23 束の間
目まぐるしく移り変わる景色。色と色が摺り合わされている。胸が悪くなって遠くを見やると、移ろいは速度を落とす。視線の先を軸に、それに遠ければ遠いほど凄まじい速さで景色が移動しているのだと気付いた。
軽快なエンジン音と、それに合わせて掛かる僅かな重力が心地良い。彼女は速度が増す度に、故意に座席へ頭を打ち付けて遊んでいる。老婆は後部座席に坐る彼女の行為を窘めはするが、ハンドルに掛けたその手を離せる訳も無く、困惑顔をフロントミラー越しに僕へ向け、助けを求めた。
彼女の母親が週に二三度家に戻ってくると、その度に僕は老婆に預けられた。彼女も老婆に預けられた体なのだが、慣れているようで不満の欠片も見受けられなかった。
彼女の家に向かっている車は、老婆が旦那様のものと言っていた高級外車だ。母親が使用許可を出したに違いなかった。車内は革の油の匂いが仄かに香り、座席は体が埋れるほど柔らかかった。
感心していた僕を、彼女は不思議そうに見ていた。老婆に預けられた二人は、必ず何処かへ追いやられる。母親は、日があるうちは帰ってくるな、という命を老婆に言い渡しているようだったのだが、それは母さんの入れ知恵に違いなかった。
老婆は僕達を色々な所へ連れて行った。この地に慣れる為に母さんが僕を案内役にと考えたのかもしれない。母さん達の悪巧みを老婆も満更愉しんでいない訳でもないらしかった。
村を出たのは今回が初めてだった。朝早く迎えに来た高級外車は、一路彼女が通う病院を目指した。病院と言っても経過を見るだけの、大きいとは言い難い病院で、老婆は先週彼女が受けた検査の結果を聞きに行くのだと言った。
車内で待機していた僕の憂慮を他所に、病院から戻ってきた老婆と彼女は、案外普段通りの二人だった。恐らくこれまで何度も検査やら診察の類を受けてきた彼女には、一回の検査の結果など取るに足らないことなのだろうと思った。
車に乗り込んできた老婆は昂揚していた。病状が進んでいなかった、止まっていたのだと言って子供のような嬌声を上げた。彼女はそれに合わせて笑っていた。僕には老婆の声が、風車に突進していくドン・キホーテのそれのように聞こえてならなかった。
病院を抜け出した後、老婆は僕達を買い物に付き合わせた。地方の大規模なショッピングモールで老婆は彼女の冬物の服を買い揃えた。彼女は老婆が服を選ぶのを楽しそうに見守っているだけだった。老婆は僕にも何か買い与える気でいたらしい。しかし僕はそれを体よく断り続け、休憩所で目に付いたソフトクリームだけを彼女と一緒に食べた。
何かを発散しているように服を選び続ける老婆を尻目に、僕は彼女の病気のことを考えていた。病院の検査結果は正確なのだろうか。僕は彼女の病状が悪くなっているとばかり思っていたので、喜びより寧ろ不審に思った。
嫌がらせを受けている彼女が本当にストレスを感じていないのだろうか。もしかすると病院は、彼女は勿論、老婆にもまた、病状を隠しているのではないか。
初めて彼女の家を訪れた時に聞いた老婆の病気の説明は曖昧だった。老婆は説明に、私の見る限りでは、と付けていた。母親は老婆にも本当のことを伝えていないのかもしれない。それは母親が、彼女と一番多く接している老婆を思って、敢えて下した決断なのかもしれなかったのだが、それでも僕は、何故か無性に腹が立った。
老婆は彼女が極めて絶望的な状態に陥っていることを知らないのだろうか。老婆を騙すには病院側にも手を回さなければならない。母親は何を思ったのだろう。何を思って老婆を騙すのだろう。老婆に嘘の報告をして彼女を安心させたかったのだろうか。それでも腹立たしいことには変わりない。
僕の心は過敏になっているのかもしれない。些細な出来事にも疑いを持つようになってしまっている。もしかしたら、彼女の病状は本当に停滞しているのかもしれない。彼女は保田先生に抱き上げられ、保健室に連れて行かれた時以来、発作を起こしていない。顔色もそれほど悪いと思うことはない。僕の疑念は只の杞憂に過ぎないのかもしれない。