第3話
あの日、一人での宿泊をなんとか二人に変えてもらい、同じ旅館に一泊した。なんでもかんでも物珍し気に辺りをキョロキョロと見まわすその姿は可哀想なぐらいに幼く、見続けることが辛くなる。
翌日は朝早くに起きて朝食をとる間もなく車を走らせた。向かう先は自分が住まうアパートではなく、両親のもと。友人の娘を名乗る彼女の今後を考え、自分は児童養護施設に連絡するという選択をはなから省いていた。
別にそういった施設に嫌悪感があるとか、そういうわけでは無い。友人の転機を知ることすら出来なかった罪悪感からであり、友人の娘を家族がいる空間から外したくなかったというエゴからでもあった。
実家に着くと、突然の来訪に驚いた様子の両親が自分たちを迎えてくれた。苦笑いを浮かべる姿はどこか諦めが混ざっているようにも思えた。
会って早々両親に頭を下げて願ったのは、彼女を養子にすること。その申し出に二人は僅かに困惑しながらも、自分の説明を聞いて受け入れてくれた。
そういえば、両親に頭を下げたのはいつ以来だったか。別に子に対して無関心な親だったとかそういうわけじゃない。自分が引け目を感じていたのか、親に対しても緊張してしまうことを避けていたのか、困ったときに頼ろうと思わなかった。ただそれだけだ。
記憶に残っている中で新しいのは、大学に入った時。大学に入れてくれてありがとうという感謝と今まで支えてくれてありがとうという感謝を込めたものだった。やはり、頼るために頭を下げたことは無かった。
何度もこちらに聞き返しながら願い事をゆっくりと咀嚼するように聞いてくれたのは、そんな自分が長い年月を経て頼りに来たことへの感慨深さがあったのだろうか。
「ここで、暮らしてもいいの?」
「ああ……」
それから約一週間と経った頃。
なんとか有休を貰い、様々な場所を駆けずり回ったり様々な機関からの来訪者を家に招いたりして諸々の手続きを終わらせて自分のアパートにようやく帰って来ることができた今日。
狭い部屋に新たな住人が1人増えた。
ベッドの縁に身体を預けて座る幼い少女は、ボンヤリとした眼で空を見つめている。どこか風が吹けばコロコロと転がってしまいそうな様子を見せる彼女は、昔の頃と異なり小さく……。
ああ、いや違う。彼女は友人の娘だ。早々に両親を亡くし、話し伝手に聞いた男に連れられて見知らぬ土地にやってきた年端もいかない少女。
決して、自分が幼い頃に追いかけていた背を持つ人物ではない。
「疲れただろう? こんなものしかないけど……」
「……これ、なに?」
「コーラだけど……。知らないのかい?」
「こぉ、ら?」
真っ黒でシュワシュワとコップの底から気泡を生み出す飲み物を目の前に差し出すと、首を傾げられてしまった。まじまじと、心底不思議そうに彼女はコップの中身を様々な方向から観察している。
そういえば、あの田舎には自販機一つすら無いせいでコーラは未来の飲み物のようなものだったと思い出す。幼い頃に両親を亡くし田舎の外に出ることが出来なかったとすれば、知っていなくても無理ない。
自分だって外の世界に初めて触れたとき、初めてジュースを口に含んで大層驚いたのだ。その時の感動は今でも鮮明に思い出すことが出来る。
「……ん、く。ッ!? けほ! けほ! うぇえ……痛い……」
「炭酸はダメかな?」
炭酸の刺激が強すぎたのだろうか。まるで苦いものを口にしたかのような表情で舌を出した彼女は、コップをテーブルの中央に押し出しコーラを遠ざけてしまう。
自分の家にある飲み物はコーラとお茶とコーヒー、それから酒が少々。コーヒーは実家に居た時同じように拒絶されたので、残った選択肢はお茶だった。ポットから伸びるコードをコンセントに突き刺して、お茶を淹れてくると告げる。
すると、花が咲いたという表現が最適と思われるような笑顔を浮かべた。
実家には子供が好きそうな飲み物が無かったし、この一週間随分とドタバタしていたから買ってくる余裕も無かった。家の冷蔵庫に入っていたのはコーヒーとお茶と酒。なんだかんだ言ってしっかり家族だったんだと実感できるような簡素さである。
出来るなら、自分がコーラを好きになったように、彼女にもこちらの生活で好きな飲み物を見つけてもらいたい。もちろん、飲み物に限らず料理やお菓子でも、また食べ物に限らず沢山の楽しいを見つけてもらいたいと思う。
だから、そのためには外に出かける日を多く設けないと。
「お茶、何がいい?」
「何があるの?」
「煎茶と番茶、それから米茶かな」
「煎茶がいい」
お茶の趣味が渋い彼女はどんなことを好きになっていくのだろうか。
義理の妹となった友人似の楽しそうな表情を眺めていると、心がポカポカと温かくなっていくのを感じた。
ピー、とお湯が沸いたことをポットが知らせる。
急須の蓋を開けて空の状態でお湯を入れ、急須と湯呑を軽く温める。正しい淹れ方は分からない。ただ、自分が一番おいしいと感じた淹れ方であり、最早癖になっている方法だ。
茶葉を入れて、二杯分のお湯を注いで揺らした後少しずつ湯呑に注ぐ。湯呑が香り良い若草色のお茶で満たされていく度に目をキラキラと輝かせる彼女を見ていると、ほんの少しくすぐったさを感じた。
「熱いから気を付けて」
「ありがとう!」
フー、フーと懸命に息を吹きかけ冷ます義妹を見ながら、飲み手がいなくなったコーラを一気に煽る。ギョッと目を見開いて驚く表情はやっぱり友人に似ていた。
そういえばお茶の友に何か無かっただろうか。菓子入れになっている近くの戸棚を開くと、残念なことに入っていたのはさきいかだった。酒のつまみには丁度いいけど、お茶と一緒に食べたいとはあまり思わない。お茶の友といったらやっぱり煎餅だろう。
「これ、食べるか?」
「? それ、なに?」
「じゃあ、おひとつどうぞ」
苦笑いを浮かべながら問いかけると、コーラの時より良い反応を貰えた。そういえば、コーラとコーヒーは香りや様子を除けば色がそっくりな飲み物だ。ミルクや砂糖を入れても飲めなかったコーヒーに似たものを出されたのだから警戒しても仕方なかっただろう。
それに比べてこれは食べ物だ。実家にいた一週間では不味いと感じたものは無かったようで、警戒心は薄く真新しい食べ物に対してキラキラと目を輝かせている。
袋の口を開けて差し出すと、小さく細い手を伸ばして袋の中から大きな欠片を掴み取った。袋に入っているさきいかの中で一番大きな欠片じゃないだろうか。子供らしい食欲に満ちたその様子にクスリと笑いが零れる。
「ぁむ……ッ!? おいひい!」
「はは、そっかそっか」
口に含んだ途端目の輝きが増す。
余程気に入ったのだろう。大きな欠片を片方の手に持ったまま、もう片方の手は既に袋の口に伸びていた。
そんな彼女を横目に、自分は手帳を開けて今日の予定を確認する。少し休んだら外に出て買い物をしなければ。
まずは、ここで暮らすために必要なもの。例えば寝間着だったり歯ブラシだったり。実家に居た時に使っていた物もあるけど女の子だから自分で決めたものを使いたいだろう。ああ、だとすればマグカップとか茶碗とかも必要か。
次に、学校に通うための道具。年齢は7歳らしく、本来なら小学校に通っているはずだった。筆記用具や給食の時に使うエプロン、学校指定の体操着にカバン、内靴等々。学校に通うために必要なものだけでも沢山あるようだった。
後は、二人分一週間分の食料。家にあるのは小さめの冷蔵庫だが、しっかりと入るだろうか。入らなかったとしたら、追々家具をそろえていく時に冷蔵庫も一緒に購入する必要があるかもしれない。ペンを持ち、冷蔵庫と書いてからクエスチョンマークを加える。
「あれ?」
「……あ。ご、ごめんなさい」
「美味しかった?」
「ぅ、うん」
「そっか、それならよかった。謝らなくてもいいよ。沢山食べてくれてありがとう」
さきいかの袋に手を伸ばすと、自分の手が掴んだのは乾燥剤だった。お徳用とは比較するまでもなく量は少ない。だが、それなりの量は入っているはずだった。こんなに早く空になったということは、本当に気に入ったようだ。
外に出て初めて気に入ったお菓子がさきいか。これで良かっただろうか。晩酌するような時があったら争奪戦になってしまうかもしれない。まあ、お茶を口に含むのも忘れて頬張り続ける彼女を止めることなんて出来ないだろうけれど。
昔、父のつまみを全て平らげてしまった時に母から言われた言葉を思い返しながら義妹の頭を撫でる。すると、申し訳なさそうに沈んでいた顔が今度は恥ずかし気な笑みへと変わった。
ここよりも広く経済的にも余裕がある実家の方でも暮らせたというのに、自分を選んでくれた。その想いに応えるために、そして子供時代を支えてくれた友人への恩を返すために、自分は生活環境を与える以外にどんなことが出来るだろう。
まずは、この笑顔を絶やさないことを目標にしよう。
「これからよろしく」
「? うん!!」
元気よく返事をしてくれた義妹の笑顔に、自分はそう誓った。