表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/40

29 襲撃

 呼吸音だけが宙に突き抜ける。五感が冴え渡り、些細な物音にも過敏に反応する。教室は一体化し、そこにいる者全てが彫刻と化していた。

 教卓に座った保田先生は、丁度、ロダンの考える人の体制をとっている。きっと考える人が見ていただろう地獄を、同じように見ているに違いない。過ちを犯してしまった志津子はへたり込むように自分の椅子に腰を下ろし、呆けた表情で動こうとしない。彼女は表情を変えていなかったが、張り詰めた瞳が揺れる度に、その振動が僕の体を貫通しているような気になった。

 細く美しいワイヤーが、時が経つに連れ奇跡的に保っていた調律を狂わせて行くように、教室の空気は狂気を帯びていった。その速度は恐ろしく緩やかなもので、まるで体を知らぬ間に、且つ着実に蝕んでゆく病魔を連想させた。

 勿論狂気の発信源が聡美であることは誰の目にも明らかだった。しかし、それでも教室に収監された者達の中には誰一人として狂気の充満を止める術を知っている者はいなかったし、誰一人としてガスマスクを持ち合わせている者もいなかった。ガス室送りになったユダヤ人。体が蝕まれてゆくのをただ受け入れることしか出来なかった。


 保田先生が教室を出て行った後でも硬直は解かれていなかった。保田先生は悪魔に魅入られたような顔で、今日はだめだ、と言って教卓を立ち、明日詳しく話を聞く、と言ってふらふらと出て行った。先生は、職員会議に掛けなくては、とも呟いていた。聡美は醜く歪んでいた顔を隠すように取り繕い、何かを考え込むような顔をして黙り込んでいたが、どうしても取り繕いきれなかった怒りが、顔ではない何処かから滲み出ているように感じられた。

 チャイムが何度鳴ったのかは憶えていなかったが、時計はあと三十分もすれば最後の授業が終わる時間を指し示していた。黒板には一度だけ様子を見に来た教頭先生がいそいそと書いていった、自習、の文字が浮かんでいたが、男子が騒ぎ立てて収集がつかなくなる普段の自習とはまるで違い、殆どの生徒が席に着いていた。

 僕は数人の男子が逃れるように連れ立ってトイレに向かう時を狙って教室を抜け出した。ドアを注意深く閉めた時、聡美の様子を窺った。聡美は何かを待っているように黒板に視線を向けていたので、僕が席を離れていることは、後ろを振り向かない限り気付かないだろうと思った。まだ授業中の廊下は閑散としていて、他の教室では通常通りの授業が行われているらしかった。

 数人の男子の最後尾に付け、最後の男子がトイレに吸い込まれたのを確かめると、自分はそこを通り過ぎた。そして誰にも気付かれないように早足で保健室に向かった。

 保健室に着き、中の様子を探った。室内にはまだ金城先生がいるかもしれなかった。しかし物音はしなかったので、少なくとも保健の先生はいないと思った。それだけ確かめると、周りに誰もいないことを確認してからゆっくりとドアを開け、素早く中へ滑り込んだ。

 万一金城先生がベッドにいたとしても、何とでも言い訳が出来ると思ったのだが、予想通り保健室の中は空だった。僕は少しだけ安心してドアから一番手前のベッドへ潜り込んだ。このまま終業のチャイムを待てば後は帰るだけで、今日は乗り切れる。明日になれば気休め程度には事態は好転しているだろう。混乱し、硬直しきった教室を回復に向かわせるためには、時間を置くことが何より大切に違いなかった。時間を置けば冷静になった大人達が、最低でも教室を監視してくれるに違いない。そう思った。

 毛布を頭からスッポリ被り、明日からのことを考えた。恐らくではあるが、保田先生は教室を出たその足で職員室へ戻り、僕達の教室で起こっているだろうことを報告して緊急の職員会議を開くよう求めただろう。若しくは既に会議が開かれているのかもしれない。そこで今後の対策を練るのだろうが、未だ事態の全容が明らかになっていない以上、明日以降何度でもホームルームを開いて何かしらの情報を集めようとする筈だ。聡美はそれに耐えられるだろうか。誤魔化しきれるのだろうか。

 嘘を突き通せるのだろうか。

 聡美が少しずつではあるが真実を口にする。泣き崩れる聡美。全身で後悔と反省を表現する。恐らく保田先生は間も無く聡美を許すだろう。ただ聡美はもう彼女を傷つけられなくなる。しかし教室を支配するだけの力を失うだろうか。時が罪を希薄化し、聡美が再び全てを握る時が来ないとは限らない。そしてそうなるなら、罪を押し流すのに必要な時間は、さほど長いものではないだろう。ただ、罪を認めることで聡美に一点の翳りが生じることは否めない。

 保田先生は必ず最初に聡美から意見を聞く。聡美は特権を活かし、話をでっち上げる。聡美は彼女に直接手を下したことは一度も無い。彼女に何もしていないのは恐らく僕と聡美の二人以外にはいない。聡美は、自分を崇め立てた女子―――千重を犯人に仕立て上げられるし、勇気を持って反旗を翻した女子―――志津子に罪をなすり付けることだって出来る。しかし、仮にそのような結末を迎えた時、教室は聡美を以前のような羨望の眼差しで迎え入れるのだろうか。罪をなすり付けられた者達は少なくとも卑屈に聡美を見やるに違いない。

 聡美は事実を認めたくないに決まっている。しかし罪を押し付ければ立場が危うくなる。聡美はどちらを選ぶのだろうか。どちらが聡美にとって守るべきものなのだろうか。僕は体温を吸って暖かくなった毛布の中で蓑虫のように自分の両膝を抱いた。

 彼女はどうすればいいのだろう。仮に聡美が真実を告げて懺悔したとして、彼女は口を開くのだろうか。仮に聡美が偽りを口にして、誰かに罪をなすり付けたとしても、彼女は口を開くのだろうか。きっと彼女は、表情を変えず、ただ悲しむだけだろう。そして一度も口を開かずに、何処か遠い所を見ているだけに違いない。

 僕はどうすればいいのだろう。ただ黙って罪の行方を見守っていればいいのだろうか。もしも聡美が誰かに罪をなすり付けたとしても、何も言わずに見ていられるだろうか。

―――そこに罪は生まれないのだろうか。

 僕に出来ることは何も無いのだろうか。僕が彼女に何かを言わせることは出来ないだろうか。彼女に、全てが聡美の仕業です、と言わせられないだろうか。しかし万が一それに成功したとしても、聡美は全てを掻い潜ってしまいかねない。僕は彼女の味方でいられるのか。彼女は僕を味方だと思っているのか。僕は思考が無数に錯綜するのを抑えきれず、無意識に頭を抱えていた。

―――その時。不意に毛布の上から体を激しく押え付けられた。僕は混乱して毛布を剥ごうと暴れたが、動く隙間も与えられずに押さえ込まれた体では、それを剥がすだけの力は生み出し得なかった。不意の出来事と理解不能な状況に言いようの無い恐怖に囚われ、全身が粟立った。

 力を使い果たし諦めたように体の力を緩めると、同時に上からの重圧も和らいだように思えた。

「随分呆気無いのね」

直ぐにつまらなそうな声がし、再び自分の体が硬直してゆくのが分かった。気が狂いそうな程の恐怖に全身が焙られた。

「あなたはもう少し頭が良いと思っていたわ」

嘲るように吐き出された声。耐えかねてもう一度全身をバネにして毛布を剥ごうと試みた。しかし、それはいとも簡単に防がれた。

「このままで聞いて」

毛布を被っているのに、直接氷水を掛けられたような気分だ。

「…僕は何も…していないだろ」

「―――そう。あなたは何もしていないのよ」

まるで始めから僕の言うことを知っていたかのように、聡美は言葉尻に重ねてそう言った。それが恐怖を助長させる。

「…何もしていないのよね」

気だるげに同じ言葉が繰り返された。それは如何にもわざとらしく困ったような声だった。しかし僕は恐怖と混乱で聡美の言いたいことがまるで分からず、次の言葉を待つしかなかった。

「…もう少しで授業終わっちゃうわよ?そろそろ戻りなさい」

母親のような声が合図だったかのように圧迫されていたものが無くなるのが分かった。僕は答えをくれなかった聡美の意味深な言葉の真意を探る余裕などなく、何より一刻も早く暗闇から逃れたくて、上半身を起こすと共に勢い良く毛布を剥ぎ、顔を上げた―――しかし次の瞬間、自分のその行為をひどく後悔させられた。顔を上げた目前には、驚くほど接近した聡美の顔が待ち伏せていたのだ。聡美の顔には完璧な微笑が湛えられていて、目を逸らすことすら許されなかった。

 固まった僕を尻目に、聡美は表情を崩さず保健室を出て行こうとした。しかしそのドアに手を掛けた時、聡美は何かに気付いたように上を向き、振り向かずに口を開いた。

「そっか…。あなたにはこんな顔する必要、なかったのね」

閃いたような口調からは想像できない程の冷気が僕を突き抜けて、体の自由を奪われた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ