27 均衡
聡美は座っている。それを囲む女子の人数は五人。
志津子も座っている。それを囲む女子の人数―――八人はいるだろう。
それ以外の女子は自分の席についたまま―――聡美の隣で睨みを利かせる千重に気付かない風を装っている。
聡美の下に集まる女子の人数は減り続けていた。それに呼応して志津子の周りを囲む人数が増えていた。
聡美は明らかに不機嫌になっていた。それに応じて女子達は不安を露わにした。聡美は焦っていた。女子達も焦っていた。何に焦るでもなく。何かが起きそうで起きないことに焦っていた。僕は緊迫した教室に誰かが何か間違った刺激を与えてしまわないことだけを祈っていた。
彼女は変わらず口を閉ざし、耐え続けていた。嫌がらせは次第に回数を減らしていたが、その代わりに執拗さを深めていた。教室の誰もが自己防衛の手段を身につけ、自分だけは嫌がらせに加わらない方法を見つけ出していた。結果嫌がらせをする人数は減り、その顔ぶれも決まってくる。それでも千重はいびる手を休めない。千重は聡美に対して盲目だった。千重にとって聡美は絶対だった。彼女に手を上げ続ける千重。それを操る聡美。今でも前を見て姿勢を正している。いつからかその一角に無言の視線を送るものさえ出てきていた。
仮に、彼女が惰性的な嫌がらせに傷つきながらも耐え続け、僕をはじめ聡美から離れたグループが沈黙を守り続けてさえいれば、万が一でも聡美を取り巻く千重達からのいじめは沈静化し、自然消滅したのかもしれない。誰も動かなければ、均衡は崩れなかったのかもしれない。しかし均衡は崩れるまでの一工程にしか過ぎない。それは崩れる運命にある。そして、教室の状況もその例外にはなれなかった。僕の描いていた天秤は、儚くも均衡を保っているように見えていた。しかし、僕は一つだけ錘を載せ忘れていた。正確には、錘の重さを把握しきれていなかったのだ。
それは何度目かの警告だったのかもしれない。これまで幾度となく信号は公に発せられた筈だった。その中で表面的にだけでも平静を装ってこられたこと自体が、大人達の愚鈍さに作り出された人為的な奇跡だったのだ。
それは何度も繰り返された嫌がらせに過ぎなかった。彼女が耐えていてくれさえすれば、直に全てが元通りになる筈だったのだ。
それは何の前触れも無く起こった。教卓に座っていた金城先生が椅子から崩れ落ちたのだ。誰もが彼女と、それを取り囲む千重達、そして黒板へ視線を向けたままの聡美に気を集中させながら自分の机を見ている風をしていた。金城先生を視界に捉えているものなど、誰一人いなかったに違いない。
歪な沈黙を強制された教室に先生が崩れ落ちる音だけが響き渡り、何が起こったのか把握するまでに随分な時間を要した。
一人の女子が悲鳴を上げ、金城先生に近づく。それに続いて何人かの女子が様子を窺う。男子はその場で成り行きを見守ることしか出来なかった。先生は重度の過呼吸に陥っているようで、咽喉を何度も引き攣らせ、左手に呼吸を整える道具を握り締め、右手で胸を掴み、額に大粒の汗を幾つも伝わせていた。
「先生、金城先生。大丈夫ですか?」
聡美が言った。聡美は群がる女子を掻き分けてその場に屈み込み、先生を抱く格好になった。聡美は慈悲深い表情で、かわいそうに、と呟いた。その場にいた全員に聞こえるように。
「保健室に連れて行きましょう」
何が起こったのか判らないという顔をしている女子達にそう言うと、聡美は力強く金城先生を負ぶって、近くにいた数人に転ばないよう補助させながら歩き出した。教室を出て行く聡美はなんとも頼もしい表情をしていた。
金城先生を保健室に負ぶっていった聡美と、大半の女子達が消えた教室は静まり返っていた。時折数名の男子が保健室に様子を見に行った。数える程しか残っていない女子は、その殆どが始めに聡美の傍から離れた生徒だった。
志津子も教室に残っていた。志津子は言いようの無い不安を感じているかのように、何が起こったのかわからないというより、これから起こることを予想できずに苦しんでいるような表情をしていた。
均衡を保っていた天秤は、思いがけない錘によって秤ごと壊された。予想していなかった訳ではない。しかし、これほどにも早く大の大人が崩れるものとは思っていなかった。そしてもし金城先生が倒れ、保田先生に全てが露見してしまった場合、困るのは寧ろ聡美の筈だ。それでも聡美は金城先生を介抱し、自分の慈悲深さを教室中にアピールして見せた。
頭が混乱していた。一体どうして聡美は余裕でいられるのか。不安が募った。
聡美が教室に戻ってきたのは、授業終了のチャイムが鳴って暫くしてからだった。聡美と共に全ての生徒が教室に戻った。そこに金城先生の姿は無かったが、代わりに保田先生が教卓に立った。彼女は先程から変わらず俯いている。席に着く前に盗み見た聡美の表情を読み取ることは出来なかった。それは微笑んでいるようにも見えたし、悲哀に満ちているようにも見て取れた。
「冬実先生は大丈夫だ。ただの過呼吸らしい」
保田先生は全ての生徒が席に着いたのを確認してから言った。先生は思い詰めたような顔をして暫く押し黙っていた。
「おれは冬実先生に過呼吸の症状があることは知っていた。しかしそれは極度の緊張状態に陥ったり、精神的圧迫を与えられたりしない限り出ない筈なんだ。…何があった?…冬実先生に何があったのか訊いたが、何も答えてくれない。だからお前達に聞くしかないんだよ」
保田先生は苦悶の表情を浮かべながら口を開いた。教室は押し黙っている。誰も口を開こうとしない。
「お前達が黙っていてもいずれ分かることなんだぞ」
先生は少し口調を強めた。しかし教室は沈黙を破ろうとしない。
「俺は冬実さんの体が心配だ。…お前達もそうじゃないのか?」
今度は精一杯穏やかな口調で、切実そうな言葉が口に出された。
それでも教室は物音一つ立てなかった。息苦しい沈黙だけが教室を撫ぜ歩く。
ある時、僕はこのシチュエーションに何回か遭遇していることに気が付いた。業を煮やした先生が、始めに助けを求める人物は決まっていた。それは聡美だ。僕は底知れぬ恐怖を覚えた。もしこの後、保田先生が聡美に助けを求め、聡美が話をでっち上げれば、教室全体を丸め込めば、彼女に対する嫌がらせはやめざるを得なくなるだろうが、それだけで聡美自身は傷付かず完璧な存在のまま事態を収束させられるかもしれない。
「何があった? …聡美…お前なら答えてくれるよな?」
優しさを前面に押し出した先生の声は、触れてはいけないことに触れようとしている戸惑いと、それでも触れなければならないという使命感とに如何にも葛藤しているようだった。僕には何故か、その声が残酷なものに聞こえてならなかった。
僕は、今まで起こった全ての出来事を隠し、誤魔化し切ることがあっても、聡美を許せる気がしていた。事態が収束することで彼女への嫌がらせが無くなるのであれば、それで十分だと思っていた。しかし僕は最悪の事態―――上手くこの場が収められ、尚且つ彼女への嫌がらせを続けられるような事態に陥るのを恐れ、身を硬直させて聡美の受け答えを待った。