要編 42 引くついた頬
シーン42 引く攣いた頬
上着の内ポケットにスマホを入れながら、第1大隊の宿舎に入って行くと、一階左がわの教官室の前に今日の当番なのだろう。1学年の時の担当教官・夏八木さんが立っていた。
立ち止まって背を折り「お疲れ様です」と挨拶する。「今年も来たのか?」と夏八木さんが僕に聞く。「はい。ご無沙汰しております」と答えると、「素水も一緒か?」と尋ねた夏八木さんに、僕は「はい。今年も休暇が、たまたま一緒に取れまして」と返す。「ほんとお前たち、いつも一緒だな」と感心したように言われ、悪戯心がムクリと起き上がった僕は「はい。夏八木教官のご指導の賜物です」犬歯を見せて言ってみる。「それ、どういう意味だ、まったく、お前は」あきれ声でそう言った夏八木さんは、口元に笑みを浮かべてニヤリと笑い「素水と違って、手間が掛からなかったよ、お前は」と言った。
それは逆だ。宗弥は教官たちからの信頼も厚く、僕は何事にも反骨で接していて、教官たちに「そんな風だと、いつか潰れるぞ」と口が酸っぱくなる程に言われていたが、聞く耳を持たなかった僕には耳タコで、担当教官だった夏八木さんは「態度に出さなくても、目は心を語るんだぞ、尾長」僕の目を見てはそう言った。初めて信用した大人だった。この人と宗弥がいなかったら、今の僕にはなれなかっただろう。
満点の笑顔で「また、来年も来ます。元気でいて下さい、後輩と僕たちのために。失礼致します」最敬礼して僕は廊下を歩き出す。突き当たりを右に折れ、その先にある男子トイレへと向かった。
入り口ドアには使用禁止の張り紙がされているものの、鍵は掛かっていなかった。
ドアを開けて、正面に3つ並ぶ洗面台沿いに左に折れ、左手に並ぶ3つの個室を一つずつ覗き見て、人が居ないか確認する。誰もいなかった。真ん中の個室に入って鍵を閉める。
右脇腹を圧迫していた自分の上着を、羽織っている宗弥の上着の内側から出して確認する。血はついていなかった。フゥーと息を吐きながら便座蓋の上に置く。左肩のボディーバッグを首からぬき、上着を脱いで、ドアの荷物掛けフックにかけた。
両手を上げ、ボーダーシャツの後ろ襟ぐりを掴んでシャツを脱ぐ。脱いだシャツの両肩口を左右の手で持ち広げて見ると、右脇が15㎝ほどパサリと切れていた。クソ!見事にやられてる。相手は手練れだ。あの手首の返し方は上手かった。賛辞を送りたくなるほどに。
一瞬の出来事とはいえ、気に入らない。やられっぱなしで、反撃一つできず仕舞いだった。「チキショウ!!!」僕の内心に居座る鬼が吠えた。いい傾向だ。
シャツの後ろ襟ぐりのタグをフックにかける。黒のストレッチパンツのボタンを外して、腹と背中に一冊ずつ、開いて挟んでおいた週刊誌を取り出す。
腹に入れていた週刊誌の1ページと、背中の半ページが切れ、断面は血を吸ってクタクタになっていた。2冊の血塗られたページを重ねて右手に持ち、立ったまま右脇腹の傷口を見る。
約10㎝。ヘソに向かって南下するほどに傷は深い。斬りつけた人間の悪意を感じる。貧血を感じたが、感傷は覚えず、週刊誌がなかったら、失血死していたなと考えただけだった。
応急で軽く縫っておくかと、無表情になってゆく。右手に持っていた週刊誌に左手を添えて血を吸っている1ページ部分を引き裂き、配管と便器のパイプを結合してできた幅15 センチほどのフレームに、綺麗なページと、血を吸ったページに分けて横置きする。
ドアに向き直って、ドアフックにかかっている宗弥の上着の内ポケットを右手を入れて探った。推測した通り、緑色とオレンジの錠剤が2錠ずつが入った手のひらサイズのジップロックを探し当てた。
「Thank you 宗弥」と言いながら、緑の錠剤を一錠取り出してジップロックをポケットに戻し、錠剤を口に放り込んで噛み砕いて飲み下す。
妙に苦い。
出血が多かったか・・・。
便座ふたに胡座を組んで座り、薬が効き始めるのを待った。
2分経った頃、正面ドアにかかっている宗弥の上着に右手を伸ばして、表ポケットに手を入れる。上半身が伸び切ったが、それも確認の為で、されど鈍痛がするが激痛は走らず、チャンスから受け取った深紅の鉢巻きと、医療用ソーイングケースを取り出して、鉢巻を左膝の上におき、両手でソーイングセットの蓋を開けた。
銀色の消毒パックを右手で取り上げ、切り目を前歯で咥え、蓋を開けたままのソーイングケースを組んだ両足首の内側に、両手で慎重におき直す。
咥えた消毒パックを右手で、横に引っ張って裂き、左手でパックの底を掴む。じっとりと消毒液を含んだ3センチ✖︎5センチの2枚組みコットンから、一枚を右手の親指と人差しで引っ張り出した。
消毒パックを持つ左手を左脇の下から後に伸ばして、綺麗な週刊誌の上に置く。
右手にあるコットンを左手で広げて傷口に当てる。さすがに消毒液が染みて口から「クソッ!」とこぼれたが、身動きせず、ジッと待つ。その間も飽くなき僕は「クソ」と言いまくる。僕はほとほと人間力がない、確かなクソッタレだ。
1分経って、傷にあてていたコットンを見もせず、傷の周りを拭き、背後にある血塗られた週刊誌方向に、上にあげ空を斬らせた右手で無感情に投げ飛ばす。
ソーイングセットから、縫合糸が通してある医療針を取り出して、右脇腹の傷を縫い始める。医療訓練は受けてはいたが、自分で自分の傷口を縫うのは初めてだった。
宗弥の手つきを思い出しながら、真似て縫う。
最初の留めが上手く作れず、糸に引っ張られて伸びる皮膚に、若干の吐き気を催しながらも、3針目からはスムーズに縫える様になり、7針目の結び目を作った所で、もういいだろうと嫌気が差して、ソーイングセットから超小型医療バサミを取り出して糸を切り、針とハサミをケースに投げ込むようにして仕舞った。
右手でソーイングセットの蓋を閉め、ケースを掴んで便座から立ち上がり、ケースをボディーバックに入れる。
清潔な週刊紙の上にある消毒液パックを左手で取り上げて、右手でパックの中の残り1枚の消毒コットンを取り出して傷に当てたが、もう痛みはしなかった。いつもより即効性がある。宗弥は…これをどこで手に入れたのだろう…これほど即効性がある鎮痛剤は…部隊では取り扱ってはいない…。そう考えながらも両手は深紅の鉢巻を能動的に腹に巻き、三重させて結ぶ。
フゥーと息を着いて週刊誌を右手で取り上げ、ページを開いて腹と背中に入れ直してボタンを閉め、ボーダーシャツを身に着けた。
水分補給しなければ…。
血塗られた週刊誌を左手で取り上げ、便座の上にある自分の上着の内側に入れ、丁寧に包み込んで左手に持つ。右手で宗弥の上着とボディーバックをフックから取り上げて、施錠を解いて洗面台に向かった。
左手の上着をゴミ箱に捨てる。お気に入りのジャケットだったが、しょうがない。血染めの週刊誌が見つかるよりはマシだ。
右手に持ったボディーバックと宗弥の上着を鏡前の台に置くや、鏡に写った自分と目が合った。
白目に青筋が浮き立っていた。洗面台に両手をついて俯き、やれやれと思う。
“落ち着け、冷静を保てなければザコだ“と内心に言い聞かせる。
一息入れて顔を上げると、寂しげな顔つきになっていた。「大丈夫だ」と声に出して言ってやる。左頬が微かに、ピクピクと痙攣した。
両腕の袖をまくり、蛇口を捻って洗顔する。何度も何度も、繰り返し、何度も顔を洗う。納得して、僕は顔を上げた。顎から水滴を落としている鏡の男は、平静を取り戻していた。その顔に、一つ頷いてやる。
鏡横のホルダーから、右手で手拭き紙を1枚引っ張り出して顔の水分を拭き取り、両手を拭き、丸めてゴミ箱に投げ入れた。リセット完了。
上着の内ポケットからスマホを取り出し、チーム内暗号打電を打つ。
“ 送る。イエーガー。総員に告ぐ。フレミング、帰りはミニで東京に帰投する。そうなるよう富士子さんを誘導してくれ。ファイター、今どこだ?国防大に到着後、後方支援を頼む。着いたら一報くれ。ターキー、校内で内耳モニターの使用は問題ないか調べてくれ。可ならば総員にチーム内暗号で通知されたし。トーキー、ベータとは仲良くやっているか?いらぬ苦労をかけた、すまない。チャンス、見事な変装だ。よくやった。これからからそちらに戻る”と。




