2 転校生
仄かに芳ばしい香りを放つ木造タイルが嵌め込まれた廊下には、誰の姿も見て取れない。黄砂が滲んだような光が、視界を朧にしているだけだ。
光は当然の如く教室にも入り込み、中央に追い込まれ、緻密になった影との境界線を斜めに引いている。
年季が入った濃緑の黒板に心細い字で記された、葉月ミカ、という白線が、境界によって丁度苗字と姓名で分断され、影の中にある葉月という文字は引き締まって、光の中にあるミカという文字は膨張して見えた。
教壇の上には、生徒に向けられない視線のやり場を探す金城先生と、名前の主であろう女子が立っていた。俯いたまま顔を上げようとしない彼女の長髪は、艶やかな白金色に輝き、滑らかなカールが掛かっていて、それを見た全員が性別に関係無く息を呑んでいた。
「今日からみんなと一緒にこの学校でお勉強することになった、新しいお友達です」
魔法に掛けられたように押し黙っていた教室が、先生の言葉を合図にざわつき、幾つかの恥を知らない好奇の目が彼女を不躾に見つめた。
「葉月ミカさんです。みんな、教室に慣れるまで仲良くしてくださいね。それでは葉月さん、みんなにご挨拶してください」
騒ぎが収まるのを待ってからそう言うと、先生は自分が退くように彼女の背中を押した。押された勢いで一歩前に出た彼女は、素早くお辞儀をしてから、躊躇いがちに俯いていた顔を上げた―――一瞬の沈黙の後、教室が騒然とした。悲鳴にも似た声が其処彼処で飛び交った。
声を上げる生徒を尻目に、興味のない素振りで彼女の顔を盗み見た―――予想に反して我が眼を疑った。外国人の瞳の色が僕達のそれと違うことは知っていた。僕は教室がそのことで騒いでいるのだと思って疑わなかった。彼女の瞳は、確かに左眼は薄い鮮やかな翠玉色だった。しかし右眼は、敢えて言うならば銀色に近く、如何にも張り詰めた様子で、中から僅かに白濁したものが見え隠れし、更にその中から不気味に色づく濃縮された緑が、そしてそこに潜み隠れた生々しい燐光を放つ黄色が微かに見て取れた。ただでさえ見慣れない外国人の奇怪な程の右眼に僕は釘付けになり、少なからず恐怖を覚えた。
感情を隠そうとしない生徒達が恐怖に叫び、教室から逃げ出そうとして収集が着かなくなった。
「戻りなさい!」
騒然としていた教室が一瞬で静まり返った。何もできない金城先生に代わって保田先生が廊下を走る生徒達を一喝した。
「俺から説明しよう。いいですね? 冬美先生」
金城先生の肩に優しく手を置いてそう言うと、保田先生は教壇に立った。
「みんなも見て分かる通り、葉月君は右眼の病気でな。療養の為にこんな田舎にまで引っ越してきたんだ。少し人見知りする処があるらしいから、みんな優しくしてやってくれよな」
「病気なのに、学校に来てもいいんですか?」
学級委員の聡美が手を上げながら姿勢良く立ち上がった。
「激しい運動をしなければ日常生活に支障をきたす事は無いそうだ。体育ができないのは残念だが、仕方ないな。聡美も仲良くしてやれよ」
保田先生は聡美にそう言いながら彼女の頭を撫でた。彼女は再び俯いた。規則正しく返事をした聡美は、その様子を見ながら席に着いた。
「さあ授業だ。ちゃんと勉強しろよ?」
二回手を叩いてからそう言うと、保田先生は教室を出て行った。
静かだった教室は、先生がいなくなった途端に再び騒ぎ始めた。もう手がつけられない。
「そういう事だから、みんなよろしくお願いしますね」
半分掻き消された声でそう言うと、金城先生は何かを見つけるように教室を見渡した。嫌な予感がした。僕は不自然に空いている隣の席を見た。
「窓側から二列目の、一番後ろの空いている席。あそこが葉月さんの席です」
彼女はそっと背中を押された。席を指差す先生と眼が合った。
「小野寺君。葉月さんにいろいろ教えてあげてください。葉月さんも分からないことがあったら小野寺君に遠慮しないで聞いてくださいね」
それだけ言うのが精一杯の様子で授業を始めたものの、騒ぎの収まらない教室の教壇に座った金城先生は、萎縮したまま教科書に向かって何かを呟くだけだった。
朝のホームルーム終了のチャイムと同時に、教室の対角線上から様子を窺っていた何人かの中の勇気ある一人の男子が彼女に質問を浴びせた。
「葉月さんは、外人なの?」
彼女は俯いたまま暫く経っても口を開こうとしなかった。彼女の態度に、勇敢だった男子の顔は驚愕にも似た程に歪み、踏み躙られたと言わんばかりに頬を紅潮させながら教室を飛び出していった。好奇の雰囲気一色だった教室に警戒の色が混じる。隅の方で今までとは違った空気の会話が微かに聞こえてきた。僕はうんざりして窓の外を見る風をした。
一頻り不穏な会話が終わると、今度は友を連れた女子が彼女に言い放った。
「気取っちゃってさ。都会から来たからって、いい気になるなよ」
言葉が耳に入っていないかのように俯いたまま彼女は口を開こうとしない。威勢良く毒を吐いてみたものの、フランス人形のように身動ぎもしない転入生にどうしていいか分からなくなった女子は、後ろにいる友の方へ振り返り、助けを求めた。
転校生を迎える子供達には、たった一人で見知らぬ人間を受け入れる勇気などない。教室の殆どの生徒が、受け入れる側の何倍もの勇気を転入生が持たなければならないことに気付いていないのだ。
「やめなさいよ。転校初日で緊張しているに決まっているでしょう」
聡美が止めに入った。聡美に転入生の気持ちを理解できるとは思えなかった。
「ちゃんと仲良くしてあげましょうよ。保田先生も言っていたでしょう。それにこの子が外国人なら言葉が通じないのかもしれないし、もしかしたら病気で口がきけないのかもしれないじゃない」
極めて事務的な声で聡美が言った。しかし、保田先生、のところだけは異様に熱が込められていた。聡美は保田先生に首っ丈だ。
聡美の言葉に教室が静まると同時に始業のチャイムが鳴った。転校初日にも拘らず、彼女は授業を無視して終始難しそうな本を広げていた。その本の内容が少し気になったのだが、彼女に聞く気にはなれなかった。それでも、開かれた本には日本語が刷られていたので彼女が日本語を理解できていたことだけは分かった。
金城先生は彼女の態度に対して注意する素振りも見せなかった。それは気が弱い所為でもあるが、彼女が来る大分前から授業中同じように教科書ではない本に目を落としている僕を許してしまった所為でもあるのだろう。これから暫くこのような窓際の奇妙な光景が続くのかと思うと、僕はうんざりして再び校庭を覗いた。校庭では有り得ない色のジャージを着た保田先生が、生徒に混じってサッカーをしていた。
彼女は休み時間に懲りない男子達から何度かちょっかいを出されたものの、聡美の言葉もあってか比較的スムーズに時間が流れた。給食の時間になると、僕の勝手な憶測を裏切って、彼女は皿に盛られたものを綺麗に平らげた。僕は机をつけて向かい側になる彼女の瞳を何度か盗み見た。彼女の視線が何処に向かっているのかは見当もつかなかった。しかし何処か遠くを見ていることだけは確かだった。気を使って彼女の隣に座った金城先生だったが、無口な担任教師は一度も彼女に話し掛けずに、却って雰囲気をぎこちなくさせた。
給食を食べ終えると、男子の大半は勢いよく校庭に飛び出してゆき、女子はそれぞれ少人数のグループを形成して、くだらない会話を楽しんでいた。彼女は体を動かすことも出来ず、今のところ話そうともしていない。このままでは確実に教室から孤立するだろう転校生を少し気の毒に思ったのだが、それは彼女自身の問題なのだから僕が心配することではない。読みかけの本へ目を落とした。
暫くすると机に張り付いたように座っている彼女の周りに再び人が集まりだした。
「この髪の毛って地毛なのよね? やっぱりいいわよね、金髪って。私も外国に生まれたかったな」
私も外国に生まれたかった、という言葉がとても可笑しかったが、聞いていない風をした。反応を示さない彼女に構わず続々と女子が集まりだした。
「そうよね。この髪は、自分でやっているの?」
恐る恐る触れられた彼女の髪は、渦巻くように外側に跳ねていた。どう見ても人の手が加えられている。
「このリボンもかわいいわね」
今度は返事も聞かれずに彼女のリボンが取られた。彼女はされるがままで、束ねられていた金髪が、堰を切ったように膨らんだ。
「やっぱり都会の人はオシャレよね。羨ましい」
僕から見れば、彼女の服装はただ単に少女趣味の大人が無理矢理着せたものにしか映らなかったのだが、山村から抜け出すことも儘ならない無知な少女達にとっては、そのひらひらのフリルの付いたスカートは、十分憧れに値するものだったようだ。
「―――綺麗」
そう言って一人が、彼女が首から提げていた十字架のネックレスに気付いた。十字架はそれまで胸元に隠されていたらしかったのだが、跳ねる髪を手に取り弄んでいた女子がうなじから辛うじて覗くその鎖を見つけたのだった。
女子は当然の如くその鎖を引き上げ、彼女の胸元から零れた十字架を手に取ろうとした。
―――その時、されるがままであった彼女が女子の手を振り解き、十字架を奪うようにして取り返した。彼女の表情は全く変化していなかった。
手を投げ出された格好の女子は、何が起こったのか理解できないという顔をしていた。好き放題やっていた女子達が一斉に顔を顰めた。
「何するのよ。ちょっとくらい、いいじゃない。都会の人は冷たいって言うけど、それ、本当ね」
女子が見当違いな言い分で敵意を露わにした。女子達の間を転々としていたリボンが誰かに投げつけられたが、それは彼女へ届く前に力無く床に伏した。
一瞬にして和やかだった雰囲気が険悪なそれに変わった。僕は縁の無い眼鏡を中指で押し上げてから諦めて本の字をなぞり始めた。
「何するのよ、じゃないでしょ? あんた達が返事も聞かないで好き勝手に触るからいけないのよ」
叱るような口調で嗜めると、聡美は萎れたリボンを拾い上げ、膨らんだ彼女の金髪を結わえ始めた。彼女は俯き、それを囲む女子達も、同じように俯いた。
「転校初日に馴れ馴れしくされるのは嫌なものなのよ。まだ慣れていなくて緊張しているんだから。ミカちゃんとは段々仲良くなっていけばいいじゃない。ね?」
聡美の言葉に逆らう声も出ず、一斉に頷いた女子達は始めのようにそれぞれのグループへと散っていった。その顔は何も無かったように晴れやかで、彼女とは全く無関係の話題に花を咲かせているに違いなかった。既に女子達の頭の中には彼女の事など微塵も残っていないのだろう。
それ以来、女子が彼女に話し掛ける事は無かった。男子は相変わらずつまらないちょっかいを出しては彼女の反応を窺うだけだった。しかしその都度、聡美が出てきては男子を嗜めた。聡美は保田先生の頼みを完璧に遂行しようとしていた。
僕はといえば、常に本に目を通している風をして彼女の様子を観察していたのだが、帰りのチャイムが始まったのと同時に、打って変わって直ぐさま帰り支度を始めた。そしてその甲斐あって誰より早く教室のドアに手を掛けられたのだが、それを開けた先には、何故か立ちはだかるようにして待ち構えている金城先生の姿があった。
取り敢えず間を通り抜けようと試みた。しかし案の定、先生は必死に僕の行く手を塞いだ。
「なんですか」
僕は少し不機嫌な声を出した。
「ちょっと残ってほしいの」
「僕、何か悪いことでもしましたか? 先生に呼び出されるようなことはしていないと思うんですが」
僕はスタートの構えをしていた顔を上げ、金城先生に視線を向けた。先生は媚びるような苦い笑いをして見せた後、直ぐに目を逸らした。
「あなたは何も悪いことなんてしていないわ。でもちょっとだけ残ってほしいの。直ぐ済むから、ね?」
言葉の足りない先生に苛立ちを覚えながらも、懇願されて断る理由が浮かばなかった。
教室から生徒がいなくなるまで十分も掛からなかった。金城先生は一旦職員室へ戻っていた。誰もいない教室は本来の空気の密度を取り戻し、存外居心地が悪い訳でもなかった。近くにあっても見ているようで見ていない掲示物を改めて見ていた。
良い思い出の全く無い運動会の表彰状を読んでいる時に教室の後ろのドアが開き、教壇に直接座っていた僕は、慌ててそこから下りて金城先生を見た。先生の後ろには何故か彼女が従っていた。
「残らせちゃってごめんね、小野寺君」
先生はこちらに無理に作った笑みを向けると、直ぐに所在無げに辺りを見渡した。その行為に意味の無いことを知っていた僕は、故意に苛立ちを表に出して先を促した。
「実はね…」
先生は誰かを待っていた。僕は何も言えない目の前の大人に哀れみすら感じ、直ぐに来るだろう人物を待った。
「ごめん、ごめん。遅くなっちゃったな」
間も無くドアが勢いよく開いて、全く申し訳なさそうでない保田先生が入ってきた。
「残らせて悪いな、琢磨。今日はな、おまえに頼みがあるんだ」
善意の塊のような保田先生は、自分が金城先生のような人種を作り出しているとは夢にも思っていないのだろう。いずれも何かが欠けている。
「実はな。葉月君のことなんだが」
全く予期していない話題が出た。保田先生はまた彼女の頭を撫でている。
「おまえの通学路、鏑木山の方、通るよな?」
話が分かった。最悪だった。通ります、と小さく言って僕は顔を顰めた。
「実は葉月君も同じ通学路なんだ。鏑木山を通るのはお前だけだろ? だから葉月君と一緒に帰ってほしいんだよ。ほら、この子は目が悪いって言っただろ? 明るい登校時はいいんだが、下校時はどうしても暗くなってしまう。この子、暗くなるほど目が見えなくなるらしいんだ」
「…そんなに都合のいい病気があるんですか?」
僕の質問に、彼女の頭を撫でる手を止め、何かを探すように天を仰いでから先生は答えた。
「実は俺も詳しいことは分からんのだが、冬実さん、そうなんですよね?」
保田先生は学校が終わると、金城先生のことを、冬実さん、と呼ぶようになる。金城先生は頷いた。
「頼むよ、琢磨。ついででいいんだから、一緒に帰ってやってくれ」
人の迷惑を考えず、ただ純粋に目を見て頼み込む保田先生に、僕は自分の考えていることが見透かされてしまうのではないかと感じ、思わず視線を逸らした。そして仕方なく、分かりました、とだけ呟いた。
「そうか! ありがとう。お前ならそう言ってくれると思っていたよ」
保田先生は僕の手を掴み、顔を近づけてきた。満面の笑みから出来るだけ顔を背けた。先生がそれに気付く筈もない。
「それじゃあ気を付けて帰れよ。葉月君もちゃんと琢磨の後をついて行くんだぞ?」
彼女の顔を見た。彼女は変わらず俯いたままだった。
断れる状況ではなかった。断れば断るほど保田先生は何度でも僕を説得したに違いなかった。僕は自分の性格と大人の強制を、諦めを持って受け入れただけだ。
校門を出た時には既に空が赤みを帯びていた。今日は沼地には寄れないだろう。後ろからちゃっかりついてくる彼女を見て、今日だけではなく、この転校生がいる限りもうあの神秘的な世界に陶酔することは叶わないのだと思うと、言いようのない悲しみが心に染み渡った。長年培ってきた日常を失うことは、それがどれほど意味の無い些細なことであっても空しさが伴うものなのだ。
半透明だった身体が茶色に色付いた蜻蛉の子が、成虫になる為に弱者の肉を貪る場面を想像しながら鏑木山に向かって歩いていた。
鏑木山―――何もない村にも自然だけは腐る程ある。鏑木山は、村を囲む三つの山の中で最も小さく、二時間もあれば登頂できてしまう程の小山だ。山の麓に隠れた沼地に息を潜めた蜻蛉の子が抜け殻になっていたのが、もう随分昔のことのように思えた。
暮れなずむ山間の風景を歩いていると、自分が全く進んでいないような錯覚に囚われる。何処かの国の広大な農場の主が地平線に向かって畑を耕していると、ある日突然太陽に向かって走り出し、力尽きる、という馬鹿馬鹿しい話を、僕は信じる。三百六十度に広がる地平線。空間を遮るものが何一つない。果てしなく続く農場には時間が存在しないのだ。農場主は何時からか全く変わらない風景にふと疑問を感じる。自分は進んでいるのか。もしかしたら時間が止まっているのかもしれない。どうしよう。もしかしたら、同じ所をグルグルと廻っているだけなのかもしれない。取り残された。どうしよう。農場主に時間の流れを感じる術はない。確かめるには。走るしかないのだ。地平線の先にある何かを求めて。鏑木山という目標物があるにも関わらず時折異様な気分になるのだから、農場主が走り出したくなるのは理解できる。ただそれは、辿り着けるかどうかの問題だけなのだ。
鏑木山に沈み行く夕陽に重なる三羽の黒い鳥が情緒を醸し出していた。どうして黒い鳥は同じ方向にしか飛べないのだろうと考えていた。
黒い鳥が夕差しに染められた薄雲に隠された時、ふと我に返った。彼女がいない。振り返った。彼女は米粒の大きさに見えるほど後ろを歩いていた。一瞬迷ったが、彼女が迷子になったら自分の責任になるのだろうかと少し考えてから、仕方なく道を引き返した。これも運命なのだ。そう自分に言い聞かせた。
傍に行くまでに彼女は三度も躓き、僕はその度に小走りをした。
「大丈夫?」
少女趣味の服は土が付いて汚れていたが、大袈裟なフリルに守られて彼女の膝小僧はすり剥けていなかった。こんな服でも意外なところで役に立つものだ。そう思って感心した。
「よかった、怪我してないね」
しゃがみ込んだ僕は、俯いたままの彼女の顔を盗み見た。その表情は全く変わっていなかった。しかし寒さで赤くなった、新雪のようにふっくらとした頬が、彼女が確かに生きているのだと告げているように思わせた。
仕方なく彼女の歩幅に合わせて歩くことにした。山間部では初秋のこの時期、夏とは比較できないほど早く日が暮れる。しかし何故か日が傾き始めてから完全に暮れるまでの時間が長いのだ。僕はその特徴が嫌いではなかったのだが、それが彼女にとって過酷であるに違いないだろうと思った。しかも、もう一ヶ月も経てば長かった日暮れも極端に短くなり、校舎を出る頃にはすっかり日が沈んでしまうようになる。不意に僕は、その時の彼女のことを想像してみた。彼女は家に辿り着くまでに何度も躓き、その度に服は泥だらけになるだろう。僕は彼女が何着位の服を持っているのか気になった。
いつもならまだ沼地にいる。沼地が恋しかった。何処からか飛ばされて来た、微かに生臭い水草の香りが含まれた空気が鼻を抜けると、その気持ちが一層強まった。しかし今、彼女が僕の前を歩いている。首を伸ばして彼女を窺う。彼女は、それなら誰でも見えない、と思うほど顔を下に向けていた。そして、また、躓く。
「そんなに下を向いていたら良く見えないでしょう」
少し意地悪な気持ちになっていた。掌についた砕けた枯葉を払うだけで一向に反応を示さない彼女に少し腹が立ち、支えにいった手で肩を揺すった。すると彼女はどう言う訳か僕の腕を掴んだ。意味が分からない。
「もしかして…、見えないの?」
彼女は俯いたままだ。
「耳はちゃんと聞こえているんでしょう? 聞こえているなら、答えてくれなくちゃ分からないよ」
彼女は体制を立て直すと、ゆっくり顔を上げた。銀色の瞳が僕を歪に映している。うろたえた。
「…見えていないんだね?」
それでも、もう一度訊いた。掴まれた腕に力が伝わる。彼女は躊躇った様子だったが、暫くして頷いて見せた。
「それなら。それならそうと言ってくれよ。…でも、全然見えないって訳じゃないんでしょ? どのくらい?」
そう言うと彼女の顔から手を段々と遠ざけていった。
僕は少なからず必死になっていた。良心が傷ついたからだ。僕が、視力の弱い人が知らない場所を歩くことがどれほど恐ろしいことなのかを知っていたからだ。彼女がどんな思いでこの道を通ってきたか。それを思うと必死にならざるを得なかった。
彼女は僕の手が三メートルほど離れた時に頷いた。驚いた。正確には見えているのだろうか。僕の経験上、彼女の視界はかなり滲んで、ぼやけているに違いなかった。それでも彼女が自力で帰れる程度の視力は持っていることを確かめられて少しだけだが安心もできた。どうすればいいのか悩んだ挙句、彼女の二三歩前に立った。
「此処なら見えるでしょう。僕を目印に歩いてきなよ。それならもう躓かないから。下ばかり見ていると、却って躓いてしまうものだよ。だからちゃんと前を向きな」
振り向く格好でそう言うと、彼女はまた頷いてからゆっくりと歩き出した。僕はふと保田先生の言葉を思い出した。
「もしかして…、暗くなったらもっと見えなくなる、とか?」
彼女は少し間を置いてから、同じように頷いた。