24 志津子
教科書に隠れながら話す金城先生から時々覗く顔色は、日を追う毎に悪くなっていった。それは恰も教室全体の生命力を表しているようで、恐らく僕の席からでは窺い知れない教卓へ向けられた二十弱の面持ちの統計、若しくはそれらをまとめて背負い込んでいる程の憔悴振りだった。
これまで様々なことに顔を背け続けてきたに違いない金城先生に現実を直視させたのは、余りにも酷だったのだろう。その為か先生は、間も無く軽いヒステリック状態に陥ってしまった―――と言っても誰かに感情が向けられることのない、自分の中に何かを押し入れている類のものだ。嫌がらせが始まると先生は大きな音が鳴る度に小さな悲鳴を上げ、何を言っているのか聴き取れない程の小声で泣き言を教科書にぶつけていた。嫌がらせの終息と同時に必ず過呼吸を整える道具を吸っていた。
恐れている事態がそう遠くない未来に起こることは、容易に想像できた。それでも僕には、金城先生がこれ以上の変調を表面に表さないことを祈り、保田先生の鈍感さに祈ることしか出来なかった。
保田先生が金城先生の異変に気付けば、当然教室の変化に気付くことになる。
大変なことが起こるかもしれない。
聡美は何を考えているのだろうか。聡美は保田先生が気付きはしないと高を括っているのか。若しくは気付かれても構わない、と。
一つだけ確かなのは、聡美の感情が既に焦げ始めているということだ。明らかに始めに抱いていた感情とは変質しているということだ。恐らく始めはただの嫉妬に過ぎなかったのだろう。ただ、嫉妬心を当てるのに最適な環境が不運にも作り上げられてしまっただけなのかもしれない。しかしそれが引き金になり、聡美は憎悪の炎を燃やし始めた。そして女子の悔恨が、男子の未熟な言動が、その炎の勢いを増大させ、醜く焦げ付かせてしまったのだ。
周囲は事態の収束を願っていた。いつからか誰の顔にも被害者の面持ちが見え始めた。男子は勿論のこと、良心の呵責に耐えられなくなった女子が、嫌がらせのことが教室の外に知られると恐れた女子が、全てを終わらせる為の切掛けを探っていた。
聡美の周りに群がっていた女子の数が次第に少なくなっていった。少なく、と言っても、かなりの数が取り巻きを成していたのだが。聡美に近づかなくなった女子達は、自分達だけのグループを形成し、駄弁っているように見せてそれとなく聡美の様子を窺っていた。聡美は何も気付いていないような顔で話していたが、本当の所は全く読み取れなかった。
ある時、新しく形成されたグループの中核をなしている女子が、唐突に僕の所へやってきた。
「ちょっと、話があるの」
女子は色の薄い唇を僕の耳元まで運び、できるだけ声を潜めたという感じで言った。横目で聡美が教室にいないことは確認していた。聡美は取り巻きの何人かと連れ立ってトイレに行っていた。
「愛の告白なら間に合っているよ」
本の字をなぞりながら言った。
「そんなんじゃないわ」
女子はまじめな顔で断った。男子なら飛び跳ねてはしゃぐ言葉にも全く動じなかった。
「時間が無いから。それに此処じゃない方がいいわ。放課後、時間あるわよね」
女子は普段通りの、相手を心底安心させる微笑を顔に浮かべていた。
「放課後なら、少しは平気だね」
放課後は、帰り支度をする彼女を待つ時間が少しだけあった。僕は彼女の方を窺ったが、彼女は僕と同じように本に目を落としていた。女子は僕の返事を聞く前に素早く席に戻っていた。
数日前から、以前にも増して生徒が教室からいなくなるのが早くなっていたが、その理由が見当たらなかった。殆どの生徒が逃げるように教室を後にしていく中、僕は彼女の帰り支度を待っていた。彼女はホームルームが終わると、自分の机に残った消しゴムの滓などの細かい塵を丁寧に掃除してから帰り支度をするので、帰るまでに総じて五分から十分位の時間が掛かった。
彼女がノートや教科書などの位置を念入りに確かめている時に、女子が僕に一枚のノートの切れ端を渡し、知らん顔で教室を出て行った。切れ端には、社会科資料室、とだけ書かれていた。僕は既に聡美が帰っていることを確認する為に校庭を隈なく見渡してから、少しだけ待っていて、と彼女に手で合図を送り、教室を後にした。
社会科資料室は、二階建ての校舎の一番端にあり、普段は昔の新聞や農機具などが展示されているのだが、基本的には誰も中に入るものはいなかった。僕は廊下に誰もいなくなる機会を狙って資料室に入った。
「遅かったじゃない」
女子が唐突に声を発した。気付かず古新聞に手を伸ばしていた僕は、少し驚いて後ろに立っている女子を顧みた。
「びっくりするじゃないか。いたのなら言ってくれよ、志津子。オバケかと思ったよ」
冗談を言ってみたが、ドアの傍に物音一つ立てずに佇んでいた志津子は至って真剣な顔をしていた。軽い雰囲気でもないらしいことは分かっていた。
「話って、何?」
素知らぬ顔で再び新聞紙を覗きながら言った。
「彼女のことよ、ミカちゃんのこと。分かっていたんでしょ」
ドアに凭れ掛かり、志津子は小さな声で言った。僕は黙って先を促した。
「あなたは気付いているでしょうけど、私達はもう聡美と一緒にはいないわ。もう彼女に嫌がらせなんてしたくなかったから。でも私達が何もしなくても、他の誰かが嫌がらせを続けていくのよ」
志津子は大きな声を出さないように気をつけている様子だ。
「それで? 僕に何をしろって言うんだい。先に言っておくけど、僕には何も出来ないよ」
先を見越してそう口を出した。志津子は一瞬うろたえ、少しの間沈黙の内に俯いた。
「それは分かっているの。でも、彼女のことを知っているのはあなただけなんだし、彼女に何もしてないのもあなただけなんだもの」
志津子は困ったような声で訴えた後、再び噛み締めるような沈黙を挟み、口を開いた。
「あなた先週、放課後帰る前に彼女を置いて何処かに消えたことがあったでしょう?」
志津子は暗鬱な、それでいてこちらに挑みかかってくるような視線を向けてきた。放課後に消えた―――志津子の視線が、教室から出てくる生徒達が一様に悲痛な面持ちだった時のことを思い出させた。
「あの時、何があったと思う?」
思い当たったような顔をしていたのか、志津子は続けて訊ねてきた。
「…始め、千重達が帰る途中、ミカちゃんの机を一人ずつ蹴って行ったのよ。そんなことは軽いものだけれど、あの時は直ぐに教室の、前のドアの鍵が誰かに閉められたわ」
志津子は木造タイルに付いたシミのようなものを足で頻りに引っかきだした。
「丁度後ろに、千恵達を待ってつかえていた五六人がいたのよ」
上履きのゴムが引き摺られる不快な音が室内に響く。
「教室の後ろのドアに聡美が立っていて、彼女の椅子を最後に蹴った子を見ていたわ。それを受けたみたいに、その子は直ぐ後ろに立っていた女子達を見た。…それだけ、それだけのことだけど、一回、二回と椅子が蹴られる度に手足の自由が奪われるくらい嫌な雰囲気が増していったのよ。そんな時、あなたなら…どうする?」
「…蹴ったの? その子達も?」
志津子は唇の内側の薄皮を歯噛みしながら、自棄気味に、ええ、とだけ応えた。不意に疑問が口を動かした。
「志津子。……君もか?」
ゴムの擦れる音が止み、上着に付いたポケットへ乱暴に手を突っ込んだ志津子は、苛立たしげに、再び、ええ、とだけ応えた。
「だれも逃げることなんて出来なかったわ。いなかったのは、直ぐ帰った金城先生と、多分保健室にでも行って授業をサボっていたあなただけよ。…あとは、女子も、男子も…聡美以外は全員彼女の椅子を蹴らされたわ。……恐ろしかった。…本当に…恐ろしかった……」
沈黙が流れ、言葉を失っていた僕は、それを隠すように志津子から背を向けた。
「教室の中に聡美に歯向かおうとする奴なんていないよ。それは女子の方がよく分かっている筈だと思うけどな」
「…分かっているわ。けど今回の聡美はちょっと異常じゃない? 変になり始めている。このままじゃ彼女、ミカちゃん、どうなるか分からないわよ」
懇願の表情を浮かべながら志津子は言った。
「……困ったな。…僕も彼女を助けたいと思っているけど、具体的な方法は全く思いつかないよ」
振り返った僕の表情を見た志津子は、同じように困惑したようで、苦悶の表情を浮かべて見せた。
「私達は彼女の味方になるわ。味方って言っても何もできずに見守っているだけかもしれないけど。今後嫌がらせには参加しない」
僅かに口調を強めて志津子は言った。僕は、それが彼女にとって良いことなのだろうかと考えた。
答えが見つからない間に、下校を促す放送が始まり、僕は資料室を出ようとした。そのドアに手を掛けた時、志津子が、あなたも彼女の味方なのよね、と訊ねてきた。僕は曖昧に頷いただけでドアを開いた。