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5 僕の家

 彼女の家を出る時には、既に深い闇が辺りに落ち着いていた。夕食に誘われて始めて予想以上の時間が過ぎていたことに気付き、慌てて帰ることにした。

 玄関まで見送りに出てきてくれた老婆の首には、やはり彼女が腕を絡ませていた。僕はドアを閉めようとする老婆を引き留め、さり気無く右眼の、あの変色した黄緑色の事を訊いた。

 老婆は僕の期待とは裏腹に、彼女の瞳を無遠慮に覗き込み、始めて気付いたと言い放ち、恐らく本来の瞳の色の名残なのではないかと言った。僕は何故か不満を感じ、根拠無く老婆の病気への認識を訝しく思い、今夜聞いた説明の信憑性にも疑念を抱いた。しかしそれでも、そのような感情は隠して笑顔の挨拶で別れ、帰りの途を走り出した。

 直ぐに息が上がって走るのを止めた。使い慣れない道を、厚い雲から顔を出した夜空に浮かぶ月を見上げながら歩いた。半分以上欠けている月があと何日で満月になるのか考えた。

 思念は分散し、その度に形を変えた。月を見上げていた筈の瞳には、彼女の顔、彼女の瞳、彼女の涙、彼女が言葉を発した時尖らせた唇が次々と映し出されては消えていった。

幾度目かの息継ぎの後、意識はあらぬ所へ引き込まれた。

 いつからか濃縮し、変色しきった黄緑色が意識の泉に紛れ込んでいた。噴煙の如く急速に混濁してゆく。その拡散の速さが脅威になり、襲い掛かる。汚濁した黄色が隠れて足に絡みつく。僕は恐怖のあまり煙から必死で逃れた。

 首を強く振り、現実に逃れると、一軒の平屋の光が目に入った。彼女の家に負けない程の大きな庭が、在るには在るのだが、その殆どが畑になっている。そこには生活観が溢れていて、僕をがっかりさせたのと同時に、彼女の家から感じていた不安を拭い去ってくれた。

庭に入ると言い訳を考えた。

 幾ら考えても良い考えは浮かばなかった。時間が足りない。正直に話すしかないだろう。嘆息と共に玄関のドアを開けた。

「此処に座んなさい」

ただいまを言う前に、テーブルの真中の席に座っているだろう母さんが、隣の椅子を二三度叩く音が聞こえてきた。

台所には既に夕食に手をつけ始めていた家族が食卓を囲んでいた。

「僕は悪くないんだ」

開口一声目にそう言ってから椅子に坐ると、夕食に手を伸ばしながら今日のことを一から説明した。母さんだけがそれに相槌を打ち、お祖母ちゃんと姉さんは早めに食事を終え、興味が無いという風に居間に消えていった。


「―――そうか。偉かったのね」 

そう言った母さんに抱き締められた。照れくさかったが抵抗はしなかった。この場所が嫌いではなかった。

 調子に乗って彼女の涙の話をしてしまった。

「へえ、左眼だっけ? その子の涙。確かこういうお話があったわ」

母さんは童話を書く仕事をしている。その為か、事ある毎に僕や姉さんに何処かの国の昔話などを聞かせてくれた。しかしそのような仕事をしているにも拘らず、母さんは話しが下手だった。物語のかなりの部分を端折っているので聞き手はよく分からない。それでも僕は、母さんの優しい声を聞いているだけで十分だった。

「昔、あるところに―――」

母さんは僕の頭を優しく撫でながら話し始めた。

 物語は、左眼からしか涙を流せない少女が主人公で、それが原因でいじめに遭う少女に一人の青年が恋をする。そして全てを受け入れてくれた青年の思いに動かされた少女が、右眼から涙を流す、という便概だった。

「僕に愛の告白をしろって?」

話し終わった直後に言った言葉に、母さんは笑って応えた。

「生意気。そういう訳じゃないわ。けど、その子を守れる人は、今は、琢磨しかいないんでしょう? それなら守ってあげなくちゃいけないじゃない。男の子なんだから。そうでしょ?」

母さんは変な理屈を並べた。僕は気が重くなった。母さんは僕の表情を見ないまま続けた。

「このお話が何処の国のものだったかは忘れちゃった。でも涙には意味があるって事を表しているらしいの。勿論読む人によって感じることは自由でいいんだけどね。私が感じたのはそうだった。左眼の涙は‐負の感情‐つまり悲しみや苦しみを、右眼の涙は‐正の感情‐つまり嬉しさや喜びの感動を象徴しているのよね。あんたも何かで涙した時は右と左の涙の量を調べてみるといいわ。その涙の意味が分かるかもよ」

母さんはおどけた調子でそう言った後、一瞬沈黙した。

「その子は多分…」

「多分?」

僕は母さんの顔を見上げた。

「その子は多分、何故かは分からないけど、今は泣き方を忘れてしまっているのね。お話にもあるように、その子の涙を見られれば、あんたにも何か良いこと有るかもよ」

話の中の少女と青年はどうやら幸せになったらしい。得意げな母さんは、いつもの母さんだった。病気の所為だ、などとも言える雰囲気では無かった。僕は仕方なく頷いた。

 母さんは、僕を置き去りにして勢いよく立ち上がると、きびきびと食器を片付け始めた。僕は母さんの話の意味をもう一度考えた。いずれにせよ僕が彼女を守らなければならない理由は何も無かった。



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