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4 彼女の声

 途中何度も体制を立て直しながらも彼女の家に辿り着いた。彼女の家は直線距離にしてみれば僕の家とそう遠くないことが分かった。ただ、直線を辿るには勾配のきつい道の無い山を登ることになる。どの途、帰るには、昨日彼女と別れた分岐点まで引き返し、回り道しなくてはならない。遠くないと言っても歩いて二十分は掛かるだろうから、自分の家に帰る頃には完全に日が暮れているだろうとぼんやり考えた。

 彼女の家はとても広かった。僕は仰々しい鉄柵が構えてある門越しに、白い真新しい家を仰ぎ見た。外側に白い家を囲む塀があり、そこで彼女を降ろそうとしたのだが、門から玄関までの距離を歩く彼女を思い浮かべ、結局最後まで負ぶって行くことにした。

 そしてどう言う訳か、僕は今、彼女の家の中にいる。ライオンの彫刻が施されたドアが開き、現れた姿勢の良い老婆に、断る間も与えられずに背中を押されたのだ。

 家の中は、僕を驚かせるもので一杯だった。玄関で靴を脱ごうとしたのだが、土足で結構です、と言われた。二階へと広がる吹き抜けを見上げると、それこそお城にあるような豪華なシャンデリアが吊るしてあり、それを包むように螺旋階段が二階へと続いていた。

 驚いたまま固まっている僕を、老婆は一階の応接室らしい所へ案内してくれた。僕は馬鹿のように口を開けていた自分を恥ずかしく思い、初めて都会に行った人の気持ちが分かったような気がした。

 通された応接室は、十人以上は掛けられるだろう長いテーブルが中央を占拠してあり、僕は部屋の隅の方を歩いて、その中腹の席に座った。老婆は着替えを手伝う為に彼女と共に消え、その間僕は置き去りにされた。サイドボードの上には、いかにも高そうな骨董品や、全く価値の見当が付かない不可思議なものまでが所狭ましと並べられていた。

 そこに在るもの全てが価値の垣根を越え、同じレベルで並べられていた。扱いが良いものも無く、悪いものも無い。ただ、一様に生気が感じられず、それが言いようの無い不安となって僕に襲い掛かった。

 不安から逃れさせてくれる何かを探した。サイドボードの上にそれは無かった。必死に首を振って見つけたテーブルの中央に活けてある花にも生気が無かった。半ば諦めて、我慢しようと天を仰いだその時、自分の真後ろに掛けてある一枚の絵画に目が止まった。

―――それだけだった。それだけからは何故か暖かいものを感じる事が出来た。絵画には、緑の深い湖の畔で一人踊る少女が描かれていた。絵の中は、三日月が出ている所から夜だと推測できた。ただ、恐らく湖を覆う大樹の色なのだろうが、異様なほど濃密な緑色が、無理矢理引き伸ばされ、そのままキャンバスに貼り付けられたように一面を覆い、深遠な闇を一層不気味に深めさせていた。

 踊る少女は、後姿でしか描かれていない。それも何かを求めるかの如く翳された右手に表情を隠させるように半身だけ月光に照らされ、残りは大樹の陰に覆われていた。

 癒されながらも感じる、或る種の違和感の正体を突き止めようと絵に見入っていると、唐突にドアが開かれた。

「お待たせして申し訳ありません」

笑顔の老婆が、焼き菓子とティーセットを載せたトレイを持って入ってきた。玄関ではわからなかったが、団子状に纏められた髪は殆どが白く、姿勢の良さとは裏腹に、老婆の顔には深い皴が幾つも刻まれていた。

「直ぐにお嬢様も来ますから」

彼女を呼んでどうするのだと思ったのだが、此処まで来て直ぐに帰るのは不自然にも思えた。老婆は大福餅のような頬を揺らしながら手際よく紅茶を入れた。

 紅茶が入る前に着替えた彼女が現れた。彼女は玄関でそうしたように老婆の首に腕を絡ませようとした。しかし老婆はそれを制し、代わりにそっと耳打ちしてから俯いた彼女の背中を優しく押した。

「…ありがと…」

とても小さな声だったが、確かにそう聞こえた。彼女が僕に向かって口を開いたのだ。僕は驚いてお辞儀するのが精一杯だった。彼女の声を初めて聞いた。

 好い香りのする紅茶を入れ終わるまでの僅かな時間、沈黙が流れた。彼女はその時間を使って、老婆の首に腕を絡ませた。僕は言葉を発した時に彼女が見せた、微かに唇を尖らせた表情を忘れられずにいた。

「この子がお世話になったようで、此処まで負ぶってきて下さったんですってね」

ティーカップを差し出しながら老婆が話し始めた。顔面には、一切疚しさの無い笑顔が湛えられていた。僕はこの老婆を、苦手なタイプではあるが、決して嫌いなタイプではないと思った。

「あなたが小野寺さんですよね?この子から伺っております」

黙って頷いた。彼女が僕の事を話しているとは思ってもみなかった。

「下校時に送って下さっているそうで。本当に助かります。この子は見ての通り目が悪いもので…。でもとっても優しい子なんですよ。出来れば仲良くしてあげて下さいね」

そう言われて嫌ですと言える奴はいない。僕は曖昧に頷いて見せた。

「有り難うございます。この子も喜んでいます」

大袈裟に反応する老婆を尻目に、彼女は表情さえ変化させていなかった。

 彼女の病気が気になった。転校して二日目で学校の話題など有る筈も無い。いずれにせよそれしか話題が無かったのだ。

「先生からは、暗くなるほど目が見えなくなると聞いているんですが」

興味無い風を装って僕はそう訊ねた。老婆は彼女を見た。彼女は頷いた。

「そうなんです。生まれつきの病気らしいのですが、…少し難しいお話になるけどいいかしら」

老婆は僕の返事も待たずに続けた。

「人間の瞳の色。日本人の眼の、茶色の所をコウサイというんですが」

コウサイという言葉を漢字に置き換えようと試みたが、出来なかった。

「簡単に言えば、そこの色が、時間が経つほど無くなっていくんです。正確な事は分からないのですが、私が見てきた限りでは、この子の変化は、それだけです」

「…回復はするんですか?」

「…回復はしないそうです…ただ、悪化を止める事なら可能だと聞きました。ストレスが大きく影響するらしくて、それで環境の良い山間部へ越してきたんです」

老婆の顔と、それを心配するように見上げる彼女からすると、病気は相当重いらしい。僕は、コウサイの色が完全になくなった時のことを訊こうとしたが、少し怖くなって訊けなかった。気が重くなった。

「他に悪いところは無いんですよね?耳が悪いとか」

それとなく訊いたつもりだった。それでも質問に言外の意味を察した老婆は、一瞬躊躇った様子をみせた。が、直ぐに応えた。

「この子が喋らなくなったのは、前にいた学校で嫌がらせに遭ってしまったのが原因でして…。その頃は、丁度目に見えて病状が悪化した時でもありましたし。以来学校では口を開かなくなってしまったようなんです」

そんな事はクラスメイトの僕には言って欲しく無かった。そう思ったのだが、大方予想はしていた。

 気まずい雰囲気をリセットするように、僕は目の前に置かれた紅茶を啜ってから、もう一度辺りを見渡した。

「此処にあるものは全てこの子のお父様のコレクションなんですよ」

老婆が気付いて言った。

「あの絵も?」

それとなく真後ろにあった絵画を指差した。老婆は首を振った。

「それはたしか、旦那様が自らお描きになられたものだと伺いました」

「絵描きなんですか?」 

老婆の弛んだ頬が揺れた。

「いいえ、旦那様は多趣味な方でして。此処にはありませんが、まだまだ色々なものが倉庫の中に眠っているんですよ」

僕は聞きながらクッキーを齧った。

「お紅茶もう一杯いかがです?」

「いや、もう結構です」

反射的に言葉が出た。

「こんなに確りしているお子さんにお友達になって頂いて、お嬢様も幸せね」

謙虚に手を翳した僕を可笑しそうに見て、老婆が言った。僕は苦笑するしかなかった。





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