38 変態
重く張り付いた瞼を抉じ開けると、窓外には白煙の岩壁のような分厚い霧が景色を飲み込み、朝の強い日差しも辛うじてこちらに届く程度に和らいでいた。
気付けば、自分の部屋のベッドで横になっていた。暫く自分の置かれている状況を把握できずに朦朧としていた。あの後、僕は後退りながら意識を失ってしまったらしい。
音が聞こえない。窓外の音も、毛布の布が摺りあわされる音も。水中を浮遊しているような意識の中、彼女はもういない、そう呟く。自分の吐いた言葉でさえ聞こえない。言葉の残像が耳の奥底へと吸い込まれてゆくだけだ。
ベッドから飛び出て台所まで駆け込むと、いつもと全く変わらない食事の置いてある卓が目に映った。七時四十五分―――時計の秒針は同じ間隔で進んでいる。母さんが目前に立ちはだかる。何も聞こえない。慈愛に満ちた表情で微笑みながら口を動かし続けている。その口の動きだけがクローズアップされる。何も聞こえない。頬に差し伸べられた手をすり抜けるようにして玄関へ駆け出した。
音の無い空間を全力で走った。鏑木山を望む山道を縁取るススキのざわめきも、小川の水面から突起した眼だけを出して鳴いている蛙の声も、蜻蛉の羽が擦れる音も、遠めで意識している黒い鳥の鳴き声も、眼に入るだけで聞こえてこなかった。ただ自分の呼吸する音だけが耳の中に届いた。全身が熱を持っている筈なのに、何故か断続的に鈍痛が押し寄せる太腿だけにそれが集中しているように思えた。
時間に追われるように走った。走らなければ何かの有効期限が切れ、全てが水の泡になってしまうように思えた。そして危うく呼吸困難に陥る寸前で漸く学校の門を潜った。校舎に設置された大時計が、八時三十分を指していた。
校舎の中に入ると、水中から上がったように教室から漏れる音がチャイムと共に雑然と聞こえてきた。息を整え、丁度チャイムの最後の鐘の音が間延びしている時に教室に入った。
先生はまだ来ていない。教室は、髪の毛の色以外でも全体的に黒く染まっていた。教室のタイルまでが焦げているように思える程、全ての生徒が黒い服に身を包んでいた。一人だけ昨日と変わらない淡いブルーの上着を着ている自分は完全に浮いていたのだが、どういう訳かそれが心地良く感じられた。
チャイムが鳴り終えても、暫く誰も教室のドアを開けるものが現れなかった。普段なら間も無く誰かが意味無くはしゃぎだす筈が、今日に限って席を立つものはいなかった。誰もが刑の宣告を控える囚人のように大人しくしていた。欠席者はいない。家を無理矢理押し出されてきたものもいるのかもしれない。一つだけ。彼女の席一つだけが空間に穴を開けていた。整然と敷き詰められたように並んで座っている生徒の中にぽっかりと空いたその空間は、却って目立った。
物音一つ立てない教室は、僕以外の例外を許さないことを示していた。それは聡美にも言える。寧ろ聡美には、取り立てて大きな重圧が掛けられていると言ってもいいだろう。聡美は天に祈るように五指を交互に組み合わせ、それを額に押し付けて震えていた。聡美は今頃になって懺悔しているのかもしれない。聡美、止めろよ。罪には二種類ある。懺悔して許される罪と、そうでない罪。そうでない罪を犯した時、人は償わなくちゃならない。そして聡美、おまえはその罪を犯したんだ。だから祈るのなんて止めろよ。祈るのなんて、止めるんだ。そう言ってやりたかった。
聡美の所へ行こうと席を立つ前にドアが開いた。教卓に立ったのは目を真っ赤にした保田先生と、うんざりしたような顔の金城先生だった。保田先生は母さんと同じような視線をこちらに向けてきた。金城先生は今にも泣き出しそうな顔で俯いていた。
二人が教卓に立つと、全ての生徒がか細い視線を向けるのが分かった。保田先生は毅然とした態度で、金城先生は極めて卑屈な態度で、それらを受け止めた。暫く沈黙が続いた。それでも、切掛け無く空気を読もうとしない保田先生が口を割った。
「…みんなも知っているかもしれんが……」
そこまで言うと、言葉が途切れた。保田先生は唇を噛んで涙を堪えていた。もしかしたら彼女の最後の姿を思い出したのかもしれない。生徒は黙って先を待っている。訴状を読み上げられているような面持ちで。刑の宣告は直ぐ後だ。そう思っていると笑いが込み上げてきて、耐えるのに苦労した。
「…昨日。ミカが…葉月ミカが事故を起こした」
事故、という言葉を耳にして再び笑いが込み上げた。そう、あれは事故だった。心が呟く。気持ちに反して太腿の傷が疼き始めた。
「非常に残念だが、ミカは昨日の夜、山頂付近で発見され、…その時には既に、意識がありません…でした」
保田先生は度々言葉に詰まりながら話した。その度に大きく息を吐いて平静を保とうとしていた。教室は厚い殻に閉じ篭もったように頑なになっていた。それは今に始まったことではない。
「……お葬式があります」
開き直ったような教師独特の声調で保田先生は言った。それは教室を覆っているものを破り去ろうとしていたのかもしれなかったし、自分の中の無力感との決別だったのかもしれなかった。
「明日の一時から、ミカのお家で、だ。おれはクラスのみんなでミカに最後のお別れをしたいと思っている。でも、どうしても嫌だとか、悲しくて行きたくないっていうのなら無理にとは言わない。…行きたくない奴はいるか?」
教室の沈黙は守られる。手を上げたくても上げられない。誰もが、出来るだけ教室の一部と化していたいのだ。
「…そうか。…みんな行ってくれるか…。ミカも喜ぶぞ。…明日は納棺後、お棺は遺族の方々が歩いて教会へ運ぶそうだ。おれ達は、その途中の畦道でミカを見送ろう」
提案というより決定事項を通達するような口調で保田先生は言った。教室は何も反応を示さなかったが、暗黙の内に了解していた。
直ぐに保田先生は教室を出て行った。教室には言葉を失った四十人弱の生徒と、卑屈な目をした聖職者が押し黙ったまま、授業が始まる兆しもなく固まっていた。
保田先生は昨日の教室の出来事について一切触れなかった。忘れる筈も無いだろうから、意識的に避けたのだろう。彼女がいなくなって誰も問い詰めることなど出来ないだろうし、第一彼女は事故で死んだのだからいじめとは関係ないのだと思い込もうとしているに違いない。金城先生は麻薬中毒者が自分の体に巻いた爆弾の導火線に火を近づけてゆく時の眼で教室を見渡しながら、定期的に過呼吸を直す道具を手に取っていた。それは恰も、また何時倒れてもおかしくないのだと言いたげだった。金城先生だけでなく、教室にいる生徒の殆どが被害者面をして、悲しみより寧ろ不満を感じているようだった。
僕は体の最も深い部分に、いつの間にか解けたと思っていた呪縛が今も尚絡み付いていることに気付いていた。しかし案外恐怖は感じていなかった。慄いてはいなかった。寧ろ心地よく、無造作に丸められた糸玉から跳ね出た糸を弄ぶように指にかけ、遊んでいる時の気分だった。僕はこの、恐らく一生消えることの無いだろう呪縛を受け入れ、上手く付き合えばいいのだと本能的に解釈できていた。呪縛は僕に覚悟を与え、それは力に代わった。何かを警告しているような太腿の鈍痛が煩わしいだけで、今の僕には全身にエネルギーの粘膜が覆っているようにさえ思えていた。
力を得うる代償は、もう支払った筈だ。
いつから始まったのか分からない音が、沈黙の教室を動かした。その音は曲の始まりに隠れてフェイドインし、計算高く次第にクレッシェンドしていった。そしてそれが十分に音と認識できるまでに至ると、絶妙なタイミングで調が変わった。聡美だ―――疑いようも無い。それは聡美の泣き声の特徴そのものだった。そしてその声は直ぐに伝染し、全体を巻き込む。それは今までの僕にとって、聡美に脅威を感じる瞬間だった。
「…やめろよ」
今の僕は違う。今までとは違う。聡美の思うままにはならない。呪縛がそうはさせない。僕は操られる側なのかもしれないが、実際に行動するのは僕で、呪縛はただ手綱を引いているだけなら、それで恩恵が受けられるなら、それで聡美の脅威を振り払えるのなら、それはそれで満足だ。
「泣くのをやめろと言っているんだ」