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8 無言の脅迫

 授業終了のチャイムが鳴っても保田先生が校庭に戻ることはなかった。男子は構わずサッカーを続けていた。女子は聡美の異変をいち早く感じ取り、怯えたラットのような歩調で時折振り向きながらそそくさと教室に引き上げていった。聡美は凍りついた表情で立ち尽くしたまま時間が止まったように静止し続けていた。僕は軋む体を引き摺りながら逃げ出すようにその場を離れた。

 男子が校庭から戻ってきた教室は喧騒に包まれ、一見普段と変わりないように思われた。しかしその話し声とは裏腹に、女子はグループさえ作らず、一人残らず席に着いていた。 

 女子の異変に気付き始めた男子が何人かを残して席に着き終えると始業のチャイムが鳴り、それと同時に聡美が戻ってきた―――瞬間。話していた全員が押し黙り、俯き、固まった。

一切の表情を拭い捨てた聡美は、能のように物音一つ立てずに席まで歩き、辿り着くと、回れ右をして暫くその場に立ち尽くした。

 無言の脅迫―――聡美が使う手段。教室の空気が痛いほど鋭くなり、誰もが頭を下げて事態が緩和する切掛けを待つ他無い。

「…すいません。遅くなりました…」

金城先生が入ってきた。聡美が坐った。聡美が坐るまでの短い時間が、ひどく長く感じられた。教室の雰囲気を敏感に感じ取ったらしい先生は一瞬立ち止まり、十分に躊躇った後で仕方なさげに足を踏み入れた。 

「葉月さんはもう大丈夫だそうなので。皆さん心配しないでください」

申し訳なさそうにそう言うと、先生は直ぐに教科書を開き、顔を隠した。教室は静まり返り、先生の呟きだけが響いていた。

 授業が終わるまで聡美は動かなかった。聡美が作り出した音は呼吸をする音以外無かったのだが、教室の誰もがそれ以上大きな音を出すまいと丸くなって耐えていた。

 授業終了のチャイムが鳴った瞬間、張り詰めた空気が教室内に膨張して息をするのも困難だった。しかし、意外にもそれは直ぐに解かれた。

「さあ、給食よ。ちぃちゃん、トレイを取りにいきましょう。残りの人はちゃんと用意していてね」

机を押し出す格好で勢いよく立ち上がった聡美が普段通りに指示を出し、出て行った。教室中が安堵の色に変わった。

 給食を食べ終わると、男子は逃げるように校庭に飛び出し、女子は吸い寄せられるように聡美の所へ集まり、窺いを立てていた。

 僕は保健室に足を向けた。先程の緊張で頭痛が激しくなったからだ。彼女の居る所には行きたくなかったのだが、教室に居られる訳も無く、これ以上授業を受けるのも億劫だったので自然に足が向いていた。

 普段より長く感じた廊下を歩き、保健室に辿り着くと、中の様子を窺った。中からは人の気配を感じ取れなかった。一息置いてからそっとドアを開けた。

 目測を誤った。足を踏み入れドアを閉めると、カーテンで仕切られているベッドの付近に人影が見て取れた。僕は気付かれないように静かに隅のベッドに潜り込もうとした。しかしカーテンの向こうに気を取られ、誤って足元にあったモップの入ったバケツを蹴飛ばしてしまった。

 甲高い音を出すバケツを捕まえようと躍起になっていると、仕切りカーテンが開かれ、保健の先生と保田先生が歩み寄ってきた。そこには金城先生もいたのだが、滑稽な格好をした僕の姿を盗み見ているだけだった。

「おう、琢磨。来てくれたのか」

僕は顔を顰めた。保田先生の、自分の良いように解釈する癖が出た。誤解を解く間も無く、彼女の横たわるベッドに連れて行かれた。

「ミカ。琢磨が来てくれたぞ」

強引にパイプ椅子に座らされて、彼女の顔を見ざるを得ない状況に追い込まれたのだが、その当人が窓の外を見ていたので自分の顔を背ける手間は省けた。

 カーテンに隠された形で見えなかった保健委員の志津子も反対側に座っていて、先生達より何倍も安心する微笑をこちらへ向けてきた。

「保健室に来て直ぐに発作は収まったから、もう大丈夫みたい」

「しかし発作が起こるとは聞いていなくてな。ミカに聞いても何も言ってくれないんだよ。琢磨、お前何か聞いていないかな」

保田先生は僕の肩に手を回し、少し困惑した顔を見せた。記憶の中に彼女の発作のことがあった。突発的な発作を起こすことがあります―――老婆の声だ。

「そういえば言っていました。けど薬を飲めば治まるって聞いています。薬は飲ませましたか?」

「薬があるのか…。冬実先生、すいませんが」

その声を合図に、金城先生は弾かれたように保健室を飛び出していった。

「もう発作は収まったんだから薬を飲む必要は無いんじゃ―――」

金城先生には届かなかった。僕は彼女の方へ向きを変え確認した。

「もう飲まなくてもいいんだよね?」

僕の声に彼女は、外を向いていた体をゆっくりと反転させ、同じような速さで頷いた。

「おお、そうか。飲まなくていいのか。悪かったな、気付かなくって。でもちゃんと言えるんなら言ってくれよ?」

保田先生は過剰に反応し、僕と彼女を交互に見ながらそう言った。僕はミスを犯したことに気付いた。先生達に、僕の質問に彼女が反応することを示してしまった。

 暫くすると彼女は半身起き上がった。

「もう大丈夫なの? 寝ていたいのなら寝ていてもいいのよ?」

彼女は保健の先生の質問には何の反応も示さなかった。直ぐに同じ質問を志津子がしたが、彼女はそれも完全に無視してベッドから出ようとした。

 志津子は嫌な顔一つせずに根気よく彼女の体を支え、介抱した。彼女がベッドに座り、上履きを履き終えた頃、金城先生が戻ってきた。

「もう大丈夫なようです。薬は要らないみたいですから」

志津子の声に、金城先生はその場に立ち尽くし、所在なげに辺りを見渡した。

 彼女は構わず立ち上がり、歩き始めた。志津子が彼女を支えるように従い、先生達はそれを追った。僕はどうするか迷った末、彼女が加わった教室が恐ろしくてベッドに避難する方を選んだ。 

 十五分ほど横になっていたが、眠りが訪れることは無かった。晴れない頭を毛布で包み、その中で体を折り曲げて膝を抱えていると、教室まで彼女を見送ってきたのだろう保健の先生の声がした。

「まだいたの。もう直ぐ授業が始まっちゃうから、そろそろ行きなさい」

毛布を剥がされると、はっきりしない視界に、腰に手を置き佇む保健の先生が映った。

「頭が痛いんですよ」

毛布を奪い返し、また頭に被った。しかしそれも間も無く剥がされた。

「そう言って、いつも授業サボっているじゃない。だめ、ですよ」

先生は始めから僕が仮病であると決め付けた。それは僕が、保健室で、狼少年のような立場に置かれているからだったのだが、今日に限って不満が残った。

「僕、もう一度さっきの言葉を聴きたいな」

「さっきの言葉?」

「そう。さっき先生が彼女に言った、やさしい言葉」

精一杯甘えた声を出した。先生は、暫く思案した後、思いついたような顔をした。

「もう大丈夫なら。寝ていたくても寝ていてはいけないのよ」

先生はそう言って底意地の悪い顔をしながら笑った。その顔に僕は不満顔をして、本当に頭が痛いのだと訴えようとしたのだが、諦めた。

「分かりました。チャイムが鳴ったら戻りますよ」

そう言って再び毛布を奪い返した。先生は僕に分かるように大きな溜息をついてから自分の机に戻り、温くなったコーヒーを啜り始めた。僕は少しでも眠ろうと、外界の全てを遮断するように耳を手で塞いだ。

 意識が遮断される前に毛布が剥がされた。どうやらチャイムが鳴ったようだ。諦めてベッドを下り、悪びれた態度で保健室を出て、教室に向かった。

 来る時は長く感じられた廊下が驚くほど短く感じられ、考える間も無くドアの前に立ち呆けた。教室の殺伐とした雰囲気が、僅かにドアから漏れ出していた。

 ドアを開けるのを躊躇ったが、仕方なく中へ入った。教室では既に金城先生が何かを話していたが、それ以外は全くの沈黙を守っていた。

 彼女はやはり黒土の中に紛れ込んでしまった砂金のように浮き上がっていた。僕は誰かが向けている視線に気付いていない風を装い、何も無かったように席に着くと、嵐が来ないことを只管祈った。

 チャイムが授業終了を知らせると、金城先生は逃げるように教室を出て行った。

 暫くして、あろうことか何も知らない男子が彼女の元へ歩み寄った。

「大丈夫だったの? 病気、そんなに悪いんだ」

純粋に彼女を心配して声を掛けてきたようだったのだが、男子は彼女が原因で教室の異常な雰囲気が作り出されているとは夢にも思っていないようだった。

 純朴な彼に続き数人の男子が彼女に近づいた。その全てが教室の雰囲気を変えようと試みたのだろうが、事態は悪くなる一方だった。

 原因に気付き始めている、男子より少しだけ成長している女子は、誰一人として彼女に近寄ろうとしなかった。

 彼女は一貫して首を横にも縦にも振らず、ただ黙って俯いているだけだった。僕は何の罪も無い男子に、大人しくしているように伝えようと試みたのだが、その方法を見つけるまでには至らなかった。

 数人だった男子は、間も無く倍以上に増え、喧騒と共に教室の雰囲気も少しは変わったように思われた。

 しかし、それは直ぐに間違いであることが分かった。

「何で喋んないのよ。この子、私達が田舎者だからって馬鹿にしているのよ」

聡美だ。聡美が彼女を取り巻く男子達の後ろからあっさりと、そして限りなく残酷な声を上げた。

 聡美が、YESと言えばYESになる。無知で純朴な子供達は、疑うことを知らない。疑えと言われて始めて疑う種類の人間だ。しかし、その疑い方すら身に付けていない。先導者の答えをそのまま鵜呑みにしてしまう。聡美が、馬鹿にしていると言えば、馬鹿にしていると感じてしまうのだ。聡美には導く力がある。それは聡美だから出来ることであって、聡美にしか出来ないことでもあった。

 言葉を契機に沈黙が降り、教室が凍りついた。それを待っていたかのように聡美は、絶妙なタイミングで追い討ちを掛けた。

「病気だって、本当は嘘なのよ」

言葉の端々に出るイントネーションの不自然さが、聡美の感情を却って際立たせた。それまで座っていた聡美はゆっくりと立ち上がり、振り向くと、黙って彼女を見下した。それに追従するように、教室は沈黙の内に生臭い程の視線を彼女に突きつけた。

 幾重にも折り重なる視線が彼女を通り越して僕にも浴びせられているようで、恐ろしさのあまり顔を背けずにはいられなかった。彼女の前に佇む十数人の男子の視線は勿論、教室にいる殆ど全てが彼女を射抜いていた。

 これから何が起こるのか。頭を覆って怯えていると、極めて間延びしたチャイムが鳴り始めた。固まっていた男子は無言のまま席に戻っていった。聡美は既に席に着いていたが、男子に睨みを利かせているに違いなかった。俯いたままの彼女の表情は、見て取ることが叶わなかった。



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