第2話
思い立ったが吉日という言葉がある。
その言葉にあやかり休日である今日、自分は幼い頃暮らしていた田舎に訪れていた。
車で片道休憩せず運転し続けて7時間。行って帰って来るだけで日が暮れてしまうし、14時間も連続で運転できる体力は自分にはない。
そのため、田舎近くの街にあるホテルに拠点を構えて土日を使っての1泊2日の旅行となった。
朝早くに家を出てようやく田舎近くの街に着いたのは、昼を通り越しておやつをパクつく時間だった。今日はもう車を運転する気力は残っていないため、電車を使って3駅分離れて山奥に存在する田舎へ。
最寄駅から降りて徒歩数分。申し訳程度に舗装されていた道は途絶え、棚田や木々に囲まれた石ころや小枝がコロコロ転がっている砂利道を進む。
あの頃は足元に落ちている小石一つすら遊びの材料だった。どれだけ遠くまで蹴り飛ばせるか競ったり、穴を見つけたら何回蹴ってその中に入れることが出来るか競ったりと、道端に転がっている石一つを様々な遊びに結び付けていた。
そんな昔を懐かしみながら進むと、視界の端に木造家屋がポツポツと入り込んでくる。
十数年離れていたというのにほとんど変わらない風景。都会は1年も経てばがらりと景色が変容するというのに、まるでここは時間の流れから隔離されてきたかのように頭の中にある友人と遊んでいた頃の記憶そのままだった。
無理やり変わっているところを挙げるとすれば、子供が全くいないということだろうか。あんなに賑わっていたあぜ道も、休日だというのに子供の姿が1人も見えない。
「おじさん、誰?」
不意に後ろから聞き覚えのある幼い声がかけられる。
心に安らぎを与えてくる声音には確かに聞き覚えがあった。いや、耳に、心に染みてきたこの声は聞き覚えがあるとかその次元ではない。昔そのままと言って差し支えない。
だが、それはあり得ないことだ。十数年という時間が流れれば声変わりは必然と起こるはずだし、背も伸びるだろう。では、自分の腰辺りから聞こえてくるこの幼い声は、一体誰のものなのだろうか。
あり得ない。
そう何度も心の中で繰り返す。
だけど、後ろを振り返る自分の胸中を占める感情は、期待ただ一つだった。
「きみ、は……」
「?」
声をかけてきた少女を視界にとらえ目を見開き、驚きで身体を震わせる。
そこに居たのは、春の穏やかな温もりを想起させる一人の少女だった。
一見、黒く見える艶のある髪は光が当たると桜の木の幹のように柔らかな茶に染まる。
色白の肌は作り物めいていて、頬を仄かに染める桜色が今生きていることを証明しているように映る。
ああ、こんな風に表現しているとまるで彼女が桜の木に住み着く妖精のように思えて、その容姿も相まって納得してしまいそうになってしまう。幼かった当時のある日、友人と出会って数週間後に、その場の勢いに任せて君は妖精か天使か何かかと尋ねて笑われたのは黒歴史だ。同じ過ちは犯すまい。
それにしてもこの少女を目の前にしていると、本当にこの田舎の時間だけが世界から隔離されていたのではないかと錯覚させられる。
それほどまでに、彼女の容姿は自分の記憶に残る友人の姿形とそっくりだった。
「おじさん、ここの人じゃないよね?」
「あ、ああ……。自分は、日高っていうんだ」
「日高? えっと、もしかしてお母さんの知り合いですか?」
少女の言葉にホッとする自分と残念に思う自分がいた。
自分もいい年になったのだから、友人もそれなりの年齢になっているのは当然だ。
あのまま成長したとすれば、すれ違う人誰もが振り返る美女になっていることは間違いないだろう。そうなればいい人を見つけて結婚していたとしても何ら不思議ではない。
友人の結婚を祝えず自分は残念に思った、そういうことにして自分の中に沸き起こる感情に蓋をする。
自分に幸せな時間を分け与えてくれた友人が幸せで在れたのなら、それは自分にとって本望なのだから。
それにしても不思議なものだ。
目の前にいる少女は友人ではないというのに、自分は自然と口を開くことが出来た。友人と背格好が似ているからだろうか。それとも、纏う雰囲気が似ているからだろうか。
心臓が鼓動を早めることもなく、顔を赤く染め上げることもない。彼女の前は友人といる時と等しく居心地が良かった。
「あっと、君は遊佐静香の娘さんなのかい?」
「やっぱり! 日高さんのことはお母さんから沢山聞いたよ! とっても優しい人だって!」
「あ、ああ。そう、なんだね……」
両手を大げさに広げて喜びを表す目の前の少女が作る表情は確かに笑顔だった。
ただ、その笑顔は薄く少し触れてしまえば途端に崩れてしまいそうな程で、トレーシングペーパーのように内在する寂しさを映し出す。
まるで、あの日の別れ際に見た友人の寂しさを隠せていない作り笑いを見ているかのよう。強制的に想起させられる昔の記憶と共に、心に何かがチクチクと突き刺さるのが分かった。
「日高さんは何をしに来たの?」
「ん、ああ、自分? 自分は……特別何をしに来たわけじゃないけど、昔を懐かしみたかったんだ」
「ふーん、じゃあついてきてよ。何もすることが無いんだったら一緒に遊ぼう?」
「え? あっ……と。分かった、分かったから、そんなに引っ張らないでくれ。転んでしまいそうだ」
この年頃の女児とはこんなに力が強いものだっただろうか。
余計な力を入れて怪我させるわけにもいかないと自分自身で抑止力をかけていることも起因するんだろうが、彼女に引っ張られる度に体が前のめりになって転げてしまいそうになる。
昔は転びそうになったら引っ張り上げてもらっていたが、それは背丈がほとんど同じだったから出来た芸当だ。
悪戯っ子のように口角を緩ませる彼女に案内がされるまま、覚えがある風景を辿る。
あの一際太い用水路はよくザリガニ釣りを死に行った場所だ。
あそこの家は大きな犬を飼っていて、前を通る時は音をたてないように気を付けたけど毎回吠えられた。
森の中に見えるあのくねくねとした木は秘密の場所への目印だ。
知っている。
これは友人の家に繋がっている道だ。
昔を懐かしむために立ち止まることも出来ず、手を引っ張られるままに景色も同時に流れていく。ポツポツと浮かんでは消える思い出。その一つ一つが涙を促してきては直ぐに他の景色へと変わり、何故自分はここに戻ることを一度としてしなかったのかと罪悪感に苛まれる。
だからか、顔が歪んでも涙が出てくることは無かった。
急ぎ足で引っ張られ続け息が上がった頃。
ようやく少女の手から解放され、背筋を伸ばす。道はここで途切れていた。だから、本来であれば目の前にあるのは友人家族が暮らしているだろう家があるはず。
それなのに、視界に入った家屋の外装は余りにも荒れ果てており、人が暮らしているとは到底思うことが出来ない様相だった。
「君のお母さん達は……?」
だからそんな言葉も漏れる。
昔なじみの家に案内されたのだ。そこに友人やその夫が居ると考えてしまうのは当然だと思う。
結婚するとなって引っ越したのだろうか。
だとしたら、何故この娘はここに?
友人やその夫は今どこにいるのだろう。近隣の住人に挨拶に行ったのだろうか。だとしても娘を一人置いていくのは考えられない。挨拶回りがつまらなくなって抜け出してきたのだろうか?
質問を投げかけてからそんな考えが頭の中を巡る。
彼女は言葉を受けると少しの間固まった後、何に対する答えなのか静かに首を横に振った。そして、またしばらく固まり、短くもなく長くもない時間を経て徐に口を開く。
どこか耐え難い事柄を口にするように、唇をわなわなと震わせながら吐き出された言葉は、自分の耳を疑いたくなるような内容だった。
「お父さんと、お母さんはね……。遠くに行っちゃった。もう、お空の上に行っちゃったから会えないの……」
「……は?」
頭が理解を拒む。
友人とその夫が、……死んだ?
娘を一人おいた状態でどうして親二人が死ぬような状況になるというのだろうか。
自分も知らない持病でも持っていたのだろうか。事故にでもあったのだろうか。それとも何かしらの事件に巻き込まれたとでも言うのだろうか。
到底信じられないような事実が突き付けられ、動揺が頭を揺らし、焦点が定まらなくなる。
「周りにいたお爺ちゃんも、お婆ちゃんも、みんなお空に昇っちゃった。ここにはね、もう私しかいないの……」
寂しげに笑いながら彼女はそんな言葉を付け足した。
周りには誰もいないとはどういうことだ。
ここには私しかいないとはどういうことだ。
周りから大人が消え、彼女はどうやって今まで生きてきたというのだろう。
生きるためには食べ物が必要だ。
生きるためには住む場所が必要だ。
生きるためには身を守る衣服が必要だ。
子供が生きるためには、誰かの温もりが必要だった。
人が住んでいる気配を微塵も感じさせない古びた家屋を見上げる。
もう何年も人の手が付けられていないと分かる程朽ちてしまった家。ここで彼女は暮らしていたというのだろうか。
この田舎は盆地の中にあるため、冬は寒くなりやすい。というか、積雪量だって年によらず酷いことになる。こんな子供の体で除雪なんて……。
いや、まず食料はどうしたというのだろう。森に実がなる時期であればこんな田舎で育ったのだから採取の知識ぐらいはあるだろう。自分もこのぐらいの年では、いや、そうじゃない。例えそうやって食べ物を得ることが出来たとしても子供の食欲を満たす分の食料なんて取れるわけがなかった。
恐る恐る彼女の姿を再び視界に入れる。
そこにいた彼女は友人を彷彿とさせる姿でありながらも、やつれ痩せているように思えた。
どれほど長い時間彼女はこの地で一人寂しく耐えてきたというのだろう。
そんなことを考えたらいてもたってもいられず、昔友人がそうしてくれたように自分は地面に膝をつき彼女のことを抱き寄せていた。