要編 66 船外活動
シーン66 船外活動
毎朝、06:00に起床して身支度を整え、時間を掛けてストレッチする。身体に緊張が纏わりつく、落ち着けと念じて息を吐き、廊下へと踏み出した。この船の朝は遅いようだ。人の気配がない。ゆっくりと船内を歩き、デッキへと向かう。すぐにスタミナ切れを起こして息が切れ、座り込んで空を眺めている時間の方が、歩いているよりもはるかに長い。それでも蒼い海と潮風、降り注ぐ日光から頂く自由と期待に、ふわりと気持ちが浮き立つ。よくぞ、ここまで頑張ったと誉めたくなる。身体の芯がほのかに暖かい。こんな気分はいつ以来か。
怯まず日々、続ける。食事も共同食堂で摂るようにする。好奇心に晒されたが却って都合が良かった。一人、また一人と、顔と名前、癖を覚えてゆく。旺盛な食事を心掛け、日に一度か二度、ピエロとテーブルを共にする。話した船員の仕事、乗船したきっかけ、そんな背景をピエロにさりげなく聞くが、ピエロは知らない事の方が多かった。人と極力、関わりを持たないよう生活している様子がうかがえる。・・・人嫌いとは感じないピエロもまた、この船に乗船している船員と同じで……心か頭に闇を抱えているのだろう。
軽いジョギングと歩くを交互に繰り返し、たまの日に追い込みすぎて吐く。
思い通りのトレーニングをこなせない。
焦りを感じる。
耐久力の糊代を、徐々に伸ばしてゆく。
根気を問われるトレーニング。
自分を、ヘタレかと思う。
大学での訓練の日々、今や赤鬼と呼ばれる横尾に付き添われて、行軍していた最後尾の同期は・・・こんな気持ちだったのか・・・慮る事もしなかった僕は、なんと横柄だったのだろう。
まるで僕の身体は時代遅れのエンジンだ。燃費が悪く、随時メンテナンスが必要で、日毎、機嫌が変わる。クソ・・・根性すら見せられない。こんな思いはした事がない。
僕にとって訓練は、自分の身体能力に気づきを得る日々で、喜びと希望を抱く毎日で、両手には日々の糧が溢れ、未来は明るく見えた。今のこの心をなんと喩ればいいのだろう。
寂しさを風に流す。寂しさが空に舞う。深呼吸して新しい息吹で心を満たす。
走る合間に、筋トレする。先を急いで、インターバルもおかずに走り出す。どこかしらの筋肉部位が吊る。また歩くか、走るかだけの日に戻る。クソったれ!!!!今の身体とコンタクトする為に、ストレッチにより時間をかける。あぐらを組み、禅僧のように内面と向き合う。毎日、時間だけは腐るほどにある。
トレーニングの合間に船内の様子を探り、各部署で働いている船員と積極的に知り合いになる。信頼を得るよう努力する。時間を掛けて、1人1人を取り込んでいく。
夢を見なくなった。
そのうち船内のあちこちでトレーニングをしていると、ボスの耳に入っているらしく、誰かとすれ違う度に「The boss was looking for you 」(ボスがお前を探していたぞ)と声をかけられるようになった。「I’m playing hide -and-seek with the boss.」(ボスと鬼ごっこしてるんだ)破壊力満点であろう、犬歯をみせる笑顔でケムに巻く。
闘病中、一度も何故か、姿を見せなかったボスが、痺れを切らすのを僕は待っている。
そんなある日の夜、船室に来たサヤから情報を得た。スパルタンはBから奪った金でボスに救出を頼んだが、その代金の半分を未払いにしていると。スパルタンはレットゾーンからアクセスすれば、銀行口座番号とパスワードがボスに知れると警戒して、支払いを遅らせているという。
それに支払いを先送りにすれば、それだけ身の安全も保てると考えているらしい。馬鹿な保身だ。円満に済ませておいた方がマシなのに。スパルタンは目指す目的地に到着し、打ち合わせで上陸するボスに同行した時、送金すると約束したという。
「目的地はどこなんだ?」とサヤに聞く。「私と寝たら、教えてあげる」サヤはあどけない仕草でそう言い、「それはない」と速攻で断る。
「即答するんだ」と言ったサヤは、両手で挟んだコーラに視線を落とし「あんたといい、宗弥といい、なんで富士子なのよ」と哀しげな顔をした。だが、すぐに「そうだった。あんた達に、この手は通用しないんだった」コーラを飲みながらそう言い、僕は「お前、宗弥も誘ったのか?」と聞く。「そうよ。高校の時」サヤはクスクス笑う。
僕は笑いが出た。ある意味サヤは逞しい。「そろそろ帰れよ。スパルタン、今日はまだ来ていないぞ」僕が言うが、サヤに「大丈夫よ。飲んだくれて寝てるわ。あのインポ」と返され、僕は「最近、酒臭い日があると思っていたが、相当飲むのか?」と聞く。
「ボスが、お酒を際限なく与えるのよ。なんでだかどう思う?」とサヤが言う。「さあ、ボスの考えはわからない」と言ったが、内心でスパルタンを壊す気だと思う。
スパルタンは、ボスに疎まれ始めている。
だが、ボスはスパルタンの金が欲しい。
悩ましいボスはいつか、前後不覚になったスパルタンを、誰かに海に突き落させる気だ。魚の餌になるだけで、居なくなっても誰もが気にも止めず、スパルタンの事を聞かれても「夢でも見たのか」と実直に返すだろう。
液体デイバイスの研究費は青天井だった。一体、Bはいくら横領した。気づかないほど経理は、ザルではなかったはずだ。横領の共犯者が居たという事か・・・黙り込んだ要を、サヤはジッーっと見ていた。
そしてサヤは「ここで暮らしていい?」といきなり言い出す。「だめだ。変なこと言うな」強い調子で即答した僕に、「あんたが、スパルタンを殺せばいいのよ」サヤはマニキュアのハゲた赤い爪をいじりながら、そう言った。
動物的な勘で人の考えを読み、操ろうとするサヤ。また、ある意味、この女は凄いと感服するが、自分のためだけに生きているサヤは、その感性の使い方を間違い続けている。もう、何一つ変わることもなく、学習することもなく、こうやって、この女は生き続けてゆくのだろう。
サヤはピタリと要の顔に視線を合わせ「あいつがボスに送金したのは、私のスマホからよ。履歴も残っているわ。パスワードもわかってる。どう?欲しくないの、お金?私と組まない?」と切り出す。
「帰れ」サヤをソファーから立たせて、船室から追い出す。ドアが閉まる瞬間、「あんたは、このままここで、朽ち果てたいの」とサヤがささやく。その夜僕は、一案を考慮した。
2日後の早朝、ランニングに出ようしていた要の船室に、赤い目のスパルタンが現れ、その目を見た要は「寝てないのか?」と聞く。「ああ」めんどくさそうに応えたスパルタンを、要は食堂に連れていき、コーヒーを飲ませる。
いくらか素面になったスパルタンに、呑気に朝食を摂りながらの要は「僕の部屋にサヤが来るんだ。迷惑なんだ。サヤに纏わりつかれてる。僕はあんたと揉めたくない。今後の為にもそう思っている。サヤを何とかしてくれ。あんた、ちゃんとサヤの面倒みてるのか?」とぼやいてみせ、スパルタンの独占欲を刺激した。スパルタンは血走った目で、要を睨めつける。
「手を出してみろ。殺すぞ」スパルタンは凄んだが、酒臭いだけで僕はなんとも感じない。脳も警戒音を鳴らさない。この男は・・・・サヤとボスにケツの毛まで抜かれつつある、哀れ。
「サヤに手を出す?ないな。僕にだって好みはある」と応える。
スパルタンが「お前の好みは、フレミングだったな」と言って挑発してきた。「ああ、そうだ。互いにホクロの位置まで知ってる仲だ。あんたの好みは、コロンブスだったな」と言い返す。「あいつの好みが、俺なんだ」スパルタンは真顔でそう言った。
本気で、そう思っているか⁈
真顔のスパルタンに、「そうなのか、確かにそうかもな。コロンブスがあんたを生捕にしろと指示したのには、そんな理由があったのか。知ってるか、特戦に入隊するとコロンブスは、あんたの顔写真を隊員に手渡す。人相、経歴を覚えろと言いながらだ。世界中に展開している部隊員の頭の隅には、あんたの顔が刻まれている。愛されてるな、スパルタン。なんで、あんた整形した?今のその顔も面取りされ、世界中の諜報機関から、あんたはタグ付けされているはずだ」刻みつけるような重い低音域で、スラスラと言ってやる。
左の口元だけを緩ませたスパルタンは、しばらく要を見ていた。そして「愛されてるんだな。俺」と言うや、コーヒーを飲み干し席を立った。
その日からスパルタンは、サヤを船室に軟禁する。
僕は、サヤの疎ましさから解放された。




