要編 68 スパルタンの闇
シーン68 スパルタンの闇
その日の夕方、要はスパルタンとサヤが暮らす船室を訪ね、ドアをノックする。
スパルタンが「Here you go 」(どうぞ)としゃがれた声で、返事したのを聞いてドアを開ける。向かい側の壁の汚れの数まで、廊下から数えられそうなほど狭い部屋だった。床にペタリと座るサヤに目がいく。ハッとして、息が詰まった。サヤの左手首に荒縄が巻き付いていたからだ。
上げた手首から伸びる荒縄の先端は、2段ベットの下段の手すりに括り付けてあった。・・・・自業自得のサヤに、今してやれることは何もない。僕がスパルタンに話したのが、起点ではあるが、ここまでするとは思わなかった。脂っぽい髪はペタリと頭に張り付き、薄汚れた鴇色のノースリーブ・フレアーワンピースの所々には、食べ物のカスがつき、幾つものシミある。不潔なサヤは今、ツケを払っている。
危うい目で要を見るや、サヤは投げ出して、すでに開いていた両足を、さらに大きく開脚させる。扇型に広がったワンピースの裾が上がり、太ももがあらわとなった。こんな状態になってまでも、サヤはサヤであり続けようと努力する。自分の売りを知っているサヤは、さすがだ。
サヤの開いた両足の間で右膝を付き、しゃがみ込んでいたスパルタンは「そう、ジロジロ見るな、俺の物だ。座って大人しく待ってろ」平坦な口調で言った。
麻婆豆腐の餡掛け白飯がのる皿を、左手に持ったスパルタンは、左足でサヤの右手を踏んでいた。その横には、コップがのるトレーが置いてある。水だろうか・・いや、今のスパルタンはわからない。ウォッカか、ジンなのかもしれない。澱んだ空気に、新鮮な酒の匂いが混じってる。さっきまで、飲んでたか・・・。
スパルタンは何食わぬ顔で、右手に持ったスプーンで、サヤに食事をさせていた。
僕は無表情を貫き、50センチ✖︎70センチほどのテーブルのそばに、置いてある椅子の背に右手を掛けて、ドアと対面する壁がわに移動させて座る。今は腑抜けのスパルタンでも、隙を見せてはならぬ。
さりげなく、室内を見回す。
スパルタンの船室は、僕の船室の5分の1ほどの広さしかなかった。家具は2段ベット、古びたテーブルと年代を感じさせる干からびた椅子が2脚、ベットの横には建て付けの2段の整理棚、どれも質素で黄ばんでいた。
富士子拉致を成功させ、完全体・液体デイバイス製造技術を奪取できれば、十分に回収できたであろう、多額の資金を湯水のように使い、2年以上の歳月を掛けて展開させた作戦を失敗した報いか。ボスの冷たさを感じる。
サヤの口には多過ぎる麻婆豆腐と白米を、スパルタンはスプーンで口に押し込むようにして咀嚼させていた。サヤのペースに合わせず、次から次に口に突っ込んでゆく。確かに、こういう男ではあった。だが、昔の方がまだ、自分の嗜好を羞恥する心があり、恥じる認識を持っていた。
確か、この男は4代続けて、国に尽くした家系だ。それが人とは違う嗜好を持つこの男には、重かったんだろうか・・・無惨だ。鎌倉には妻と確か、息子と娘が居ると聞いた。今もスパルタンの家族と親戚縁者を、本陣は定期的に身辺調査している。
教官だった頃のスパルタンは、訓練中、細かく調査されていた僕の生い立ちと経歴を知った上で「お里が知れる」と事あるごとに言った。そもそも、この男は、それぞれの訓練生に対してもそうだった。
訓練生のトラウマを思い出させるような言葉を選び、叱咤という体を取りながら、個々の心情を苛む言葉を厳選して選び、浴びせ、心を折ろうとしていた。今ならわかる。この男はその頃からある種の哀れ色に染まった。
蔑む言葉を得るために、各訓練生の身辺調査書を時間をかけて読んでいたかと、不憫にさえ思う。スパルタンがその神経と労力、脳を、あの頃から違う方向に使っていれば、今の散々たる状況にはならなかっただろう。スパルタンの生い立ちは、どんな風だったのか・・・。職業選択の自由さえなかったのかもしれない。
いまこの男は、一回り以上も年下の女に、加虐という形ですがりついて依存し、大いに歪んだ自尊心と人生を慰めている。
至心を失うとは、まさに今のこの男の姿だ。そんな事を思いながら背中を見ていると、スパルタンはサヤの口にスプーンを突っ込みながら「お前、いま俺を哀れんでるな」嗅覚だけは昔と変わらず、いまだ鋭く、僕の内心を嗅ぎつけて口にした。
なんの遠慮もなく「ああ、そうだ」と言って、正直に認めてやる。お前の勘はまだ冴えていると、人生を立て直せると知らせたかった。どうして僕は、今もこの男にそんな感情を持つのかが、わからない・・きっと、初対面の記憶がそうさせるんだろう・・グンと、スパルタンの背中に向けている視線が冷える。・・・いつまでも、あなたを尊敬していたかったか・・・・そうか・・・だからか。自分の眼差しが冷えたのを、なぜだと考えて、やっと自分の心の真相が見えた。どこまでも僕は自分自身を知らない。
一息おいて、「話があるんだ」と口にする。
ピクリと肩を上げて反応したスパルタンは「俺が!!お前を呼んだんだ。黙って座ってろ!」とわめく。サヤに食べさせるのをパタリとやめ、皿をトレーに投げるようにしておく。そして、トレーから直径2センチはある紫色の錠剤を摘み上げ、サヤの口に押し込んだ。
その直後、サヤが吐き捨てる。
床に落ちた錠剤を拾い上げて、自分の口に入れたスパルタンは、コップの液体を煽り、口の中で錠剤を噛み砕きながら、サヤの鼻を左手の親指と人差し指で摘みあげた。待っている。サヤが酸素を求め、口を開けるのを。
1分も立たないうちに、堪らずのサヤが口を開け、スパルタンは自分の口をサヤの口に押し付け、口の中の液体を、ゆっくりとサヤに流し込んでゆく。ゴクリと飲んだサヤが咳き込むが、スパルタンは気にも止めない。サヤのワンピースの裾をたくし上げ、サヤの口元を愛おしそうに拭いてやる。
あべこべな光景に、吐き気がした。
狂ってる。
それでも、スパルタンの横顔は、とても穏やかだ。
闇を露にした顔で、引き攣る笑みを浮かべている。
ヘラヘラと笑うサヤが、クスクスと愛らしい笑い声を上げた。2人の世界から、僕は目を背けた。
サヤの有り様に満足したスパルタンは、しばらくサヤを眺めていた。そして、サヤの首に左手をそっと添えて支えると、首筋に顔を押し付けて深呼吸する。サヤの香りがスパルタンを、鎮静させてゆく。まだ、スパルタンが妻に愛されていた頃の妻の匂いに、サヤの体臭は似ていた。遥か昔に、愛した身体。悪魔が俺に囁く“ 今は他の男の物だ”と。 咄嗟に、とっくに、踏みつけていたサヤの右手を、ギッと踏んでいた。「痛いぃー」と笑うサヤに、「俺を捨てるからだ」投げ捨てるように言って、左手でトレーをすくい上げて立ち上がり、口元から垂れている薄紫色の唾液を、右の手のひらでグィッと拭きながら、テーブルにトレーを置く。近くにあった椅子を引き寄せて、サヤに背を向けてへたり込んだ。
俺はお前を蔑ろに、なんかしていない。今も、ここにお前がいる。胸を叩く。誰にもわからないこの思いは・・・。
赤い目を僕に向け「なんだ?話って?」と平然と言ってのけたスパルタンの顔は、もはや教官だった頃からはほど遠く、新潟分屯基地でPC画面に映し出された顔でもなく、高速艇からBを海に投げ込み、己の力を見せつけた時の顔でもなかった。
だらしなく酒ヤケし、ぬるく、ぬかるんだ男の顔だった。
変わり果てたその顔を目の当たりにして、僕は胸を突かれた。しかし、飲み込んで表情には出さず「衛星を経由させた安全な環境で、誰の手垢も付いていないスマホが、今ここにあるとしたら、銀行にアクセスして、ボスに残金を振り込むか?」と聞きながら、トーキーに連絡したスマホをテーブルの上に置く。
スパルタンの赤い目が、スマホに吸い付く「お前、今も衛星にコンタクト出来るのか?」と言ったスパルタンは僕を見上げ、穴が開くほどに見る。その顔にうなずく。「ああ。あんたと違って、僕は現場に出ていたチーム長だ。今も情報には事欠かない」皮肉を交えて言い返したが、スパルタンには伝わらず、スマホを両手で包むようにして取り上げたスパルタンは「パスワードを、教えろ!」スマホを凝視したまま、強い口調で要求した。
スパルタンの手からスマホを取り上げ、椅子から立ち上がって、狭い室内を歩きながら衛星に繋ぎ、パスワードを打ち込んで返した。僕がスマホの画面を見ているのにも気付かず、スパルタンは国際通貨銀行の口座から、ボスの口座に送金する。その後、残金をケーマン諸島の口座に移した。僕は2つの口座番号を速攻で記憶する。どちらのパスワードも妻の名前と生年月日だった。
ケーマンと妻の名前に生年月日、どこまでもスパルタンは時代遅れだ。
羊を思わせる目で僕を見上げ、スマホを返そうとはしない。「そのスマホ、あんたにやるよ」と言いながらドアに向かう。スマホに熱中のスパルタンにだか、僕だか、サヤが呂律の回らない言葉を発した。
その声に振り返らず、僕は廊下に出る。
歩きながら“トーキー、スマホの電波を追尾しててくれ“と願う。
今日、僕は大きく一歩踏み出した。
吉と出るか、凶となるか、大きな賭けだった。




