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3 涙

 チャイムが鳴っている。幾つかの急ぎ足がニスで照り返った廊下を鳴らし、悠々と歩く僕を追い越してゆく。それでも歩を早めることはない。始終一定のペースを保ち、最後の鐘が打たれるのと同時に教室に入った。

 朝の点呼に時間一杯で間に合うのが僕の美徳の一つだ。決して寝坊している訳ではない。その証拠に、僕は学校に通い始めてから今まで一度も遅刻をしていない。尤も、欠席と早退は常習なのだが。

 チャイムの余韻が残る教室では、既に殆どの生徒が着席していた。それは、点呼を始めようとしている金城先生を一瞥し、堂々と自分の席を目指す僕の視界に捉えられた彼女も例外ではなかった。

 昨日とは違い、彼女は顔を上げていた。僕は挨拶をしようか悩んだが、ついには何も目に入っていない風を装って席に着いた。しかし彼女は、バッグから本が抜けなくて苦心している僕の方に顔を向け、小さくお辞儀して見せた。僕は驚いて、反射的にお辞儀を返した。直ぐに後悔して、誰かが見ていなかったか教室を見渡していると、切掛けを失って固まっていた金城先生の、返事を期待していない点呼が始まった。


 体育の時間になると男子の殆どが休み時間の内に、我先にと校庭へ飛び出してゆく。それを尻目に、僕は教室に残って授業開始のチャイムが鳴らないことを祈る。祈りは届く筈も無く、当然チャイムは時間通りに鳴り、仕方なく校庭に出た。

 校庭では、隅で体育座りしている彼女を除いた全員が既に整然と列を成し、保田先生の到着を待っていた。

 遅れて来た所為で体育係に怒鳴られ、急いでいる風をして列に加わる。それを追うようにして保田先生が現れ、開放的な声を上げた。

「よし。今日からサッカーだ」

男子が沸いた。僕は沈んだ。

 笛の合図と共に、一斉に生徒達が散らばった。弾かれたようにボールの入った円筒状の鉄製籠を目掛けて走ってゆく男子達を尻目に、小さくなってしまった体操着の裾を引っ張りながら、僕は校庭の一番端で同じ事を考えている人を待つ。

 暫くすると丸々と太った男子が近寄ってきて、僕にボールを投げてきた。僕は受け取ったボールを慎重に置き、自分の足とそれの触れる部分を想像しながら前方に向けて蹴り出した。蹴られたボールは不貞腐れた方角へ飛んでいき、それを追いかける丸々と太った男子を目で追いながら、自分に運動を司る神経を与えてくれなかった両親を恨めしく思った。

 二三度今の遣り取りを繰り返した後、蹴っている風をして時間を潰す。この行動を快く受け入れてくれるのは、目の前の丸々と太った男子以外この教室にはいない。

 時間を持て余していると、女子の指導を中断し、俯いたままの彼女の方へ足を向ける保田先生を見つけた。先生は彼女の前でしゃがみ込み、何かを話し始めた。何の反応も起こさない彼女に話し掛け続けている先生を、教師という職業には、このような才能が不可欠なのだろうと思いながら見守っていた。

 暫くすると、一向に戻る気配の無い先生を呼び戻そうと聡美が近づいた。聡美は自分以外に保田先生を独占されているのが気に入らなかったに違いない。しかし何も知らない先生に素っ気無い態度でも取られたのだろう。聡美は一瞬不満な顔をして、元いた所に戻っていった。落ち込んでいたその顔は、一瞬嫉妬の色に変わったが、直ぐにいつもの穏やかな表情を取り戻した。


 平静は保たれていた。しかし些細な原因で起こる何かが恐ろしかった。始まってからでは遅いのだ。彼女の瞳に心奪われたあの一瞬、知らぬ間に、何処に繋がっているかも知れない導火線を設置されたような錯覚に囚われた。

 灯火が導火線の間近で風に揺らめいている、その時の焦燥感を根拠無く感じていた僕は、延々と続く帰りの道程を昨日より幾分早く歩いていたのかもしれない。

 僕は、焦燥の縮れ火が導火線に点火する類のものでないことを祈りながら彼女に忠告していた。

「君は喋れない訳じゃないんだよね? 何で喋らないの?」  

配慮の無い言葉だとわかっていながら、聞かずにはいられなかった。彼女は僕のバッグにぶら下がるプラスティックのキーホルダーを見ているだけで反応を示さない。キーホルダーをバッグに押し隠した。

「そうやってずっと口を開かないと、何時になっても友達出来ないよ」

僕が言うのも変だったのだが、今、彼女に忠告できるのは自分だけのように思われた。

「少しずつでもみんなと話せば、直ぐに仲良くなれるんだから」 

説得するように言い聞かせた。

「僕は君の事を心配して言っているんだよ」

少しムキになった。ムキになる程、今日聡美が見せた嫉妬の表情が目に浮かんだ。それでも彼女は何も言わない。

「もういいよ。心配した僕が馬鹿だった」

顔を上げようともしない態度に、血が上った僕は、彼女を残して歩き出した。その場に立ち尽くしているだろう彼女を少し心配になり、顧みようとしたが、勢いに任せて歩き続けた。


 自然と沼地に足が向いていた。そこは自分の背の高さまで伸びたススキに囲まれていて、外から見出すのは難しい。僕くらいの年代の男の子にはそのような秘密基地的な場所がとても魅力的に映る。本ばかり読んでいる僕もその点に関しては例外ではなかった。

 浮かぶ苔をそっと除けてから、指先を0の形に合わせ、湖面に着けた。光が水面を覆っている。それを遮り、水中の様子を覗いた。今日も変わらず小さな生物達が澄んだ水の中で動いていた。

 幾つかのポイントを廻った後、一番気になっていたポイントに行ってみた。そこには以前に打っておいた杭があるので迷わず辿り着けた。

 しゃがみ込み、細心の注意を払って一つの水草を覗き込んだ。水草の中間辺りには、成虫になったのだろう蜻蛉の子の抜け殻が確りと爪を立て、体を固定させていた。

 始業式の帰りに寄った沼地で発見した抜け殻は、始めは湖面から突き出た水草にしがみ付いて水上にあった。しかし、程なく季節の移り変わりを告げる雨が降り、次に見た時には水の中にあったのだ。抜け殻は風化することなく移ろいの少ない水中に浸され、通常より長い時間を掛けて朽ちてゆくのだろう。そう予想し、その過程を見届けようと決心した。

 抜け殻は発見してから随分時間が経っているにも拘らず外殻が崩れ始めているだけで、未だにほぼ完全な状態を残していた。

 何故このような抜け殻に惹かれたのかは分からないが、確りと茶色に色付いた体を脱ぎ捨てることで劇的に変態できる小さな生物に少なからず憧れを抱いていたのかもしれない。しかし人間が脱皮する所を想像すると胸が悪くなり、やはりこのままで良いと思い直した。

 赤く焼けた空と闇に齧られた落陽の境が溶け出した頃、明日もこの場所に来られるのかと思案しながらも顔を上げた。沼地を抜け、傍の草叢に腰を下ろし、ふやけた陽に煌く水面を見ながら水に浸かった部分を拭いた。

 凝り固まった首筋を揉み解しながらバッグを肩に担いだ時、遠くでススキが揺れる音が聞こえた。ススキの音の余りの大きさに、熊でも出たのかと思ったのだが、この地域で熊が出たなどとは聞いたことが無かった。僕は慌てて茂みに身を隠して様子を窺った。

 ススキを掻き分ける音が近づくに連れ、緊張が高まる。音が止まった。 

「何しているんだよ」

そこには彼女が立っていた。僕は驚いて駆け寄った。彼女の服には乾いた土がすり付いていて、昨日よりひどく汚れていた。

「どうしてこんな所にいるの」

もう一度訊いた。訳が分からなかった。額にこびり付いた泥を汗が溶かしていた。夕陽に照らされた彼女の瞳は純粋さを増して、僕を一直線に貫いていた。

 こめかみから頬に架けて汗が伝い、それを追うようにして彼女の瞳から涙が流れ落ちた。

―――息を呑まずには、いられなかった。

 彼女の涙は左眼からしか流れていなかった。しかしそれには不思議と気をとられず、僕は涙を流す彼女の美しさに、ただ驚いていた。

 全く表情を変えない彼女の左眼から溢れ落ちる涙。それを照らす夕陽。銀色に輝く右眼が僕だけを捉えている。

―――音の無い怒涛が我を失っていた僕を強引に引き戻した。地震でも起きているのではないかという程の視覚のブレを感じながら、僕はその正体の誘惑に抗おうとした。しかし、彼女の意思とは無関係に存在する、一見すれば、一片の羽根が風に閃いているような、また一度見れば、一瞬の内に全てを悪意で覆い尽くしてしまうような禍々しいそれから逃れることは叶わなかった。

 一度彼女の右眼に潜んでいたその塊に魅入られると、全身から何かが吸い込まれてゆくような、また、何かを注ぎ込まれているような感覚に苛まれた。

 時としては、一枚の朽ちた葉が地へふれ落ちる程の短い間だったように思われる。ただ、歯を食い縛って受け入れる他無かった僕には、その時間が途方も無い長さに感じられた。そして、このままでは、このままでは、と思ったその刹那、濃緑の中の汚濁しきった黄色の塊から発せられる怒涛が収まった。

 僕が力無く両膝を落とし、放心していると、操り糸が切れたように彼女がその場に倒れこんだ。

「大丈夫?」

そう一言声を掛けるまでに随分時間を費やした。

「どうしたの?」

彼女は足を押さえていた。考えより早く体が動いて、スカートを引き上げ、ゆっくりと靴下を下げた。彼女の足首は、少しだけ腫れていた。

「何処でやった?」

彼女は後ろを振り返った。恐らく僕を追って来る途中で足を挫いたのだろう。

「歩ける?」

彼女は歩き出したが、痛々しい素振りで足を引き摺っていた。仕方なく彼女を追い抜き、その前で屈んだ。

「負ぶっていってあげるよ」

彼女は立ったままだ。

「歩けないんでしょ? 遠慮するなよ。はい、おんぶ」

背を向けながらそう言うと、少し躊躇した様子だったが、彼女は僕に体を預けてきた。

 負ぶってから後悔した。此処から彼女の家まで行くのはかなりの重労働だ。どうして僕がこんなことをしなくちゃいけないのだろう。そう思った時にはもう遅かった。

「それじゃあ行くよ。ちゃんとつかまって」

歩き出した。彼女の頬が背中をさます。誰かに見られたらどうしようと思ったのだが、誰も来ないだろうと高を括って進んだ。

 彼女を負ぶっている最中にも彼女の流した涙を、そして今はもう何事も無かったかのように形を潜めたあの塊の怒涛を思い出していた。




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