35 崖
僕達は暫く唇を合わせていた。それは欲望に任せて貪るようなものでは決してなく、確かめ合うように繰り返し重ねあうものでもない、ただ導かれて触れ合った。体の端と端が触れ合ったというのが一番適切だった。彼女は抵抗せず受け入れるように動かなかった。僕はどうしてこのようなことをしているのか分からなかった。が、何故か混乱はしていなかった。ただ彼女の冷たさが伝わり、僕の熱を奪っているように思われ、それがひどく心地よく感じられた。
涙が僕の唇を潤した。いつしか振動が僕の自由を奪っていた。いつしか心地よかった振動が狂おしい怒涛へと変貌していた。右の瞳を見ることは叶わない。しかし間違えようの無い、極めて激しい怒涛に僕の体は犯され始めた。僕は僅かに残された自由で左の瞳を覗いた。彼女は底の無い湖のような瞳で僕を貫いている。そこに悪意などが在る筈も無い。では、右の瞳は? 右の瞳はどうなのだ。
月の光が、時計の針のように移動した。僕は動けず、吸い込まれそうになりながらそれを見た。そして同時に息を呑んだのだ。
―――厚く閉ざされた瞳が軋み揺れている。脈動に合わせて瞳の中の黄緑色が隆起している。怒涛に合わせて閃いている。舞い散っている。禍々しい濃緑の中に潜んでいた濁りきった剥き出しの黄色が今にも飛び出しそうにこちらを威嚇している。それは最後の足掻きのように。それは狂気に彩られた歓喜の地団駄のように。断末魔が差し迫ってくる。
―――そして。そして、怒涛が唐突にその激動を絶無に帰した時、彼女の瞳から涙が沁み出したのだ。彼女の二つの大きな、その瞳から大粒の涙が零れ落ちたのだ。移動した月光に照らされた右の瞳は、砂漠に泉が湧き出すように、瞬く間にその色を取り戻していった。それは僕の頭から思考を奪い去るには十分すぎる程の美しさだった。銀色の瞳が夕陽に包まれた時に見せた、あの美しさの比ではなかった。僕は今、とてつもなく美しいものを見ているのだという誇りすら生まれた。彼女の瞳の美しさはそれだけで奇跡的だった。根源的だった。宗教的でさえあった。狂ったような静けさの中、翡翠色を取り戻してゆく彼女の瞳を始終見続けた。
脈打つ瞳がある程度安定した時、彼女が何の前触れも無く僕から離れた。そして僕の肩をすり抜けると、覚束無い足取りで歩みだした。僕は呆気に取られて彼女を目で追うことしか出来なかった。間も無く彼女が走り出し、僕は今までに無い不安に駆られた。この暗闇の中で彼女に見えるものなど、何も無い筈だ。僕は気を取り戻すまで時間が掛かり、その間彼女との距離が見る見るうちに離れてゆくのを見ていることしか出来なかった。
「何処へ行くんだ」
振り向き様にそう叫んで彼女を追って走り出した。彼女はよろめきながらも、目標でもあるかのごとく、一点に向かって只管走り続けている。
「走っちゃだめだよ!」
彼女の走る方向には何も見て取れない。僕が追いつく前に彼女はとうとう山道をはみ出した。言い知れぬ恐怖に身を晒しながら、ぼくは必死に彼女を追いかけた。
「そっちには何も無い。何も無いよ!」
僕は叫んだ。彼女との距離は瞬く間に縮まり、その腕を取ろうとした。その時、何かが僕を一瞬躊躇わせた。何かに足を取られたのかもしれない。しかしそれでも僕は縺れる足取りを捨て、体を浴びせるようにして彼女の腕を取ろうと手を伸ばした。
―――しかしその瞬間。その瞬間、彼女が、消えた。突如彼女の姿が目の前から完全に消えてなくなった。
僕は何が起こったのか分からず、倒れた体を半身起こすと、辺りを見渡した。目の前は湿った腐葉土の匂いが鼻を掠めるだけで、殆ど何も見えない暗闇が広がっているだけだった。僕は直ぐ傍にあった樹木を頼りに立ち上がり、それに合わせ暗闇ばかり捉える視界を無理矢理移動させた。そして正面を見下ろすと、そこに微かに存在する光を反射させた水辺を発見したのだ。光は今にも消えて無くなりそうなほど微かなものだったのだが、暗闇から押し出されたそれを見出すのは困難ではなかった。
彼女は湖面に反射した月光を目指し走ったようだ。もしかしたらあの光をシェリルと勘違いしたのかもしれない。そう思う前に、今、自分が立っている場所を確認して息を呑み、再びその場にへたり込んだ。そして前屈みの格好で恐る恐る地面に手を這わせると、間も無く驚愕させられたのだ。僕が伸びをする格好になるまでもなく、掌を這わせた地面は、唐突に、途切れた。
押し出された枯れ葉や小石がその途切れへと落ち、僅かなタイムラグを置いて地面に叩きつけられる音が耳に入った。僕は足腰に力が入らなくなり、今度はそのまま四つん這いになり、体ごと地面を這った。左手で樹木の根幹を掴み、体を固定させると、唐突に途切れた地面に右掌を這わせ、細心の注意をもって指先を歩かせていった。
掻き崩された土砂が止めどなく転げ落ちる。
「……崖…だ………」
自分の言葉が耳に入り、震えずにはいられなかった。腕は体とほぼ垂直に伸ばされている。中指の先端に触れられるものは何も無かった。
暫くその体制のまま動けずにいると、崖の下から突き上げる風が体の芯を通り抜け、恐怖を掻き立てた。僕が恐怖に支配されようとしていた時、風の音の中に、声にならない音が紛れ込んでいることに気付いた。彼女の存在を一瞬忘れるほど混乱していたが、それが声だとわかると、勇気を振り絞り樹木の方を向いていた顔を反転させ、そのまま下を覗き込んだ。
―――眼球を飲み込まれる感覚に苛まれた。そこには全く何も見えない状況の、山道の暗闇とは異質の禍々しい暗闇が横たわっていた。そこには悪意に満ちた底の無い暗闇がぽっかりと口を開け、獲物を待ち構えているように思えた。僕は恐怖のあまり彼女を見つける間も無く、全身をバネのようにしてその場から離れようとした。しかし太腿を折れた枝に引っ掛けたようで上手く起き上がれず、尻餅をつき、後退りするような格好になった。蹴りだそうと試みた足が柔らかくなった腐葉土を掻き出すだけで空回りし、それが一層焦燥を煽った。
崖から二三メートルほど離れると、未だに混乱した頭を抱えている僕を嘲笑うかのように鬱々と静まり返った景色が広がり、遠くに小さな水辺の反射光が見えるだけだった。底から突き上げる風が悪意に満ちた崖の虚空を切る音は、完全に自然と溶け込んで見出せなかった。
呆然と立ち竦む僕の頭を新たな恐怖が侵し始めた。それは僕の言い訳を聞こうともせず、全身を蝕んでゆき、直ぐに僕を虜とした。僕の体は寒くも無いのに全身ガタガタと震えた。直ぐに耐えられなくなり、力の限り走り出した。