32 闇へ踏み出す一歩
やっぱり此処にいたんだ。そう思う前に一瞬彼女が苦しそうにしていると思い、駆け寄った。しかし彼女は水面と平行になるよう掌を合わせていただけだった。
彼女は枯れたススキが騒ぐ音に驚き、振り返り、顔を上げ、僕を認めた。
彼女は涙を流していた。きっと教室からずっと泣き続けているに違いない。彼女の鼻先や左の目尻は、こすったのだろうか、仄かに赤く染まっていた。僕は何も言わずただ彼女を見ていた。彼女は僕がいることに気付かなかったように再び湖面を覗き始めた。尖っていた唇が下唇によって僅かに押し上げられた。圧迫され色を失った上唇と鼻先の間にある、辛うじて見て取れる程の産毛が最後の陽に照らされ、輝き、なんとも柔らかげにそよいだ。彼女は徐に顔を上げると、惜別するかのように溶け出す夕陽の頭を眺め、湖面に手を振った。
暫く僕は言葉を失ったように口を開かなかった。彼女も何も言わず、ただ山間に沈んでしまった赤の名残を見つめていた。
僕は随分躊躇った後、泣き止まない彼女の肩に、持っていたハンカチを差し出した。それだけするのが精一杯だった。気付いた彼女は耳を上下に動かして僕とハンカチを見比べるような仕草を見せた後、それを受け取ってくれた。彼女はハンカチを受け取ってからも涙を止められず、赤くなってしまった鼻先をそれで押さえながら再び元の体制に戻った。僕はハンカチが取られた手を空気に引かれたかのように彼女の傍まで歩を進め、その直ぐ隣に腰を落とし、何も言わずに同じ風景を眺めた。時折彼女の横顔を盗むように見やると、夕陽が沈み尚残る僅かな光が、液体で満たされた大きな瞳を反射し、それ自体が暗く透き通った湖のように見え、美しかった。
彼女の瞳に反射する光が極々僅かになってしまった頃、不意に今までとらわれていた何かを振り払うように現実へ引き戻されていく感覚があった。
「寒くなってきたね」
驚くほど自然に口が開いた。彼女はいつの間にか湖面に触れていた掌を自分の肩を抱く為に使っていた。はっきりしなかった月の輪郭が定まっていることに気付いた。どうやら思ったより長い時間彼女に気をとられていたようだ。夕陽は既に名残すら残さずに消えていた。彼女は震えていたが、それが涙を流しているからなのか、寒さから来るものなのかは判らなかった。それでも僕は、予想以上に冷たくなっていた彼女の背中や肩を順に摩ってあげた。彼女は抵抗もせず、身を任せるようにして動かなかった。
摩る手が彼女の手に辿り着いた時、その冷たさに驚き、それは直ぐに僕を不安にさせた。涙は体力を奪う。彼女の体は弱っているに違いなかった。僕はひどく心配になり、直ぐに帰って暖かいものを飲ませなければと思った。
しかしそんな想いとは裏腹に、何故かは分からないが、先程とは打って変わって僕の口は開かなくなってしまった。彼女に何か言おうと考えれば考えるほど思うように口が動かなくなってしまった。
頑なになってしまった自分の口が解れるまでに随分と時間を費やしてしまった。辺りは中秋のそれとは信じ難いほど気温が下がっている。森の気温は総じて低いものだ。もう少し寒くなれば吐く息が白くなるのではないかと思う程に、芯に沁みる寒さが二人を襲った。僕はそれでも一向に立ち上がろうとしない彼女の背中を摩りながら、かける言葉を必死に紡ぎ出した。
「…体、……大丈夫?」
他意は無かったのだが、そう口にしてから自分の言葉に微妙な不安を覚えた。彼女はどうとでも取れるような曖昧な表情で頷いて見せた。
「もう暗くなってしまったし、このままじゃ凍えちゃうから」
言い訳のようにそう言い、肩を抱く格好で彼女に自分で立ってくれるよう促した。彼女は抵抗せず、あっさりと立ち上がり、それでも湖を見つめていた。彼女は僕を見てくれない。彼女は口を開いてくれない。僕の中に今までと違った不安が芽生えた。
木々に遮られた月の白光が辛うじて届き、僕達はスポットライトに当てられているように夜の闇に浮き出していた。二人を包むものは月の光以外に無くなっていた。彼女は筒状の光の中から抜け出せないかのようにその場に立ち竦み、遠い目で湖面をなぞっていた。僕は彼女の体が心配で仕方なかったのだが、何かが自分を引き止めているような不思議な感覚を味わい、その正体が何なのか全く見当もつかず、一種の苛立ちと共に半ば強制的に彼女を帰路へ誘おうと試みた。
彼女の冷えきった手を握り締め、なるべく自然に踵を返した。彼女も踵を返し、僕は安心して歩き出した。が、意に反して、上げられた足が二歩目の土を踏むことは無かった。彼女は僕の手を握りながらも、一歩も動こうとしなかった。僕は胸一杯に空気を吸い込み、構わず歩こうとしたのだが、彼女はそれに全身の力で抵抗してみせた。
少しの間僕は彼女を引き摺ることになった。しかし直ぐに我慢の限界がやってきた。
「こんな所にいたら風邪引くよ。お家に帰って体を温めないと」
言いながらもう一度強く手を引こうとした。しかし力は空を切り、僕はその場に尻餅を搗いてしまった。彼女が手を放したのだ。立ち上がる前に彼女を説得しようと口を開きかけた。が、彼女が何か言おうとしているのが分かって、その言葉を待った。
「…どうして……」
俯いたまま彼女は言いあぐねている様子だった。
「…どうして…あたし」
それでも必死に何かを伝えようとしていた。
「……いじめられるのかしら…」
彼女はやっとのことでそう言うと、真直ぐな眼差しをこちらに向けてきた。彼女の瞳は僕の眼を見ているようで、何処か捉えられていないようでもあり、僕はそれにひどく悲しくなり、視線を逸らさずにはいられなかった。
「……分からない」
そう答えた。彼女の質問が、いじめの具体的な原因を聞いているのではないことのように思えたから。そのようにしか答えられなかった。
「僕は…前にも言ったかもしれないけど、君を助けることなんて出来ないんだ。僕に出来ることと言ったら、そうだな…。君と一緒に帰ることくらいしかない。それしかクラスの子達と違う所は無い筈だよ」
自分に言い聞かせるようにそう言った。
「でも、君を傷つけたことはとっても後悔しているんだ。…これだけは信じてほしい。僕は何も出来ないけれど、君を好きで傷つけることは決してない。今日のことは本当にすまないと思っているよ」
僕は片手で体を支え、起き上がりざまに捲くし立てた。彼女は焦点の合わない瞳で僕の全体を把握するように見ている。
「でも安心して? 恐らく今日で全てが終わる。否、終わったんだ。明日からは誰も君を傷つけたりしないよ」
少しだけ明るい口調で付け足した。それでも、僕の心は何故か重苦しさを増していた。
「…だけど。明日からは先生達から何か聞かれるかもしれない」
言いたくなかった一言も付け足した。彼女が何も答えないと知っていながら、忠告しないではいられなかった。現に僕は彼女を救えなかったのだし、それはこれからも変わらないだろうことを知っていたから。
月の光が一層彼女の肌を青白く見せていた。彼女はただ僕を認めていた。そして暫くして、とうに言葉を理解していた筈なのに、何も無かったかのように、突然、頬を持ち上げ、細められた眼下に膨らみのできる無邪気な微笑をこちらに向けて見せてきた。僕はその微笑の意味が分からず、困惑するしかなかった。
微笑の意味を必死に探りながら、僕は当然の如く踵を返し、彼女がついてこられるように慎重に歩きだした。早く帰らねば。老婆が心配しているに違いなかった。
考えに夢中で暫く振り返らないでいると、彼女がとても遠くにいることに気付いた。それは僕の歩く速度が速すぎた訳ではなく、彼女が先導に従っていなかったからだった。彼女は帰り道とは全く逆に進んでいた。僕は慌ててその後を追いかけた。
「どうしたのさ? 早く帰らないと…お婆さんが心配しているよ」
躓きながら進み続ける彼女の先を制して言った。彼女は一瞬立ち止まったが、間も無く歩みだし、僕の横をすり抜けるようにしながら呟いた。
「……帰りたくない」
真直ぐ森の方へ向かう彼女に不安を覚え、言葉に窮する。
「何処に行く気なの? そっちに行くと危ないよ。もう帰らなくちゃ」気を取り直し、口調を強めて引き止めたが、彼女は唇を尖らせ、僕の言葉が届かなかったかのように歩み続けた。
彼女が進み続けていく中で、次第にその足が何処へ向かっているのか想像がついてきた。彼女は闇雲に森に突っ込んでいたのではなく、一ヶ月足らずでも、この沼地での経験の中で自分なりに培われた感覚によって、僅かではあるが確実に開かれた獣道への道を辿っていたのだった。足を折って姿勢を低くした彼女は、両手を広げ、自分の感覚のみを信じて歩んでいた。恐らく既に彼女の目には暗闇しか映っていないのだろうと思った。もしかすると目を瞑って歩いているのかもしれない。それでも彼女は吸い込まれるように獣道の入り口へと差し掛かっていた。
少し離れて彼女を見守っていた僕はふと我に返り、重い鉛のような疲労が全身に食い込んでいることに気付いた。しかし感覚は疲労などお構い無しで冴え渡り、僕はその勢いに任せ彼女の前へ駆けて行き、冷たくなったその手をとった。
「…分かった。…僕も一緒に行くよ」
待ち構えている暗闇を睨みながらそう言うと、雑草の生い茂った獣道を歩きやすいように踏み固め、ゆっくりと彼女を導いた。
懺悔をしなければならない。そう思ったのだ。それが何に対するものなのか。それが今しか出来ないことなのか。今、すべきことなのか。本当に聞き入れられるのか。聞き入れられたとしても、どのような方法でなされるのかは見当もつかなかった。しかし、それでも沼地の反対側にある、あの十字架へ辿り着くことが出来たなら、何かから救われるのではないかと、その時僕は思ったのだ。犯した罪が軽くなるのではないかと。しかし、獣道の向こうを窺うと底の無い闇があんぐりと口を開いているようで、ひどく恐ろしくなった。