36 嘘
追われるように暗闇の中を走った。体はとうに限界を超え、息も絶え絶えの中、それでも意思とは関係なく、何度も躓きながら進み続けた。
どうやって戻ってきたのかは分からない。しかし僕は来た道を戻り、運良く沼地にまで辿り着けた。そしてその頃には僅かに薄らいだ恐怖の間を埋めるように、頭を全力で稼動させていた。彼女は生きているのだろうか。若しくは。否、生きているに違いない。それでも万が一。頭の中には花弁を一枚一枚毟り取るように疑問が交互に前へ出ていた。思考が前へ進まない。
どちらにせよ僕は彼女を助けに行くしかない。そう思えたのは、丁度沼地の入り口に何本もの松明の炎が見えてきた時だった。沼地に沿って向かってくる松明を見て一瞬目を疑ったが、一行の一種独特な活気を感じて、それらの目的はある程度推測できた。
「おい、琢磨!」
保田先生が駆け寄ってきた。僕は疲れ果てて隠れることさえ出来ず、獣道の入り口に座り込んでいた。保田先生と松明を持った村人一行は僕と彼女を捜索する為に森に入るつもりで此処に来たに違いなかった。この村では、遭難者の捜索に向かう時、村人は決まって松明を片手にしていた。帰りの遅い僕達を心配して母さんが、若しくは老婆が役場に捜索願を出したに違いない。
「琢磨、大丈夫か? ミカは? ミカはどうした」
保田先生は僕の体中についた落ち葉を力強く払いながら訊ねた。しかし僕は放心したように暫く答えに窮していた。先生は待ちきれずに僕の目に真摯な視線を送り、答えを求めてきた。
「…あっちへ……あっちへ行きました」
無心のままそう答えるのがやっとで、僕は静まり返った暗闇の待つ獣道の向こう側を指差しながら先生の視線を逃れた。先生は直ぐに僕を村人の一人に託し、獣道を駆け上がっていった。
……何があった。どうしてこんな山奥に来た。彼女とは一緒だったのか。どうして彼女はいない……。
僕を介抱する村人が変わる度に同じ質問が繰り返された。僕にはそれが悪魔の呪詛のように思え、繰り返されるほど心が穿り取られた。呪詛は繰り返され、苦しみは際限なく膨らんだ。そしてある時から苦しみの感覚は麻痺し、僕の心の中をある感情が苦しみに取って代わったように支配し始めた。心の中で、僕は悪くない、僕は悪くなんかない、という声が何度も何度も繰り返し轟いた。何処かから沸き上がる声は直ぐに、聡美が悪い、志津子が悪い、保田先生が悪い、彼女が、悪い、と変化し、僕は何が呪詛で、何が言い訳で、どれが自分の声で、どれが心の声なのかさえも分からなくなっていた。言葉が僕の心の容量を超え、氾濫した。そして僕は呪詛を唱え続ける村人達に、氾濫した言葉を連ねた。
「僕は今日も普段通り彼女と一緒に帰っていました。正確には今日は彼女が先に帰っていて、それを追いかけたんですが。僕は彼女に追いつきました。彼女は僕をこの沼地沿いで待っていてくれたんですよ。僕達は下校して夕陽が沈むまでの間、殆ど毎日此処に来ていました。だから今日も彼女は此処を訪れたんです。ただ、いつもと変わらないような彼女は、実はひどく傷ついていました。今日のことで。今日、保田先生に彼女が教室のみんなからいじめられていることを知られてしまって、それを気に入らなかった…子が最後に、彼女にひどい嫌がらせをしたんですよ。実はそれに僕も無理矢理加担させられまして、結果彼女は今までで一番傷ついたようでした。涙を流した彼女を見て、僕はひどく後悔して、教室を飛び出してしまった彼女を追いかけたんです。勿論謝ろうと思ったのもありましたが、彼女は病気で、暗くなると目が見えなくなるものですから、帰るにはどうしても僕が必要だったんです。僕はこの沼地に来る途中ひどく悩みました。もし彼女が来ていなかったら、恐らく彼女は一生僕のことを許してくれないだろうと思って。それでも僕は此処に来るしかなかったんです。何故なら僕達二人に共通する場所は此処しかなかったんですから。僕の心配とは裏腹に、彼女は此処の水辺で夕陽を眺めていました。彼女は此処に来てくれていたんです。丁度そこで僕は彼女に謝りました」
そう言って僕は機械的に腕を水辺へと向けた。既に意思を超越した何かが僕を動かしていた。
「彼女は暫く黙っていましたが、僕を許してくれました。否、はじめから許されていたのかもしれません。それでも僕はひどく安心しました。すると今度は彼女の体のことが心配になり、直ぐにお家へ帰ろうと勧めたんです。でも彼女はそれを拒みました。彼女はやっぱり傷ついていたんです。僕は無理矢理にでも彼女を帰そうと思って、手を引きました。でも彼女は言うことを聞いてくれなかった。手を離してあそこの道の先へと進んでいってしまったんです」
僕はそこで打って変わったように口を閉ざした。村人は根気強く話の続きを待っていた。僕は溢れ出す言葉を抑えきれず、抑揚の無い声で続けた。
「僕は追うべきだった。否、追わなければならなかったんです。でも僕は呆れてしまいましてね。それに腹も立ってしまいました。だから彼女のことを追わなかった。彼女の目が見えないことを知っていながら行かせてしまったんです。恐らく彼女は、僕が一度だけ話した教会みたいな所へ向かったんでしょう」
僕は自分の意思とは関係なく動き続ける口や、それに合わせ巧みに動く体の奴隷と化していた。
「暫くして、僕はやはり、どうしても彼女が心配になって沼地に戻って彼女を探しました。目の見えない彼女があのまま獣道を進んでいくのは至難の業でしたから、きっと此処へ戻ってきていると思ったんです。でもいくら探しても見つからなかった。そして探し疲れて座っているところに保田先生達の松明が見えてきたんです。もうあの道以外、彼女がいる所など考えられません」
徐に立ち上がると、何かを僕に向かって言っている村人を押し退けた。
「…行かなくちゃ……彼女の元へ」
独り言のようにそう呟くと、獣道に足を踏み入れた。