されるように、イオネは先ほど歩いてきた廊下を戻っていく。

 そして二人は、リビングと玄関の中間あたりで止まった。

 そこには二つの扉があった。


「私の部屋がこっちで、君の部屋があっち」


 そう言ってセレナは交互に指を指す。どうやらイオネの部屋は玄関側らしい。

 セレナは説明を続ける。


「そしてそして、お風呂とトイレは廊下を挟んで向こう側。まぁお風呂に関しては大浴場もあるけどね。あとで食堂に行くとき案内するよ」

「凄く広いですね……」

「だよね~。私も初めて来たときはビックリしたし。──って、ゆっくりしたいよね。ごめんごめん。話し込みすぎちゃった。私はリビングの方にいるから、なにかあったら気軽に声掛けてね!」

「分かりました。ありがとうございます」

「いえいえ~!」


 そうしてセレナはリビングの方へと向かって行った。

 それを見送ってから、案内された自室へ入る。


 やはり自室も、リビングと同様に白を基調としたサッパリとした空間だった。

 入り口側の壁沿いには白い勉強机。

 突き当たった側面側の壁にはクローゼットと本棚。

 入り口から対面にあたる窓沿いにはベッドが置かれている。


 とてもノーマルな部屋だ。


「……綺麗、ですね」


 思わず言葉が出た。

 同時に瞳が濡れる。


 イオネは一〇年前、家族とのピクニック中に拉致された。

 彼女の父親に恨みを持つ集団の犯行だった。


 父親と母親も一緒に拉致されたが、すぐに引き離された。

 彼女は幼いながらに死を覚悟したが、彼らはイオネを殺さなかった。なぜなら彼女には、聖ミクイス魔導学院に潜り込むための条件──魔術の才──が備わっていたからだ。


 ある日の夜、彼らはイオネにこう言った。

 『死に方を選べ』と。


 スパイになれば平穏に死ぬことは叶わない。だが拒否するのなら家族もろとも今殺す。

 言外にはそういう意味合いが込められていた。

 

 ──どうせ死ぬのなら。

 そう思い、彼女は家族のためにスパイになろうと決意した。


 しかし、それでも彼女は拐かされた身に過ぎない。


 冷たい独房のような空間が、彼女に与えられた唯一の安寧の場だった。

 だから、任務とはいえこのような場所に身を寄せられると思うと、思わず目の奥に涙が溢れてしまう。


 ──いけない。


 イオネは頬をパチリと叩く。

 刹那、脳裏に父と母の顔がおぼろげに浮かんだ。


 ──……そうでした。

 ──目的を忘れるところでした。

 ──私はあくまで諜報員。

 ──まずは拠点の調査です。


 すぐさま盗聴器の類が仕掛けられていないか、部屋のなかを調べ始める。


 ──クローゼットには……替えの制服が三着。

 ──パジャマと普段着まであるとは。

 ──見た感じ、サイズは全部ピッタリそうですね。

 ──そして怪しいものはなし、と。

 ──机の引き出しは……。

 ──文具類が一式。

 ──棚も新品のテキストとノートがあるだけ。

 ──ベッドの下は……なにもなし。

 ──怪しいものはなかったですが……。

 ──それはそれとしても、ここまで用意が良いと怖くなってきますね。


 一通り調べ終わったが、とくに部屋に悪意あるものはなさそうだった。むしろこの部屋からは学園の善意しか感じられない。

 引っ越しに準備はいらない、と事前に言われていたが、まさか一から百まで用意されているとは思わなかった。


 コンコン


 不意に、扉の方から音が響く。

 すぐにノックだと分かった。


「は、はい。なんでしょう」

「早速でごめん~! 夕飯の時間になっちゃったんだけど、いま出れそう?」


 視線を上げ、壁に引っさげられた時計を見やる。

 時刻は一八時を過ぎようとしていた。


 ──もうこんな時間とは。


 イオネは時間の進みに少し驚きつつ、返事を返す。


「分かりました。すぐに出ます」



◇     ◇     ◇



「ここが食堂……」


 二人は学生寮の地下にある食堂へやって来た。

 そこはまさに広大なビュッフェ会場とでも呼ぶべき場所だった。

 面積はサッカーコートほどはありそうだ。その壁沿いには食事を載せたワゴンが立ち並び、会場の真ん中には学生用のテーブルがひしめき合っている。


 なにからなにまで規格外な場所だとイオネは思い知った。

 そうして息を呑んでいると、セレナが声を掛けてくる。


「はい、これがトレイ。私たちの席は向こう側ね。机に部屋番号と同じ数字が貼ってあるからすぐ分かると思う。そしたらまぁ……あとで合流しよっか」

「分かりました。ありがとうございます」


 両手でトレイを受け取りながらそう感謝する。

 それから、ひとまず食事の準備をしようと考えるが……。


 ──ど、どうしましょう。

 ──先輩と別れてしまいましたが、なにをすれば。


 一〇年間、マトモな生活をしたことがないイオネにとってビュッフェというシステムそのものが知識の埒外だった。

 困惑し、焦りながら周りの様子を伺う。

 数秒間そうしていると、どうやらトレイに料理を載せるため歩き回っている人が多いことに気づく。


 ──お料理を取ってトレイに載せれば良いのでしょうか。

 ──……しかし初めて見るお料理ばかり。

 ──うぅ、どれを取れば。


 食堂に用意された料理は、どれも庶民的なものであり、なにも珍しくはない。

 しかしそれでもイオネにとっては初めて見る料理、もしくは忘れてしまった料理だった。


 そのためなにを取れば良いのか分からず混乱してしまう。

 すると──、


「大丈夫? どうかした?」


 背後から声がかかる。

 イオネは心のどこかで安堵を覚えながら振り返った。


「先輩。いえ、すみません。その、迷ってしまって……」

「あ~、品目多いもんね。そしたらお姉さんがここのオススメ料理を教えて進ぜようではないか。おいでおいで~」


 セレナに引っ張られるようにして、イオネは料理をトレイに載せていく。

 気づけばトレイの上は山盛りとなった。


 ──少し、盛りすぎてしまいました。


 そんな反省をしながら、セレナと一緒にテーブルへと着席する。


「ありがとうございます。お手数をお掛けしてしまって……」

「気にしないで気にしないで。いつでも頼ってくれて良いんだから」


 セレナはそう言って、にっこり微笑む。

 その微笑みは眩しさすら感じた。

 イオネは確信する。


 ──先輩は、とても良い人なのでしょう。

 ──物知りで、優しくて、社交的で。

 ──私とは大違いです。


 そして自分が抱える罪悪感を、より鮮明なものとした。

 そんなイオネの心中を知ってか知らずか、まったく空気を読まないようにセレナが切り出す。


「ささ、冷めちゃう前に食べちゃおう。いただきま~す!」

「い、いただきます」


 セレナの真似をして食事の挨拶をすると、まずはサラダから口をつける。


 ──美味しい。

 ──野菜に味がついてるなんて画期的ですね。


 入学前に食べていた、ただの生野菜の味を思い出しながらそんなことを考える。


「そういえば明日の予定とかって聞いてる?」

「はい。朝の八時三〇分に始業、六限目まで行うとのことです」

「もう通常授業なんだ……。じゃあ明日は一緒に学校まで行こっか。もう道は覚えてるかもだけど、出来るだけ登下校は複数人でしろって先生うるさいし」

「良いんですか?」

「もちろん!」

「ありがとうございます」


 感謝の言葉を口にしてから、フォークに刺したままになっていたサラダを口に運ぶ。


 ──明日は先輩と学校に。


 サラダの味が、先ほどより美味しくなった気がした。




◇     ◇     ◇




 翌日 午前八時前

 聖ミクイス魔導学院 通学路


 二人の少女は少し早めに学生寮を出て、すでに学校の敷地沿いを歩いていた。始業ギリギリに登校すると昇降口が混雑して大変だから、というセレナの提案からだ。


 実際、三〇分も早いと通学路に見える学生の数はまばらだ。この分なら、昇降口が混み合うこともないだろう。


 通学路は角へ突き当たる。曲がると、すぐ校門へ差し掛かった。

 複数の人影が見え始める。


 しかし、その人影は登校する学生のものではない。

 むしろ校門の前で仁王立ちし、登校する生徒を待ち受けてるかのようにも見える。


「「おはようございます!」」


 仁王立ちする人影は、大きな声で挨拶していた。

 イオネは思わず訝しむ。


「あの人たち……なんで校門の前で無差別に挨拶をしているんでしょう?」

「あ~、あれは風紀委員だよ」

「風紀委員?」


 聞いたことのある固有名詞に思わず聞き返す。


「そーそー。朝の挨拶運動とか服装のチェックとか、あとは校則違反の取り締まりをやってる委員会活動のこと。あっ、校内での魔術使用は授業を除いて一発アウトで退学だから気をつけてね」

「しませんよ、そんな危ないこと。……つまるところ学校内の警察みたいな人たちなのでしょうか」

「それがイメージとしては一番近いかな~。まぁ私みたいに品行方正な学園生にはまず縁のない──」

「ディオニースさん。スカートの丈」


 セレナの言葉を遮るように、背後から声がかかった。

 先ほどまで挨拶活動をしていたおさげの少女だ。


 ──ディオニース?


 聞いたことのない単語にイオネは目を丸くする。

 その横で、セレナが恐る恐る振り返った。どうやら彼女の苗字のようだ。どこか引きつった笑顔になりながら、おさげの少女の指摘に答える。


「……あ、あとで直します」

「あとでって、この前も同じ事を言いましたよね。今日という今日は許しませんよ。大体、貴方は学園生のなかでも特に目立……」

「あとで直すから勘弁してよ~!」

「あっ? こら、待ちなさい!」


 逃げたセレナを追うように、おさげの少女が走り去っていく。


 ──品行方正?


 セレナの言葉に疑問を抱きながら、イオネは歩いて校門をくぐった。こうして彼女の偽りの学園生活は幕を開ける。のだが──、


 時は進んで正午。四限の終わりを知らせるチャイムが校内に響く頃。


「食堂行こー」「うん、そうしようか」

「お前、弁当作ってきたのか」「寮のキッチンが綺麗だからついな」


 イオネのクラスは喧騒に包まれていた。

 昨日のうちに、ある程度の人間関係が確立していたらしい。つまり気を失ってホームルームに参加できなかったイオネは、クラスのなかで完全に孤立していた。


 潜入先で溶け込まなければいけないスパイとしては由々しき事態だ。


 ──まぁ。

 ──独りは慣れていますが。


 そんな誰に宛てるわけでもない、言い訳にもなっていない言い訳を心中に漏らしながら食堂へと向かう。


「あっ、イオネ~!」


 校舎から出て、食堂の扉をくぐったところで背後から声がかかった。もう聞き慣れた声。セレナの声だ。

 振り返ると、可憐なストロベリーブロンドの髪が見えた。


「今からご飯? 一緒に食べようよ~!」

「それは良いのですが……」

「んー? どしたの?」

「私に気を使われてるなら大丈夫ですよ。一人は慣れてますから」

「そんな寂しいこと言わないでってば」


 ──なぜ先輩が寂しいのでしょうか。


 そんな疑問を浮かべながらイオネは返事する。


「しかし……先輩にも付き合いがあると思いますし」

「えっへっへ、それが無いんだな~」

「なんでそんな悲しい嘘をつくのですか?」

「本当だって~! いや~……実は私、頭が良いんだけどね」

「はぁ……」

「あっ、その顔信じてないでしょ! むぅ、本当のことなのに。これでも学年主席なんだからな~?」

「学年……主席!?」

「そー、主席なの」


 そう言って、にこっと微笑む。

 どうやら嘘や冗談ではなさそうだ。

 セレナは続ける。


「だからか分からないけど、な~んか壁を作られちゃうんだよね~。仲が悪いってわけでもないんだけど、一緒にご飯を食べるような仲でもないというか。遠巻きに見られちゃうというか。だから、君さえ良ければ一緒にご飯を食べたいな~、なんて思ったり……したわけでして……」


 セレナの視線が少しずつ落ちていく。

 声のトーンも下がっていった。

 しまった、と思った。

 すぐに取り繕うような言葉を紡ぐ。


「す、すみません。拒否するつもりはなかったんです。私はいつでもウェルカムですよ」

「本当!? お姉さん嬉し~!」


 えへへ、と笑うセレナを見て少し安堵する。

 そして二人は食堂の奥へと向かった。




◇     ◇     ◇




 さらに時は進み、夕陽が優しく包み込む時間となった。

 校内には終業のチャイムが鳴り、学生たちは慌ただしくクラスを後にする。


 ()()()も、また帰るために昇降口へと向かっていた。


 二学年の教室は二階にあるため、下校時は階段を降りる必要がある。そのため下校時の中央階段はとても混雑する。

 授業で疲れた状態で人混みに揉まれたくはない。だからセレナは、まず人が来ない校舎の右端にある階段を使っている。のだが──、


 今日に限っては、セレナ以外にもこの階段を使う者がいた。

 学長──エウノミアだ。彼女は二階と三階を繋ぐ踊り場でセレナを手招いた。

 セレナの顔がわずかに曇る。

 

「例の件、調べ終わったぞ」


 セレナが踊り場へ登ると、エウノミアは片隅へと移動しながらそんなことを言った。

 曇った顔が、より一層暗くなる。


「これはこれは……まさか貴方が来てくれるとは。ということは、私の勘は当たっちゃったわけですか」

「残念ながらな」

「……そう、ですか」


 その声色は、あからさまな落胆の響きだった。

 しばしの静寂が場を支配する。


「……これは所感だがな。嘘に生きる人間ならば、この手の事実は決して明かさないものだ。なにか事情があるのかも分からん。結末を考慮しろ。全て、お前の裁量に任せる」

「良いんですか」

「二度も言わせるな」

「……ありがとうございます」


 セレナの顔に色が灯る。

 それを見て、エウノミアは微笑した。その微笑から視線を逸らすためか、まるで話題を変えるかのように言う。


「おっと、迎えが来たようだぞ」




◇     ◇     ◇




 時は少し戻り、終業のベルが鳴る頃。

 ()()()は同級生たちとは真逆の方向へ進み、二学年の校舎へ来ていた。探していた人物はすぐに現れる。セレナだ。


 階段の踊り場で誰か──死角にいて見えない──と話しているらしい。

 終わるまで離れたところで待っていようと、陰になる場所を探すが──、


「あれ、イオネ?」


 一足遅く、セレナに見つかってしまう。

 イオネは見上げるようにして返事をした。


「す、すみません。お話の邪魔をするつもりは無かったのですが……」

「ううん、今話し終わったところだから大丈夫! でもどうしたの? なにかあった?」

「えっ」


 セレナからの質問に、そういえばなぜ自分はここにいるのだろうかという自問が反芻する。


 ──それは一緒に帰るためで……。

 ──あれ、そういえば一緒に帰る約束はしてないのでは。


 そう、約束したのはあくまで登校だけ。

 下校の約束はしていない。

 そのことに気づいた瞬間、ボッと顔が熱くなる。


「す、すみません! なぜか先輩と一緒に帰るものだと思い込んでしまって」

「良いの良いの! てっきりお友達と帰るものだと思ってたから、ちょっとビックリしちゃっただけで。イオネさえ良ければ一緒に帰ろ?」

「で、では……お言葉に甘えて」

「うん、決まり! そういうわけだから先生、また明日ね~!」


 話し相手は教師の誰からしい。

 誰だろうと一瞬疑問に思ったが、セレナに引っ張られるようにして歩き出すと、すぐそんな思考は破棄される。


 そうして二人は昇降口へと向かった。

 校庭で集団走をする運動部員を横目に校門をくぐり、外へ出たところでセレナが言う。


「昨日から思ってたんだけどさ、先輩呼びとかしないで、ふつうにセレナって呼んでよ」

「し、しかし、目上の人を呼び捨てには……」

「目上だなんて大袈裟な~。たまたま一年早く生まれてきただけだよ。それに、これから毎日顔を合わせるわけだし、ラフな関係でいた方がなにかと気楽じゃん。私もイオネって呼ぶからさ。私たち、もう友達でしょ?」

「友達?」


 頭の上にクエスチョンマークを浮かばせながら、イオネの目が丸くなった。

 それを見て、セレナは両手を揉み合わせ始める。


「あ、あれ……違った? 友達だと思っていたの、まさか私だけ……?」

「い、いえ! そういうわけでは。ただ……その、友達というものがよく分からなくて……」


 一〇年間、犯罪組織のもとで育った彼女にとって、友達という概念は知識としては知っていても体験として理解したことはない。いや、かつては体験したこともあったのかもしれないがすでに忘却の彼方だ。

 もっとも、自分の影に名前をつけて友達代わりにしていた一〇年間を前にしては、それも仕方のないことだった。


 しかしそんなことをセレナに打ち明けられるわけもなく、言葉に詰まる。


「そうだ!」


 黙り込んでしまったイオネの代わりに言葉を発したのはセレナだった。彼女はそのまま続けて言う。


「それなら、これからちょっとお出掛けしよう!」

「へ?」

「友達、体験してみよう!」




◇     ◇     ◇




 通学路の大通りから逸れたわき道に店を構える甘味どころ──タナトス。

 お世辞にも客の入りが良いとは言えないこの店に、いま二人の少女が来店している。


「おいし~!! やっぱりパンケーキと言ったらここだよ~! どうどう、イオネのも美味しくない?」

「美味しいです。こんなに甘くて美味しいもの、生まれて初めて食べました」

「でしょ~! いつかやってみたかったんだ~、こうやって友達とパンケーキ食べるの」

「これが友達……」

「ほら、私のも一口あげる。あーん」


 イオネの口元にストロベリーのソースがかかったパンケーキが運ばれてくる。

 一瞬、他人のものを食べていいのか躊躇ったが、断るのも無作法だと思い、パクッと口で受け取る。


 ふわふわと甘酸っぱい香りが口の中いっぱいに広がった。


「……美味しい」

「でしょ~!」


 セレナは満足そうに笑った。

 そんな姿を見ていると、なぜだかイオネまで嬉しくなってくる。

 しかし──、


「あの、パンケーキは美味しいんですが、結局友達というのはなんなんでしょう」


 元々の疑問については未だ未解消のままだ。

 だからイオネはストレートに聞いてみることにした。

 すると、意外な返答が戻ってくる。


「んー、わかんない」

「えっ」

「だって、そんな小難しく考えたことないもん。まぁしいて言えば、こうやって一緒にパンケーキを食べたり、一緒に買い物したり、一緒に遊園地に遊びに行ったり、時には一緒に悩みを解決したり……そういう関係を友達って言うんだと思うよ。私もよく分からないけど」

「なる、ほど……」


 なんとなく理解ったような、理解らないような。

 的を射た答えだったような、要領を得ない答えだったような。

 そんな不思議な感覚を覚える返答だった。

 しかし少なくともネガティブには感じなかった。

 イオネは率直に思ったことを口にする。


「……まだちょっとよく分かりませんが、そういう関係なら私はセレナとなりたいかもしれません」

「本当!? やった~!」


 パンケーキを頬張りながらセレナは歓喜する。

 すると、その声に呼ばれたかのように店主がノソっとやって来た。


 二メートルは軽く超すであろう巨体を誇る店主は、カタコト言葉で話しかけてくる。


「オー、青春ダネ! イイネイイネ。オジサンからサービスあるよ」


 そう言う手には、大きなパフェが抱えれていた。

 大柄な店主が持っても大きいと感じるパフェだ。およそ一人で食べきれる量ではない。


 そんな特大パフェを見て、セレナの目が輝く。


「そ、それはミラクルスーパーウルトラアマアマイチゴパフェ!」

「ミラクルスー……?」

「ここで一番高いやつ! 良いの!?」

「イイヨイイヨ。だけど材料ナイナイね。一つしか作れナカッタよ。ゴメンねー」

「二人で半分こするから大丈夫! おじさん、ありがと~!」


 パフェを置いてペコリと頭を下げると、店主はまた厨房へと戻って行った。

 イオネは、その姿をじっと追うように見つめる。


「そしたら一緒に食べよっか~。……どしたの? オジサンが気になる?」

「い、いえ。凄く体格が良いなと思いまして」

「あ~、オジサンは昔、兵隊さんだったらしいから」

「兵隊、ですか……」

「とは言っても引退したのは何年も前の話みたいだけどね。このお店は幼い頃の夢だったらしいよ。屈強な体格してる割に可愛いよね~」


 ──兵隊。

 そんな情報に思わず眉が寄った。

 元兵士がスパイとして従事することはしばしばある。

 とくに特殊部隊出身者はその傾向が強い。


 ──何年も前に引退したのにあの身体つき。

 ──なにより、あの気配の消し方。

 ──明らかに現役のものでした。


 念のため警戒した方が良いだろうか。

 そんなことを考えていると、セレナから声がかかる。


「もしかして筋肉ムキムキの男の人が好きだったり?」

「へっ? ち、違います!」

「あはは。冗談だよ冗談。ささ、アイスが溶ける前に食べちゃおう」


◇     ◇     ◇


 夕陽が地平線を越えて消えてしまった頃。

 二人の少女は、再び帰路についていた。


 あと五分もかからないで学生寮に着くだろうといったところで、イオネがピタッと立ち止まる。


「すみません。ちょっと寄るところがあるので、先に部屋に戻っていてください」

「そう? 遠くまで行くなら送っていくけど……」

「ありがとうございます。でも、すぐそこなので大丈夫です」

「うーん……分かった。じゃあ先に戻ってるね」


 手を左右に振るセレナを見送りると、イオネは大通りから外れて裏路地へと入った。

 少し進むと、まるで待ちかまえていたかのように長身の男が現れる。


「……首尾は?」

「問題ありません。順調です」

「そうか。こちらも準備は整った。学長の娘を見つけたら連絡しろ」


 それ以上話すことはないと言わんばかりに、男は路地の奥へと消えていく。


「あの!」


 路地の闇へと消える直前、寸でのところでイオネは男を呼び止めた。


「なんだ」

「家族は……父と母は、どうしていますか」

「我々の管理下にある。健康状態に問題はない。お前は安心して任務に励め」


 淡々とした男の言葉に、イオネは若干の不信感を募らせる。そもそもこの男はイオネとその家族を攫った組織の一人だ。最初から信頼なんてあるはずもない。


 しかし、今はそんな男でも信じるしかない。

 悔しくて仕方がない。

 爪が、手のひらに食い込む。

 イオネは震える声で男に問いかけた。


「……これが終わったら、父と母に会わせてもらえるんですよね」

「そういう約束だ。我々はエージェント同士の約束は違えない。長話は終わりだ。任務に戻れ」


 そう言うと男は今度こそ、路地の闇へと消えていった。


 ──結局、はぐらかされてしまいましたか。


 少女は消化不良のまま大通りへ戻る。

 しかし先刻のやり取りのせいで、その心中は穏やかではなかった。どこかで時間を潰して気分を癒した方が良いのだろうが、あまり長すぎるとセレナに怪しまれる可能性がある。


 ──落ち着かなければ。


 そう自分に言い聞かせるように深呼吸する。怒りや不安や悔しさを空気と一緒に身体の中へグッと押し込めて、普段と変わらぬ表情を作る。ちょうど学生寮に到着した。

 一階で掃除をするアンティに軽い会釈をして部屋へ進む。

 玄関に入ると、早速セレナが出迎えてくれた。


「おかえり~! ささ、こっちへどうぞ~」


 そして息をつく間もなく、腕を引っ張られてリビングへ連れて行かれる。

 すると、大量のお菓子のパッケージが視界に飛び込んできた。それはテーブルの上に、まるで典型的な成層火山のように積み重ねられていた。


 思わずイオネの目が開いたままになる。


「……どうしたんですか、これ」

「さっき買ってきたの。デザート的な」


 言いながら、まるで照れ隠しするように笑うとセレナは続ける。


「でもちょっと買いすぎちゃって。誰か一緒に食べてくれると嬉しいな~、なんて」


 それは、一緒に食べたいという意思表示に違いなかった。

 ただ、そのわざとらしい演技に、イオネは思わず口元を緩ませてしまう。荒々しかった心の内が、自然と凪いでいった。


「まったく、仕方のない人ですね。夕飯のあと、一緒に食べましょう」

「イオネありがと~! 今夜はパジャマパーティーだね!」




◇     ◇     ◇




 一ヶ月後

 聖ミクイス魔導学院 学生寮


「イオネ~、素直に答えて欲しいんだけどさ。これ、なにに見える……?」


 最終下校時刻から約二時間が過ぎた頃。

 珍しく居残り授業を食らっていたセレナがようやく帰ってきた。直後、なにか黒い物体を手に乗せてそんなことを聞いてくる。

 なんだろうと覗き込むが全く正体が分からない。


「……なんでしょう。ダークマター?」

「ふぐっ」

「正解はなんですか?」

「クッキーになるはずだったもの……」

「丸焦げですね」


 イオネは素直に答える。


「い、言わないで~。うぅ……座学は得意なのに」

「そうしたら今度一緒に練習しましょう」

「えっ、イオネって料理得意なの?」

「アンティさんに少し教わった程度ですが」


 そう答えながらチクリ、と胸が痛む。


 ──情報収集のため、とは言えませんね……。


 そう、この一ヶ月間、イオネは至る所で情報をかき集めていた。すべては学長の娘を見つけるため。もっとも核心に迫るような情報は得られなかったのだが。

 料理はその過程でたまたま習得したに過ぎない。


「本当に? イオネってば優しい~!」


 だからこうして純粋に喜ばれると胸が痛んで仕方ない。

 イオネは罪悪感を覚えながら言う。


「そ、そんな喜ぶようなことでは。お風呂、お風呂沸いてますよ」

「あれ? 今日は大浴場には行かないの?」

「修繕が延びているらしく、今日は使えないとアンティさんが」

「そうなんだ……。イオネは?」

「私はもう入ったので」

「むぅ、一緒に入りたかったのに」


 ぷくっとセレナの頬が膨らんだ。

 一ヶ月の付き合いで、この表情はよく見かけるようになった。

 ワガママモードだ。

 イオネは諭すように言う。


「さすがに部屋のお風呂は狭いですよ」

「うーん、それもそっか……仕方ない。じゃあ、ちょいと入ってくるね~」


 そう言って、セレナは鼻歌混じりにお風呂へと向かった。

 そんな姿を見送って、イオネはソファーに座る。

 そして適当にテレビのチャンネルを回すが……。


 ──あれ、バスタオルは持って行ったのでしょうか。


 ふと、そんな心配が頭に浮かぶ。

 こうなると番組に集中出来ない。

 ソファーから立ち上がり、共用のクローゼットからバスタオルを一枚取り出すと更衣室へ向かう。


 シャワーの音が鳴り響いていた。

 時折、鼻歌も聞こえてくる。


 ──随分とご機嫌ですね。


 そんなことを思いながら、ちゃんとバスタオルが用意されているか確認する。


 案の定、忘れていた。

 やれやれ、と思いながら洗面台の右端にバスタオルを置いておく。そしてリビングに戻ろうとしたとき──、

 洗面台の左端に光るものが置いてあることに気づく。


 それは細い腕輪だった。

 宝石などの飾りはない、シンプルな腕輪だ。


 ──こんなの付けてましたっけ。


 疑問に思いながらひょいっと持ち上げる。

 まじまじ見てみると、裏側になにか書かれているのが分かった。


「これは……」


 ──S.J.?


 おそらくイニシャルだろう。

 しかし、イニシャルにしてはおかしい。


 ──セレナの姓はディオニースでDのはず。

 ──なぜJなのでしょう。


 それはもっともな疑問だった。

 しかし順当に考えれば、家庭が複雑なのだろうとも推測できる。

 あまり詮索するのも悪い。

 そう思い、腕輪を置こうとするが……。


 ──いや待ってください。

 ──Jの姓。

 ──確か学長の姓は……。


 ──ユリウス。


 ──ユリウスの頭文字はJ、もしくはIだったはずです。

 ──まさか。

 ──セレナが、学長の娘……?


 それは優秀なスパイから見れば実に浅はかなロジックであり、早まった結論だった。


 しかし当の彼女にスパイとしての能力はない。知識もスキルも未熟に過ぎる。

 この学校にも、当初はスパイとして潜り込む予定ではなかった。あくまで彼女はサポート要員。彼女に必要とされたのは試験を突破できるだけの魔術の才と、工作員をサポートする限定的な能力だけだ。


 だから、センセーショナルな発見をして感情的になってしまうのも仕方がなかった。感情に引っ張られて事実を決めつけてしまうのも無理なかった。

 むしろスパイとしてではなく、多感な時期の一人の少女として見れば、実に健全な反応とすら言える。


 腕輪を洗面台に置いた手が、白く冷たくなっていく。


 ──どう、すれば。


 戸惑う彼女の脳裏には、三人の人間の顔がとめどなくフラッシュバックしていた。

 それは父と母、そして、友の顔だ。


 三人はイオネの脳裏をグルグルと回り、彼女の感情をかき乱していく。

 気づけば彼女は、更衣室から飛び出していた。




◇     ◇     ◇




「バスタオルありがとね~。完全に忘れちゃってたよ」


 そんなことを言いながら、パジャマを着たセレナが出てくる。

 しかし返事は返ってこない。


「あれ……? イオネ~?」


 リビングを見る。いない。

 キッチンにもいない。

 トイレにもいない。


 自室をノックしてみるが返答はない。


「いない……?」


 どこに行ったんだろうと再びリビングへ戻る。

 そしてソファーに座ったところで、ようやく机の上に置かれた手紙を見つけた。




◇      ◇      ◇




 翌日 王国某所


「ご報告が」

「……それは俺の楽しみを中断させるほどのものか?」


 そう言う金髪の男の手にはアイスピックが握られていた。

 鋭い凶器の先端は、猿轡をつけられた中年太りの男の目玉に狙いを定めている。

 長身の男は、タイミングを見誤ったと思いながらも言葉を選んで紡ぐ。


「は、はい。そのように認識しております」

「チッ。おい、テメェら。俺が戻ってくるまでにコイツの爪を全部剥がしとけ」

「んーーー!!! んん゛!!!」


 悲鳴のような絶叫のような、しかし猿轡のせいで判別できない声が廃墟内に響く。

 金髪の男はアイスピックを雑に放り投げると、長身の男を連れて廊下へ出た。


「で、なんだ」

「潜入中のエレクトリーから連絡がありました。学長の娘を見つけたとのことです」

「なに? それは本当か?」

「はい。さらに夕食に誘うことにも成功したとのことです。今夜が絶好のチャンスになるかと」


 報告を聞き、男は思わぬ収穫を得そうだと色めき立つ。

 正直、イオネにそこまでは期待していなかった。


 事前調査と、プロの諜報員の到着までの繋ぎ。それが出来れば合格点だろうと思っていた。


 それがたった一ヶ月で成果が出るかもしれないとなれば、誰だって冷静ではいられない。


 ──これで俺の評価は確実か。


 そんな下卑た考えを抱きながら、しかし決して悟られないように男は言う。


「……分かった。プランCだ。アイツには学長の娘を連れてポイントBに向かうよう指示。バカ共は本拠地で待機だ。現地には俺とお前の二人で向かう」

「分かりました。あともう一つ。エレクトリーからの伝言です。約束通り家族を連れてきてください、と」

「家族? アァ、そんな約束もしていたな」


 男は不敵に笑う。


「アイツには、もちろん連れて行くと伝えておけ」

「承知いたしました」

「諸君、ご苦労」


 背後から。

 先刻まで誰もいなかったはずの場所から。

 突然、声がかかる。


 ぶわっと冷や汗が溢れ出た。

 嫌と言うほど聞いた、上司の声だ。

 金髪の男は振り返ると、音が鳴るほどの速度で頭を下げる。


「こ、これは長官殿。ご連絡をいただければお迎えに上がったのですが……」

「現場で死力を尽くしている者たちにそのような気遣いをさせるわけにはいくまい。それで、先刻興味深い話をしていたようだが」

「はい。恐れながら申し上げます。エウノミアの娘を発見、これより捕獲するところでございます」


 長官と呼ばれた男の眉が、ピクリと動く。


「ほう、エウノミア。懐かしい名だな。鉄の女と呼ばれていたが、私から言わせれば鉄と呼ぶにはあまりにも温い女だった。四人いる宮廷魔術師、その一角を崩すには最適だろう。ふむ……あの女の愛娘、この目で拝むも一興か」




◇     ◇     ◇




 同日夜一七時 王国某所


 イオネは指定された廃雑居ビルの前に少し早く到着していた。

 深呼吸して、心を落ち着かせる。


 ──プランBなら、ここにゴロツキ連中は来ません。

 ──相手は二人。

 ──行けます。


 そう自分に暗示をかけるように心中でつぶやくと、正面の入口から中へ進んでいく。


 それから一〇分ほどが経っただろうか。

 ビルの前に一台の車が到着する。スモークガラスで中は伺えない。

 車はビルの入口のすぐ真横につけると、エンジンを止めた。ドアが開く。


「よし、さっさと終わらせちまうぞ」

「承知しました」


 降りてきたのは金髪の男と、長身の相棒だった。

 二人は堂々とビルへ入っていく。


 ビルの一階は飲食店の跡地だった。

 つい最近オーナーが夜逃げでもしたのか、テーブルなどの備品が状態良く置き去りのままだ。


 もっともライフラインは切断されており照明は点かない。ただそれも僅かな時間であれば、人力で魔力を通すことで最低限の明かりは確保できるだろう。

 つまりここは、拉致をするまでの一瞬に限れば十分ターゲットを騙せる舞台なのである。


 そんな舞台を最終調整するため、金髪の男は横にいる相棒に指示を出そうとした。


「よし、まずは照明に細工を──」


 ガチャ


 しかしその声は、奥から鳴り響いた扉の開く音によってかき消される。


「アァ?」


 金髪の男は、訝しみながら視線を奥の扉へと向けた。彼の瞳に映ったのはイオネの姿だった。

 しかしイオネの到着は予定では三〇分後のはずだ。

 男は問う。


「なんでお前がここにいるんだ? ……学長の娘はどうした?」

「申し訳ありません。想定外のことが起こり早着してしまいました。イレギュラーな対応ではありましたが外で薬品を使い眠らせ、今は二階に安置しています。どうぞ、こちらへ」


 そう言うとイオネは二人の男を先導して、扉の奥の階段を登っていく。

 二階につくと、複数ある扉のうち一つを開け、入室するよう促した。そこは教室ほどの広さがある部屋だった。


 男たちは部屋の中を見回す。

 しかし、他に誰かがいる気配はない。


「オイ、娘なんてどこにも──!」

「油断しましたね、私の間合いです」


 イオネは素早くしゃがみ、地面に落ちる自身の影に両手で触れる。


「術式宣言。『我が影、我が命に従えリライ・メア・アンブラ』」


 刹那。セレナの影から黒い霧のようなものが凄まじい勢いで湧き上がる。

 霧は一瞬で周囲の空間に広がり、その場にいる男たちを呑み込み──、


凝固(ソリドゥム)


 イオネの号令とともに、泥のように男たちに纏わりついた。

 まさに一瞬の出来事だ。


「テ、テメェ……!」

「……ッ!!」


 男たちも身動きを封じられてようやく状況を理解する。

 しかし時すでに遅し。男たちの身体は、頭を残して完全に影の泥に覆われた。もはや体勢を変えることすら叶わない。

 そのことを認識すると、金髪の男は吐き捨てるように嗤う。


「……クソが、してやられたというワケか。まさかお前に、こんな度胸があるとは思わなかった」

「貴方たちの教育のおかげですよ。それで、私の家族はどこですか。答えてください」

「お前、最初からそういう魂胆だったのか」


 金髪の男の目に怒気が滲む。


 それを見て、イオネは込める魔力量をわずかに増加させた。すると、男たちにまとわりつく影の泥がカチカチと音を鳴らしながら真ん中へ向かって潰れていく。


「ぐっ……!」

「答えないなら殺します。圧死は苦しいですよ。早く、答えてください」


 怒気を抱えているのはイオネも同じだった。

 これまでの屈辱が、イオネの心を燃やす。

 しかしそのせいで──、


「なにをしている?」


 背後に忍び寄る影に気づけなかった。


「──ッ!!」


 イオネが振り返った直後、強烈な打撃が頬に打ち込まれる。鈍い音が響き、少女の軽い身体が水切り石のように飛んだ。全身を強く打つ。


「かはっ……い、痛っ」


 地面にうずくまって耐え難い痛みを堪えながら、イオネは自身を吹き飛ばした存在に目をやる。そこには壮年の男が立っていた。


 不潔な長い白髪に、獣のように伸びた髭。しかし対照的に、上品にジャケットを着こなしている異質な存在。

 なにより特徴的なのは目の傷。まるで猛獣に引っかかれたかのような跡。野蛮紳士とでも呼ぶべき風体だ。


 初めて見る男だったが、イオネは直感する。


 ──この人……。

 ──間違いない、帝国の情報局長官!

 ──なぜここに……!

 ──なぜ今……!


 イオネは焦る。

 しかし身体はまだ動かない。

 状況は絶望的となった。


 予想外の援軍によって三対一の人数差。しかも相手はほぼ無傷に対して、イオネは全身を強く打ちたちあがることすら出来ない。

 術式も吹き飛ばされた拍子に解けてしまった。

 こうなっては完全に万事休すだ。


「お前たち……飼い犬に噛まれてどうする」


 焦るイオネに対して、野蛮な紳士は至って冷静だった。冷たい目つきで金髪の男に声を掛ける。


「す、すみません……!」


 そう謝る金髪の男からは、例の殺人的な眼光が完全に消え失せていた。いや、あの紳士の威圧感の前ではどんな眼光もその輝きを失ってしまうのだろう。


 それほどまでのプレッシャーを放ちながら、紳士は冷淡につぶやく。


「使えん奴らだ。そこで黙って見ていろ。あとは私がやる」


 コツコツと靴を鳴らして、紳士はイオネの前までやってくる。


「う゛っ!」


 そして髪を掴みあげると問うた。


「理事長の娘とやらはどこだ。どこにいる?」

「それを聞くなら順番が逆でしょう……! 私の家族はどこです……! どこにいるんですか!」

「家族? ほう、そんな約束をしていたのか。貴様の家族など、とうの昔に死んでいるというのに」

「術し──」


 最後の気力を振り絞り、自身の影に手をやる。

 だが次の瞬間、腹部に紳士の拳がめり込むと、その儚い詠唱もかき消える。


「ひぎ……ッ!!! げほッ、げほッ。……う゛っ」


 男はより高くイオネの髪を掴みあげた。


「させるわけなかろう。この期に及んで力の差も解らぬとは、いよいよ才がないと見える。それで、貴様に下した任務はどうした?」

「う、るさい。アンタたちは絶対に許さない。殺してやる……殺してやる、殺してやる!!!!」


 イオネは叫ぶ。その目には大粒の涙が浮かんでいた。


「やれやれ、家畜の声は聞くに堪えんな。貴様ごときには、怒る権利も泣く権利もない。ましてや交渉の権利などあるはずなかろう。そんなことも理解していなかったとはな。まぁもう良い、理事長の娘はどこにいる? 答えろ、これが最後の慈悲だ」


 紳士の言葉と、その目つきからイオネは悟る。

 最初から自分は、相手にすらしてもらえていなかったのだと。

 怒りは……とうに燃え尽きた。

 浮かんでいた涙が頬を伝って地面に落ちる。


 しかし、まだイオネには(あらが)わなければならない理由がある。


 だから腫らした目で紳士を睨みつけた。


「……知っていたとして、今の私が教えるとでも思いますか?」

「それは貴様次第だ。これ以上、()()な目に遭って死にたいと言うのであれば止めはせんがな」


 紳士の目には殺意が宿った。飢えた猛獣のような威圧感を放つ。

 そんな目に見据えられながら、イオネは紳士の言葉に引っかかりを覚えた。


 ──不幸……?

 ──不幸。

 ──不幸、か。


 そして思わず、笑った。


「なにが面白い。ついぞ狂ったか?」


 どうやら紳士には、その笑う姿が発狂したかのように見えるらしい。

 そうではない。発狂などしていない。

 至ってイオネは冷静だ。

 冷静に過去を振り返っただけだ。

 この一ヶ月の記憶を。

 偽りの学園生活を。

 なにもかもが偽りだったイオネに、本当の友情を教えてくれた少女との日々を。


 奇しくもそれは、まだイオネが(あらが)う理由でもあった。


 イオネは思う。

 この記憶以上にどんな幸福があるのかと。

 そして、どんな不幸がこの幸せを塗りつぶせるものかと。


 怖がるな。


 イオネは再び目に炎を灯すと、偉ぶる紳士に言い返す。


「だってもう、どうでも良いじゃないですか。それに、容易に死ねるなら不幸じゃないでしょう?」

「……そうか」


 紳士は、イオネの精一杯の強がりを聞くと、眉間にシワを寄せた。そしてどこか不機嫌そうな口調で呼ぶ。


「お前たち!」


 呼ばれた金髪の男たちが背筋を伸ばす。

 紳士は掴んだ髪を男たちの方へ放り投げるようにしてイオネを地面に叩きつけると、低い声で言った。


「コイツは貴様らに預ける。遊ぶなり拷問の練習台にするなり、好きに扱え」

「良いんですかい? ウチの連中は喜ぶと思いますが……」

「構わん。ただし殺せ、証拠は残すな」

「承知いたしました」


 やり取りを終えた紳士は、吐き捨てるように詠唱を唱える。すると、その身体は黒い煤のように空間へ溶け込み、まるで飛び散るように消えた。


◇     ◇     ◇



「オイ、あのバカ共はいつ着く?」

「間もなくと思いますが……」


 金髪の男と相棒のそんなやり取りの声で、イオネは目を覚ました。顔面を叩きつけられた際に、どうやら気を失ってしまっていたらしい。


 ──手足が動かない。

 ──拘束された、のでしょうか。


 判然としない意識のなか、現状確認を行っていく。

 紳士の姿がないことには安堵したが、状況は最悪のままらしい。


 手足を拘束され、術式の展開はほぼ不可能。

 そのうえ武闘派の二人が無傷で健在。


 ──これは詰みですね。


 イオネの表情が諦めの色に染まった。

 ほぼ同時に、男たちがイオネに気づく。


「起きたのか。お前も馬鹿だな。あんな約束を本気で信じてるなんて」


 紳士が消えたことで、金髪の男は普段の威勢を取り戻していた。

 もはや逆転の余地はない。


 だがそれでも、こんな男に従順になるつもりは毛頭なかった。

 イオネは真っ直ぐ、金髪の男の目を睨む。


「……いつまでそんな目をしていられるだろォな。まァ、せいぜい死ぬまで気張れや。うちのバカ共は脳みそこそポンコツだが、人間を壊すことにかけては並ぶ者がいねェ。テメェには少なくとも一ヶ月は連中のガス抜きの相手をしてもらう。くたばるなよ」


 そう言って、男は下卑た笑みを浮かべて見せた。

 これまでの人生で見たことのない、最低最悪の笑みだった。


 ──隙を見せたら絶対に殺してやる。


 そうしてイオネの殺意が最高潮に高まったところで──、


 コツ、コツ、コツ


 足音が聞こえてくる。

 建物の入口の方からだ。


「おっと、噂をすれば俺たちの仲間のご到着だ。笑顔で迎えろよ」


 男はニヤニヤ笑いながら、部屋の扉の方に視線を移した。

 足音は近づき、いよいよ止まる。


 静かに、扉が開いた。


 ドサッ


「は……?」


 金髪の男から、拍子の抜けた声が漏れる。


 扉から出てきたのは、彼らが待っていたゴロツキの一人だった。

 しかしそれは歩いてきたのではない。扉の向こうから放り投げられる形で入室した。


 放物線を描いたゴロツキは地面に伏してピクリとも動かない。それもそのはずだ。

 よく見れば、顔面はボコボコで鼻はひん曲がっている。まるでリンチにでも遭ったかのような姿だ。


 予想外の事態に、男たちもイオネも身動き一つ取れなくなる。


 コツ、コツ


 足音が続けて響く。扉から足音の持ち主が露わになった。

 ストロベリーブロンドの髪。

 それは見覚えのある──、


「あっ、イオネ~! ようやく見つけた。まったく、探したんだぞ~?」

「セレ、ナ……?」


 あまりの出来事に現実を疑う。

 だが、頬の痛みが、顔の痛みが、全身の痛みが、夢ではないことを証明していた。


 横たわりながら混乱するイオネを、セレナはじっと見つめる。


「んー、いろいろ聞きたいこと、言いたいことはあるんだけど。その前にお兄さんたちに一つ質問ね」


 そこまで言って、セレナの顔から表情がスッと消えた。

 今まで見たことのないセレナの顔に、思わず息を呑む。

 セレナは男たちに目線を移して、いつもより少し低い声でこう尋ねる。


「イオネの顔に傷を付けたのはどっち? 素直に答えるなら怒らないであげる」

「なんだお前は! いや待て、お前一人で全員やったというのか……?」


 そんな男の叫びにも似た問いかけに、セレナはパッといつもの表情に戻った。


「えっ? あの人たちのこと? 待って待って、これは正当防衛というか。ここの入口で鉢合わせて、いきなり襲われたというか。君が年長のお兄さん? ならもう少し弟の教育を──」

「ふざけるな! もう良い、やれ!」

「……そう、残念」


 ため息をつくようにセレナは俯いた。

 そして、また表情のない顔になると諦めたようにつぶやく。


「質問には答えてくれないんだ」




◇     ◇     ◇




「ごめんごめん。ちょっと力が入っちゃった。でも君たちのせいだからね? ちゃんと質問に答えてくれないから。大体……ってあれ、寝ちゃった?」


 信じられないものを見た。

 それは一分も経たないうちの、一瞬の出来事だった。


 武闘派の二人を同時に相手取ったうえで、すべての打撃を受け流し、的確に人体の急所に突きを入れていくセレナの姿。


 そこにあったのは、何者も寄せ付けぬ圧倒的な武だった。

 長身の男は開始一〇秒で床に沈み、金髪の男も壁に追い詰められ鳩尾に五発、顎に三発の打撃を食らったところで沈黙した。


 だが、さすがはゴロツキ共を纏めるリーダー的存在と言うべきか。戦闘こそ出来なくなっても意識は保っていた。

 男は壁にもたれながら、セレナを睨みつけて言う。


「……生身一つで魔術師を再起不能せしめる調査局員がいるだなんて、眉唾物の情報だと思っていた。だが、噂は本当だったのか。お前が、魔術師喰らい(マグシヴォア)か……!」

「ちょっと、その渾名で呼ぶのはやめてよね。可愛くないし」


 セレナは男の呼びかけを一蹴する。その顔は心底嫌そうな顔をしていた。


「可愛くないだァ? 笑わせるな。わざわざ餌を泳がせて俺たちを釣る趣味の悪い女にはピッタリだろ。ほら、殺すならさっさとやれや。そのために来たんだろうが」

「うーん、正体を知られちゃった以上このまま帰せないのは確かなんだけど……それにしたって突然ディスってくるじゃんか。趣味の悪さなら君たちの方がよっぽど上だぞ~」


 そう言いながら、セレナは男に近づいていく。


「あ、そうそう。君の言い分、一つだけ訂正させて? 私がここに来たのは、あくまでプライベート。君たちの確保は、ちょっと想定外というか。むしろ面倒事を増やしてくれちゃって、って気持ちの方が強いというか──」

「馬鹿が、爆ぜて死ねや!」


 爆音。

 いつの間にか床に魔術陣を仕込んでいたらしい。それをセレナが踏み抜き、爆発的な火焔が発生する。


 しかし──、


 神楽鈴のような音がした瞬間、火焔は綺麗な光の粒子に変貌した。光はまるで粉雪のように舞う。

 セレナは光の中心に立っていた。それも無傷で。


「もー、煙たいな~。そういうの良いってば」

「な……ッ!?」

「とりあえず、ちょっと眠ってて」


 もはやセレナと男の間に距離と呼べる距離はなかった。

 トスッ、と男の首筋に手刀が叩き込まれる。


 満身創痍の男はようやく意識を失った。


 それを確認すると、セレナは携帯電話を取り出した。

 手慣れた手つきで番号を押していく。

 通話はすぐに繋がった。


「リリィ? 悪いんだけどさ、寝袋の回収に来てくれないかな。数は……多分一四個だと思う。色は全部青。え、いや任務とかではなく……ごめんごめん。始末書なら後で書くから勘弁してよ~。……情報官? なんかテキトーな理由つけて誤魔化しといて。どうやってって……そこはリリィの経験と蓄積されたセンスに任せた! じゃ、あとはよろしくね~!」


 明らかによろしくしてはいけないタイミングな気がするが、セレナはそのまま通話を終える。

 そして、イオネに視線を向けた。


「待たせちゃってごめんごめん。すぐに腕のやつ解くからね~。どれどれ。……魔術師のくせに結束バンドって。古典派なのかな」


 独り言をつぶやきながら、セレナは腕の拘束バンドから外していく。そんな彼女を見つめながら、イオネは恐る恐る尋ねた。


「……教えてください。貴方は、調査局のエージェントなのですか?」


 風紀委員会の外局──情報調査局。

 学園独自に、諜報や防諜、対工作を担う機関があるという話はイオネも聞いていた。

 しかしまさか、こんな身近に局員がいるだなんて思わなかった。

 セレナはいつもの調子で答える。


「そうだよ。黙っててごめんね」

「いつから私がスパイだと気づいて?」

「最初から……ってわけでもないんだけど、キッカケは君の出身を聞いた時かな。カリストロは帝国が関与したと思われる殺人や失踪が多い地域だから、ちょっと気になってね~。それで君のことを調べてもらって、確信しちゃった」


 その返答に、ようやくイオネは腑に落ちる。

 確かにイオネは自己紹介のとき、偽りの出身地ではなく本当の出身地を答えた。


 なぜそんなミスを犯してしまったのかは分からない。

 分からないが、それはそれとして致命的だった。

 だからそこから身元が割れたのだと考えれば、納得もいく。


 そして改めて自分の無能さを思い知る。


 ──どこまでもセレナとは大違いでした。


 心の底からそう思う。

 だが、最期まで無能ではありたくない。

 友達の足は引っ張りたくない。

 だからイオネは願う。


「セレナ。お願いします、もう、終わらせてください」

「へ? ご、ごめん。ちょっと話が読めないんだけど……」

「貴方が調査局の人間なら、私なんかを助ける必要はありません。身柄の確保であれば、私にその価値はありません。あの男たちの方がよっぽど価値ある情報を持っています。そんな丁重に扱っていただく必要もありません。だから、もう殺してください」

「……それ本気で言ってる? 本気で言ってるならちょっと──いや、めちゃくちゃ心外だよ」

「心外……? なぜですか。貴方の仕事に、私はもう必要ないはずです。それにスパイと一ヶ月も同室だったことが明るみになれば、貴方の調査局での立場だって──」

「そんなのどうでも良いよ」

「どうでも良くありません。私のせいで貴方が──」

「どうでも良いの! 私は、そんなことするためにここに来たんじゃない!」


 それは初めて聞く、セレナの大声だった。

 思わずイオネは戸惑う。


「なに、を……?」

「あーもう、言わなきゃ分からない!? 私がここに来たのは、友達だからに決まってるでしょ!」

「友達……?」


 イオネは言葉を失う。


 ──なぜ。

 ──なぜ、私なんかをそんな風に。


 理解できなかった。


 自分は騙していた。

 そのうえで友情を甘受していた。

 許されないことをした。

 その自覚があった。


 だからこそ、セレナの優しさが理解できなかった。

 なぜ。なぜ。なぜ。

 疑問だけが脳内を支配する。


 そうしてイオネは黙り込んでしまった。


「…………アレ、私の勘違い? う、嘘でしょ。友達だと思ってたの私だけ……? そしたら恥ずかしさで自殺しちゃう……」


 沈黙した空間に耐えきれなくなったのか、あの日のようにセレナがいじける。

 しかし対するイオネもまだ混乱していて返事に困っていた。

 数秒が経つ。

 最初に沈黙を破ったのはセレナだった。

 どこか意地悪な笑みを含ませながら言う。


「五秒経ったけど、否定はしないんだね」

「あ、いや、その……否定なんてしません。するわけありません。友達です。私はずっと、そう、思っていました」

「良かったぁ、自殺しなくて済みそう」


 にへへ、とセレナは笑う。そして続けた。


「この際だから言っちゃうけどさ、私は君が本当の出身地を話してくれたときから、君のことをスパイとしては見れなかった。だからここに来たのも調査局員としてではなく、友達として来たつもり。別れの挨拶はちゃんと会ってしたかったから。手紙だけとかあり得ないでしょ、ふつー」

「……友達なんて。私は最初から貴方を騙して──」

「それはお互い様。私だって局員であることを隠してたわけだし……だからそこは言い合いっこなし。その上で私たちは友達だった。それで良いじゃん」


 そこまで言ったところで、腕の拘束バンドが外れる。

 セレナは足元に移動して、同じように足に巻かれたものを外しながら言葉を続けた。


「それにさ。私、楽しかったんだよ。君が来てくれてから、ずっと。ずっとだよ? だからお礼もしたかった。出来ればこれからも友達でいて欲しいって、ちょっと厚かましいことも言いたかった。君は嫌? 私と友達でいるの」

「そんな……嫌なわけ、ないじゃないですか」

「良かった~」

「でも私はもう、あの学校には……」


 そう言って諦める声は、少し涙声だった。

 しかしセレナは対照的にケロッと返す。


「まさか、そんなこと気にしてたの? もー、なんで一人で背負い込もうとするかな~。そういうことは、お姉さんに任せなさいって」

「し、しかし……」

「君の事情は、この状況を見れば誰だって分かるよ。いや、他でもないこの私が分かってる。だから大丈夫。信じてよ」


 セレナはイオネに視線を向けると、にこりと微笑む。

 ほぼ同時に、足の拘束バンドが外れた。

 イオネはようやく自由になる。


◇     ◇     ◇


 五月七日 午前六時一五分


「朝ですよ。起きてください」


 朝日が射し込む清々しい朝。

 その日はイオネの声から始まった。


 部屋からトボトボとセレナが起きてくる。

 その目はまだ眠そうで、半開きだ。


「うーん……もうそんな時間……? って、まだ六時じゃんか! 起きるの早すぎだってば~」

「そんなことありません。普段通りの規則的な生活リズムです」

「いつも起きるのは七時ですぅ。……なに、緊張してるの?」

「そんなわけないでしょう。馬鹿にしないでください」

「それ私の制服だよ」

「えっ?」


 イオネは先ほど着替えた自身の制服を見る。

 パッと見だと分かりにくいが、リボンが二学年を示す赤色だった。

 それに気づくと、思わず硬直する。


「……ね、寝ぼけていただけです」

「もう、かわいいな~。そんな緊張しなくて大丈夫だってば。今日は私がずっと隣についてるから」


 よしよし、とセレナが頭を撫でる。

 イオネの顔が真っ赤になった。


「緊張してません!」

「そう? なら良いけど」


 ふぁ~と欠伸をしながら、セレナは撫でる手を止める。


「……う、嘘です。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ緊張してます」

「この~、かわいい後輩め~。大丈夫大丈夫、みんな優しいし。イオネの事情も話してあるし」


 セレナはまたイオネの頭を撫でる。

 まるで子犬を可愛がるかのように激しく。


「しかし……少し前まで敵対勢力にいたのは事実ですし……」

「心配性だな~。やれやれ、仕方ない。ソワソワするのは寝起きでお腹が減ってるから。少しでも落ち着けるようにお姉さんが朝ご飯でも作って進ぜようではないか」


 そう言うと、セレナはキッチンへと向かった。


 ──やっぱりセレナは優しいな。


 その後ろ姿を見て改めて実感する。

 しかし直後、ダークマターの思い出が脳裏にフラッシュバックし、急に危機感を覚えた。


「ま、待ってください。火は危ないので私も付き添います」

「大丈夫大丈夫。あれから練習して炭八割くらいまで抑えられるようになったんだから!」

「……分かりました。火の調節は私がやるのでセレナは焼き焼きする係担当で」

「お姉さんとしてカッコがつかないんだけど~!?」


 こうして今日も、イオネの学園生活は始まる。


 やはり取り巻く環境は平和とは程遠い。

 それに未練ももうない。

 いつでも容易く死ねる。


 ただ──、


 ──どうせ死ぬのなら。


 そう思える相手が、今は隣にいる。

 それだけで彼女にとっては幸せだった。

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