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30 まだ何もしていない

 保健室と教室を繋ぐ長い廊下を歩いていた。木造タイルが陥没する音が遠くで聞こえている。あのまま保健室で全てが通り過ぎるのを祈っていたかった。しかし既に僕の体は恐怖に魅入られ、思考が停止に追いやられていた。瞬きした瞼の裏には、聡美の下唇に出来た微かな陰影は勿論、瞳の中のクレーターのような凹凸さえもありありと映し出されている。僕は出来るだけ目を瞑らないように努めた。

 ドアを恐る恐る開けると、驚愕してその場に立ち尽くすことになった。教室は異様な雰囲気に包まれ、全ては恐怖に支配され、何か意図的な暗鬱さに彩られていた。

 教室に片足を突っ込んだ格好で噎せ返りそうになるのを堪えていた僕の目の前には、千重が佇んでいた。千重は僕を教室に引きずり込むと直ぐにドアを閉めた。僕は無意識に聡美の席へ目をやった。聡美がいない。僕よりも先に帰った筈の聡美が、まだこの教室にいなかった。

自分の席に移した僕の視線上には三人の女子がいて、それらに取り囲まれた彼女がいた。

 目を疑った。つい先程いじめの告発があった教室が、何を好きこのんで罪を重ねているのか。

 ただ、状況は普段と何か違っていた。教室にいる全ての者の視線が、彼女にではなく、僕に集中していた。何がなんだかさっぱりだ。僕は早く自分の席に着かなければとだけ思って歩を進めた。それから数十の視線が同時に自分を追いかけているのに気付くまで、そう時間は掛からなかった。僕は突き刺さる視線が、ただこの場に侵入してきた者に対するそれでないことに気付かざるを得なかった。

―――その時、一人の女子が切掛け無く彼女の胸倉を掴み、投げた。彼女はされるがままで、人形のように倒れた。立ち上がろうとするのを待って、もう一人が同じように彼女を持ち上げ、投げつけた。彼女は飛ばされ、そこに一番近い場所にいた者に投げられた。彼女はその度に倒れ、その度に起き上がろうとした。

 何かが作為的だった。何かが悪意に満ちていた。そして彼女が投げつけられている姿が目に入っていないかのように、数十の視線が僕に目掛けて突き出されていた。全てが不自然極まりなかった。誰もが何かの為に、何かをしていた。

 次第に彼女は席から遠ざけられた。そして、自分の席に辿り着けないで突っ立っている僕に近づけられた。僕はパラシュートが開かないスカイダイバーだった。彼女は、大地だ。

あなたは何もしていないのよ。

 聡美の声が頭の中に轟く。思考が停止し続けている脳の中に一つの答えが導き出されていく。

 震え続ける僕の体は、聡美の一切の言動を一本の線で結び付ける為、懸命に働いている脳に乗っ取られ、全く硬直していた。しかし、不意にそのような脳の働きに覚醒を迫るような衝撃が体を駆け上がった。

 僕は衝撃によろめきながらも倒れまいと体制を立て直し、何が起こったのかと下を向いてみると、そこには彼女がひれ伏していた。

 突き刺さる視線に耐えかねて顔を上げると、彼女を取り囲んでいた女子達は勿論、丸々と太った男子も、そして志津子でさえも、一つの例外もなく束となった視線が僕へ集中していることに気が付いた。僕は倒れこんでいる彼女を再び見下した。彼女は僕の足にしがみ付き、体を起こそうとしていた。僕は無意識に体を屈め、彼女を抱き起こそうとした。

 彼女は顔を上げ、僕を見つめた。僕の吐く息で彼女の前髪が揺れるほど二人は接近していた。僕は彼女の色の無い瞳を直視した。彼女の瞳は何も語っていなかった。何も望んではいなかった。

「分かっているわよね?」

突然僕の真後ろから声がした。いつの間にか耳元にあった聡美の口から発せられた声は、諭すような口調をしていた。そこには凄まじい冷気が漂っていて、それは僕の体を動かす燃料になり得た。

「分かっているわよね」

燃料を注ぎ足すように同じ言葉が繰り返された。声は打って変わって抑揚の無い平坦な調子に変化した。それは、僕が必死に守ってきたものを打ち砕くのに十分な刺激だった。

 僕は一瞬だけ緩められた操り糸を再び手繰られたように、彼女を掴み、投げた。僕の視線は既に彼女の瞳を捉えていなかった。

 投げ飛ばされた彼女はドアにぶつかった。僕は疲れきってその光景を見下していた。彼女は今までに無い勢いで立ち上がると、こちらを見据えた。

「……」

「……」

「何か言いたいんなら、言っていいのよ?」

聡美は嘲笑った。聡美は嘲笑って彼女を眺めていた。

 彼女は聡美を見る素振さえなく、ただ僕を捉えていた。聡美は僕と彼女を交互に、好奇の眼で見比べた。僕は力無い眼で彼女の視線を受け止めていた。彼女は泣いていた。涙は左の瞳からしか流れていなかった。右の瞳は微塵も振動していなかった。色の無い瞳は白煙に巻かれたように混濁し、奥が望めない。

 直ぐに彼女は教室を飛び出した。聡美は声に出さずにほくそ笑みながら席に戻った。数十の視線の束は、その重さに耐えかねたように下げられていた。

 彼女を追うものは誰もいなかった。僕は彼女がいなくなったドアの方をぼんやりと見ていた。




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