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28 告発

 聡美は暫くの間答えず、教室は重い苦しい雰囲気に今にも押し潰されそうでいた。息を殺す限界を迎え、留めていたものを大きく吐き出した保田先生は、徐に聡美の傍まで足を運び、震える肩にその手を置いた。

「どうした? 聡美…どうした?」

絶妙なタイミングで涙が流れた。それは徐々に啜り泣きに変わり、教室中にその音だけが響いた。教室の温度が下がり始めた。彼女の表情は金髪に隠されて見て取れない。先生は困惑の表情を更に歪めながら、顔を手で覆った聡美の背中を摩り始めた。

「……金城先生。最近、とっても悩んでいるみたいでした」

それだけ言うのが精一杯だと言わんばかりに、聡美は顎をしゃくり上げた。保田先生は先を促すように黙って背中を摩っている。聡美の背中とは裏腹に教室の温度は下がり続けている。

「私達が、葉月さんと、仲良くしてあげられなかったから」

当たらずも遠からず。葉月さん、という単語が出た瞬間、教室は氷点に達した。

「それで金城先生、最近何度も息が苦しそうにしていたんで、大丈夫かなって心配していたんです。ちぃちゃん、…そうだよね?」

聡美は隣に坐る女子に同意を求めた。聡美の隣に坐る女子は、いつでも千重と決まっていた。千重は疑いようも無いという風に頷いた。

「でも…まさか、倒れてしまうなんて……」

そう言うと聡美は我慢していたものを吐き出すかのように大きな声を上げて泣いて見せた。千重も釣られて泣き始めた。千重に釣られて何人かの女子も泣き始めた。

 僕はどうやら最悪の事態は避けられそうだと思い、誰にも分からないように安堵した。保田先生は同情で一杯になった眼差しを向け、教卓に戻った。

「聡美、ありがとう。教えてくれて、ありがとうな」

ありがとう。先生はそう言うと、自分と共に教室が落ち着くのを待っていた。

「みんな、冬実先生に心配掛けないようにしような。ミカも、みんなと仲良くしなくちゃだめだぞ」

半端に顔を上げた彼女の表情は、一つの変化も拒んでいるかのように全く変わっていなかった。それでも僕にはその胸に抱かれているだろう感情が手に取るように分かり、胸を押さえずにはいられなかった。

 保田先生は教室を後にしようとしていた。その表情は変に満足げで、きっと事情を知ったことだけで事態が解決したものだと思い込んでいるに違いなかった。知ってしまってからが重要だというのに。知ってしまってからが始まりだというのに。先生はただ偏った情報のほんの一角を覗いただけで何の手立ても施さず、本質を宙に浮かせたまま放置していることに気付いていないのだ。

 重要なのは、落ちてくる本質を誰が掴み、どうするかだ。ボールを投げ出した本人はリバウンドを取りに行く素振りも見せず、既にゴールに背を向けている。落下地点に待ち構えているのは、巨大な体躯を張っている聡美だけのように思えた。聡美はとっくに鳴き止んでいた。聡美は手を伸ばして確りとボールを捕まえさえすればよかった。そしてそうなれば、自ら好きな方法でゴールさせることも、また、永遠にゴールできなくさせるようボールを破裂させることすら出来うる自由を手に入れられる。

 教室は全てが終わったことを知らせるように硬直を解こうとしていた。

「……ちょっと待ってください。…先生」

教卓側のドアに手を掛けた保田先生が不意に引き止められた。聡美の手元にまで落ちたボールは、横から飛び跳ねてきた声に弾かれた。その声は今にも泣き出しそうな引き攣ったもので、それは如何にも、ボールを奪ってはみたものの、その大きさに圧倒されるだけで手についていない様子を連想させた。

 保田先生は全てが済んだ後で、何か別のことで引き止められたような真摯な顔を向けた。僕はその女子を止めようとした。しかし、女子はさも苦しげに胸に手を当て、その視界は狭窄を起こしていたようで、僕の信号に気付く前に口を開いてしまった。

「……違うんです」

上から圧迫されたように頭を傾げた女子が、哀願するように呟いた。

「わたし何か間違ったこと言ったかしら、志津ちゃん?」

聡美が呟きに重ねて言った。解け掛かった教室が再び硬直した。保田先生は手を掛けたドアから教卓に戻り、測りかねたような表情で口を開いた。

「志津子。何が違うって言うんだい」

志津子は言葉に窮していた。聡美は彼女と仲良くしなかった。それが原因かは定かでないが、金城先生は体の具合が悪かった。聡美の言ったことは何も間違っていない。何一つ嘘は無い。ただ、言葉が足りないだけだ。

「何かあるなら言ってくれ」

保田先生は変化した教室の雰囲気にも気付かず、志津子の言葉を全てが終わった後の補足程度のものだと思っているらしかった。

 志津子は聡美の言葉が切掛けで口の開き方を忘れてしまっていた。口を開く勇気を失っていた。胸に当てられた手を喉元まで迫り上げた志津子は、眉間に深い皺を寄せた顔を彼女の方へ向けた。僕は彼女を見る志津子に見えるよう、何も言わないでくれと訴える眼差しを送った。

「無いならもう行くぞ」

保田先生は興味を失ったようにドアの方へ足を向けた。志津子が彼女から教卓に体の向きを変えた。僕の訴えに気付かなかった志津子は、彼女から目を離したその刹那、何かを飲み下した時のような咽喉の動作を見せた。

「…葉月さんは……いじめられています」

振り絞った声で志津子が言った。それは今にも消えて無くなりそうな、極めてか細い類の声だったのだが、引き締まった教室を伝い渡るには十分な振動だった。

「なんだって?」

確実に届いた筈の志津子の言葉にも、保田先生は自分の耳を疑うように聞き返した。

「葉月さんは、いじめられています」

繰り返す言葉を、志津子は強めた。教室は騒然とするでもなく沈黙の内にその言葉を受け入れた。

 志津子は誰がいじめているのかは口にしなかった。いじめ、という言葉が教室中を彷徨し、そこにいる全員にその鱗粉を振り撒いた。それは浮遊し、体の隅々にまで至り、張り付き、不快な膜となった。

 聡美を盗み見た。聡美は横顔でも分かるほど醜く顔を歪ませていた。聡美は僕と同じ計算違いをしていた。僕の計算では、一芝居が打たれた時点で全ては収束し、また元のように聡美が中心となった学校生活が動き出す筈だった。彼女の犠牲の元、全ては正常に戻る筈だったのだ。しかし、志津子はそれで満足しなかった。聡美から離れたグループは時間と共に予想以上に大きくなり過ぎていたのだ。グループは、志津子は、聡美を完璧な存在から失脚させようとまでしていたのだ。その為に自分達が負う、そして彼女が負うリスクも考えず。グループは今、聡美に対して反旗を翻した。

「……どういうことなのか…説明してもらえないか」

そう一言口にするのが精一杯という風に言うと、保田先生は再び教卓に向かい、椅子に腰を落とした。


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