9 聡美の一言
授業が終わって直接ホームルームに移っていた。金城先生は連絡事項を手早く読み上げると、チャイムが鳴る前にホームルームを終えた。僕は早く帰りたくて仕方なかったが、彼女を待たなくてはいけなかった。
教室は五分程で殆どの生徒がいなくなった。いつも僕に帰りの挨拶をしてくれる数少ない四五人の男子達は、彼女を待つ僕の姿を見て取ると、何も言わずに帰っていってしまった。僕は少しだけ悲しくなったが、諦めて彼女を待つしかなかった。
彼女の支度が終わり教室を出ようとした時、三人の女子と、その後ろで守られるように立ちはだかる聡美に僕達の行く手は遮られた。
何も知らない風をして女子達の間を通り抜けようとした瞬間、保田先生が教室に入ってきた。
「どうした、お前ら」
先生は極めて伸びた声を出した。
「何でもありません。先生こそ、どうしたんですか?」
聡美はいつの間にか完璧な笑顔を保田先生に向けていた。
「今日ミカが倒れただろう。だから大事をとってお家から迎えに来てもらうことにしたんだ」
彼女の頭に手を置きながら先生は聡美達に言った。聡美の顔は、先生が彼女の方へ視線を向けると、直ぐに感情の一切無い表情に変わった。
「もうすぐ親御さんが来られるだろうから、校庭まで出て待っていようか」
彼女は背中を押されて教室を出された。
「それなら今日は、僕は帰ってもいいんですよね」
取り残されそうになった僕は慌てて訊ねた。
「お前も取り敢えず来てくれ」
先生は少し考える素振りを見せてからそう言ったが、何を考えてのことかは想像も出来なかった。僕は肩を竦ませ、仕方ない、という感じを精一杯聡美に見せ付けてから彼女を追った。
校門には少し前から彼女の家の車を待っていたのだろう金城先生が不安そうに佇んでいた。保田先生は、校門の外まで出て、時折生徒に声を掛けながら車を待っているようだった。僕は通りすがる生徒達の注目の的になっているようでひどく恥ずかしくなり、耐え切れずに口を開いた。
「やっぱり僕はもう帰りますよ。僕がいる必要は無いでしょう」
金城先生に言った。保田先生に言うと話が長くなるからだ。金城先生は予想通り頷くと、他の生徒と話している保田先生の所へ向かっていった。僕は金城先生が保田先生にそのことを報告する前に帰ろうとした。
校門の端に置いてあったバッグを持ち上げた時、見覚えのある老婆を乗せた黒い小さな外国産の車が校門の前で止まった。それは彼女の家の大き過ぎる車庫の一番隅にあった、一番小さな車だった。恐らく老婆の車なのだろう。
小気味良い音を出して停止した車を降りた老婆に、保田先生が真っ先に挨拶をし、次に金城先生を紹介した。老婆は丁寧にお辞儀をして、自分はこの子の母親ではございません、と言いながら彼女を抱き上げ、理解できない先生達に説明を始めた。
老婆はかいつまんで事情を説明し、その疚しさの無い笑顔で先生達を納得させたようだった。
「今日はこの子の発作が出てしまったそうで」
バッグを肩に掛け、何食わぬ顔で通り過ぎようとしていた僕は、保田先生の伸ばされた手に引っかけられた。
「はい。こちらとしては発作のことを伺っていなかったもので焦っていたんですが、此処にいる小野寺君のお陰で対処できました」
僕は逃げ遅れ、仕方なくお辞儀した。老婆は僕を認めると、こちらの倍ほど深々と頭を下げ、綺麗な礼をして見せた。
「ありがとうございます。助かりました。やはりあなたに話しておいてようございました」
老婆は僕の手を取ってもう一度頭を下げた。僕は、本当は何も対処していないことを暴露してしまおうとしたが、思い留まった。
「小野寺君とは何処で?」
「家にこの子を負ぶって来て下さったことがありまして。本当にお世話になりっぱなしで。感謝し通しなんですよ」
老婆の言葉に、知られたくないことを言われたような気持ちになり、その口にチャックをしてやりたい衝動に駆られた。
「そうか、琢磨。偉かったな」
保田先生はそう言うと、僕の頭をクシャクシャにした。僕は、苦笑してされるがまま頭を振った。
「もう僕はいいでしょう。帰ってもいいですよね」
そう言って帰ろうと踵を返したが、直ぐに呼び止められた。諦めて振り返った。
「もしよければお前も乗せていってくれるそうだ。どうする?」
必死に首を振った。しかし抵抗空しく、気付いた時には老婆の手が僕の背中に添えてあり、それは断りきれないことを意味していた。
仕方なく車に乗り込んだ。実の所を言えば、この丸みのあるユニークな形をした外国産の車に一度乗ってみたかったという節が無い訳ではなかった。車体と同じように小さな車内の本皮シートの感触を確かめていると、老婆が先生達に挨拶を終え、乗り込んできた。僕は礼儀正しく挨拶した。
車が動き出し、大袈裟に手を振る保田先生と、只管お辞儀している金城先生を見ながら車道に出ようとした時、先程と同じ三人を引き連れた聡美が現れた。
聡美は保田先生に笑顔で挨拶してから車に目を向けてきた。次いで後ろにいた女子達も気付いてあからさまな視線を向けてきた。僕は急いで首を引っ込めようと思ったのだが、遅すぎたので諦めた。
車道に出た時、思い切って振り向き聡美の方を窺った。聡美は一切感情の無い顔を向け、何かを呟いたようで、それを聞いたのだろう後ろいた三人の顔色の変化が見て取れた。
聡美の吐いた言葉を想像して、僕は怯えずにはいられなかった。