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19 病

「―――でも正確な事はわかっていないらしいわ。症状に重なる部分があるってだけで」

母さんと彼女の母親は肩を寄せ合い、二人とも頬杖をついていた。母親は、何をするでもなくテーブルに置かれたワイングラスを揺らしながら、その中の液体の動きを目で追っていた。二人の肩は今にも触れ合いそうなほど近づき、その間には、今日知り合ったことなど微塵も感じさせない親密な空気が存在した。

「笑っちゃうわよね。何人もの高名な医師達に検査してもらって。安くないお金払って。結局大した事も判らなかった。眼球内の硝子体の眼房水っていうのが溜まり過ぎて、眼の圧力が高くなって石みたく硬くなっちゃうらしいの。あの子の眼の色みたでしょ?元気な頃は両目とも薄く透き通ったグリーンをしていたのに」

そう言った彼女の母親の声は、酔っている為か少し湿っていた。母さんは黙ったまま母親の背中を優しく撫でている。

「それで最後には視力を失う……」

グラスに残っていたものが一気に飲み干され、それに合わせて母さんは少しだけワインを注ぎ足した。

「いるんでしょ?そんなところに突っ立ってないで、こっちに来なさい」

ワインボトルを静かに置くと、母さんが振り返らずに言った。僕が驚いて入り口に立ち尽くしていると、今度は振り返り、椅子を引いた。母さんは酔っている様子もなく、いつもより毅然として見えた。

 母さんの目に吸い込まれるようにおずおずと部屋に入ると、まるで正体を失くしていた母親が我に帰った。

「ごめんなさい。私、こんなつもりじゃ……」

「いいのよ。話して気が楽になるのなら、話して頂戴。わたしも此処まで知ってしまって、中途半端で帰るのは気持ちが悪いし、この子にとっても良い機会だから」

僕は促されるままに椅子に腰掛けた。彼女の母親に哀願の眼差しを向けられたが、僕はそれを受け止めきれずに眼を逸らした。

「彼女は今、大変な病気に掛かっているの。だからって私達に何かができるって訳じゃないし、何もできないのが現実だわ。けどそれじゃあんまり、あんまりよ。だから私達だけでも彼女のことを見守ってあげましょ? しっかりと。その為には、全てを知る必要があるわ。とっても辛くて残酷かもしれないけど」

母さんは毅然とした口調とは裏腹に、僕の頭を優しく撫でた。

「そうでしょ?」

母さんはどちらに向けてでもなく言った。僕は彼女の母親に顔を向けた。母親は俯いていた。

「あの子が失明しちゃうって聞いた時は…涙が出たわ」

母親はそう言うまでに随分と時間を費やし、再び黙り込んだ。辺りは一様に生気の無いオブジェに囲まれていたが、今は母さんに守られているようで、純粋に沈黙の後の言葉を待っていられた。

「でもそれだけじゃなかった」

母さんが言った。その言葉に、母親は震える手でグラスを煽った。

「眼の圧力が上がるって言ったでしょ? …それが問題なのよ」

グラスにワインが注がれる。

「圧迫されるのね」

母さんもグラスを煽った。

「……そう。脳がね。目の奥って視神経は勿論、体にとって大切なものが集約されているのよ。…そこが…。視力は確実に低下しているけど、近眼って訳でもないから眼鏡を掛けてもあの子への負担が大きくなるだけなのよね」

母親は弄んでいたグラスを置いた。

「脳への圧迫が原因で、全身に異常が出る可能性があります、そうなる前に摘出手術をって。……病気に気付いて何ヶ月もしない内に言われたわ」

母親の呂律は既に少し怪しかった。ただ、宙を彷徨している視線には怒気が見て取れた。

「原因不明なんだから、このまま病状が平行線を辿って、失明しないかもしれないし、万が一治療法が見つかるかもしれないじゃない。それなのに目を取れっていうのよ。残酷にも程があるわ」

母親は顔を両手で覆い隠し、気を紛らわせるように荒い溜息をついた。

「私には二つの選択肢が与えられた。一つには手術して視力は失うけど健康な体を取り戻すか。それとも僅かな希望を信じて経過を見てみるか。…どっちを選ぶ? ……選べる筈無いじゃない」

母親は母さんに訴えるような視線を送った。母さんは動じず視線を受け止め、空いている方の手で僕を抱き寄せた。

「結果的には後者を選ぶことになったわ。正確には悩む時間が多すぎて、結局何度も検査するだけで、時間が過ぎていっただけだけど」

母親は顔を覆った手を上下に揺らしていた。まるで言葉を紡ぐことを拒否するように。

「それで今に至るってわけ?」

それでも母さんは先を促した。母親は黙ったまま小刻みに体を揺らしている。

「何かあるのよね? まだ…」

母親は何も言わず肩を震わせている。

「私が母親なら…とっても悲しいけれど手術をさせるわ。僅かな希望に縋りたい気持ちは痛いほど分かるけれど、何もしなかったせいで事態が更に悪い方向へ向かう方がよっぽど辛いもの。母親なら最もリスクの少ない選択をしなくてはいけない筈。…リスクを犯して僅かな可能性を信じるより、最小限の犠牲は覚悟してリスクを排除する筈よ。そしてあなたも母親だからそうしようとした…違うかしら?」

母親は目に涙を溜めていた。涙を流さないよう必死に堪えていた。母さんは続けた。

「多分彼女…ミカちゃんには手術できない理由があったのよ。それでやむを得ず環境の良い所に越して、なるべく悪化を遅らせようとしたのね」

母親は辛うじて頷いて見せた。僕は母さんの腕の中で恐る恐る母親の顔色を窺っていた。母親は目を瞑っていた。目を瞑っていなければ涙が零れてしまうのだと思った。

「網膜芽細胞種……さっきも言ったと思うけど、あの子が今掛かっている病気は腫瘍の一種らしいの。言っている意味、分かるわよね」

少しの沈黙の後、母親が口を開いた。何かを決心した時のような雰囲気が言葉の端々から伝わってきた。

「腫瘍はそれだけで脅威になり得るものだけれど、それ以上に恐ろしい性質があるわ」

頷いた母さんは、始めから分かっていたとでも言うような口調で言った。まるで僕にも分かるよう、故意に一つ一つ工程を踏みながら進んでいるかのように。

「彼女の摘出手術を不可能にしたのは、その恐ろしい性質に掛かっている可能性が出てきてしまったから」

母さんがそこまで言うと、母親は母さんの肩に凭れ掛かるのを止め、姿勢を正した。

「此処からは自分で言うわ。ありがとう。誰かから状況を聞けて、私も少しは強くなれたのかもしれない」

母親はそう言うと、母さんに微笑んだ。

「腫瘍の恐ろしい性質っていうのは、元いた所に留まらないところにあるの。転移する…要するに、色んな所に動いて、動いた場所も蝕んでいってしまうの」

母親は僕に向かって言った。僕は母親の強い眼差しを受け止めきれずに目を逸らした。母親は構わず続けた。

「何回目の検査の時だったかしら、外見から見れば病状は何ヶ月か変化が見られなかったの。それで私は少しだけど安心して、このままなら手術しなくても平気かもしれないとも思っていたわ。それに自分なりに勉強して、さっき言った症状が緑内障のものなんじゃないかって思い始めていたから。それなら眼球を取り除かなくても、治療法が他にあるんじゃないかって。…でもそれは違っていた。病院側は私達に重大なことを隠していたわ。あの子だけにじゃなくて、私にもよ? 私の精神状態が回復するのを待っていたと言っていたけど、残酷なことには変わりなかった。しかも情報が曖昧なのよ。決定的じゃないの。あの子の両眼の視力が落ちていることから、視神経に転移していることは確か、しかしそれ以外のことはわからないって。もしかしたらそこで止まっているかもしれないし、もしかしたら既に色んな所が侵蝕されているかもしれないって」

母親の言葉には怒りが感じられた。母親は怒りを押し殺して話していた。

「医者なら何とかしなさいよって、私、くってかかったわ。でも医者は、首を振って見せた。その時分かったのよ。もう引き返せないところまで、あの子の病状は来てしまっているんだって」

母親は、言い終わると急に気が抜けたように背中を丸めた。

「神様なんていやしないのにね。それから毎晩祈っているの。どんなに遅い時間にでも。病気のあの子を置いて仕事に行ってしまうような悪い母親だけど、あの子を一日でも多く生かしてあげて下さい。何もかも私が引き受けます。あの子を苦しませないで下さいって」

母親は笑っているように見えた。自分の無力さを嘲笑いながら涙を流していた。母さんは優しく僕の頭を撫でてくれていた。


 彼女の家を出た時には、既に九時を回っていた。彼女は風呂から上がると直ぐに床に就いたようだった。母親は酔っていた。母さんも酔っていた。老婆だけが正気で、母親を介抱した。母さんは僕が介抱した。老婆が、今日は泊まっていってくださいと言ったのだが、遠慮して母さんの肩を抱いて家を出た。 

母さんは酔っていて、訳の分からないことばかり口走っていた。帰り道の途中で吐いた。僕は、辺りが暗くてよかったと思った。

 母さんは吐いた後、少しだけ正気が戻ったようで、昔流行った歌を口ずさんでいた。

「かなしいわね」 

一頻り歌を唄い終わると、母さんはポツリと呟いた。急に落ち着いたようだったが、正気が戻ったのかは定かでない。

「何で全ての人が幸せじゃないのかしら。どうして悲しいことが起きるのかしら」

母さんは酔っている。口調が怪しかった。

「全ての人が幸せだと、それが幸せじゃなくなるから。悲しいことが起こらないと幸せを見つけられないから」

月を見上げながら言った。

「……諦めているのよ。彼女」

少しの沈黙の後、母さんが言った。口調が確かなものに変わっていた。彼女=母親。何を諦めているのかは分からなかった。

「神様に祈っているって言っていたでしょ。その時、なんて言っていた?」

記憶の中に母親の言葉を捜した。

「一日でも長く生かしてあげてくださいって、言っていたわよね」

僕が言う前に母さんが口を開いた。

「望みを捨てていなければ、病気を治して、以前のように健康にしてくださいって祈る筈だもの」

僕の頬の隣で母さんは膨れっ面をした。

「あの人は神様なんかいないとも言っていたじゃない。始めから信じてなんかいないんだよ」

諭すようにそう言った。

「神様は見ていて下さるのに」

母さんは僕に組んでいるのと逆の手で自分の胸元にある十字架を握り締め、酔った口調に戻り、同じような言葉を繰り返し口走っていた。




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