33 シェリル
道なき道をそれこそ切り開くように進んでいると、思いがけないことに、突然前方に老婆の黒い小さな車がやっと通れる程の山道が開けた。しかしそこは、山道を囲む大木のおかげで全くと言っていいほど月明かりが遮られ、却って闇が深められていて、それに隠された悪戯な風に擦り合わされる枯れ草と、命を削るような虫の泣き声が幾重にも重なり合い、逆に何も聞こえなくなるような無音の大音量に不安を抱かずにはいられないような場所だった。
僕達はモザイク状に枯葉が敷き詰められている山道の入り口に立っていた。前方に見える僅かな光が途方もなく遠いように感じられた。それでも、僕達にはその不確かな光だけを頼りに前へ進む以外ないように思われた。
僕にはその光が見えた。しかし彼女の視界には完全なる闇が横たわっているに違い。僕は彼女の手の震えからその不安を感じ取り、自分の不安を感じられないように努めた。
山道は湖から離れるように伸びていて、曲線を描くことで勾配を抑えた上りが暫く続いていた。僕はか細い糸を手繰るように光から光へ歩くよう心がけた。曲線の折り返し地点に到達する度に次の目標があることを祈った。光が無ければ進めない。光を見失えば。その時点から二人がこの森を彷徨うだろうことは容易に想像できた。僕は今にも千切れそうな青白い光を目指し歩き続けた。
夕陽に重なる十字架を目指し、僕達はそれとほぼ右直角の位置に伸びた獣道に入った筈だ。要するに、はじめは北に向かって進んでいたに違いない。しかし曲りくねる坂を登ってゆく内に、いつしか方向感覚が無くなっていた。不意に疑問が頭に浮かび上がる。この道は本当にあの十字架に続いているのだろうか。この道があそこに続いている根拠が何処にある。今のところ分かれ道は無い。しかしどんなに一本道でもそこに続いていなければ辿り着けない。頼りに出来るのは、方向感覚だけだった。しかし今、それが全く機能していない。光を手繰るのに精一杯でそこまで気が回らなかった。もう信じて進むしかないのか。案外そう思える自分がいた。
二人はもう随分と口を開いていなかった。それは着実に体力を奪い続ける上り坂の所為でもあったし、光を見失わないために神経を研ぎ澄ませていた所為でもあった。しかし何時までも続くように思われた坂道が、まもなく、不意に平坦なそれへと変わりはじめた。
心身ともに削り取られた長い上りとは違い、平坦な道は長く続かなかった。気付けば勾配は下がり始めていた。時折覗く夜空に月を探したが、何度天を仰いでもそれを見出すことは出来なかった。それでも、広葉樹に隙間ができる回数が増えてきた。微かに湿った生臭さが鼻につく気もする。もしかしたらこの先、視界が開ける所があるのかもしれない。
周りの状況は紙切れ一枚明るくなった程度で殆ど変わりはなかった。しかし下りの所為か、少しだけ余裕が出来ていることに気付き、同時に彼女のことが心配になった。彼女は僕についてくるのに夢中だったようで知らぬ間に泣き止んでいたが、それでも震えが止まる様子は無かった。
「こんな話がある」
彼女の様子を察して必死に探し当てた言葉がこれだった。僕が母さんから聞かせてもらった童話を彼女に話す時、必ず頭に置く言葉がこれだった。
「湖に生きた妖精の話さ」
僕の意思とは関係なく、はじめからそこに存在していたかのように言葉が口から零れ落ちた。息が上がっていたが、寒さで詰まり気味になった鼻を吸えず、大きく開けた口で空気を掬い上げた。空気を吸ってもどうしてこの話をしようと思ったのかは分からなかった。
「森があった。その森はとてもとても深くってね。人間がそこに近づこうとしない程、近づけないほど深いんだ。そしてその森の奥の奥には、中央に大樹が聳え立つ湖が隠れるようにあった。大樹はそうだな…、僕と君が両手を繋いで精一杯大きな輪を作っても到底及ばないほど太い幹をしているんだ」
そう言って僕は、一瞬彼女の横顔を窺ってから自由な右腕を大きく横に広げて見せた。「湖には大樹に守られた多くの動物や妖精が住んでいた。妖精達は一様に小さかったんだけど、その中でも一際小さいシェリルという妖精がいてね。シェリルは妖精であるにも拘らず、翼がない所為で他の妖精からいつもいじめられていたんだ。シェリルは湖面上を戯れながら踊る妖精達に憧れて、いつか自分も一緒に踊りたいと思っていた」
零れた月光の白煙を摺り抜けた。同時に艶のある彼女の金髪に円状の光沢が浮き上がる。
「シェリルには妖精の仕事である病や傷を治す能力も無くってね。動物達にまで役立たず呼ばわりされていたんだ。他の妖精達や動物達にいじめられて悲しくなったシェリルは、湖を見守っている大樹の所を必ず訪れた。大樹は泣いているシェリルを決まって優しく慰めてくれたのさ。シェリルはそんな大樹が大好きだったし、湖にいる全ての生物もまた、大樹を愛していたんだ。それは大樹が自分達を愛してくれているからでもあり、全ての生物が大樹から恩恵を受けているからでもあった」
彼女は話に聞き入っているようだった。僕は注意深く歩を進めながら続けた。
「ある日シェリルは普段通りいじめから逃れ、独りになれる所を求めて大樹の幹の周りを歩いていた。そこで偶然大樹の異変に気付いてしまう。大樹は病気に犯されていたんだ。シェリルには病気を見つける能力も備わっていなかったんだけど、大樹の病気のコブが、誰が見ても一目で分かるくらいに腫れ上がっていたから発見できたのさ」
話ながら、言葉が純粋になってゆくのを感じた。首筋が硬直し始めた。彼女の表情は、窺えない。
「大樹は密かに苦しんでいた。心配になって近づいたシェリル。気付いた大樹は困った顔をした。そして『見つかってしまったな』と言って力無く微笑むんだ。シェリルは直ぐに治癒能力のある妖精達を呼んでくると提案した。だけど大樹はそれを止めた。大樹は自分の病が妖精達の能力では治せないことを知っていたんだ。大樹は『自分の痛みより、自分の所為で湖のみんなを困らせてしまうことが何より恐ろしい』と言ってね。ひどく悲しい顔をした」
息を吐いた途端に咽喉の奥にまで寒さが染み込んでくる。繋がれた手だけが熱を持ち、汗ばんで、二人の存在がそこに集約されているようだ。
「大樹はシェリルに『わしにはこの病を治す力がある。だから病気は嫌でも程なく治る。しかしそれが治る時に出る毒が、湖に流れ出てしまうかもしれない』と苦しい表情を向けた。そうなれば湖のみんなは毒の紛れた水を飲むことになる。それは湖を訪れる全ての生物を死なせてしまうことと同じなんだ。だから大樹は病気をわざと治さずにいた。だけどそれももう限界だったのさ。シェリルはその晩にでも大樹から湖へ毒が流れ出てしまうことを知ったんだ」
唇は意思を持ったように勝手に動き続けた。僕は僅かな光を目指し、坂を下っていればよかった。
「何も出来ないまま時間だけが過ぎた。その日は丁度月が満ちていて、広葉の網から漏れ零れた光が柱のように見えてね。それは湖に覆い被さるように葉を広げている大樹を支えているようにも見えた。シェリルはそれほど弱々しい姿をした大樹を見たのは初めてだった。大樹は太い幹を軋ませて泣いていた。風も無いのに幾千にもなる葉を揺らしていた。それは本当に悲鳴のような痛々しい声だったんだ。シェリルはただそこにいて、腫れ上がった大樹の根幹を撫でているしかなかった。大樹はシェリルに『悪いことをした。おまえがこんなに苦しいことを知る必要は無かったんだ』と言った」
「シェリルは…湖のみんなにそのことを教えられなかったの?」
彼女が心配そうな声を上げた。僕は闇に向かい、遣り切れない気持ちで、少し躊躇ってから首を振った。
「シェリルは言ったさ。湖中を駆け回って、水を飲んではダメだってね。けどシェリルを馬鹿にしている連中は逆に湖の水を飲んで見せた。…本気になってはくれないのさ。何せ大樹は自分達が生まれるずっとずっと昔から湖を見守っていて、水を綺麗にしてくれることはあっても、その逆は有り得ないと高を括っているからね」
「…大樹の所に連れて行ってあげれば、信じてもらえるわよ」
二人を包み込む空気が純粋さを増していた。目の奥が冷たい。足の裏に伝わる大小様々な小石の感触だけが僕を現実に引き止めている。僕は再び首を横に振った。
「動物達や妖精達はシェリルを信じていなかった。それにシェリルはとても小さいって言っただろ? 病巣がある根幹へ行くには、抜け道を通る必要があったんだ。そこを通れるのはシェリル以外にいなかった。半信半疑で抜け道の入り口までついてきてくれた妖精達も、付き合っていられないって、みんな散っていってしまったのさ」
彼女は悲しい顔をしているようだ。言葉が次々と口から溢れ出すのを止められない。
「湖を駆け回って疲れきったシェリルは、再び大樹の根幹へと辿り着いた。大樹は『もう此処へは来なくていい、来てはいけない』と言った。それでもシェリルは吸い込まれるように根幹へと近づいた。病巣のある根幹は薄皮一枚になるまで膨らみきっていた。大樹は毒を流すまいと必死で堪えていたよ。…それでも間も無く、その時は来た。…遂に毒が幹から漏れ始めてしまったんだ。はじめ漏れ出ていた毒は、堰を切ったように幹から流れ出した。毒はシェリルが見る限り無色透明で、湖の水と何ら変った所が無いように思えた。大樹は痛みとは別な感情にまいって泣き続けた。大樹の振動が湖にも伝わり、湖面を波立たせた。シェリルは、その光景をただ呆然と見ているしかなかった」
そこまで話すと、暫く口を開かず光を目指し歩いた。黙っていた彼女が顔を上げ、先を促していることに気付くまで、僕は只管歩いた。