21 エスカレート
授業参観が終わり、数日が経過したが、彼女を取り巻く環境に変化は見られない。しかしそれは状況が硬直しているだけであって、決して良い方向に向かっている訳ではなかった。彼女はいまだに教室の誰とも口を利いていなかったし、その代償として執拗な嫌がらせは続いていた。彼女はただ黙ってそれに耐えていた。表情を変えない彼女。初めて嫌がらせに遭った時以来、教室では涙を見せていない。
いつからか女子達の顔に不安の色が見え始めた。自分達の行いを振り返るのに二週間と数日―――今までなら一ヶ月はかかっていた。彼女が口を開かないことで嫌がらせがマンネリ化したことが幸いしたのだろう。
女子が不安な顔を見合わせ、嫌がらせの手を、口を止める。するとすかさず後ろから冷気が立ち込める。女子達が我に帰ったように息を呑み、自分に何かを言い聞かせながら彼女に罵声を浴びせる。
状況は硬直したままだが、少しずつではあるが好転の兆しが見られるようになった。何も知らず、良いように操られていただけの男子が、口を開かない彼女に飽き始めた。嫌がらせが始まると急変する雰囲気に嫌気が差していた。女子は聡美に怯えながらも自分達の行為に疑問を感じていた。彼女に投げ付けられる言葉も萎えていた。
また、事態は今にも暗転するようでもあった。聡美だけは彼女に対する憎悪を深めていった。思うままにならない女子達に対し、隠れて憤慨していた。何も分からず不満を漏らす男子に隠れて憤怒していた。聡美は増幅してゆく一方の憎悪をまとめて彼女に向けていた。
始業チャイムと共に彼女の席を囲んでいた女子達が何事も無かったかのように席に戻ろうとしていた。女子達は少し安堵の表情を浮かべたかと思うと、彼女に目もくれず、自分と向き合い、何かを模索しているような表情を浮かべたりした。男子達は、緊張が解け、同時に倦怠感を露わにしていた。
「まだよ」
知らぬ間に振り向いていた聡美が、静かに声を上げた。再び教室中に緊張が駆け抜ける。女子は困惑し、男子はそれを見守った。
「でも…もうチャイム鳴っちゃっているし、…先生来たら、まずいでしょ?」
笑顔を作りきれなかった一人の女子が、体格とは裏腹なか細い声で聡美に伺いを立てる。小麦色に染まった聡美の額の中央に浮かんだ血脈が、一瞬駆け上がるように沸き立つのを見て取れた。
沈黙―――十分な時間が過ぎた。聡美の表情はめまぐるしい勢いで変容し、怒り、悲しみ、蔑み、恍惚、様々な感情が混在しているようで真意が窺えない。
それでもやはり、最高の間で聡美は口を開いた。
「見せてあげればいいじゃない。あの人に何ができるって言うのよ」
聡美は嘲笑した。嘲笑の効果は絶大だった。冷気を帯びていた教室が、一瞬の内に凍りついた。
「…でも……」
居たたまれなくなった体格の良い女子が口を開いた。
「でも?」
その言葉に重ねるように聡美が聞き返した。聡美はゆっくり視線を上げ、その女子を射抜く。女子は目を逸らし、凍りついた。もうこの教室に微塵も動けるものはいない。何分も息をしていない感覚に襲われる。窒息しそうだ。
唐突にドアが開いた。それでも凍りついた教室は固まったまま動かない。聡美だけが、悠々と女子達に一瞥してから何事もなかったかのように向きを直した。金城先生は目を瞬かせて、彼女の周りを囲んでいる、動けない女子達を見た。女子達は戸惑っていた。戸惑っている時間が増すにつれ、氷の純度が高まっていった。
鬱々とした雰囲気が沈殿した教室に金城先生は、何も見ていない風を装いながら吸い込まれる格好で足を踏み入れた。教卓の椅子に着いた先生は、恰も自分に対し振り上げられた拳から顔を背けるように、無理に何も見えない風を装っている。教卓に向かい姿勢を正して座っている聡美の表情は、此処からでは窺えない。
「……最低女」
やがて体格の良い女子の隣にいた、少年のように短い髪をした女子が呟くように口を開き、ぐずるように彼女の椅子を小突いた。静まり返った教室にその声は響き渡り、確実に金城先生の耳にも届いた筈だった。
金城先生は俯いたまま震えていた。彼女を囲んだ女子達が教卓に窺いを立てる。聡美に窺いを立てる。聡美はただ教卓に向かって座っているだけだ。
意を決したように女子達は、彼女に罵声を浴びせ、肩を突いた。彼女はその度に体勢を崩したが、それでも机にしがみ付いて堪えた。
「先生。授業始めないんですか?」
少しして嘲る調子の声で聡美が言った。その一言を契機に今までの自由の許されない雰囲気が緩み解け、女子達は凍りついた表情のまま席に戻った。金城先生は気付いたように何度か頷いて、過呼吸になっていたのを必死で繕い、教科書を捲り、独り言のような授業を開始した。
授業が終わるまで、教科書に隠された先生の表情を窺うことは叶わなかった。
折り重なる山々の間に沈む赤白い夕陽は、まるでイチョウの紅葉のように扇を広げた形で燃え盛っている。遠くにある、沼地の水が蒸発して出来た湯気のような陽炎を見ているのかもしれない彼女は、屈んで太腿に肘を置く格好で頬杖をつき、時々後方にバランスを崩しながらも溶融する空と夕陽、夕陽と紅葉、夕陽と湖面の、何かとても友好的で、官能的で、それでいてひどく残忍で支配的な光景に魅了されているように頑なだった。それはまるで、その一部始終が終わるまで魂を貸し出しているかのように、後姿を見守るしかない僕の存在など端から葬り去り、没頭し、立ち上がろうとしなかった。
影が長い。極めて小さな角度から照らされた彼女の影が、随分前から薄くなり始めた僕の影と重なり、その部分だけが僅かに濃度を上げていた。
揺れるように染まる紅葉が儚くもその力を奮っている沼地は、漸く水位が本来の高さにまで戻り、沼地と呼ぶに相応しくなってきていた。取って置きの場所を紹介してから、彼女は毎日沼地へ足を運んだ。僕は道を逸れた彼女をその度に追いかけ、追い越し、先導した。
夕陽に包まれた蜻蛉は、赤い体躯より寧ろ薄黒い直線と言う方が相応しい。辺りには不思議な動きで飛び回る、そうした直線が其処彼処に点在していた。蜻蛉の抜け殻はもう何処かへ行ってしまっただろう。
放課後、彼女の様子が変だった。彼女の瞳が、僅かに波打っているようにも見えた。彼女の容姿に別状は無かった。髪は乱れていなかったし、洋服に埃などもすり付いていなかった。しかし彼女は変わりない表情を保ちながらも、何らかの感情を瞳の中に覗かせているように思えた。
それだけではない。トイレから戻った僕とすれ違ったクラスメイトの表情は、一様に蒼白に染められていた。一様に、男子も女子も分け隔てなく健康そうな体に何か悲痛なものを押し込んでいた。
顔を上げ僕を認めた女子がいた。志津子だ。痛々しい表情をした志津子は、こちらに絞ったような微笑みを向けて見せたのだが、ひどく力無く、普段の包容力の欠片も見て取れなかった。
焦燥に駆られ教室に戻ったのだが、彼女には僅かな変化しか見受けられなかった。そこには、聡美も、それを囲む千重を頭にする数人も、取り巻きの男子もいなかった。ただ、一人ぼっちの彼女と、ぎこちない雰囲気が取り残されていただけだった。