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31 葛藤

鏑木山を望む山道を歩いていた。彼女が教室を飛び出してから、僕は暫く放心状態から抜け出せず、ただ呆けていた。長い間糸の切れた操り人形のようにだらしなく席に着いていた。しかし終業のチャイムを合図に、弾かれたように自分と彼女の鞄を机から奪い取り、気付けば教室を駆け出していた。教室に残っている生徒達の目はもう気にならなかった。

校庭を出ると直ぐに息が上がって苦しくなり、走れなくなった。日頃から体を動かしていない自分を恨めしく思ったのだが、全力で走ったおかげで大分思考が回復してきていることが分かった。辺りは既に赤みを帯びていて、鳴き始めた蟋蟀のざわめきが、これから急速に闇が舞い降りることを告げていた。そうなれば彼女の視力も当然落ちることになる。彼女は急げば追いつける程度の距離しか離れていないだろう。そんなことより、走ってしまった彼女がまた発作でも起こしてしまったらどうしよう。自分が投げ飛ばしたショックで発作が起きてしまったらどうしよう。そう考えて自分を激しく責めた。

僕は早歩きをし、時々走りながら考えた。聡美はどうして僕の手で彼女を投げさせたのだろう。聡美は僕が彼女を傷つければ、誰より深い傷を負わせられると思ったのだろうか。それはそうかもしれない。しかしどうして教室にいた全員が僕にそれを強要する必要があったのだろうか。教室の殆どの生徒は彼女が傷つく所など見たくなかった筈だ。そうなればあの視線には説明がつかない。あの視線の中には志津子のそれまでも含まれていた。教室にいた全員が僕に視線をぶつけていたのだ。答えは一つしかない。聡美が何かを吹き込んだのだ。そうとしか考えられない。そうに違いない。聡美が教室全体を巧みに先導し、自分から離れていった者達までも従わせたのだ。しかし何をどうすればそうできるのか。僕に彼女を傷つけさせたことに関係があるのだろうか。僕は破裂しそうな心臓を抱えるように走り続けた。

知らず知らずの内に僕の足は沼地を目指していた。彼女はそのまま家に帰ってしまったかもしれない。だが僕の中には何故か、彼女が沼地にいるという根拠の無い確信があった。しかし沼地が近づくにつれ急激に闇が赤に流れ込み、視界が塞がれ始めると、自信が揺らぎ、何度も引き返そうと思い、歩みの幅を狭めた。それでも、どうしても彼女が沼地の、あの場所で待っているような気がして足を止めるまでには至らなかった。僕は彼女を裏切ってしまった。彼女は僕を嫌いになったかもしれない。彼女はもう僕の手を取ってくれないかもしれない。彼女はもう僕に微笑んでくれないかもしれない。僕は自分の犯した過ちの大きさに気付いて胸が詰まった。人を裏切ってはいけない。もっといけないのは、信じてくれている人を裏切ることだ。僕は罪を犯しました。心の中で何度も懺悔した。もう過ちは犯しません。償います。心から、償います。そう何度も呟いた。

しかしいつからか懺悔の念に取って代わり、恐怖が僕を支配した。僕はあのまま教室でじっとしていたほうが良かったのではないか。仮に彼女と沼地で会えたとしても、彼女は僕を許してくれるのだろうか。万一許してくれたとしても、明日学校で再び心が押し潰され、彼女を傷つけてしまうかもしれない。このまま彼女を迎えに行かず、教室の一部になってしまえばとても楽になれるのかもしれない。突き刺さる視線の束が、凍りつく程の恐怖が、僕に向けられることは無くなるのかもしれない。

悔恨、恐怖、誘惑が交互に僕の頭を支配した。それらに散々頭を掻き回されていても、僕の足だけは沼地の湖面沿いを歩み続けていた。そして、大木に遮られた湿地を抜けたところに屈み込んで、丸くなっている彼女を発見した。 


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