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34 口づけ

「…驚くほど呆気なく毒は湖に流れ出てしまった。幸いその時湖にはシェリルの他に誰もいなかったんだけど、時間が経ち、朝が訪れれば誰かが水を飲みに来るに違いなかった。シェリルはじっと湖を見つめ、放心したように動かなかった。悩んでいたのかもしれない。決意していたのかもしれない。…そしてある時、シェリルは切掛けも無く、徐に、その小さな足を湖へと踏み入れたんだ。泣いていた大樹が『何をしている。何をする気なんだ』と訊いてもシェリルは何も答えない。ただ湖の中心に向かって進んでいく。何度も言うけどシェリルはとても小さな妖精だ。そして翼を持たない。直ぐに全身が湖面に吸い込まれていく。しかしそれでもシェリルは構わず歩み続け、とうとう大樹はその姿を見失ってしまうんだ」

「……シェリルは…どうなっちゃうの?」

彼女は泣きそうな顔で僕を見上げた。僕はそれに気付かなかったかのように続けた。

「湖は大樹によって覆われているし、夜だからとても暗くてね。満月の光と、それに照らされて僅かに煌めく湖面以外は全くの暗闇だった。大樹は泣きながらシェリルを探すんだ。『おお、シェリル。シェリルや。…返事をしておくれ』ってね。…でも、見つからない。見つからないんだ。ひどく悲しい時間が過ぎてゆく」

言葉を切った。辺りの純粋さが物語の空気を連想させ、僕を戸惑わせた。

「暫く時が流れた。…切掛けなんて無かったんだ。ある時、満たされた月が信じられないような速度で湖を見出した。わかるかな? 月から湖までの果てしない距離が、一瞬の内に繋がれたんだ。…その瞬間。湖の中央がぽっかりと照らされた。湖面は静かで、煌きすら起きていない。月光は奇跡的に円筒形を保っていて、今にも崩れそうになりながらもそこに留まっていた。…そして直ぐに、光がシェリルを導いたのさ。光に抱き上げられたシェリルは確りと満たされた月を見つめ、更に両手を捧げた。そしてこう言ったのさ。『湖を救ってください』と」

目の前に月を捉えてはいなかった。それでも僕は自分の右手を彼女に繋がれた左手と共に、母親に抱擁を求める赤ん坊のように差し翳した。

「その言葉と同時に、シェリルの体は湖へと投げ出された。大樹は湖に落ちてゆくシェリルが見る見る内に溶け出していくのを見た。湖中にシェリルの光が沁み込んでゆく。大樹が見入っている内に、シェリルは跡形も無くなっていった。そして留まっていた光もそれと同時に弾け散ったんだ」

もどかしくなりながらも息をする為に言葉を切った。彼女も僕と合わせるように息を吸った。滴る水滴にふれるような振動に心地よく抱かれている気がする。

「大樹が息を呑んでいる内に、何も知らない動物達が湖へやってきた。目的は勿論、水を飲むことさ。大樹は何も言えなかった。言っても信じてもらえないことを知っていたから。それで、…湖面に口を近づける動物達をじっと見つめていた」

いつしか僕も自らの言葉に聞き入っていた。

「動物達は水を飲んだよ。…けど恐ろしいことは何も起こらなかった。湖に流れ出た筈の毒は浄化されていたんだ。大樹は、それをシェリルのおかげだと確信した」

耳を赤らめた彼女が自分に思えてきた。繋がった掌の内側が本当に溶け合って一つになっているような気さえした。

「でも動物達は笑いながら、シェリルのことを嘘吐きだと言った」

彼女の表情は暗すぎて窺えなかったが、何を思っているのかは当たり前に分かった。

「…元に戻った湖は、前と同じように動物や妖精が住んでいた。違うのは、そこにシェリルがいなくなったことだけさ。動物達は暫く、シェリルを思い出すように話していた。それでも、時が過ぎ、シェリルの名前は次第に忘れ去られていった。大樹はそんな動物達をひどく悲しい目で見つめ、シェリルを想い、そして月に祈った。『シェリルはこの湖を救ってくれました。どうか湖の者達がシェリルのことを忘れる日が来ませんように』ってね」

僕たちは確かめるように手を繋ぎ直した。

「それを聞いていた神様が哀れに思って、月が満ちる夜に限ってシェリルを湖から開放し、その姿を与えると決めた。こうしてシェリルは月が満ちた夜、湖にいられるようになったんだ。喜んだシェリルは青白い月光と戯れながらいつまでも湖面の上で踊っていたんだってさ」

心地よい沈黙が横切った。僕は話し終えた満足感を味わっていた。そして次に来る質問を待った。以前僕が母さんにした質問を彼女がするという確信があった。

「……湖面の上を?」

彼女にそう聞かれると、ゆっくりと頷いてから用意してあった言葉を口にした。

「シェリルの背中には、翼が生えていたに違いないよ」

僕はそう言うと、何故か誇らしげな気持ちになっていた。以前の母さんと同じような口調でそう言えたことに満足だった。僕達は暗闇の中を歩いていたのに少しも不安を感じずに済んでいた。

 話の余韻に包まれる中、突然彼女が躓き、しな垂れ掛かってきた。僕は彼女を支えきれず、敢え無く崩れるように倒れた。断続的に続いていた振動が衝撃に隠れた。

「…大丈夫?」

僕は片方の手で自分の頭を押さえ、もう片方で彼女の肩を支えながら言った。離された掌が外気に晒され急激に冷やされてゆく。俯いて、ごめんなさい、とだけ呟いた彼女の頬が濡れているように思われた。

 体制を整え、尻餅を搗く状態になっている彼女を抱くように立ち上がらせようと試みると、不意に彼女へ体が引き込まれる格好になった。僕は片方の膝を立てた格好に、懐に入った彼女は背中を反らせ、そのラインを強調するような格好で座っていた。僕達二人の顔は、鼻先が触れ合うほど接近していた。丁度月明かりをまともに受けた彼女の顔半分は、全てが彫り出されたように克明で、大きな瞳が涙で潤され、静かで美しい光を反射させていた。彼女の涙を流せない瞳は―――僕の頭で月明かりが遮られ、見ることが叶わなかった。

 振動が脈動のように昂ぶりを見せている。もしかしたら。そう思う間も無く、僕は彼女へ徐々に吸い込まれてゆく感覚を味わい、それに抗うことを忘れていた。純粋になった空気が二人に挟まれた空間を溶かしてゆく。導かれるように引き合う唇と唇。時間が距離を着々と淘汰してゆく。

そしてある瞬間、僕と彼女は、触れ合った。


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