要編 73 サイン
シーン73 サイン
一礼した僕はさっきまでボスが座っていた椅子に腰かけ、姿勢を正して紳士の目を見るが、無意識に視線を落とした。知らず知らずのうちに、目を逸らした自分の行動に、コンテナ船での生活が、自分に卑屈さを植え付けたとわかって拳を握る。
室内に外階段のステップを軽快に、上がって来る大きな足音が響きだす。その足音に聞き覚えのある僕は振り返った。ドアが開く。緑の作業着を着たファイターが立っていた。
息を弾ませたファイターは、立ち上がりかけた僕に飛びつき、そして「良かった。良かったよ。良かったよ!」とむせび泣くように言う。反射クロスベストに、顔をゴシゴシと擦り込まれて痛い。
その痛みが現実だという、実感をくれる。緊張の糸が切れそうになる。ファイターが突然、僕から離れ「失礼致しました。ノックもせずに入室しまして、申し訳ございません」最敬礼で頭を下げ、2歩下がって僕の真正面に立った。ファイターの顔から表情が消える。そうだ。そうだった。
椅子に座り直して、気持ちを一新させ「失礼致しました」頭を下げる。まだ、アルファーに戻ったわけじゃない。日本に帰国できるか、決まってもいない。
紳士が、静かに話し始める。「私は常任理事国の出身で、今作戦の責任者に仕えている者です。あなたの国は国際的に、今回あなたが取った行動を、容認することはできません。国連は機密性を重んじて、作戦決行日の通達を、あなたにしませんでした。重ねて言えば、ローマ規程の意思が、あなたにあるかどうかも、あなたを守る為に確認しませんでした。ご理解ください。国連の成り立ちはあなたの職業を考えれば、ご存知だと思います。今のところ日本が常任理事国入り出来ない理由も、お分かりでしょう。ですが、我々国連に対する日本の分担金は、長年トップ3に入っています。非常任理事国の中では、No.1の分担率です。そのことを充分にわかっている上で、国連はあなたにお願いしたい。あなたを死亡リスト入りさせて下さい」絹糸のような澄んだ声で紳士は言った。
言われたことにドキリとしたものの、僕はうまく理解できず、言葉を喉に詰まらせながら「申し訳ありません。どういう、意味でしょうか?」無自覚に尋ね返していた。
僕の戸惑いにファイターが「私から説明させて頂いても、構いませんか?」と真摯に申し出る。紳士は手の平を上にして、エレガントにファイターから僕に振り「どうぞ」と言う。
ファイターは「ありがとうございます」と頭を下げ、僕の左横に周り込んで、左膝をついて僕の目を見る。そして「イエーガー、尾長要は鬼籍に入るという事だ。お前には新しい名前と戸籍が与えられる。名前が変わるだけだ。仕事も今まで通り、続けられる。お前が望めばだが。どうだ?わかったか?」子供にでも話しかける気遣いをみせて説明した。
僕は破顔する。
ファイターは笑う要に、息を飲み、表情を曇らせた。
精神を危ぶむ表情で、僕の顔色を見ているファイターに、「そんな簡単な事でいいのか?そういうことなら即決だ。僕は名前なんかにこだわりも、愛着も持っていない」と言い切る。
ファイターは詰めていた息を、静かに吐いた。聞いた紳士は足元の鞄から、1枚の書類を取り出して、向きを確認してから要の前に置く。
書類をおいた紳士の右手が優雅に上着の内ポケットに入り、何処かの国で見たような古めかしい紋章が蓋一面に、細かく刻まれたモンブランの万年筆を手にして出てきた。紳士はその万年筆を書類の隣に添える。
「拝見させて頂きます」書類を両手で取り上げて、一読した。
納得だ。十分すぎる内容だった。僕の新しい名前は古めかしい。日本人と誰もが直感する名前だ。考えたのは、承認したのは外国人だろう。「お借りします」会釈して、万年筆を手にする。生涯、これが最後であろう名前を書き込む。尾長要よ、さよならだ。今までありがとう。
書類と万年筆の向きを整えて「宜しくお願い致します」と頭を下げる。全てが終わった。ホッと息をつくも、いや、まだだったと思い出して、「一つお願いしたい事が、あります」と口にする。
サインを確認している紳士が、書類から顔を上げ「何でしょう?」と僕に聞く。
「コンテナ船の乗組員の中に、ピエロと呼ばれている看護師の男がいます。この男は娘さんの不法入国をボスに頼みました。ですが、ピエロは娘の消息を知りません。捜索して頂けないでしょうか?」と願い出る。紳士は顔をしかめ「あのコンテナ船に、乗船している者の殆どが、何らかの法に触れている者たちです」と言いながら、万年筆を内ポケットに戻す。
そして僕の顔を見るや「いいですか、尾長さん。この世で起きる全ての事には、理由があります。法を犯すという事は、その理由の選択肢を間違えたからです。犯した罪は誰でも、どんな形かで、いつか自分で担うものです」と、切々と言った。
その言葉を聞いて僕はうつむき、その意味を考える。
確かにそうだ。
だが、ピエロは心の恩人だ。
挫け、砕けた僕に、立ち直るきっかけをくれた。
人は間違いを犯す。
真実の為に、間違いを犯す事だってある。
許すことも、人間にはできるはずだ。
要の様子をしばらく見ていた紳士は、カバンから衛星電話を取り出して番号をプッシュする。相手が出ると「mission complete.」(任務完了)一言伝え、電源をOFFにする。
衛星電話と書類をカバンに入れ、真新しい日本のパスポートを取り出した紳士は、要の前にパスポートをおき、椅子から立ち上がる。要も立つ。
紳士は右手を差し出し「お約束はできませんが、娘さんの事、心に留めておきます」と言った。「ありがとうございます。お世話になりました」要は握手を交わす。感謝だ。ピエロの笑顔が見えた気がした。
敵のアジトにでも、足を踏み入れたような表情だった紳士は笑みを浮かべ、ドア前に立っていた男と共に、颯爽と部屋から出て行く。
カタリと音を立てて、ドアが閉まる。ファイターが「クッ」と小さく声を上げ、僕の背中を何度も叩く。「ファイター、ありがとう。恩に着る」僕の声は湿っていた。
2人の男は、2人で男泣きする。




