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40 とらわれゆくものたちへ

 延々と続く列の間を彼女の眠っている柩が通り過ぎていった。彼女はもう何も語らない。あの時、本当に死を望んでいたとしても。あの時、微塵も死を意識していなかったとしても。彼女はもう何も語れない。僕は鏑木山を望む山道沿いに並んだ生徒達を壁にするように、見えない彼女を見守っていた。涙は一滴も流れなかった。

 整然と列を成している生徒達は、皆同じように顎をしゃくり上げながら泣き続け、彼女の入った柩を見ているようで、実は僕の様子を窺っているのが見て取れた。そこには勿論聡美の姿もあったが、一つも周りと変わったところは無かった。聡美の持っていた光は、消え失せていた。そのことを知っている聡美は、今、努めて朱に染まろうとしているのだ。

「こんな所にいらっしゃいましたか」

込み上げてくる嘲笑いを堪えていると、何処からともなく現れた老婆が、ハンカチ片手に駆け寄ってきた。

「短い間でしたが、誠にありがとうございました。お嬢様もあなたのようなお友達ができて、とても嬉しかったに違いありません」

赤く腫れ上がった目が、皺だらけの老婆の顔から押し出された。老婆は僕の手をとり、そこに何度も額を打ち付けるようにして言った。

「こちらこそ」

瞬時に神経が乗っ取られ、そう一言だけ口にした。僕にはそれが一番適切な言葉なのだと思えた。仮面をつけた感覚が、怖気付いた本当の僕を突き飛ばし、奥へ押しやった。

「僕が一緒にいてあげられれば、あんなことにはならなかったのかもしれないのに。本当にすいませんでした」

今にも泣き出しそうな声が出た。体が勝手に動いて老婆と同じ姿勢になっていた。忘れていた太腿の傷が疼き始めた。

「あれは事故だったんです。事故だったんですよ。あなたには何の責任もありません。どうかお気になさらないで下さい」

老婆の表情は憂いに満ちていた。憂いが、深く刻まれた皴から染み出していた。老婆は直ぐに微笑を浮かべて見せたが、悲しみを隠すには力無さ過ぎて、却ってその深さを露わにさせた。

 老婆は僕を葬列へと誘った。あなたには最後までお付き合いして頂きたい、と言って手を離そうとしなかった。乞食のような目で僕に哀願した。それでも僕は、色々な理由を付けては断り続けた。そして葬列の最後尾が大きく右折して見えなくなる直前で、老婆は名残惜しそうに手を離した。別れ際、またお家へお越しくださいね、と言ってやはり力の無い微笑を向けてきた。

 葬列が完全に見えなくなっても生徒達で作られた列は崩れなかった。全員が全員、僕の一挙手一投足を盗み見て何かを読み取ろうとしていた。それは僕が列を離れるまで続き、全員がそれまで息を止めていたかのように一斉に肩を撫で下ろした。僕はそのような滑稽な光景を見て楽しんでいたが、同時に鈍い怒りが燻り始める感覚を覚えた。そして昨日までの自分に嫌気が差し、気持ちを紛らわす為、刺すような視線で聡美を転がした。

 葬列の見送りが終わると、誰もが散り散りになって町の方へと歩いていった。聡美は人波を縫うようにして僕の視線から逃れ、消えていった。そして間も無く、自分だけが取り残されているのに気付き、漸く踵を返した。母さんは葬列の中にいたから、誰一人として隣を歩いてくれる人がいない。僕は、どうしてなのかは分からないが、頭が変になりそうになって、何時しか自分が正常に違いないという確信を得た。そして疼き続ける太腿の傷を庇うことなく全力で走り出した。

 

 まだ明るい沼地を訪れるのは久しぶりだった。沼地へ辿り着くまでの道程には、二日経っても大勢の靴跡がありありと刻み残されていた。背の高さにまで育っていたススキが無残に踏み荒らされていた。それは先が見えない程の暗闇が口を開けていた獣道も同じで、すっかり人の通れる道になっていた。僕はそれらの道を辿る内に走り疲れて、いつしか足を引き摺っていた。しかしそれでも夢中で歩き続け、歩を緩めることなく目的の場所へと急いだ。

 暗闇の中を歩いた緩い上りの蛇行坂は、改めて歩けば大して長い道程ではなかった。日が傾く頃に頂上まで辿り着くと、注意深く辺りを探りながら歩いた。山道の入り口から人の気配は全く無かった。警察は昨日の時点で現場検証を終えているに違いなかった。

思慮が巡る間も無く下り坂が始まると、道を逸れ、崖の始まりを見つけ、そこから犬のように四つん這いになり、彼女が崖から落ちた地点まで進んだ。暫く進むと、崖の下一帯に張り巡らされた真っ青なビニールシートを見つけた。

 ビニールシートは崖から離れたところに張られていた。そこが、彼女が発見された所なのだろう。しかし、そこは崖から離れすぎていた。落ちたままの所なら、シートは崖の真下に張られる筈だ。もし落ちた衝撃で体が投げ出されたとしても、あそこまで行くのだろうか。行く筈は無い。だとすれば、彼女は崖から落ちた後で尚、自分で光を目指したことになる。彼女の服は、唾液に濡れた頬は、引き摺られたように細かな土がこびり付いていた。彼女は最後の力で光を目指したのだ。しかし、あの時、彼女の眼球は飛び出していた。既に視力は完全に失われていた筈だ。ではどうやって彼女は光を感じたのか。飛び出した眼球にも、その粘膜が傷つけられ砂土が塗付けられていた。彼女は全くの暗闇の中、光を目指したのだ。盲目になりながらも光を目指し、動かない体を動かしたのだ。あの時、彼女は何を見ていたのか。彼女は一体、何を見ていたと言うのか。

 関係ない。彼女が何を見ていようと、彼女が何を目指そうと、僕には関係ない。彼女はもういない。いない。いないのだ。僕は間も無く体を反転させた。犬のように辺りを隈なく探った。そして遂に発見したのだ。それは微かに変色した、折れて剥き出しになった木の枝だった。あの時、この目の前の枝で太腿を引っ掻いたに違いなかった。

 安堵しながら力一杯その血痕が付着した枝を圧し折ると同時に、愕然とした。あの時、僕の太腿を引っ掻いた枝は、血肉と共にズボンの裾を切り取った筈だった。

 僕は暫く呆然として考えた。僕が救助された時には、既にズボンは破られていて、切れ端など何処にも無かった。要するに、家には絶対無い。それならやはり、枝に引っ掛かっているのが一番確率的に高い筈だった。しかし、切れ端は、無かった。僕はそれが此処にあるものだとばかり思い、焦って取りにこようともしなかった。もしかしたら警察が持っていったのかもしれない。しかしシートが掛けられているのは崖の下だけで、上を調べた痕跡すらないのだから、可能性は極めて低い。それならどうして無いのか、考えた。背筋に寒気が走り、それを合図に、がむしゃらに切れ端を探し始めた。

 

 どうしても切れ端は見つからなかった。必死だった僕を太腿の痛みが正気に引き戻した。辺りを見渡すと、既に陽が落ちようとしていた。崖の上から見える蕩け始めた夕陽は以前と全く変わりない美しさで、それが僕を立ち上がらせた。

 呆けたように立ち尽くしていると、泉のようにある考えが頭に湧き出してきた。そして何の根拠も無いその想いに後押しされ、僕は歩き出した。

 歩いたことの無い坂を下っていた。足は、あの夜辿り着けなかった場所へと向いていた。この坂道の果てにあるだろう場所へ辿り着くことができたなら、今まで犯してきた罪が何もかも許されるのではないかと漠然と考えていた。

 ふとせせらぎの聞こえる水辺の、不自然に揺れるススキに目を向けた。些細な風にですら折られてしまうような枯れきったススキ。二匹の赤寂とした蜻蛉が、九の字を描いて交尾していた。溶融してゆく暮れ陽を惜しみ帰すよう最後の煌めきが水面を踊り、そこに頭を垂れるようにして蜻蛉の止まるススキがあった。番いは必死に羽根をはばたかせ、その身体を合わせていた。森が鳴き、不意に山風が吹くと、止まっていた細枝が折れた。蜻蛉は仕方無しという風に、体を合わせたまま、ふらふらと飛び立った。

 その時―――水面に潜んでいた蛙が豪快に飛沫を上げ、大きな口を開けて蜻蛉に飛び掛った。蜻蛉は蛙の口に吸い込まれた。蛙の口が閉じられると、堅く結ばれていた筈の蜻蛉の身体はあっさりと離され、片方は頭が、もう片方は醜く折れ曲がった身体が見て取れるだけだった。何かの突起物を連想させる蛙の眼は、舞い降りた闇の中では全く機能していないのだろうが、此処では辛うじて獲物を捕らえることが出来た。蛙は平べったい身体でバランスをとりながら一面に茂った水草の上に着地しようとした。

 瞬間―――何かが蛙の膨らんだ腹を摘まんだ。黒い。鳥? 鴉だ。鴉が蛙を捕らえた。闇に身を潜めて鴉が蛙を狙っていたのだ。蛙の白い腹に突き刺さった嘴が血で黒光りしていた。蛙は痙攣していた。それだけは辛うじて見て取れたのだが、鴉は驚くべき速度で僕に近づき、目の前を掠り、横切り、瞬間的にその姿を闇と同化させた。澱みゆく闇の最中にその姿を捜し求めたが、もうそれを見出すことは叶わなかった。





まずは完読していただいた方に感謝します。 ありがとうございました。

今回は、プロット立てて作った初期の作品になります。

ご意見、ご感想など、寄せていただけたら幸いです。

よろしくお願いいたします。

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